心地よい秋。寂しさ。私。
空と風がもう秋で、外に出るだけで気分が爽やかになる。そこにはどこか懐かしいような感じがあって、少し泣きたくなってくる。それは悲しい涙ではないけど、寂しいような気持ちも含まれている。
私の中で秋というのは1番思い出が詰まっている季節なのかもしれない。それとも単に秋は感受性を高めてしまうのか。
そして秋の気候は心地よくて安心してしまうのか、強い眠気が襲う。心は無防備になる。
今日は出かけたり家で小説を書いたりしていた。
相変わらず、家では集中力があまり持たない。
作業のBGMにと思い、久しぶりにSISAYというグループの曲を流してみた。
大学の時に沢山聴いたフォルクローレ。
中でもSISAYの曲は、サックスや電子っぽいサウンドが入って現代的な曲調のイメージが強い。けれど民族感も同等に強く感じるのはなぜだろう。やっぱりフォルクローレだからか。
ノリの良い曲が多いが、そのノリの良さや明るさが懐かしさを更に強調させる。
特徴的なリズムと、耳に残るメロディー。
久々に色んな感覚が蘇ってきた。
大学1年生の時に、生でSISAYの演奏を聞いたのを思い出す。それはショッピングセンターでの演奏だった。サークルの仲間と一緒に行ったのだった。そこでCDを買って、メンバーのサインを貰ったんだっけ。
曲を聴きながらいつの間にか眠ってしまった。
夢には大学生の頃の感覚があった。
私はサークルのコミュニティの安心感に包まれていた。寮の周りの緑の空気を吸って、友人と散歩をしていた。そこには、自分がやっと癒されていくような感覚があった。
起きたら、涙が溢れてきた。
なんだかんだ私は、そういうのに依存していたのかもしれないなって、そう思った。依存という言い方は少し違うかもしれない。
でも、知らぬうちに心を癒されていたのだなと。
支えられていたのだなと。
それをあまり認めたくない時期もあったな。
依存しているのは今でもそう。この街を離れられないのは、単純にこの街が生きやすいだけじゃなくて、そういう思い出と隣にいたいからなのかもしれない。
1人で生きている感覚があったけれど、実際はどこかで寂しさを埋めている。この街にはたくさんの思い出がある。それに、ごくたまにしか会うことはないが、知り合いが近くにいる。それでも皆どんどんこの街を離れていく。そのうち皆居なくなってしまう。それは悲しいことだ。その頃には私もこの街を離れているのだろうか。
大学を卒業してからは特に、1人で頑張らなきゃという感覚が強い。それは、精神的な、深い部分における「孤独」に打ち勝ちたいという気持ちだった。
でももう少し大学生で居たかったなと、今でも思う。学生だからって何でも自由な訳では無いけれど、学生という身分はやっぱり有難かったなと感じる。学生ならではの人との繋がり。友人。サークル。ゼミ。授業。課題。論文。NPOインターン。アルバイト(は今でも…)。思えば色々やっていた。そういうのもの全てが尊い。恵まれていた。
その中で徐々に私の暗い孤独は埋められていき、自分が出来上がっていったようにも思う。
だが実際私は一年前、社会人になってからほどなくして崩れ、そこからまた一から自分を作っている感覚でもある。
なんだか、癒されなかった部分を大人になってから癒していくのは大変だなって。すごく思う。大人になるにつれて、過去のトラウマや黒い感情が湧き上がってきやすいのは本当に不思議で。穴を埋めたと思ったら大きくなるようで。自分はいつまでも子供じゃないかと自分を疑ってしまう時もある。
それでも、多分少しは成長している。
自分を癒しながら、自分で生活をコントロールしてやりたいことをやっていくのは楽しくもある。
でもやっぱり孤独でもある。ただの孤独ともまた違う感覚なのかもしれない。なんだろうな。
ないものねだりかもね。
今ある環境。今ある幸せ。
そして創作がある。
それは、基本的に自分のためでしかない。
自分を癒すため。向き合うため。
人にどう見られるか、とかも考えてはいるけれど、結局は自分がいいと思うか、好きかどうかだと思う。
最終的に多くの人に読まれなくても、自分がしっかりと癒やされるならそれでいいんだと、今は思う。加えて誰か1人にでも届いたら、それはすごく嬉しいことだなって。
でも、自分の中の「いい」、「好き」がずっと固定されているわけではないから、路頭に迷うこともある。
自分が揺れ動けば、創作も行き先を失う。
だから創作は難しい。
でも気まぐれに、一生懸命に、私なりにやっている。
今書いている小説が完成する頃にはまた少し自分は変わっているのかな。
漠然と、いつかどこかにたどり着けたらという感覚はある。でもずっとこのままでいいとも思う。
時間は長いようであっという間に過ぎていく。
もっと心を自由にしてあげたい。
そう感じた今日のこと。秋の夜。