Lacan

 ひどく眠たかった。目の前の風景はぼんやりと霞み、上瞼と下瞼とが磁石のS極とN極のように引きつけ合っていた。とにかく、目を閉じたくて仕方がない。できることならばどこかやわらかいものの上に寝転がりたい。そして、心ゆくまで意識を失いたい。そんなふうに願っていた。けれど、そうするわけにはいかなかった。ぼくはいまとても重要な話を彼女としているのだから。
 こみ上げてくるあくびを噛み殺し、必死に眠気を押し隠していたのだが、彼女はぼくの眠気に気がついたようだった。抑揚のない声で彼女は言った。
 とても眠たそうね? 
 ぼくは肩をすくめた。まあね。ちょっと寝不足なんだ。
 彼女はじっとぼくを見つめた。そうかしら? あなたが眠たいのはそれだけが原因かしら? 
 腹に一物含んでいるような口調だった。つまり、彼女はぼくの眠気は睡眠時間の欠如からくるのではない、そう言いたいのだ。
 そうだと思うけどね。他には考えられない。ぼくは答えた。口を開けるといまにもあくびが出そうだった。彼女は同じような科白をくり返した。
 ほんとうにそうかしら? そうではないんじゃないかしら? 
 どうやら彼女は一歩も引く気はないらしい。ぼくは仕方なく、質問に質問で返した。そうではないとしたら、いったい何が原因なんだろう?
 あなたが構造主義を理解していないからよ。確信的な占い師のようにきっぱりと彼女は言った。言いたくてうずうずしていたような口ぶりだった。ぼくが黙っていると、彼女はつづけた。あなたはあなたの視点に囚われすぎているのよ。そういう態度ってかなり自己中心的で傲慢よ。ところで、あなたは構造主義についてどれだけ知っているのかしら? 
 ぼくはしばし考えた。ほとんど何も知らなかった。でも、彼女はぼくの目をじっと見つめていた。沈黙を許容する気配はまるでない。仕方なくぼくは、ラカンはわからん、なんちゃってね、と言った。でも彼女は少しも相好を崩さなかった。
 しかし予想に反して、彼女はぼくの発した言葉の意味を真剣に考えているようだった。とおった鼻筋に人差し指を添えて、二人のあいだの空間を見つめる彼女の顔は冬の薔薇を思わせた。彼女はその艶やかな唇を開いた。
 たしかに、ラカンは難解ね。わたしもそれは認めるわ。でも敢えて言わせてもらうと、あなたが理解する必要があるのは、ラカンの学知よりもむしろ、フーコーのほうではないかしら?
 ぼくは片手を顔にやり、彼女の意味するところを考えているふりをした。でも実際は何も考えていなかった。眠気もさることながら、実はここのところ、うまく眠れていなかったのだ。そして実のところ、彼女は肝心なことを見落としていた。ぼくの睡魔と不眠との関係は、もっとポストモダン的なのだ。

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