こんな時代だから『哲学』に足を突っ込んでみた。Part2・中世編【神様いるならなんで悪いことも起きちゃうの!?って本気で考えていた時代】
前回の『古代編』でギリシャ神話からの時代変遷の中で受け継がれていった”哲学”の進化は、次の時代の常識【キリスト教】の拡大の時代にステージを移行している。
中東で始まったキリスト教は、
その後ヨーロッパ全土に広がり、
ローマ帝国が”国教”として認めたことで一気にその教えが広まり、ローマ帝国の中で宗教の位置付けが高まっていく。教皇がどんどん地位・存在を高めていく。
そんな中世の哲学は『キリスト教の補完』として存在した。
哲学は、”時代の常識”に疑問を投げる。
中世はキリスト教に時代が塗り変わったのだ。
『神がこの世界を作っている』『信じる者は救われる』
『神は全知全能にして唯一の完璧な存在』
それに対する疑問が、”哲学”だ。
④アウグスティヌス(キリスト教の司教にして哲学者)
キリスト教最大の問題点『悪の問題』。
全知全能にして絶対の神がいる。
その神が人間を作った。
なのになぜ、
この世の中には残虐な殺人や非人道的な行為が有るのか。神の力があればそうなる前に止めれるだろうと。
これが『悪の問題』だ。
神がその悪を止められないなら、
全治全能ではないし、
その悪を容認しているのであれば、それは絶対的な”善の存在”ではないじゃ無いか!となる。
このアウグスティヌスは母親はキリスト教だが、父親が”マニ教”であり、そのマニ教の世界観は”神”と”悪”が混在し、永遠に戦いをしているそうだ。
悪が優勢の時は災いが、神が優勢の時は平和という世界観。ここに”疑問”が生じたのだ、時代に対して。我々日本人は、仏教と神道が入り乱れているのでこの疑問(悪の問題)は少し考えればわかる話だが、友達家族と議論はしない。
しかし、中世のヨーロッパでは、キリスト教がバッチリ根付いていたため、神が絶対なので有る。ここに疑問が出ることそれ自体が死活問題なのだ。
そこで、アウグスティヌスはこう考えた。
神に悪を止める力は有る。仮に、犯罪者を神が見つけた時に、その行為を止めたとしよう。そうすると、人間は神の操り人形になるのでは無いかと。要するに人間に”意志”は無いんじゃないか。だから神は、人間に”自由意志”を与えたのではないか
と。
人間に自由な意志を神は与えることを『善』とし、その意志を与えられた人間が誤った選択をすることを『悪』なのでは説いた。矛盾した当時の考え方を、哲学によってサポートしたのだ。
前回、『世界・社会・幸福・死』 に対して、”時代の常識”として考えて生きているはずと書いた。
宗教は、上記の4つを満たしているのだ。
と全部決めてくれているのだ。
だが、そこに綻びが出る時に”哲学”が顔を出してサポートしていた。中世とはそのような時代だったのだ。今の世の中はどうだろうか。
次回、宗教戦争や、自然科学の発達でキリスト教の影響力が弱まっていく近代に目を向けてみよう。
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