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「パリに暮らして」 第7話

 ――その日の夜遅く、携帯が鳴った。柊二さんからだった。仕事が片付かなくて、明日まで帰れそうにないとのことだった。
「さっきはすまなかった。せっかく来てくれたのに、本当に悪かったと思ってるよ」
 柊二さんは申し訳なさそうに言った。
 私は正直、何と返答していいかわからなかった。仕事が片付かないということは、無論、オーナーであるリザも一緒だということだ。仕事もだろうけれど、きっと話がこじれているに違いない。今電話で話している柊二さんの隣に彼女がいて、あの時と同じ目で彼をにらみつけている様を想像した。彼女の張り詰めた息遣いまで聞こえてくるような気がした。

 事実、私の心は奇妙な中間地帯にあった。崖と崖の間に張ったロープの真ん中で宙づりにになった篭か何かに乗っているような気分だった。そこは突然真空になっていて、追い風も向かい風もないから、前にも後ろにも進めない。リザが廊下をこちらに向かってくる間の、柊二さんのあの露悪的な態度が気になっていた。他の女性と一緒にいるところを、わざとリザに見せつけて楽しもうとでも思っていたのだろうか?
 モンマルトルのあの〝故人の美術館〟を出て、地下鉄メトロとバスを乗り継いで自分の部屋に帰り着くまでに、私は、目の前で展開された予想外の出来事と、それによって、ハンマーで頭を叩かれたようにショックを受け、麻痺したようになった自分の心との折り合いをつけようとしていた。
 柊二さんのアパルトマンの自室に辿り着いても、まだそれは上手くいかなかった。それどころか私は逆にひどく動揺していることに気づいたのだった。

 柊二さんに恋人がいた。

 最後に激昂げっこうして柊二さんが放った言葉から推測すると、二人の関係は終わりを迎えているようだった。でも、柊二さんはそのつもりでも、リザは納得していない様子だった。
 ――私はふと、我が身をかえりみた。……危うく忘れそうになっていた、あの計画のことを、はっきりと思い出した。それにまつわる全てのことは、痛みを伴うものだった。もしかしたら、むしろわざと、柊二さんとのことにかまけてそれから目を逸らそうとしていたのかもしれない。
 ……でも、それでは駄目なのだ。大袈裟かもしれないけれど、私は自分を〝再生〟する為にここまでやって来た。怖がって逃げ回っていたものに、自分から近づき、正面から向き合って、決着カタをつける為に。今またここで、このパリで、柊二さんというトラップ・・・・に引っ掛かって身動きできなくなるわけにはいかないのだ。……もしそうなったら、何も変わらないまま、また振り出しに戻ってしまうのだから。
 
「大丈夫です。気にしないで」
 私はものわかりのいい大人の口調を真似て、少し他人行儀に言った。そして、今日の出来事についてはわざと詳しく聞かず、まるで何も関係のない部外者のように、無関心を装った。そして、学校の宿題がどっさりあって、まだ終わらないから、急いでやってしまわなければならない、と言い訳をした。私がそんな調子を通していたので、柊二さんはもう何も言えなかった。
「お仕事、頑張って下さい」
 優しい口調でそれだけ言うと、私は電話を切った。
 
 
 
 ――でも、翌日授業を終えると、私の足はカフェ・クレスポへ向かっていた。朝になってもアパルトマンに戻ってこなかった柊二さんが、そこにいるのはわかっていた。毎日夕刻になるとアペリティフを飲みに来るのだから。私も毎日そこへ向かうのが習慣になっていたというのもあるけれど、えて柊二さんを避けることはするまいと思っていた。
 出会って間もない私たちの関係は、まだあまりにも浅かった。あともう二週間もすれば私は去って行くのだし、恋人と呼び合えるほどの関係でもない。けれど、このまま何も聞かず、なし崩しに会わなくなってしまうのは、よくないと思った。もやもやした気持ちのままパリをあとにしたくなかった。今日会えば、せめて何かわだかまりを解く糸口となる会話ができるかもしれない。……そして逆に、今日会わなかったら、本当にあとに何も残さず、何もかもが終わってしまうような気がした。

 案の定、そこに彼はいた。いつもの席に座り、入り口の方を向いて、まるで私を待ち構えているようだった。
「やあ」
 笑顔で手を振り向かいの席に座った私を見て、柊二さんは相好そうごうを崩した。
 
 ――不思議な感覚だった。彼の姿を見た途端、私の中の、混乱した負のかたまりのようなものが、急激に小さくなった。私たち二人の間には、男女の関係のみならず、兄妹のような従兄妹同士のような、又は共犯者、運命共同体と言ってもいいかもしれない、いつ何どきも壊れることのない安定した絆があるような気がされた。人間の叡智では説明のできない不思議な力があるとして、その力によって結ばれている縁があるとしよう。そういった縁で結ばれている相手とは、どんなことがあっても、生涯縁が切れることはない。そんな特別な何かを、私は柊二さんとの関係に感じていた。だから、この時も、私は自分でも意外なほど気まずさを感じずに柊二さんと顔を合わせることができたのかもしれない。……二週間後に迫っている、重要な再会もこんな風に果たせればいいのに、と願ったが、そちらについては全く自信がなかった。
 柊二さんは私の為に、ホットワインを注文してくれた。シナモン、クローブ、そしてカフェ・クレスポのオリジナルでカルダモンを加えた、体がぽかぽか温まるレシピだ。このところ本当に夕刻は冷えるようになっていたから、この選択は有り難かった。
 今日はどうだった、などと月並みな会話を交わした後、突然柊二さんは切り出した。
「週末、二人でワイナリーに行かないか?」
 
 
 ――どうして承諾してしまったのだろう。あとになって自分自身に困惑した。泊りがけでワイナリーに行ったりすれば、長い時間ずっと二人きりで過ごすことになる。アパルトマンでの同居ならば工夫次第で顔を合わせないようにすることもできるが、それは〝逃げ隠れ〟できない状況になることを意味していた。リザとの関係のことを聞かされるのは嫌だった。私の真の目的……私の深い部分を話すはめになるのはなお嫌だった。なのに、なぜ?

 おそらく私は柊二さんという人に、心を開きたかったのではないかと思う。彼ならば、私のどんな側面を知っても、柔軟に受け止めてくれるのでは、と期待して。
 柊二さんは、水のような人だ、と、今では思っていた。そして、私は、何かを書き記したくてたまらないインク・・・。……ちょっと間違えば、あとに手のほどこしようもない致命的な汚れ・・を撒き散らして行くことしかできない厄介者。でも水になら、インクはするすると溶けていくことができる。透明な水の中で、しばらくたゆたって、後に何も残さず消え去ることができる。
 水とインク、インクと水。それが私が柊二さんに求めていたことの全てだったのかもしれない。

 そして、柊二さんが私に求めていたこととは――――?

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