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村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」解釈

僕がどうしても、いるかホテルに行かなければならなかった理由。それは、そこからやり直さなければならなかったからだ。

つまり、静かにコツコツと、無駄遣いが最大の美徳とされる高度資本主義社会において、せっせと雪かきをしながら溜め込んできた暫定的で便宜的ながらくたを全て放り出してでも、もう一度人生の行き止まりに戻り、また一歩前に足を踏み出し、心を取り戻し、踊らなければならなかったからである。


ダンスダンスダンスを一度読了し、その意味を確かめるため、作品をもう一度この手でじっくり確かめようと、もう一度ゆっくり味わおうと、私はページをめくって、また冒頭に戻った。

作品は、いるかホテルに関する解釈で始まっていた。

“よくいるかホテルの夢を見る。夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。”


ここまで読んだところで、あの致命的ないるかホテルは、やはり”僕”の人生、あるいは人生における”行き止まり”、”後戻りできなくなってしまった僕自身”であり、
だからこそ細長くて、歪められていて、屈折していて、右の角を曲がったところに羊男が住んでいるのだ、と再認識したところで、なんとまあ驚いたことに、次の段落でそっくりそのまま、そのようにちゃんと書いてあるでは無いか。

“「ここはどこだ?」問いかけるまでもなく、答えははじめからわかっている。ここは僕の人生なのだ。”

してやられた。
村上春樹は、なんとまあご丁寧にも、作品において鍵を握る部分の”答え”を、こともあろうか最初の1ページ目にわざわざ記しているのである。
読者が、作品の定義に混乱し、読み返すことを想定しての配置であろう。
さすがは村上だ。



私の好きなインスグラムのハッシュタグに、#subjectivelyobjective というものがある。"僕"の人生は、まさにあれなのだ。”主観的に、客観的”なのだ。


誰かが、僕のために、泣けなくなった僕の代わりに、泣いてくれる世界。

“「僕は生まれてからずっと失い続けてきたよ」とレイ・チャールズが歌っていた。「そして僕は今君を失おうとしている」。その唄を聴いていて、僕は本当に哀しくなった。涙が出そうなほどだった。ときどきそういうことがある。何かがちょっとした加減で、僕の心の一番柔らかな部分に触れるのだ。”


様々な機微に耳を澄ませすぎて、自分がわからなくなってしまった(データが不足していたから)、

失うこと、傷つけること、傷つくことを恐れるあまり、自ら手を伸ばすことすら躊躇うようになってしまった、
あるいは何を求めればいいのかすら分からなくなってしまった、

言葉というものが全く浮かんでこないほどに、誰も真剣に愛せなくなってしまった、

“誰とも結びついていない”という、激しく、焼けつくような孤独に馴れすぎてしまった、

そして何処にも行けないままに、年を取りつつある”僕”のために。



その時の”僕”は、”どうして誰かが僕の為に涙を流したりするのか”すら分からなかったのだ。

そんな”僕”は、再会した羊男から、こう言われる。


“何も難しく考えることなんてないのさ。あんたが求めていれば、それはあるんだよ。問題はね、ここがあんたのための場所だってことなんだよ。わかるかい?それを理解しなくちゃ駄目だよ。それは本当に特別なことなんだよ。だから我々はあんたが上手く戻って来られるように努力した。それが壊れないように。それが見失われないように。それだけのことだよ。”


混沌が余計に深まり、一体どうすれば良いのか尋ねる僕に、羊男はこう告げる。


“踊るんだよ。音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってことはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃ行けない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。… (中略)だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。… (中略)それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り”



いるかホテルは、行き止まりであり、終わりであり、始まりの場所。

いろいろ考えていると、耳の素敵な彼女キキは、やはり羊男と表裏一体であり、それぞれ生と死の案内人であるという、私が以前立てた仮説は正しかったような気がしてくる。

耳という外見的に共通の特徴もあるし、”僕”を行き止まりから導く役目、いろいろなことを繋げる役目を有している、という点でも共通している。


作品末尾で、角を曲がった古くさい部屋に羊男の姿が見えなかったのは、”僕”が自分で掴めるようになったからだろう。

羊男の助言を借りなくても、羊男に繋げてもらわなくても、自分で手を伸ばして、掴めるようになったのだ。
その細くて切れそうな糸を、僕自らの手で”必死に”手繰り寄せて、抱きしめ、温かな体温を感じることが出来るようになったのだ。



そう、私たちも、踊らなくてはいけないのだ。
私たちそれぞれに与えられた特別な命を、人生を、どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、とにかく一生懸命生きなければならないのだ。

それだけは、見失ってはいけないものなのだ。

それも、みんなが感心するくらいに。とびっきり上手く。

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