Gestaltzerfall

 土曜日の夕方、自宅のアパートの一室でエマニュエル・カントの『実践理性批判』(岩波文庫)を読んでいたら、ゲシュタルト崩壊がやってきた。いつもの無遠慮で機微というものに少しも注意を払わないやり口だった。
 ゲシュタルト崩壊は訪問に際して、決してチャイムを鳴らさない。もちろんノックもしない。事前に連絡をよこすこともしない。彼はまるで自分の家に入るときのように、慣れきった無神経さで玄関のドアを開け、ぼくの部屋に上がり込み、ベッドにどすんと腰かける。その様子は、会社員が平日の夜に残業を二、三時間してから帰宅したようにぼくには見える。疲れていることや不機嫌さを少しも隠そうとはしない。
 ぼくはそいつにかまったりせずに、一瞥すると、再びカントの主張に意識を傾けた。けれどもう、まったく読書には集中できなくなってしまっていた。自分の尻尾を追いかけ続ける犬のように同じ行を何回も読んでいるのだが、カントの言う理性というものが全然理解できないのだ。
 というのも、ゲシュタルト崩壊は決してじっとしていないからだ。ベッドの上でごろりと横になり、大きなあくびをして、身体をよじったりする。それからおもむろにテレビのリモコンに手を伸ばし、ガチャガチャと忙しなくチャンネルをかえたり、ぶつぶつと独り言を言ったりするのだ。ときどき唖然とするくらい豪快なおならをして、げらげらと笑い出したりするのだから、これはもうとても本を読める環境ではない。
 そして厄介なことに彼は長っちりだ。おまけに我が物顔でキッチンにあるものを食べるし、コーヒを入れたりもする。ほとんど自分の家にいるように振る舞う。ぼくはとてもイライラしてきて、これ見よがしに本をぞんざいに閉じ、聞こえるように舌打ちをする。でも、彼にとってそんなのはどこ吹く風だ。
 ぼくはうずくまり、じっと床の木目を見つめる。時計の針のカチカチという音が頭の奥の方で鳴っているように響く。重苦しい空気が室内に充満して、ぼくをやるせない気持ちにさせる。自分のいる場所が不確かになっていき、未来が削り取られていくような錯覚に陥ってゆく。頭のなかには言葉にならない言葉が駆け巡り、身のうちにはどす黒い混乱が渦巻いている。どうしようもないという思いだけが膨らみ、破裂寸前の状態を保ったまま、いつまでもいつまでも続いてゆく。
 この世の果てのように暗い窓ガラスに映った人物がぼくに訊ねる。お前は誰なんだ? 
 ぼくは目を落とし、その質問の答えを探す。
 ぼくはいったい誰なんだ?

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