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 ほうろう製のドリッパーに無漂白のペーパーフィルタをセットする。そのなかにコロンビア産のコーヒー豆を計量カップで三杯入れる。そこに九十度に熱した湯を全体にゆき渡るように入れて豆を蒸らし、二十七秒待ってから、中心に螺旋を描くようにゆっくりと注ぎ入れていく。すると、肥大していく自意識のように豆は膨らみ、混血の雲のような色の泡が香気を放つ。その泡の粒をじっと見つめながら、ぼくは痺れつつある前頭葉を働かせて、これからのことを夢想する。
 執念深く溶けきらない雪のせいで、わずかに開いたキッチンの窓からはひやりとした空気が入り込んでくる。ドリッパーから湧き上がる安っぽいコーヒーの香りのする湯気と外気とが混ざり、ひとつの有機体のような空気をつくり出している。それはぼくの瞼をとても重くし、短いあいだ目を閉じさせる。
 結局のところ、手に入ったかもしれないものなど、手に入らなかったものでしかないのだ。それは見なかった夢のように架空の手触りしか残してくれない。偽りの残り香のなかで生きていかなければならないくらいなら、いっそのこと、それらすべての可能性を忘れてしまった方がいい。仮初めの希望というのは絶対的な絶望よりもずっと厄介なのだから。
 けれど、そうすればよいことと、そうできることとは異なったフェーズに属する話なのだ。そこには歩み寄るのことのできる余地というものがほとんどない。残されているのは、それを選ぶしかない選択肢の決定権を託されたぼく自身だけだ。
 フェルメールの絵の中の婦人のように、ぼくはゆっくりと一定の速度で湯を注いでいく。クラフト紙の色をした泡がぼくの湯を受けとめ、ふつふつと音を立てる。マグカップのなかに流れ落ちていく水音は、ぼくにある情景を思い出させる。それは幸福と静寂と冬の空気とがひとつの淡い陽射しに包まれ、あらゆるものの輪郭線と稜線がおぼろげになった光景だ。時間の流れの外側に切り出され、かっこで括られた、この現実とは異なった線の上にあるべきもの——もうどこを探しても見つかりはしないもの。
 コーヒーの入った二つのマグをキッチンテーブルに置くと、ぼくは窓をもう少し開ける。冷たい微風を首筋に感じ、瞬間的に身体をこわばらせる。そこに立っていると、弱々しい陽光に照らされている冬枯れた草や未舗装の道、街路樹に留まったカワセミなどが見渡せる。歩いている人はひとりもいない。
 ぼくはコーヒーを一口飲み、もうひとつのマグの中身をシンクに流す。濃褐色の液体は小さなしぶきを上げて排水溝の闇の奥へと流れ落ちてゆく。カワセミが無遠慮に飛び立ってしまうと、ぼくの視界にはもう生きているものは何ひとつとして見当たらなくなった。

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