Irony

 草原の小さな小屋の軒先で老人は揺り椅子に腰かけていた。残忍な刑務官のように凍てついた季節が過ぎ、温和な気候がこの辺り一帯を包みはじめている。初夏の青々とした空が広がっている。老人は眠たげな瞳で遥か先に広がる尾根を見るともなく見つめていた。
 とてもいい季節だ。老人は胸の内で呟く。かじかみ縮こまった心根が溶きほぐされていくようだ。いつ果てるとも知れなかったあの陰鬱な季節はもう過ぎ去った。これからは生命の季節なのだ。
 小屋から少し離れたところにひとりの少年がじっとうずくまって空を見上げている。その姿は老人の視界にも入っている。特別な光景ではない。驚くようなことでもない。それはいつものことだ。少年はいつだってその場所に腰を下ろし、飽きることなく、その空白にも似た空間を見つめている。
 少年が空を見上げるのに季節は関係なかった。灼熱の太陽が照りつけるときも、木枯らしが吹き荒ぶときも、少年はただ黙したままじっとうずくまり、そこにある一点を見つめていた。あたかもそこにたいせつな秘密が浮かび上がるのを待っているかのように。
 老人は手にしていたパイプをくゆらせながら、その小さな背中をじっと見守っていた。まばたきをひとつするだけで、緑の背景に溶け込んでしまいそうなほど小さな背中だった。まるで緑色の画用紙の上にこぼされたミルクの滴のように。
 穏やかな微風が草々を揺らし、小川のせせらぎのように通り抜けてゆく。名の知れぬ鳥たちの鳴き声がそこここから聞こえてくる。短く細切れにされた時間を貼り合わせたような循環が、静止された時間と拮抗している。
 心ゆくまでその時の揺らぎを味わうと、老人はシャツの胸ポケットに大事そうにパイプを仕舞い、揺り椅子から立ち上がった。主を失った揺り椅子はその重みを慈しむように、しばらくのあいだ、ゆくあてのない運動を続けていた。
 老人は緑の草を申し訳なさ気に踏みしめながら、ゆっくりと少年のもとへ向かった。歩幅は狭く、ひとつひとつの動作はクレイアニメのように中間が抜け落ちているようだった。そして、ようやくのこと少年のもとへ辿り着いた老人は、静かに声をかけた。
 また空を見ていたのかね? 少年は何も応えなかった。身動きひとつしなかった。再び老人は訊ねた。どうして飛ぼうとしないのかね? おまえには立派な翼が生えているのに。
 老人の声が二人のあいだの空間に吸い込まれるのを注意深く待ったあと、そよ風にすらかき消されてしまいそうな声で少年は言った。
 羽根があるからって、空を飛ばないといけないわけじゃない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?