Button
ある午後、電車に乗っていたときのことだ。私は座席に腰かけて生ぬるい空気に包まれた車内をぼんやりと眺めていた。すると隣からカチャカチャという音が聞こえてきた。隣を見ると、男が座っていて、なにやら熱心にボタンを押しているようだった。
ああ、携帯用ゲームをやってるんだな。そう思い、私は横目で男の手元を覗き込んだ。男は器用に十本の指を駆使して、長方形のゲーム機の前面と側面にあるボタンをカチカチと矢継ぎ早に押している。けれどおかしなことに、そこには肝心のモニターがなかった。新書サイズほどのゲーム機のようなものには通常どおり十字キーや各種ボタンが設えられているのだが、画面の部分だけはつるりとした空白だった。
好奇心を抑えられなかった私は隣の男に小さな声で訊ねた。あの、すみません。私がそう声をかけると、男はこちらに顔を向けた。怪訝そうな面持ちだった。
失礼ですけど、いったい何をしていらっしゃるのですか?
男は私の質問の意図を計りかねるような呆気にとられた顔をして答えた。
何って、ボタンを押しているのですよ。
ボタン? 私は即座に聞き返した。
ええ、見ればわかるでしょう? ボタンを押しているのです。
ええ、それはわかりますけど……いったい、何のために? 私は再度訊ねた。
男は私の質問の意図を理解しかねているようだった。何のため、と訊ねられたら、なかなか答えづらいですが、強いて言えば、ボタンを押すためということになりましょうか。
その返答は私をよりいっそう深い混沌へと誘った。この男はボタンを押すためにボタンを押している。
私は思わず聞き返してしまった。それにはどんな意味があるのです?
意味、ですか? 男は肩をすくめた。意味はありませんよ。考えてもみてください。ボタンというものは装置を作動させたり、操作したりするためのものです。どこにも繋がっていないボタンを押すことにはいかなる意味もありません。
なるほど。私は狐に摘まれたような気分で力なく頷いた。
そうです。無意味です。男は続けた。あなたはおそらくこの機械に画面がないことを気にしてらっしゃるようですが、実際のところ、画面の有無は問題ではないのです。それは副次的なものです。肝心なのは、このボタンがどこかに繋がっているかどうかです。そして、どこにも繋がっていないボタンには何の意味もないのです。
そう言うと、男はつるりとした空白に目を向けて再びボタンを押した。
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