Camp
会社帰りに、ふと気が向いて、ぼくはカレーを食べることにした。店先に貼られていたポスターが目についたのだ。
けれども、それはとてもまずいカレーだった。高度資本主義経済社会下でこのようなカレーが給仕されていようとは、到底予想できないような味だった。まるでインドの収容所に入れられたイワン・デニーソヴィチが食べている粥を思わせる、具もなにも入っていない粗末な代物だった。でも、こんなふうな言い方は適切ではないかもしれない。お店の人に怒られてしまう。とてもおいしくないカレーだった、その一言で十分だろう。
とはいえ、ぼくはきちんとすべてを平らげた。お米の一粒、福神漬けのひとかけらだって残さなかった。食べ物を粗末にするのはよくない、というのが長いこと定着しているぼくの格率のひとつだからだ。どれだけおいしくなかろうと、食べ物をぞんざいに扱うのは許されざることだ。そこには「けれど」も「しかし」も入り込む余地はない。
でもそこに何らかの論理的正当性を付与しなければいけないとしたら、それは文明と関係しているからだ、とぼくは答えるだろう。文明の衰退の兆候のひとつに食物を粗末にすることがある。そして、もうひとつは性的な欲望が氾濫すること。この二つが繁栄を極めた国が滅びるときの条件だ。ぼくは、ぼくが属するこの文明社会が衰退することなど望んでいない。そんなことになれば、おいしくないカレーすらも食べられなくなってしまう。
そうは言っても、それはとことんひどい味だった。食べられないほどではないというところが、余計に悲惨さを煽った。ぼくはこんなカレーを食べることができる自分の舌を引きちぎってやりたい気分になった。この茶色い嘔吐物のようなどろりとしたものを食せるなんて、人間の尊厳を傷つけられ、自尊心を踏みにじられたように感じられた。
文明の衰退と人間の尊厳という甲乙つけ難い二つの重大事項の板挟みになりながらも、ぼくは文明の維持を選んだ。ぼくひとりの尊厳など、ひとつの文明の衰退の危機に比べたら実に些細なものでしかない。
食事を終え、生ぬるいお冷やを飲んでいると、二つ隣の席で食事をしている男の姿が目に入った。
その中年男はぼくと同じカレーを無表情で食べていた。ぼさぼさの髪で、着古したウィンド・ブレーカーを着て、夢も希望もとっくに捨て去った疲れきった両目を新聞に向けながら。その男のことを横目でちらちら見ていると、なんだかぼくは心が洗われるような気がした。図らずとも彼は、根本的な思い違いをしているぼくの考えを正してくれたわけだ。
そうだ。そうなのだ。ぼくたちは収容所にいるのだ。
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