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2024年新春、子ども・若い世代に伝えたいこと(その1。「芦原妃名子さん、誠実さと優しさを貫いたからこそ、どれほど悲しくて悔しかっただろう」)。【エッセイ】【社会貢献】




 プロローグ(自分にとって、「大学受験」は「永遠のトラウマ」。そして「回り道の人生」を歩んできた。でもそんな自分だからこそ、伝えられることがある、と思っている)。


 (今回のnote記事は、「想像以上にとても長く、乱文になっている」です。実際、「当初にイメージした文章量の2倍以上」になっていますし、文章のつながりがよろしくない箇所も正直あるかなです。
 なお、最大の本題である(その2)は、後日にアップさせて頂こうと思ってます、しばらくお待ち頂ければです。
 それを踏まえた上で、読み進めて頂けると、より有難く思います。)




 (←「2023年2月1日」の「社会貢献#5A」のnote記事、つまり「ちょうど1年前、「2023年版」の「受験シーズンのあなたへ」的な意味合いのnote記事です。)


 (←「2023年3月31日」の「社会貢献#6A」のnote記事。「2023年版」の「#新生活をたのしく」のnote記事です。「強くなるより優しくなりたい」を信念とするある少女の考え方への強い共感、これを基に、「好きなこと・長所を何か1つ育むこと」「優しさ・思いやりを育むこと」の大切さを伝える内容です。)




 「昨年の今日、つまり、ちょうど1年前のnote記事(2023年2月1日)」。
 いまリンク添付させて頂いたnote記事を、綴らせて頂きました。

 導入として、「早田ひな(女性の卓球選手)」と「今村聖奈(女性の競馬の騎手)」の2人を取り上げて(いわば、この2人は、当時の「時の人」であった。今村さんは昨年は苦しみましたけど、早田さんはこのnote記事以降、より一層の飛躍を叶えて、先日の卓球の全日本選手権のシングルスでは「6試合で、落としたのはわずか1ゲーム、という絶対女王ぶり」での2連覇達成でした)、そこから

 「『自分がいままで積み上げた努力を信じて、全身全霊で最後の1秒までやり遂げて欲しい!』、それが『かつての受験生』として伝えたいこと!」

 を伝えたい、の趣旨で綴らせて頂いてます。



 このnoteの執筆開始日は、いまリンク添付させて頂いた、「自己紹介エントリー」の、「2022年2月1日」、つまり「ちょうど2年前の今日」です。


 実はこのnote、「2月1日」を執筆開始日にしたのは、自分にとってこの日が「特別な日」だからです

 最大の理由は、一人の野球ファンとして、「2月1日」は「キャンプ初日」で固定ですので、「シーズンの開幕日」と同義の感覚だからなこと。

 それと、自分の場合、中学受験と大学受験の大きな日が、この「2月1日」でして(実はいずれも苦い思い出であるのですが…)。ですので、自分にとって「特別な日」であるこの日を新たなるスタートラインの日にすることで、自分自身を奮い立たせたいという想いを込めての感じです

 「書くことで生きていく」、これは実は、2020年の初めから漠然と抱き続けてきた感じですけど、私事ながらいろいろとありまして、2年越しにやっとこうしてスタートラインに立てた、これが素直な感じです。

 (2022年2月1日のnote記事、「はじめまして。愛球人と申します。」より抜粋。)


 「2月1日」。実は例年、関西の有力私立大学、特に「関関同立」の入試日の開始日です。自分もそうでした。
 厳密には、関西圏の大学入試は既に始まっていますが。

 「『永遠に思い出したくないトラウマ』である、大学受験」
 自分自身の「回り道の人生」の、大きな要因の1つです。

 自分は、中学受験と大学受験、いずれも失敗しています。
 (いずれも最終的には「第3志望校」。大学受験は現役での進学ではありましたが、入学の際は「傷心」の感じでした。
 さらに述べますと、

 「大学→苦悩の4年間(社会人だけど「半ひきこもり」といえるかも)→大学(通信制。このタイミングで「もう1回、学び直そう」の決断が、自分自身の最大の転機になった)→社会人(以前に比してだと充実ではあったが、実は歩む道を決められずにいた)→フリーランス(現在。2022年から、いまこうして『書く・伝えることで生きる』の方向性が定まった。尤もまだ『末席・端くれ』の感じで、この夏に40歳の大台ですが…)」

 が、自分が歩んできた道です。

 ですけど、いや、だからこそ、この時期は特に「思い出してしまう」。
 「逃れようのない、負の記憶」。時間がだいぶ経って、大人、それも「27歳」のとき以降になり、「回り道を余儀なくされたからこそ、できた景色」をいくつも経験させて頂けた(尤も正直、「失ったこと」も多くあると思ってますが…)、ですので、「プラスになっていることもある、『自分だからこそ感じられる感覚・景色があるから』を含めて」と伝えたい想いです。

 あとで、実は先日に出会った、あるとても素敵な記事に、言及させて頂きます。そう、「大学受験での6年間の浪人生活を経験した末に、アナウンサーに就いた、ある女性のこと」です(ちなみに、ある程度以上の年齢の読者さんならば、「かつて、2時間ドラマで活躍していた、同姓同名の女優さんがいますよね?」の感じかなです)。


 では、今回の本題の執筆を、始めさせて頂きます、であるのですが、
 本題の最初に、少しですが、いま、この日本社会で「この話題の1色」になっている「とても悲しいこと」、これ、「自分ごと」と感じていますので、少しですけど言及させて頂くことから始めます。



 誰も傷つけたくない、悲しませたくない。ただ純粋に、最期の瞬間まで「誠実さ」と「優しさ」を貫こうとしたが故に、「自分自身が許せない」に陥った、とても悲しい結末。



 (「芦原妃名子さんの釈明文[1月26日土曜日]」が添付されているポストです。)



 (脚本家の相沢友子さんのインスタグラムの文章が添付されているポストです。特に問題になっている文章は、「12月28日金曜日」。そう、勿論、内容自体は「これ、不穏だよなあ…」ではあるのですけど、実は、この相沢さんのインスタのアップから、芦原さんの釈明文の発表まで、「1か月のタイムラグ」があるのです。)



 (自死した、漫画家の芦原妃名子さん、最大の代表作である『砂時計』は、「なぜ、自死をして欲しくないのか」「自死が周りの人間に与える影響」を主題にしている作品とのこと、これに言及した記事です。
 「自死による悲しみ」を誰よりも知っているはずの人間が、「自死」で生涯を終えたことの重み、ということを含めて、この記事をリンク添付させて頂いてます。)


 (最大の代表作『砂時計』の舞台の1つ、「世界最大の砂時計」がある、島根県大田市の『仁摩サンドミュージアム』。『砂時計』の作品の聖地になり、これがミュージアムを救ったことが言及されてます。
 とりわけ、この1つ目[山陰中央新報さんの記事]では、記事のラストで、来場者による「感想ノート」の一部分の写真が載っています。
 同じ島根でも、バスケットボールの島根[松江が本拠]とは場所が離れていますが、記事を拝読させて頂いて、とても心に響きます。)



 (芦原妃名子さんが、「2023年10月10日」発売の「7巻」[最新刊にして絶筆刊になった]の冒頭で綴った、「実写ドラマ化への想い」。
 「嬉しそうな気持ち」が伝わることと共に、「漠然とした不安感」が混ざっていることが読み取れます。
 とはいえ、隠し切れてない「わくわく感」、少なくとも当初はそうであったはずが、最終的には「こんなはずではなかった」に陥り、そして「最も悲劇的な結末」になるとは、芦原さん自身が想像していなかったはずです。)


 (多くの記事では、あまりにセンセーショナルな自死の方法であることから、「栃木県内」とオブラートな表現をしていますが、この記事では「芦原さんがどのように自死したのか」がはっきりと言及されてるので、リンク添付させて頂いてます。わかりやすく述べれば「飛び降り」及び「入水」、そう、「より確実に自死できる、それでいて迷惑リスクをより最小限にする意図」で、この方法を選んだと想像できます。)



 (←今回の、「芦原妃名子さんの一連のこと」に言及しているnote記事の中で、自分が「1人の人間として」とても共感できるnote記事を3つ、リンク添付させて頂いてます。
 1つ目は「芦原さんが、なぜこのような苦しみを持つに追い込まれたのかの考察。『人を傷つけるのを嫌う優しさ』『他責や無責ができない優しい人』がキーフレーズです[この1つ目の執筆者は、記事の中で「自殺未遂の経験はわたしにもあります。それがどんなに辛くて、目の前の絶望しか見えなくなるかも知ってる。」とも言及なさっています]。
 2つ目、3つ目は、シンプルに「人間の心の温もりを持っている芦原さんが、自死をしてしまったことがとても悲しい」趣旨を綴ってます。)



 今回の、「芦原妃名子さん」の、『セクシー田中さん』をめぐる、一連の騒動(自死を誘発した意味で、「事件」と形容した方がよいかなです)、自分は漫画もドラマも未読ですけど(『砂時計』『piece』も、作品名は耳にしているけど、が正直な感じです)、騒動が勃発したとき(1月26日土曜日)から、とても心を痛めていましたけど、自死(自殺)、それも、いわゆる「身を投げる」ということでの「とても悲劇的な結末」。
 それだけでも、とても悲しいです、たとえ「名前しか知らない程度」の自分でさえも。その上、騒動がどういうことかが明るみになってきて、もですし、とりわけ、芦原さんの「最大の代表作」といえる『砂時計』が、どのような物語かということを知り、なおさら、自分の心の中で、涙が止まらなくなりました。




 自分が大好きな本の1つに、山田詠美さんの『風葬の教室』があります(つらい思いを抱くときは特に、この本を読み返します)。
 この本の主題は「いじめ」、主人公は「転校してきた、小学5年生の、長い髪が特徴の少女」です。とても陰湿ないじめが、エスカレートの一途を辿り、果てには担任教員までいじめに加担して、主人公は絶望感を抱いて、自死を決心して、遺書を書き始めます。
 ですけど、偶然にも、姉の「ある言葉」を聞いたことをきっかけに、自死を思いとどまり、主人公の少女はいわば、これをきっかけに「生まれ変わる」のです(で、物語の終盤で、「風葬」が描かれていきます)。

 『風葬の教室』が発表されたのが、「1988年」。
 自分が「4歳」のときです。で、世界広しといわれてる中でも、日本は「いじめが特に陰湿な社会」といわれています(実際、自分自身、「いじめ」に苦しみ続けてきたので「リアルな実感」です)。



 で、『風葬の教室』が発表された6年後の「1994年11月27日」、愛知県西尾市での「いじめ自死事件」が起こります。当時、これは連日、ニュースのトップ級で報道されていたと、強烈な記憶です。
 この2か月後の「1995年1月17日」に、「阪神・淡路大震災」が起こります(これは後述で改めて言及しますが、この「阪神淡路の被災経験」が、「いじめ」と共に、自分自身の「心の原点」です。いわば「阪神淡路」と「いじめ」の2つが、自分自身を形成した、と強く実感です。ちなみに「阪神・淡路大震災」、自分は「小学4年生、西宮」での被災でした)。

 そう、「日本における『いじめ』が、とても陰湿である」をあぶり出したのが、あの「1994年の事件」ですけど、『風葬の教室』のときから、「『陰湿ないじめ』はすでに『日本社会の闇』として存在していた」ことが伺えます。

 だからこそ、『風葬の教室』は、「社会に対する、強いメッセージ性」を含めて、「永遠の輝き」を放ち続けているといえるのだろうと。
 そう、「なぜ、『いじめ』をしてはいけないのか。なぜ、『いじめ』自体が残酷であるのか。この本を読めば、この意味がきっと伝わるから」の意味でです。
 そして、このnote記事を拝読している、1人でも多くの子ども・若い世代にこそ、この『風葬の教室』を、是非とも読んで欲しいです!と思ってます、読んだらきっと、何か感じることがあるから!と。



 で、『砂時計』と、『風葬の教室』。恐らくですけど、時代を超えて愛され続けているのは、「生きづらさ」を真正面から描いている、そしてこの「生きづらさ」は、作品の発表当時よりも、いま(2024年)の方がより顕著になってきている(「生きづらさ」を抱えていると感じている人間がより多くなっていると推測される、という意味で)、いわば「より共感できる」、だから、時代を超えて愛され続けているのでは?と想像するのです。



 いま、自分は、「スポーツ」(主として「バスケットボール」「野球」「陸上」)が自分の専門分野になっています。ですけど、1人の人間としてでだと、「生きづらさ」が、自分が歩んできた道の「キーフレーズ」になっている、と強く感じています。



 で、今回の芦原妃名子さんの、一連のこと(騒動、事件)。
 自分は、あくまでも「報道越し」「騒動越し」でしかないです。
 (その意味で、もどかしさが拭えない感じですが。)
 そのように示させて頂いた上で、になりますが、想像の感じですけど、芦原さんが持っている「人間性」って、下記のような感じだったのでは?と想像するのです。

 「優しい」「まっすぐ」「誠実」「感受性が強い」
 「純粋である」「繊細である」「不器用」
 「使命感・責任感が強い」「自分自身に厳しい」
 (いずれの資質能力も「とても人一倍」の感じで。)

 いま示させて頂いた、芦原さんが持っていると思われる「9つの資質能力(性格的特性)」。特に「優しい」「まっすぐ」「誠実」「純粋である」「感受性が強い」「使命感・責任感」って、「人間としてとても大切な、とても素敵な資質能力」である、と想像するのです。
 で、この「9つの資質能力」を併せ持っていたこと、それは「漫画家という天職」へと導いた、「漫画家になるために生まれてきた」「人間として大切なことを伝えるために生まれてきた」と想像するのです。

 「優しい」「まっすぐ」「誠実」「純粋である」「感受性が強い」「責任感が強い」。
 それでいて「繊細」「不器用」「自分自身に厳しい」。
 これが「一切を妥協しない」こと、「素敵な化学反応を生み出せる」ことに結び付き、いくつもの素敵な作品を社会に届けてきた、と想像です。


 「攻撃したかったわけじゃなくて。
 ごめんなさい。」

 (「2024年1月28日」の昼、芦原妃名子さんの最後のポスト。
 この直後に、身を投げたと推測。いわば「事実上の遺言」です。)


 最終的に、このポストに至った、どういうことか。


 12月28日 ドラマ(『セクシー田中さん』)の脚本家の、インスタ。
 (「とげがある表現」と解釈できる言い回しだった。)

 (年明けの早い時期?) 小学館(出版社)側から、「脚本家側から、こんなインスタがあります。まずいことになっています。釈明が必要と考えますが、どうしましょうか?」と提案があった?
 (→どうするかを水面下で協議、恐らく当初は「釈明をしたくなかった」?
 というか、当初は「脚本家側からの、嫌味めいたインスタ」を存じていなかったのでは?と想像だが。)

 1月18日 X(ツイッター)を開設。
 (恐らく、釈明のために開設した意味合いが強い。)

 1月26日 ツイッターで、3つにまたがる釈明の文章をアップ。
 (「小学間の担当編集者さんと協議の上で」の趣旨がまず示された上で、「釈明」が丁寧に綴られている。「反論」というよりは、「告白」「事情説明」的なニュアンスが強く、少なくとも誰かを責める文面は一切なかった、慎重に言葉を選びながら綴っている感じだった。)

 →しかし、この「釈明の文章のアップ」を機に、一気に騒動と化し、ツイッター上での話題はほぼこれになった。
 (1月27日こそ、「女子マラソンの日本記録樹立」「大相撲の千秋楽」が結構な話題になってはいたが、それでも「騒動のこと」は一定程度の話題であり続けていた。)

 1月28日 ツイッター上で、「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」という文章をアップ。これと同時に、26日の「釈明の3つの文章」を削除している。
 →恐らく、このポストから程なくして、身を投げた?と推測。

 1月29日 夕方に、「死去していた、自死とみられる」と一斉報道。
 (→なお、脚本家側のインスタは、この自死を受けてからか、鍵垢に。
 死去報道と同時に、日本テレビがコメントを発表したが、「ごめんなさい」の趣旨の言葉が一切なかった。)


 時系列的には、上述の感じです。そう、実は、脚本家側の「不満めいたインスタ」から、芦原さん側の「釈明の意味の声明文のポスト」まで、1か月のタイムラグがあります。ツイッターの開設からも、8日のタイムラグ。
 このことから、芦原さん自身は、「釈明をした方がよいのか自体を、ぎりぎりまで熟考していた」(釈明をすること自体がベストといえるのかを、悩んでいた)ことが読み取れます(「釈明をするリスク」「釈明をしないリスク」両方を熟考していた、と想像できる。これに加えて、「釈明をする場合、反論の意味合いを最小限にするには、どうすれば」も熟考していた可能性がある)。
 で、釈明の冒頭に、小学館さん側との協議」を明示していることをも踏まえると、小学館(の担当編集者?)側から「釈明をした方がいいです」という提案があり、それもあって「1か月ものタイムラグが生じた」。

 で、釈明をする決断をしたのは「トラブルを収束させる意図」であったはず(そもそも釈明の文章からは、「明確な反論の意図」は感じられない、それどころか「自責の想い」が、この時点から既に滲み出ていた)。
 だけど実際は、芦原さん側の意図(想い)とは全く異なる展開になり、「騒動が表沙汰になり、事実上の大炎上になった」(それも「脚本家やプロデューサー、製作チーム側への糾弾」という意味で。つまり、結果論ではあるが、「釈明をしたことが、逆効果になってしまった」「本来の意図は『収束させたい』一心であり、反論の意図は全くなかったのに、収束とは真逆を誘発させてしまった」)。
 で、それが、芦原さんの目線でいえば、
 「どうしようとパニックに陥った」
 「『自責の想い』がより強くなってしまい、『耐えられない』に陥った」
 と想像するのです。


 で、最終的に、「自責」が「絶望感」になった。
 誰よりも人一倍、「自死はいけないこと」と頭ではわかっている。
 でも、「自分自身を責める、自分自身が許せない」に陥った。
 で、「自分自身を罰する、処刑する」(=自死)→最も確実に自分自身を罰するには→身を投げる、になった。
 「自分自身を罰することが、残された唯一の収束」と思い込んでしまった。
 そう考えたとき、でも、誰かに迷惑をかける方法は、避けたかった。
 例えば鉄道(電車)だと、たくさんの人間に迷惑をかけるのが明白。
 それに、どこかで首を吊ったりしたら、それが「事故物件」になり、誰かに迷惑をかけることになる。
 で、人里離れた場所で身を投げる、になったのだろうと想像です。

 騒動を(結果的に)勃発させてしまった、これに自責を感じてしまい(それも、すさまじいレベルでの自責を)、気力を失ってしまった、と想像です。そう、「釈明をするんじゃなかった、釈明をする決断をしたから、傷口が取り返しのつかない領域になってしまった(=逆効果になった)」と感じたと想像です。

 釈明をすると決断した恐らくの意図は、「自分が釈明することで、このトラブルを収束させたい」の一心であったと想像です(勿論、自身の漫画家生命という意味で、「トラブルのことはこれで終わり、ここからは前に進みたい」の意味合いもあったでしょう)。
 「攻撃したかったわけじゃなくて」は、言葉通り、つまり「読んで字の如く」、つまり意図としてはシンプルに「ごめんなさい」及び「誰が悪い訳ではない(「方向性のズレ」を修正できなかっただけのこと、これは自分自身の力量不足でもある)」、それ以上でも以下でもなかったのでは、と。

 制作・脚本(これは、プロデューサー・監督をも含めて)に、心のナイフを向ける意図は「ゼロ」であった、でも「釈明文を読んだ人間」は、心のナイフを制作側に向けた、これが結果的に、芦原さんの中で、「自分自身を責める」(マイナスの全責任は自分自身にある、自分自身が許せない)と、「心のナイフを、自分自身に向ける」になってしまった、と想像です。


 そう、「ごめんなさい、気力が湧かないので、活動をしばらく休養させて頂きたいです。時間が経って気力が戻れば、活動を再開させて頂きたいと思ってますので、しばらく時間を頂きたいです。」とする方法も、恐らくあったでしょう、でも、そうすることができなかった。
 「休養すること」は、「誰かに迷惑をかけてしまう」、それならば、自死した方がましである、それほどに追い詰められたと想像です。
 (ちなみに、あの「悲劇的な結末」の後、小学館側から、「しばらく休載することは、一連の騒動の以前から既に決まってました」の趣旨のことが発表されていますが、仮にそうであるならばですけど、釈明文のラストの方で、「末文になりますが、気力が湧かないので、活動をしばらく休養させて頂きたいと思っております」の趣旨を併せて綴った方がよかった、そうすれば、こんな「悲劇的な結末」にはならなかったかもしれないと、正直感じています。)






 実は近年、スポーツ選手では、「しばらく休養します(気力が戻れば復帰したいニュアンス)」という選手が、女性選手を中心に出てきています。
 いまリンク添付させて頂いた、「樋口新葉(フィギュアスケート)」「加藤美優(卓球)」がそうです。

 休養を決断する理由は、それこそ「本人にしかわからない」になりますけど、恐らく、心身のいずれかが「このままだと、自分自身が壊れてしまう」というサインが反応する、ということではないかなと想像するのです。
 例えば、樋口の場合、1年の休養を経て、昨秋に復帰しました。正直、選手としての技術レベルは、休養前に比してだと「取り戻せてるとは、とてもいえない」が否めないですが、その一方で、「1人の人間としては、むしろ現在(いま)の方が輝いて映る、楽しんで滑っていることが伝わる」とも、強く感じます。恐らく、「自分はそれでも、やっぱりフィギュアスケートが大好きなんだ!」と、休養したからこそ気付けたのかなと想像です。
 少なくとも、休養前に散見されていた「ツンデレ感」は全くない、復帰後の樋口は「『ほんとうの自分』に気付けた(取り戻せた)」、そう、「とびっきりの笑顔」「溢れ出る情熱」なんですよ。


 「『人間の生き方』に『絶対的正解はない』。『100人いれば、100通りの個性がある』」。


 後述((その2)になりますが)で改めて言及するかなですが、自分はこれを、東北に向き合う過程で(いわゆる「東日本大震災の、復興支援活動」で)学びました。
 この「100人いれば、100通りの個性がある」を学べたことは、自分の場合、「回り道を余儀なくされたからこそ、学べたこと」です。もし、回り道がなければ、「東北に向き合う」ことは恐らくできなかった訳で、「東北に向き合う」ことで、自分は1人の人間として、「ほんとうの自分」に気付けましたから。

 で、「人間の生き方に、絶対的正解はない」。
 そう、「休養という方法だって、あったと思いますよ」と。仮に「休養という決断」でも、「人間だから仕方ないよね、気力が戻るときを信じて、ずっと待ってますよ」と想像するのです。

 だけど、芦原さんの場合、「休養」という方法が、できなかった。
 「自責の想い」、それも「自分自身を許せない」が、恐らく自分たちが想像する以上のレベルになってしまっていたのでしょう。



 最期の場所に選んだ、人里離れた、ダムの場所。
 そのとき、どのような気持ちだったのだろう、と。

 どれほど悲しかっただろう。どれほど悔しかっただろう。
 「自死がいけないこと」を誰よりも知っていた。そのような人間が、「自死をせざるを得ない、に追い込まれた」。それがどれほどの悲しさ、悔しさであったことか。

 でも、恐らくですけど、最期にできることは、
 「いのちを以て、『どうしても伝えたいこと、訴えたいこと』が、恐らくあったのでは?」
 と。だから、あのような身の投げ方になった?と、想像するのです。


 そう、かくいう自分自身、芦原さんの訃報を知って、で、一連の騒動・事件のことをより知ることになって、自分自身の心が「痛いよ、悲しいよ、悔しいよ」と感じている、で、心と脳が「悲しみ」に支配されてしまい、筆が進まない、に陥ってしまってと。
 それって何故だろう?自分は、芦原さんのこと、芦原さんの作品は、「名前、作品名は存じている」程度でしかないはずなのにと。



 そう、芦原さんが持っている「9つの資質能力」。
 このうちのいくつかって、「自分自身と重なる」!と感じたんですよね。
 特に、「純粋」「繊細」「不器用」「責任感が強い」「感受性が強い」という意味で。「純粋」は、「ピュア」とも表現できます。

 そして、「優しさ」「まっすぐ」「誠実」。この3つは、自分が特に心掛けている姿勢です。「まっすぐ」は、よくも悪くも「自分を最も形容していること」と感じていますが。


 「誠心誠意」「誠実であれ」。
 この言葉は、自分自身、(座右の銘である)「全身全霊」に次いで、「とても大切にしている言葉・考え方」の1つです。
 「誠実な姿勢」「裏表なく、ありのままに」、そうすれば、少なくともきっと誰かの心には届く。自分は、そう強く信じているんですよね。

 そう、はっきり述べます、自分が好きなスポーツの世界(特にサッカー、バスケットボール)では、「マリーシア」(ポルトガル語で「ずる賢さ」「狡猾さ」の意味です)という概念があります、正直、この「マリーシア」は、「技術の1つ」であることは否定できません。
 ですけど、人間が生きていく過程で、今回のように「正直者が馬鹿を見る」社会って、絶対におかしいでしょう?と自分は思うのです。



 「最大の問題の本質」は「仕事に対する姿勢」=「職業倫理」。映像・芸術作品とは「みんなでいいものをつくる」営みであるはず。そのためにはまず「世界観、伝えたいことの共有」、その欠如が誘発したのでは?


 で、今回の芦原妃名子さんの、一連のこと(騒動・事件)。
 これが、なぜ起こったのか。

 「みんなで、心を1つにして、いいものをつくりましょう」
 特に、映画の世界(とりわけ「ミニシアター系」「アニメ映画」)で、よく強調されていることです。
 「1つの作品を生み出す」ことって、本来は「とてもすさまじいエネルギー(労力・時間)を必要とする営み」であると、自分は思うのです。

 「魂を燃やす」「命を削る」という言葉があります。
 自分自身、大人になって、「魂を燃やす」という言葉を用いる機会が、年々増えています。
 恐らくですけど(結局はこれも想像になりますが)、芦原さんは、1つ1つの作品を生み出す過程自体で「魂を燃やし続けていた」のでしょう。

 で、今回の『セクシー田中さん』のドラマ化。恐らく、最初は嬉しかったと想像するのです。そう、「最大の勝負が始まるんだ」と。
 でも、「嬉しいこと」であったはずが、徐々に「最初に思い描いていた景色とは異なる方向」へと進むことになっていき、最終的には、いわば「魂が燃え尽きてしまった」のではないか?と。

 あの一連の釈明文の執筆は、「残されたエネルギーの全てを注ぎ込んで綴った」と解釈すると、正直「すとんと落ちる」感じです。
 だけど、「想い」「真意」は、結局「伝わらなかった」。
 で、「魂が燃え尽きてしまった」、と想像するのです。





 いま、リンク添付させて頂いてますけど、芦原さんの最大の代表作である『砂時計』のノベライズ版を執筆した、橋口いくよさんは、「自分を最大級に尊重してくれた、優しい人柄」の趣旨を述べてます。
 そう、『砂時計』のドラマ化(及び、映画化)は、「成功できた」。
 把握できる範囲内で、芦原さんの作品の映像化は、今回の『セクシー田中さん』が3作品目です(『砂時計』『piece』に続いて)。

 そう、『砂時計』では成功できた。制作・執筆陣とコミュニケーションを最大級にとれてた。だから今回も、きっと成功できるはず、そう信じていたはずです。


 そう、「1つの作品を生み出す、それを通して、『みんなで、心を1つにして、いいものをつくりましょう』。」という営み。
 これって、いわば「1つのプロジェクト」なんですよね。

 だからこそ、です。先程自分は、「魂を燃やす」という言葉を使いましたが、この「魂を燃やす」って、

 「魂を燃やす」=「全身全霊」
 (「全身全霊」と同義である、ということ。
 そう、「1つのプロジェクトに、全力で向き合って欲しい!」と。)



 「『誠意(sincerity、シンシアリティー)』『敬意(respect、リスペクト)』『情熱(passion、パッション)』、
 この3つの姿勢を、どれほど共有できていたのか?
 「みんなで、心を1つにして、いいものを生み出そう。」
 
この前提にあるのが「誠意、敬意、情熱」の3要素である。
 (「誠意」は「誠実さ」、「情熱」は「熱量、ぶつかり合い」と表現できるイメージです。)

 ↓
 そう、「みんなで、心を1つにして、いいものを生み出そう。」
 そのために大切なことは、「それぞれの、御互いのコミュニケーションを、できるだけ密にとる」ことであるはずでは?と。
 「『最も伝えたいこと』は何か?」「『絶対に盛り込みたい(シーンに入れる)場面の優先順位』は何か?」、まずはこの「すり合わせ」が絶対に必要であったはず。

 ↓
 それなのに、原作者(芦原さん)と脚本家が、「直接的な顔合わせがゼロであった(「お互いの初顔合わせ」さえなかったことになる)」、その時点で「みんなで、いいものを生み出そう」の前提自体が壊れている。
 (芦原さんの釈明文によると、芦原さん側が直接に対峙できたのは、プロデューサー陣だけであったという。)

 確かに、御互いのスケジュールの問題はあるかもだけど、制作側(プロデューサー、及びできれば監督も)、小学館側をも交えながら、いまは、(コロナでの教訓もあり、)「オンライン」「テレビ電話」をも用いることができる訳で、「原作者と脚本家で意見交換ができる」工夫はできるようになっていたはず。
 でも、この「原作者と脚本家で意見交換ができる」工夫は、現実には叶わなかった(顔合わせ自体がゼロって、「話にならない」でしょう!)、それをも含めて、「それぞれの、御互いのコミュニケーションを、できるだけ密にとる」どころか、「コミュニケーションのコの字自体を、そもそも生み出せていなかった」、その時点で、「芦原さん側の悲しみ・苦しみが引き起こされていった」といえるのでは?


 このように、自分は感じているのです。これ、どういうことか。
 ここで、自分が大好きな「ある作品」(もとは漫画。後に「実写映画化」及び「アニメ映画化」が実現で、それを鑑賞したことがきっかけで、大好きになった)のことに言及させて頂くことを通して、掘り下げます。







いま、リンク添付させて頂いた、
『思い、思われ、ふり、ふられ』の「フィルム&イラストレーションズ」。
事実上の「実写版&アニメ版の公式ガイドブック」です。
自分は、漫画はもともと未読で、「実写版」がきっかけで
「アニメ版」も鑑賞させて頂き、それで「とても大好きな作品」の1つになりました。
映画自体は、「実写版」も「アニメ版」も「2020年」の公開。
興行収入的には、「実写版」は大成功、「アニメ版」は不本意と、
実は明暗が分かれていますが、1人の人間的には、
「実写とアニメ、それぞれだからこそできる表現がある」を学べたこと、
そしてそれでいて、「作品の世界観自体が明確に伝わる」(その上でのアレンジ)、
といったことを含めて、「とても有意義で大好きな作品の1つ」です。
『ラブライブ』『五等分の花嫁』と共に、自分にとっての「誇り」の1つ。




「フィルム&イラストレーションズ」での、
原作者(咲坂伊緒さん)と、実写版の監督(三木孝浩さん)の対談。
原作の舞台は「東京」ですが
(明確な舞台が不透明な部分も多いが、「代々木上原駅」の描写がある。)
実写版の舞台は「神戸」です。
自分自身、「聖地巡礼」で、「西神中央公園」や、
クライマックスの舞台である「大丸山公園」を訪れました。
(「阪神淡路大震災」とは異なる、いわば「素顔の神戸」の一端を感じることができて、
その意味でもとても有意義でした。)
対談の中では、制作にあたり、どのようにやり取りを交わしたかの言及もあります。
その上で、でも現実には「足し算」及び「引き算」が不可避であることも言及。
そう、「改変する」自体が問題とは、自分は思わない。
大切なことは「原作の世界観を共有・表現」の「大前提」ができているか。
このことを、改めて問い直させられる感じです。
(加えて、三木監督が「咲坂さんの作品をいつか撮りたいとずっと思ってた」と
思っていたことも大きい。だから「熱量が伝わってきた」と感じます。)



「フィルム&イラストレーションズ」での、
原作者(咲坂伊緒さん)と、アニメ版の監督(黒柳トシマサさん)の対談。
対談記事からは、「漫画ではできない、アニメだからできること」
があることを学ばせてくれます。
アニメ版の舞台は、原作と同じ「東京」。
ちなみに、この原作者さん、アニメ版のアフレコにも、直接出向いてるとのこと。
ちなみに実写の俳優以上に、アニメの声優の方が、もともと
「みんなでいいものをつくろう」の意識が高い、の傾向が強いですが、
(実際、声優には「作品をよりよくするお手伝い。自分は裏方」と公言の人間が少なくない)
別途で、原作者と担当声優の対談記事がありますが、
確かに、興行収入的には「不本意」だったかもですけど、
自分がより感動したのは、実は「アニメ版」なんですよね。
で、この1月中旬に、公開以降では初めて、東京行きが叶いまして、
東京に着いて最初に、「代々木上原駅」だけですが「聖地巡礼」しました。
(今回の東京は、最大のメインはバスケでしたが。これは後日、別途の記事で。)




「フィルム&イラストレーションズ」での「巻末近く」での、
原作者(咲坂伊緒さん)へのロングインタビュー(7ページ分)。
咲坂さんが歩んできた道が凝縮されてる、とても濃密な記事です。
終盤で、「実写版」「アニメ版」のことにも言及されていて、
「実写版」では「みなさんが本気で知恵を出し合って作ってくださって」
「『キュンとするシーンだけ集めて入れ込めばいいんでしょ?』と決して思ってない作り方で」、
「アニメ版」では「ほんとうに細かいところまで作り込まれている」
「『少女漫画のアニメ化』ではなく、『ふりふら』の世界観をちゃんと考えて下さって」、
とそれぞれ言及しています。そう、『ふりふら』は、
興行収入的には、特にアニメ版は不本意だったことは否めない、
でも「純粋に1作品として」でならば、
「みんなでいいものをつくる」「作品の世界感を共有する」
この体現、この意識がとても伝わってきた、だから自分は「とても感動した」んだと。
今回の、芦原さんの一連のことを踏まえて読み返すと、改めて学び考えさせられます。



 「自分が大好きな作品の1つ」に、『思い、思われ、ふり、ふられ』(略称「ふりふら」)があります。
 きっかけは、自分が好きな「青春映画」「恋愛映画」のジャンルであり、4人の主要人物の1人である(朱里役の)浜辺美波さんが出ている、が大きかったのです。

 作品自体の意義でいえば、大きくは2つです。
 第1は「『実写版、アニメ版を連続で公開する』、いわば実験的な意味合いが強かったが、『【実写だからこそ】【アニメだからこそ】、それぞれにできる表現がある、を社会に発信できた意味で、独特の価値があった」こと。
 (ちなみに、当初は「アニメ版→実写版」の公開の構想であったが、実際は「実写版→アニメ版」の公開になった。でも自分の場合は、この公開の順序だったからこそ、それぞれのよさを純粋に感じられたし、実写版・アニメ版のいずれも「大好きな作品になった」と強く感じてます。)

 第2は、特に実写版で「(由奈役の)福本莉子さん、(和臣役の)赤楚衛二さんを世に送り出す」作品になったこと。実際、この作品がきっかけで、2人共に後に大成を叶えてます(尤も、福本さんは、まだ成長途上の域を出ていない感じはありますが、この作品がきっかけで、自分は福本さんは、浜辺さんと共に、「好きな表現者の1人」になりました)。


 そう、正直、「好きなジャンル」であり、かつ「好きな表現者がいたから」、が、「ふりふら」に出会うきっかけであった訳ですが、ここで、何を伝えたいのかと申しますと、


 「映画・ドラマ・アニメは本来、『みんなでいいものをつくる』営み。
 →『みんなでいいものをつくる』の具現化。この大前提は、『いい準備』ができること。
 →『いい準備』、この場合でだと、
 ・『なぜ、この作品をいまとりあげるのか?』
 ・『作品を通して、何を伝えたいのか?』
 (勿論、「エンタメに全振り」の作品でも、全然よいと思うが)
 ・『この作品の世界観。及び、作品を通して【軸】になってること。』
 これらを、携わる主要な人間同士で共有し合えること。
 特に『原作がある作品』だと、「世界観、伝えたいことの共有』が、まず大前提のはず!」


 先述で、「1つの作品を生み出す、それを通して、『みんなで、心を1つにして、いいものをつくりましょう』。という営み」=「1つのプロジェクト」である、と述べました。
 そう、「企業(特に、東証1部に上場するレベルの)」とか「役所(いわゆる公務員。特に県庁・市役所レベルとかでの)」とかで、「プロジェクトに取り組む」っていうじゃないですか。
 そしたら、「このプロジェクトを絶対に成功させよう!」と、携わる人間同士で「知恵を出し合う」。この過程で、「アイデアマン」といえる人間がいればより望ましいですけど、そうでない場合はなおさら、「知恵を出し合うことで、最適解を導き出そう」がとても大切である、と思うのです。

 そう、この「知恵を出し合う」。どうしても、映画・ドラマ・アニメのいずれであれ、「表現できること」「表現できないこと」が生じます。それに、「限られた尺にいかに収めるか」とか、「描きたい場面をそのままできるかの検討にあたって、時代・社会状況的にできるかできないか」(かつては可能だったが、いまだと不可能なケースが)も、どうしても無視できない(考慮せざるを得ない)になってきます。
 「足し算」も「引き算」も、どちらもどうしても求められてくる、というのは、「そういうこと」ですし、そう、ですので、「改変すること自体が、問題ではない」と思うのです。



 自分が大好きな映像作品の1つに、『黒革の手帖』(2004年、いわゆる「米倉涼子版」。原作は松本清張さんの作品で、映像化自体は7回も実現している)があります。全7話と話数は短いのですが、実に濃密であり、20年近く経った現在でも「語り継がれ続けている」作品で、BSでの再放送もほぼ毎年のようになされています。
 ですけど、この、米倉さん版の『黒革の手帖』、実は「改変はされてます」、より厳密には「作品の世界観を共有した上での、部分的な改変がされている」です。


 そう、他作品を持ち出して、「回りくどいなあ」と映るかもですけど、
 今回の、芦原妃名子さんの一連のこと(騒動・事件)の本質って、自分は、下記のことを正直感じてます。


 『仕事に対する姿勢』。これが、『芦原さん(原作者)』と『制作側(プロデューサー・脚本・監督など)』との間で、『そもそも論的な、熱量のズレ』が最初から起きていたのでは?と。
 なぜ、自分たちは『セクシー田中さん』を取り上げるのか、この作品を通して、社会(視聴者)に何を伝えたいのか?、まずこれが何かしらあったはずであり(『エンタメ全振り』という作品ではない)、これがないならば、まず最初の前提がおかしいでしょ?ってこと。
 ドラマ化で、作者(芦原さん)側にとっては、(少なくとも最初は)とても嬉しかったはず、でもその心理に対する【無意識的なおごり】が制作側にあったのでは?
 そう、『仕事に対する姿勢』と述べたけど、この場合、最も大切なのは、『みんなでいいものをつくる』という姿勢。そのためには最低限、『最初に押さえておきたいこと・心掛けること』を取り交わすことがとても大切なはずなのに、それさえないだなんて、おかしいでしょう?と(必然的に、『みんなでいいものをつくる』からの逆行を意味している訳で)。
 そう、『仕事に対する姿勢』、特に『みんなでいいものをつくる』姿勢、そのために最も大切なことは『誠心誠意』『誠実であれ』の姿勢『誠実さ』なくして、『やり遂げよう、最後まで』は体現できないはず






 いま、リンク添付をさせて頂きましたけど、

 「もちろん脚本は細かく担当と読み合わせてチェックして修正すべき点は絶対直してもらった。それに伴い急な顔合わせの打ち合わせもした。てか、これが当たり前だよな。」


 この、漫画家の双龍さんのポスト。この人自身も、芦原さんと同じ「2023年、10月クール」で「朝日放送(ABC)の深夜ドラマ(30分ドラマ)」で「実写ドラマ化」の経験があります(ちなみに「関西ローカルでの放送」であったとのことです)。

 そう、この、双龍さんのポストに、まさしく「今回の問題の本質」が収斂されていると思っていて(ちなみにリンク添付の記事では、双龍さんは「より踏み込んだ想い」を綴っている、これらを含めて、自分は「それな」と強く共感の想いです)。

 くどいかもですけど、「原作者と脚本家って、原作付きの作品でならば、『車の両輪』といえる」と思ってます。そうであれば「御互いにコミュニケーションを密にとれるように心掛ける」、これが『当たり前のこと』でしょう?と。






 そう、「当たり前のことを、当たり前にできる」ことって、実は「とても難しいこと」であると実感してます。というか「当たり前のことを、当たり前にできる」ことが(「難しいこと」でもあるけど)「とても大切なこと」と学べたのは、実は自分自身、30歳代になってからです(恥ずかしい)。
 実際、「当たり前のことを、当たり前にできる」ことの達人といわれたのが、いまリンク添付させて頂きました、バスケットボール(米国NBA)の名選手、「ティム・ダンカン」です(元スパーズ)。
 「当たり前のことを、当たり前にできる」達人である意味から、「ビッグ・ファンダメンタル」の愛称で親しまれています。

 そう、ダンカンのことは、「当たり前のことを、当たり前にできる」をずっと心掛け続けられることが、どれほどすごいことで大切なことか、という「尊敬の想い」が伝わってきます。


 …という感じですけど、結局のところ、「仕事に対する姿勢」、特に「誠意・敬意・情熱」の姿勢が、ほとんど全く欠けていたと考えざるを得ない、今回の「芦原さんの一連のこと」(いずれ「セクシー田中さん事件」とかの感じで命名されるのかな、と想像だったりですが)って、



 「報道機関というのは形のある物を作ったり売ったりする機関ではありません。そういう機関が存立できる最大のベースというのは何かといえば、信頼性です。特に視聴者との関係においての信頼感であります。その意味で、TBSは今日、死んだに等しいと思います

 過ちを犯したということもさることながら、その過ちに対して、どこまで真っ正面から対応できるか、つまり、その後の処理の仕方というのが殆ど死活に関わるということを、これまでも申し上げてきました。その点でもTBSは過ちを犯したと私は思います

 そして、今日の発表の結果というのも、まだ事は緒に就いたばかりで、これからやるべき事はいっぱい残っているだろうと思います。その中で、自分たちがどういう事を考え、何をやっているのかという事を、もう少し公開すると言いますか、きちんと説明するということも一つの勤めだろうと思います。」

 (1996年3月25日、TBS系列『筑紫哲也 NEWS23』での、筑紫哲也さんの言葉。「TBSは死んだ」発言として、いまでもずっと語り継がれてます。)


 この「TBSビデオ問題」(1996年。厳密には、問題の発端は1989年に起きた)、当時、自分は小学5年生の終わりでしたが、記憶している1つです、子ども心に衝撃でした。
 あとで言及させて頂きますが、当時の「TBSビデオ問題」は「報道倫理の欠如」が「問題の本質」といわれました
 これと、今回の「芦原さんの一連のこと」は、「問題の本質」は「仕事に対する姿勢=職業倫理の欠如」という意味で、とても重なって映っているんですよね、これからより深く掘り下げていきますけど。



 「自分が受けた悲しみが、誰かの教訓になりますように」が、芦原さんの「真意、願い」であるはず。「一緒に仕事がしたいと思える人間、といえる資質能力とは?」等、いくつもの教訓が浮き彫りといえるのでは?


 で、ここで、芦原さんの「最後のポスト」(事実上の遺言。なお「遺書は別にある」とのことですが)を、改めて示させて頂きます。


 「攻撃したかったわけじゃなくて。
 ごめんなさい。」

 (「2024年1月28日」の昼、芦原妃名子さんの最後のポスト。
 この直後に、身を投げたと推測。いわば「事実上の遺言」です。)


 この、「最後のポスト」もですし、1月26日の「一連の釈明文」もですけど、(一連の釈明文は、長い文章の一方で、結果的には「言葉足らず」になってしまった感じが否めなくもありますが、)「トラブルを収束させたい、の一心」は勿論大きかったと想像です。ですけど、この「収束させたい一心」と恐らく同等以上に、

 本来は、とても楽しみにしていたはずの『映像化』(今回だと「実写ドラマ化」)が、『こんなはずではなかった』に終わる思いをする人間は、自分(=芦原妃名子さん)が最後であって欲しい。
 そう、自分が今回直面したことが、これからの『教訓』として活かされて欲しい。

 そう、「起きてしまったことは、仕方がない」、でも「本音は、こんな結末(映像化が、納得できない感じで進んでしまったこと)は望んでいなかった」。
 釈明文を綴る、と決心した時点で、芦原さんの心は「悲しみに包まれていた」と想像です。

 そう、「反論の意図は全くない(反論が「真意」である訳ではない)」。
 ほんとうの「真意」の1つは

 自分が受けた悲しみが、誰かの教訓になりますように。

 この一心であったのでは?と想像するのです。






 いま、リンク添付をさせて頂いたように、芦原さんの釈明文での「真意」は、「全く伝わっていなかった訳ではない」といえます。
 ですけど現実は、「真意」は、「自分が受けた悲しみは、自分を最後にして欲しい、これ以上の悲しみが生み出されることは、全く望んでいない」であったはずなのに、「制作側(プロデューサー、脚本など)への糾弾の声」として生み出されて、結果として芦原さんの中で、「悲しみが増幅して、ついに耐えられなくなって、壊れてしまった」。
 そう、「糾弾(=攻撃)して欲しかった」わけではない、

 「芦原さんが受けた悲しみが、芦原さんで終わりになるように、知恵を出し合えるとより素敵ですね。」
 (→芦原さんは、「釈明文の発表」を通して、このような反応を特に望んでいたのでは?)

 これが、「釈明文に込めた『ほんとうの想い・願い』」であったと想像するのです。


 だけど、「真意」は結局伝わらず、「大炎上」に陥り、「『自責の想い』がより強くなってしまい、『耐えられない』に陥った」。
 で、「自分自身が許せない」になり、「残された唯一の収束の方法は、自分自身を罰する(処刑する)こと(=より確実に自死できる方法)」と思い込んでしまった。
 だけど、より確実に自死するにあたって、「誰かに迷惑をかけるリスク」には、したくなかった。
 で、導き出した答えが、「人里離れた場所で、身を投げる」だった。
 そう、「鉄道を用いる」や「事故物件」にならないように、と。

 恐らくですけど、最期の瞬間まで、「自分自身にも、周りの人間にも、応援してくれる人間にも、誠実であり続けたい」を貫こうとしたのでしょう。


 そう、芦原さんの「真意」として、「『誰かを責めたい』ことは、全く望んでいない」。

 「報道越しの域を出ない」ではありますが、芦原さんのいままでの作品は、「人間の心の痛み、悲しみ」を描くことが多い傾向にあった、と伺います。そう、それは恐らく、芦原さん自身が、『人間の心の痛み、悲しみ』を誰よりも知っている、で、いま(トラブル・騒動の渦中のとき)、自分自身の心はとても悲しい、でも、「人間の心の痛み」を誰よりも知っている自分だからこそ、「誰かを責める」ことは「痛み・悲しみの連鎖」でしかない、「マイナス・傷口をより大きくするだけ」であることを知っている。

 だから、「誰かを責める」ことは、自分自身の「信念」に反する。
 釈明文の発表が、「1か月ものタイムラグ」になったのは、「釈明文を発表すること」=「誰か(はっきりいえば「制作側」)を責めることになるリスク」を恐れていたから、これは大きな理由の1つでは?と想像です。

 そう考えると、「釈明文の発表」からの「大炎上」は、「恐れていたリスクが、想像以上の形で起きてしまった」とも解釈できます。で、「耐えられない→自分自身を罰する」になったのでは?と。



 で、この文章(本来、より最も伝えたいことである、(その2)が、後日執筆予定の会である訳なのですが…)を拝読して頂いている、「子ども(10代、中高生)」「若い世代」の読者さんに、この(その1)を通して、「伝えたいこと」があります。


 「何よりもまず、『1人の人間であれ』ということ。『1人の人間である』という自覚・認識なくして、ほんとうの意味で『いい仕事ができる』とは、自分は思わない!」

 今回の「芦原さんの一連のこと」が問いかける「最大の教訓」は、自分はこれであると思っています。
 芦原さんは、恐らく、最初から最後まで「1人の人間であろう」としていた。でも、制作側(唯一の窓口・交渉役であったという「プロデューサー陣」、直接の対面・打ち合わせが1回もなかったという「脚本家(あるいは場合によっては監督も)」には、この「1人の人間である」という自覚・認識よりも、(マイナスの意味での)「ビジネスライク」が先行していた(それも恐らく「無意識的に」、だから「たちが悪い」)のではないか?と想像するのです。
 これまでも繰り返し言及してきたように、「最初にまず、『押さえておきたい約束事』を取り交わすことを含めての『初顔合わせ』自体がないことが、そもそも論として、絶対におかしいでしょう?」が、まずあると述べてきました。

 ですけど、「初顔合わせ」云々を置いといても、「何回も連続で、大幅な手直しをせざるを得ない状況になっている(それも日程的に「大きな余裕がないだろう中で」)、ですので、そうなっている時点で(例えば、「3話とか4話相当の時点」で)、「まずいことになっている気がする…?」と気付くでしょう?と。

 いま、「ビジネスライク」という表現をさせて頂きましたけど、これ、言い換えれば「真心がない」と表現できます。
 人間と人間がやり取りし合うことですから、何よりもまず「真心」がないと成立しないでしょう?と思うのです(自分の価値観、といえばそれまでかもしれませんが、「人間と接する仕事」は「真心」があってこそ、と自分は思ってますので!)。

 「誠心誠意」「誠実であれ」、そう、「誠実さ」と「真心」は、「同義語」と考えてよい、と自分は思ってるんですよね。


 ほんとうの意味で『いい仕事ができる人間』とは、『この人と一緒に仕事ができると、何かきっとよりプラスなことを生み出せそうと思える人間』であると思う
 確かに、『頭がいい』『業績をあげている』人間はいるけど、それが『いい仕事ができる人間=この人と一緒に仕事がしたいと思える人間』といえるかは、『まったくの別物』であることが少なくない(イコールではない)。
 そう、ただ『頭がいい』だけの人間には、なってほしくない。ほんとうに『頭がいい』人間は、『頭脳は勿論だけど、それ以上に内面(心)がとても魅力的である』人間だよ!と伝えたい。」


  そう、はっきり述べましょう。今回、問題を引き起こした「制作側」の人間(特に「より責任が大きい立場にいる人間」)は、「ほんとうの意味での『いい仕事ができる人間』とはいえなかった」と解釈せざるを得ない、と自分は思ってます。
 自分も経験がありますが、わかりやすく述べれば
 「(見かけ上の)仕事ができる人間ではあるかもだけど、人間としては、一緒に仕事がしたいと思える人間ではない」
 いるんですよ、こういう人間が。言い換えれば「無能な働き者」タイプの人間が。
 そう、はっきり述べれば、芦原さんが今回、一緒に仕事をした「制作側の、特により責任が大きい立場の人間」は、
 「いわゆる『無能な働き者』タイプの人間」
 であった可能性が高い、と考えられるのです。



 これ、少し視点を変えて述べますと、
 「頼んでいないことをしないでよ!』を平気でする人間。
 (しかも、「見かけ上の仕事量」は平均以上にできる)」
 ってことなんですよね。


 あとで改めて言及させて頂きますけど、今回の問題って、
 「漫画・ライトノベルの映像化(映画・実写ドラマ・アニメ)」
 自体が問題であるとは、自分は思っていません。
 (映像化すること自体ではなくて、「映像化するにあたっての姿勢」とか「なぜ映像化するのか」、そこに「誠意・敬意・情熱」がどれほどあるのか、が問題であるということ!

 そう、今回の問題の最大の本質って、繰り返しになりますけど、

 『仕事に対する姿勢』。制作側は、この『仕事に対する姿勢』に、恐らく根本的な問題があった(そして恐らく『無意識的』、つまり『仕事に対する姿勢が間違っている』という自覚・認識がない。だから『反省・後悔』の姿勢が少なくとも現時点で伝わってこない訳だし、『間違っていたかもしれない、いったん立ち止まろう』ができなかった)。」

 これに尽きる、と思ってます。視点を変えましょう。


 A選手→「打率.250、10本塁打、10盗塁」、でも人間性は「努力の人」。
 B選手→「打率.300、20本塁打」、でも人間性は「不愛想な人」。
 (→「一緒に仕事がしたい人間」は、どちらであるといえるか?と。)

 はっきり述べます。自分ならば「A選手」と即答です。
 「やるからには、それに対して全力で」、それがとても大切である、それができる人間こそが、報われる社会であって欲しい!、自分はそう思うのです。


 もう少し、これを掘り下げます。いま、若い世代の間で「憧れ・尊敬の存在」「カリスマといわれる存在」として、下記の4人の名前が挙がってます(勿論、異論があるかなとは思いますが、あくまでも自分の「感覚論」としてです)。


 「野球の大谷翔平」「サッカーの久保建英」
 「バスケの河村勇輝」「将棋の藤井聡太」

 (→4人の共通要素、確かに「異次元の才能」である。でもそれ以上に
 「
『努力し続ける姿勢』として、自分の極限まで追い求めることができる」。
 例えば、野球の大谷だと、『野球に対する姿勢』がとても素敵である、であるように。)



 とはいえ、大谷などのことを持ち出しても、むしろ逆にイメージしづらい、という人間もいるかもと想像です。
 ですけど、実際に「野球に対する姿勢」で、それこそ「誰もが認める存在」として称賛され続けた選手がいます。それが、いまリンク添付させて頂いた、「松田宣浩さん」です。

 「2010年~2021年の12年間、ソフトバンクで絶対不動の正三塁手に君臨」(実際、2013年~2019年の7年間は特にそうであった)、「日本代表として、WBCに2回、プレミア12に2回出場」、「ゴールデングラブ賞を、7年連続を含む8回」「通算で、1832安打、301本塁打。20本塁打超えは『5年連続を含む7回』」。

 その業績自体が、勿論すごいのです(2000安打には確かに届かなかったが、全盛期はガチで「日本野球の顔」といえる存在でしたから)。でも松田が、その成績以上に「尊敬され続ける」「記憶の選手といわれる」のは、数字的な業績だけではありません(むしろそれ以外にこそある)。


 ・本拠地の試合では、必ず「7~8時間前には球場入り(ベテランになってからは、ほぼ一番乗りで球場入りしていたとの逸話が)」。

 ・「熱男」の愛称で親しまれるが、もともとは「人見知り」であった(実際、本人曰く「プライベートでは寒男です」と公言している)。

 ・たとえ大敗のときでも、記者の取材対応に最後まで答える(取材拒否をしたことがほとんどない)。

 ・「愛妻家」でもある(夫人は結婚当時、福岡のテレビ局のアナウンサー。つまり「半業界結婚」といえる)。


 ですので、松田を取材経験のある記者は、ほぼ高確率で「松田を応援したくなる」となっていたとか(「競泳の萩野公介」「陸上の鈴木亜由子、松田瑞生、田中希実」も、「記者たらし」の逸話を持っています。例えば鈴木亜由子は、昨年[2023年]のMGCで大惨敗して号泣するときまで、出場大会後の取材拒否が1回もなかったとか)。

 そう、メディアへの対応をも含めてですけど、松田のすごさの最大の本質は「野球に対する姿勢」にこそあるのです。自分は松田は「ミスターホークス」であると思ってます。



 そう、「仕事に対する姿勢」のことを繰り返し言及させて頂いてますけど、



 それにしても、です。




 いま、リンク添付をさせて頂いた該当ポスト(及び記事。どういうことかは、当該のポスト及び記事を参照されたしです)が、特に象徴的であると思ってますけど、「今回の芦原さんの一連のこと」、いわば最終的に「いのちを以て伝えよう・訴えようとした」と自分は解釈してますけど、


 「『クリエイター(作家・漫画家など)』vs『制作側』の全面戦争」
 (「もはやそうなっている」に限りなく近い、と思っている。)


 になりつつある、と自分は思ってますけど、自分はこの「全面戦争」、
 「いいぞ、もっとやれ!」と正直思ってます。

 そう、「クリエイターが受ける悲しみは、芦原さんが最後であって欲しい」、それが、芦原さんが、あの「釈明文」及び「最期の自死の仕方」で訴えよう・伝えようとしたことである意味でも。





 そう、いま起きている、「クリエイターvs制作側の全面戦争」(勿論、全面戦争に共感できないクリエイターさんも少なからずいると想像ですが)、これ、スポーツの世界でいえば「ストライキになっても、仕方ないよね」といえるのです。
 ある程度以上の年代の読者ならば、「野球(NPB)の、2004年の『球界再編』の騒動の過程での、『史上唯一のストライキの決行』」を、連想できるのでは?と想像の感じです。

 ちなみに、野球だと、いま「ドラフト」「FA」「トレード」のシステムが、現行制度になってから「15年以上が経過」であることもあり、「時代に合ったシステムに改良した方がよいのでは?」の時期に来ていると、自分は解釈しています。
 現行制度が導入されたときは、いわゆる「セイバーメトリクス」(より細かいデータを積極的に活用する野球のこと。バスケットボールでの「アドバンスドスタッツ」も、これと同義です)のセの字もない時代でした。


 ・「ドラフトで、直近の優勝球団が、全体1位相当の選手を獲得可能である。」
 (現行制度は「1巡目は、くじ引き」。これ自体が「運の要素が大きすぎる」。個人的には、米国バスケのNBAが導入している「ロッタリー制度」の導入がより望ましい、と強く思っていますが。)

 ・「FAで、人的補償が必要なのか?ということ。現に近年は『Cランク選手』のニーズが爆騰の傾向にある。」
 (福田秀平、山崎福也の事例が、まさしく物語っている。そう、「人的補償を伴うことを嫌がる球団が一定数存在している」を浮き彫りにしてる。
 尤も山崎の場合は「貴重な先発左腕の投手」であること等から、「Bランク」でも一定程度の需要はあっただろうと想像ですが。)

 ・「現行制度では、『3球団以上が絡むトレード』は事実上NGである。トレードが活性化できない大きな理由になっているのでは?」
 (「3球団以上のトレード」の成功例が、米国バスケのNBA。毎年のように、「3球団以上でのトレード(中には5球団が絡んだ実例も)」が起きている。)


 いまの時点で、「既に顕在化している、『時代に合っていない』と考えられる問題点」だけでも、上述の3つがあります。しかも、いま1つ目に挙げたことでだと、



 この秋のドラフト(プロ野球ドラフト会議)。最大の目玉選手は
 「宗山塁(遊撃手。右投左打。明治大学4年生)」
 ですけど、なんとこの宗山、1年前の「2023年春」の時点から、
 「『何球団が1位指名で競合するか』といえる超逸材。どの球団でも『即レギュラー』といえる選手であり、『向こう10年以上、正遊撃手に君臨できる』」
 との評判です。




 昨夏に、米国バスケのNBAで、「ビクター・ウェンバンヤマ(PF/C。サンアントニオ・スパーズ。フランス代表)」という選手が、「全体1位間違いなし」(→実際にそうなった)と、ドラフトの2年ほど前から既にいわれていました(いずれ「バスケ界の大谷」になるだろうとの声も、当時からありましたし、実際、「コミッショナーから、タンキング[意図的にわざと負けようとすること]の禁止の通達があった」ほどです。尤もプロ入り1年目の今季、「チェット・ホルムグレン(PF/C。オクラホマシティ・サンダー)」というライバルが登場で、さっそく「面白くなってきたじゃない」の感じですが)。
 そう、野球における宗山は、(やや誇張的な感じがしなくもないですが)「ウェンバンヤマのNPBバージョン」と考えて頂ければです。


 そう、要するに、今秋のドラフトの「全体1位がまず確実」(尤もNPBの現行制度では「1巡目は全球団くじ引き」であるので、この「全体1位」という表現は、現行制度上では「そぐわない」になりますが)である宗山を、「前年の優勝球団が、理論上は獲得可能である」ことの云々は、個人的には「とても違和感がある」と思っていますが(とはいえ、阪神が宗山を獲れたら、「そりゃあ嬉しい」と即答です、とも申し添えますけど)、それはともかくとして、現行システムを、できるだけ早いうちに改良した方がいい(個人的には、今オフすぐにでも!が正直な本音ですが)、そう、それこそ
 「より納得できる感じにできるように、システムを改良する」(=「ゆがみ、ひずみ」をより最小限にできるように)
 という意味で、自分は、勿論、「御互いに、本音をぶつけ合える、より実りある交渉をして欲しい」の想いですけど、あくまでも「必要と判断すれば」ではありますが、

 「『ストライキ』という方法を、厭わないで欲しい(勿論、球団側による『ロックアウト』も然りです)。いまの現行制度では、特に移籍市場が『ほとんど活性化できていない』ことが明らかなわけですから!」

 と強く伝えたい想いです。そう、


 『本音と本音のぶつかり合い』こそが、『みんなでいいものを生み出す』により直結し得る!


 これを伝えたくて、「クリエイターvs制作側の全面戦争」云々から、野球(NPB)のことへと話を派生させた感じですけど、ここで話を戻します。




 先述で、「初顔合わせ」云々を置いといても、「何回も連続で、大幅な手直しをせざるを得ない状況になっている(それも日程的に「大きな余裕がないだろう中で」)、ですので、そうなっている時点で(例えば、「3話とか4話相当の時点」で)、「まずいことになっている気がする…?」と気付くでしょう?、と述べました。

 そう、その時点で、芦原さんの目線に立てば、「もういい!」と、「破談を決断する(=ボツにする)」ことも、理論上はできたでしょう。でも、


 ・自分の作品の映像化が叶うこと自体は、「純粋に、とても嬉しいこと」。だから自分にとっては「最大の勝負」であり、「このチャンスを逃したら、もう叶わないかもしれない」という心理。

 ・「作品の映像化」の最大のメリットは、「自分の作品の世界観のすばらしさ、魅力を知ってもらう」こと。そう考えると、「もういい!と、破談を決断することは、『知ってもらう』機会を自ら捨てることと同義」を意味すること

 ・「もういい!と破談を決断する」にした場合、テレビ局側は「埋め合わせ」を用意するリスクが生じる(リンク添付にあるように、実際に前例がある。この前例は、結果的には「棚から牡丹餅」になったのだが)。
 また、破談を決断の場合は、場合によっては「違約金が発生のリスク」があること。


 釈明文での文章や、報道越しを踏まえての想像ですけど、「破談を決断する」、恐らく脳裏をよぎったかもと想像です。ですけど特に、「『自分の作品の世界観、伝えたいことを知ってもらう』が叶わなくなるリスク」が、耐えられなかった(「知って欲しい」と感じるのは、当然の心理であると思ってます)、だから「破談はあり得ない」になった。
 だけど結果として、「進むも地獄、引くも地獄」(「当初に思い描いた映像化の姿」とは、どんどんかけ離れていった)に陥り、最終的に「悲劇的な結末」になってしまった…、と想像するのです。



 ちなみに、先述で、「漫画・ライトノベルの映像化(映画・実写ドラマ・アニメ)自体が問題とは、自分は思わない」、と述べました。
 そう、問題の本質は「映像化するにあたっての、作品の世界観・伝えたいことに対する『敬意・誠意・情熱』がどれほどあるのか」である、今回はこれが制作側にほとんど全くなかったから、最初からうまくいくはずがなかった、になったと。

 そう、「漫画・小説・ライトノベルの映像化」を、一緒くたに(それも、はじめから)批判する傾向は、自分は「とても激しく強い違和感」を抱いてます。そう、その作品が映像化することがより望ましいのかは「ケースバイケース」(ジャンルとかにもよる)と思いますし、それと繰り返しになりますけど、「映像化するにあたっての姿勢」の問題も大きい、と自分は思うのです。





 いま、自分がいままで鑑賞してきた映画作品の中で、特に「原作がある実写映画」に絞って、挙げました。
 中には正直、興行収入的に成功できたとはいえない作品もあります。
 ですけど一方で、例えば『ヒロイン失格』は、「桐谷美玲のコメディエンヌの才能を引き出した作品」として高く評価されてますし、『orange』は、制作が半ば突貫工事的な作品で、しかも原作と少なからず改変されている(世界観自体は残しているとのことですが)といわれていますが、想像以上の成功を収めました。
 あるいは『賭ケグルイ』は「浜辺美波の『はまり役』」として名高いですし、『君の膵臓をたべたい』にいたっては、もともと原作も結構売れていた作品ではありましたが、実写映画の成功で、より作品の人気が高まり(加えて、「浜辺美波を開花させた作品」でもある)、この実写映画版は、後に「コロナのときに、映画館が『過去の名作の上映』で埋め合わせざるを得なかった時期」の際に、「過去の名作の上映」の1つとして上映されたほどです。


 そう、特に「恋愛もの・青春もの」(特に「王道タイプ」だとなおさら)は、「映像化(アニメ化に限らず、実写化でも)」との相性が抜群によい、と思ってます。制作側にとっても、「若手の『旬』の表現者を大々的に売り出せる」という大きなメリットがある意味でも。
 例えば、興行収入的には成功できたとはいえませんが、『君が落とした青空』は、福本莉子の「細かい感情の機敏」が丁寧に描かれていましたし、『プリンシパル』は、「The・王道恋愛もの」って感じで、「むしろ映像映えするよね」と感じましたから。


 それと、ジャンル的なこととは別問題として、「漫画・ライトノベルの実写化(既にアニメ化されている場合を含めて)」は、ある「隠れたメリット」があると思ってます。
 そう、はっきり述べると「自分のようなタイプの人間」ですが、「漫画・アニメだと『絵柄的に無理!』だけど、実写ならば、逆にワンチャン対応できるかも?」と。
 そう、名指しで申し訳ないですが、『鬼滅の刃』『呪術廻戦』、自分は予告編の時点で無理でした、あの「目」が無理なんですよね。そういう人間にとっては、「実写化」は「受け皿」になり得る場合がある、と思うのです。
 尤も、だからといって、「観ようかな」は別問題ではありますが。



 その一方で、明らかに「映像化、特に実写化と相性がとても悪い」と考えざるを得ないジャンルも、正直あります。それが「音楽もの」(特に「王道タイプ」の)です。名指しすれば


 『ラブライブ』『バンドリ(BanG Dream!)』『アイカツ』
 『プリパラ』『IDOLY PRIDE』

 (なお、2023年に爆発的に大成功した『推しの子』は、確かに『音楽を扱う作品』ではあるが『王道タイプ』とは明らかに一線を画しているので、『純粋な音楽もの』とはいえない[むしろ『心理もの』『シリアスもの』の意味合いが強い]。その意味で、「実写化」は「いいんじゃない?やってみないとわからないでしょう?」と、自分は思ってます。)


 理由は特に、まず第1に、『ラブライブ』『バンドリ』等の「王道の音楽もの」の場合、「『光やCGを駆使した独特のライブシーン』を再現できるのか?」があります。いまの日本の実写での映像技術だと、自分は「細かい色彩を含めてという意味では、恐らく無理でしょう?」と思ってます。

 第2に、鑑賞者(特に「音楽もの」は、各作品に「熱狂的な固定ファン」が存在する傾向が強い)の目線でだと、「このキャラクターは、この担当声優だからこそ、最高に輝けるんだよ!」と考えられていることです(特に『ラブライブ』『バンドリ』で、この傾向が顕著)。そして、「このキャラクターは、この声質」ということまで「明確なイメージ化」が既になされている。
 例えば、「μ’s(ラブライブの初代)」の「南ことり」「小泉花陽」の「独特の、とても高い声質」を、実写の表現者で再現できる人間が果たしているだろうか?が、そもそもあります。その時点で「実写化?物理的にできないでしょう?」になる訳です(いわゆる「議論の余地がない」)。



 そう、「漫画・ライトノベル・小説の映像化」自体は、自分は「問題の本質」とは全く思わない(一部のジャンルを除いては)、と述べました。
 ですけど一方で、今回のことの本質からはやや外れるかもですけど、


 「『漫画・ライトノベル・小説の映像化』が増加傾向にあり、それも特に、『漫画・ライトノベルの実写化(これに該当の作品は、アニメ化も実現していることが少なくない)』の増加傾向は明確に読み取れる。
 そう考えるとなおさら、『同じ作品を【アニメ化】も【実写化】も、両方を実現させるならば、【アニメ版に出演している声優さん】を、【実写版でも1~3人程度は出演させる】感じが、もっとあってよいのでは?』。

 そう、『作品の世界観を、より共有できるため』もだし、近年では『実写、アニメの両方に対応できる声優』が増加傾向にある。
 (そもそも、「水瀬いのり」「黒沢ともよ」「飯田里穂」「逢田梨香子」等のように、「子役出身の声優」が増加傾向であるし、いま挙げた「逢田梨香子」のみならず、「竹達彩奈」「内田真礼」「伊藤美来」等のように「映像映えする」タイプの声優や(しかもこの3人は歌唱力も水準以上ある)、「水瀬いのり」「田所あずさ」「大橋彩香」「愛美」「鈴木愛奈」等のように「むしろ歌唱力を最大の特徴としている」タイプの声優もいる[水瀬、田所、あるいは竹達、内田真のようなタイプだと、「主題歌を務められる」意味で、特大のメリットがあると映るのだが…。)

 そういったことを考慮すると、「アニメ・実写の両方に高次元で対応できる声優を、(漫画・ライトノベルを原作とする)実写でももっと重宝できれば、(作品の世界観を伝えられる「架け橋役」の意味をも含めて)『みんなでいいものをつくれる』により近づき得ると思うのだが…?」


 そう、繰り返しになりますけど、「みんなでいいものをつくる」、実写であれ、アニメであれ、映像化をする芸術作品って、本来はこの「みんなでいいものをつくる」営みである、と思うのです。
 そうであれば、「アニメ・実写の両方に、より高次元で対応できる声優」の、より積極的な活用は、この「みんなでいいものをつくる」により近付ける可能性が高まるのでは?と自分は思うのです(勿論、「ジャンル」「描き方のテイスト」等にもよるので、一概にはいえませんが)。
 (しかも近年では、ある程度以上の有力声優は「一定程度の固定ファン」がついている傾向にあるので[「職人タイプに全振り」の場合を除いてではあるが]、なおさらであるように思うのだが。)



 …と、自分は感じているのですけど、今回の芦原さんの一連のことの「教訓」の1つとして、
 「1人の人間であれ」「仕事に対する姿勢、『真心』あってこそ『いい仕事』ができる」
 と述べましたけど、いま改めて述べた2つのことともリンクしますけど、自分は、下記のことも、「教訓」の1つでは?と思ってます。



 「『1つのプロジェクトに臨む・取り組むこと』にあたって、
 『作品を通して、何を伝えたいのか?』『【軸】になっていること、【大切にしている世界感】は何か?』を、携わる主要な人間同士で共有し合えることが大前提のはず、特に『原作がある作品』だとなおさら!」

 と、これまでで言及させて頂いてきました。で、今回の場合、「そもそも論として、原作者(芦原さん)と脚本家の顔合わせ自体がゼロであった(芦原さんが顔合わせで来ていたのは、プロデューサー陣だけであった)」時点で、「そもそも論として、うまくいくはずがないでしょう?」と述べてきましたけど、いまリンク添付させて頂いた、弁護士の紀藤正樹さんの


 「プロ野球でも代理人制度があるようにハリウッドでも映画ドラマで代理人制度があるように日本でもエージェント法(制度)を整備する時代に入ったと思います。」
 「第三者が入り契約を締結することで原作者側と製作者側の言った言わないの話がなくなります。」
 「今回の芦原さんの悲劇をきっかけに口約束ではない契約文化を根付かせるべき時期です。一時的に製作費は上がるかもしれませんが、むしろ原作者側・演者側・製作者側のウィンウィン関係を作り、そのことがむしろ文化を向上させるのではないかと思います。ハリウッドやプロスポーツを見るとそう思えます。」


 「契約書」という形にすることが絶対に必要かはともかくとして、

 「『作品を通して、何を伝えたいのか?』
 『【軸】になっていること、【大切にしている世界感】は何か?』
 といった、『作品を映像化するにあたり、絶対に押さえておきたいこと』、例えば『この場面の描写の仕方、このキャラクターの性格設定とか、絶対に貫きたいこと』(恐らく基本的には、5個~10個程度、あるいはそれ以上の場合も充分にあり得る)を、
 『最初に取り交わす約束事』として、『書面にして』御互いに共有し合うこと(この『約束事の書面』=『事実上の契約書』といえる)が、これからは特に大切になってくるのでは?と強く考えます。」


 そう、「1つのプロジェクト」に取り組むにあたって、『約束事』ってあると思うんですよね。例えば、スポーツの世界、特に「バスケットボール」「サッカー」では、「スタイル」「戦術」が、とても重要な要素になってきます、それ故に、(程度の差こそありますが)各チームでの「約束事」がいくつか存在するのです(尤もスポーツの場合は、「約束事で必要以上に縛りすぎてしまい、チーム崩壊という逆効果に陥る」ことが少なからずありますが…)。

 年明けでだと、(「はっきりとしない域を出ない」感じではありますが、)野球の佐々木朗希(千葉ロッテ)が、「近い将来のMLB挑戦(ポスティングシステムでの)を容認する」云々のことが、「口約束」だったのか、「覚え書き的な書面での約束事」であったのか、ということがいわれています(尤も、佐々木のことは、日本よりも、米国の方が「より前のめりな報道になっている」と伺う。いろいろと「面倒くさそう」「気味が悪い」雰囲気を漠然とだけど感じるのは、自分だけでしょうか…?)。

 そう、「最初に取り交わす、いくつかの約束事」なくして(特に1つの映像作品をつくることは、たくさんの人間が携わるのでなおさら)、「1つのプロジェクトを絶対に成功させる」こと、「みんなでいいものを生み出す」こと(そのために「同じ方向を向き続ける」ことをも含めて)は、まずできないでしょう?と自分は思うのです。
 その意味で、「『最初に取り交わす、いくつかの約束事』を、『書面にして取り交わす』」ことは、とても大切である、と自分は思うのです。

 (それと、日本の場合、野球では「選手の契約年数を公表する」が基本になってきていますけど、バスケットボール[Bリーグ]では、「選手の契約年数を公表する」が全然なされていないんですよね[できているのは、自分が把握できている限りで、「秋田」の1球団だけです]。
 「選手の契約年数の公表」って、「応援しているファンのため」でもあると思う訳で、「公表することによるデメリットが、そもそもあるのか?」と自分は強く感じているのですが。)



 …と、気が付けばかなり長くなっていますが、そう、今回の問題の本質、
 「『仕事に対する姿勢』、より深く述べれば『誠実・敬意・情熱』が、制作側ができていなかったから、トラブル→騒動→惨劇を誘発した。」
 と述べてきました。で、これって、


 「制作側の、『仕事に対する姿勢』自体が根本的にできていない、つまり、今回の一連のことの『最大の問題の本質』は
 『
制作側の【職業倫理】が根本的にできていない、だから【ただ傷口を広げただけ】、というか、そもそも論で【最初からすでに間違っていた】と考えざるを得ない』こと。
 ここでいう『職業倫理』とは『プロ意識』『仕事に対する使命感』とも形容し得るけど、今回の制作側の場合、『ゆがんだプロ意識』であったといえるかもしれない。

 ↓
 そう、今回の場合でだと、『【最大の主体】=【作品(原作)の世界観】』であるはずだが、制作側の目線(認識)では、『【最大の主体】=【自分たち】』に、無意識的になっていなかったか?
 ↓
 そう、そもそも論として、『仕事ができることは【当たり前ではない】、そう、自分たちは、【仕事をさせて頂いていること自体が、とてもありがたいこと】という認識を、どれほど持てていたのか?』ということ。
 現実論、
『なりたくても(携わりたくても)、なれなかった人間が少なからずいる』、だからこそなおさら、『仕事をさせて頂けることに感謝』(=感謝の心)ができてない人間が、『この人と、一緒に仕事がしたいと思える人間であるといえますか?』ということ!


 そう、今回の芦原さんの一連のことは、「映像・メディア関係の仕事の、構造的な問題」では?という声も聞こえてきます。確かに、この「構造的な問題」も、理由の1つではあるかもとは思いますが、自分は、今回の芦原さんの一連のことが「トラブル→騒動→惨劇」に陥った、恐らくの「ほとんどの理由」は、「制作側の『姿勢・意識』、つまり『職業倫理・プロ意識』がゆがんでいたこと(=「『一緒に仕事がしたい』と思える資質能力を、そもそもほとんど持っていなかったと考えられること」)」であった、と伝えたいんですよね。
 (「騒動→惨劇」に陥った、つまり、芦原さんが「自分自身が許せない、だから、自分自身を罰するしかない」に陥ったのは、観ている側による「想像以上の、制作側への糾弾の声」が大きかったように思う、つまり、これもこれで「ゆがんだ正義感」であると考えざるを得ない、と思っていますが。)

 「初心忘れるべからず」という言葉があります、自分もとても大切にしている言葉です。そう、いま自分は、「書く・伝えることで生きていく」を歩み始めていますけど、「初心」「原点」「貫きたいこと」、自分自身、これをずっと心掛け続けているつもりです。
 そう考えると、今回の制作側の、特により責任ある立場の人間、この道を志したとき(あるいは入社したとき)の「初心」「原点」がきっとあったはずであり、それをいつしか忘れてしまっていたのでは?と想像してしまう感じですが。


 そう、芦原さんの恐らくの願いは、「自分が受けた悲しみを、これからの教訓に絶対にして欲しい」と想像です、ただの「犯人探し」の終始は、少なくとも自分はとても違和感です。
 ですけど、「なぜこうなってしまったのか?」は、現実論として避けられない(いわゆる「問題の所在」)、こうして綴っていると、その人の中にある「悪魔のような意識」が、最終的に悲しみを引き起こした、と映るんですよね、「自分たちがどこかで間違っていた、ごめんなさい」の気持ちがあって欲しいと願う感じですけど。



 いずれにせよ、「今回の芦原さんの一連のこと」「これによる芦原さんの悲しみ、悔しさ、無念」が、「今後に向けての、この日本社会としての教訓」になること、これが、自分たちにできることといえるのでは?と強く思ってます
 正直、とても乱文になってしまったことを含めて(ここまで乱文になるとは、我ながら思わずで、とても恥ずかしいですが…。「少し」のつもりが、「かなり」になってしまいました…)、「ごめんなさい」の感じですけど、こういう考え方もあるんだ、と解釈して頂けると、とても嬉しいです。

 では、自分が綴りたい最大の本題を、(その2)へと綴りますが、
 自分は、「輪廻転生」があって欲しいと信じていますけど(あくまでもこれも、自分の価値観ですが)、「次の世界」では、叶えられなかった「景色」「続き」を、歩んでいけますように。
 御冥福をです、合掌。


 【エッセイ#28A】【社会貢献#7A】

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