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ものがたりは身体の一部になって生きていく


子供の頃、私は〝ものがたり〟に出会えてラッキーだった。小説から始まり、大人になってからも、エッセイや映画などのいろんな登場人物の考えや、フィクションの他人の人生に出会えて、ほんとうにツイていた。



それは、「本を読んだ」とか、「映画を見た」という表現よりも、いつしか「ある考えを知った」とか、「主人公の人生を疑似体験できた」とか、「自分と似ている感情が言語化されていた」とかいうような感覚に近くなっていた。ものがたりを、ただ娯楽として楽しむというよりは、全部を自分の中の一部に取り入れていくような感覚だった。



こういう読み方をする様になった、ぼんやりとしたきっかけがある。



中学生の頃、学校の廊下を歩くことが怖かった。

当時、付き合っていた男の子の教室まで、会いに行くために、いつも昼休み廊下を歩いていた。
周りの冷やかしや、いじりといじめの、とてもグレーなところを行き来するような、投げかけられる言葉や行動がつらくて、こわかった。
一度、わたしの上履きがなくなっていたこともあった。
付き合っている人同士で、名札を交換することが流行りだった。彼に渡していた私の名札が、周りの冷やかしてくる彼の友達(?)に捨てられていたこともあった。
それに言い返せない彼にも、かなしくて、情けない気持ちになっていた頃。

そういう、やんちゃで、人の弱みをニヤニヤしながら握ってくるような男の子たちを、軽蔑して憎んでいた。卒業するまでに、やり返したい、バチが当たればいいのにと、本気で思っていた。そういう時、いつもの自分ではないような、恐ろしい感情とか衝動が、心の中に浮かんでは消えて、戸惑った。


その頃、重松清さんの「エイジ」という小説をたまたま読んだ。

ものがたりは、
同級生が、通り魔事件の犯人だったところから始まる。自分と彼の違うところ、同じところについて、考えるようになった主人公は、少なからず自分にもそういう衝動や感情があることに気づいて戸惑う。でも違うと思いたいという葛藤が描かれていた。

疑似体験で、通り魔の再現をする。自転車に乗って、スピードを上げて後ろから人を殴る想像をする。もちろんやらない。でも、一歩間違えたら自分も、彼になっていたかもしれない、ということを実感する。
中学生特有の、心の未熟さとか不安定さを、丁寧に描く話だ。

この話を当時、何度も何度も読んだことを覚えている。自分の中にある、他人の感情みたいな衝動の様なものがこわかった。お守りのような考え方がたくさん載っていた。
人を憎んだり、怖がったり、自分の感情に戸惑った時、なにかを実行に移すことと、ただ願ったり想像したりすることには、大きな溝があると知った。その違いを知るためには、一度それを実行に移してしまう側の気持ちになり切る方法がある、とも知った。

ものがたりは、わたしの考え方や、逃げ道のひとつになっていて、知れば知るほど、読めば読むほど、身体の一部になっていく。
狭い世界や考え方で、苦しんでいた自分への救いの手が、ものがたりだった。


自分の気持ちが言語化できず、気持ち悪い時には、
小説をよんで、代弁してもらった。
読んで、言葉を得たら、それを自分のものにしていけばいい。
いろんな人の人生と、その時の感情を知って、自分が抱いたことのない気持ちにも、想像力を使える様になった。


こういう、自分の考えの幅を広げるために、小説や映画を見ている。フィクションの物語なんて、という人がいるかもしれない。
けれど、ノンフィクションや啓発本では得られないものが、ものがたりにはある、と信じている。
事実がそのまま書いてあるのではない。アドバイスや考え方を示唆するものでもない。

自分の心に入ってきやすい言葉や形で、その登場人物たちの日常に溶け込む形で、答えが描かれている。

今まで読んだり、観たりした物語たちは、
内容は全部覚えてなくとも、わたしの生き方や、考えや、視野の幅として、身体の一部に溶け込んで、生き続けている。

狭くて、苦しかったわたしの心に、手を差し伸べてくれた物語たちは、血になって、養分になって、生きている。この先も、ずっと。



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