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「でんでらりゅうば」 第4話

 今日は〝郷の駅〟が閉まっているので、職場の案内は明日ということで、と言い残して阿畑が帰ってしまってから、安莉はようやくひと息ついた。見渡せば見渡すほど眺望のいい二面がガラス貼りの居間の真ん中には、木目も美しい一枚板の低いテーブルと、木の皮を思わせるような焦げ茶色の布製のソファとテレビがしつらえてあった。
 安莉はソファに腰掛け、背もたれに寄りかかった。それは詰め物のぎっしり詰まったとても座り心地のいいソファで、素材に高級感も感じられる。安莉は満足げに目を細め、遠くに霞んでいる山並みを見つめていた。
 そのとき、下のほうで扉が開き、ゴトゴトと音がした。阿畑が何か言い忘れたことでも思い出して戻ってきたのかと思ったが、上へ上がってくる気配もない。不審に思って、恐る恐る上の扉を開き、階段を下りてみた。
 玄関の上がり口に、安莉の荷物が置いてあった。スーツケース一個に、パソコンの入った頑丈な書類ケース、それにボストンバッグだった。
 ああ、運んでくれたんだ――。荷物はあとで若い者に運ばせる、と阿畑が言っていたのを思い出した。村の若者が運んできてくれたのだろう。それにしてもひと言声でもかけてくれればいいのに……。山間の集落の青年は、それほどに内気なのだろうか、と安莉は思った。
 苦労して、三回に分けて荷物を階段の上まで運んだ。運びながら、どうして青年はこの階段の上まで荷物を上げてくれなかったのだろうと少し恨めしく思った。坂道を運んで上ってきた時点で疲れてしまったのだろうか、それにしても不親切で感じが悪い。
「そう言えば、鍵は……」
 そのときふと思った。鍵はどうしたのだろう。阿畑が出て行くとき、確かに下のほうで玄関の鍵をかけるガチャリという音を聞いた覚えがあった。阿畑だけが緊急用の合い鍵を持っているはずだった。
 だとすれば、荷物を運んできた青年は、どうやって玄関の扉を開けたのだろう? 阿畑以外の人も合い鍵を持っているということか?
 安莉は少し不安になった。あるいはそれは、この村に入ってから阿畑以外の村人の姿を一度も見ておらず声も聞いていないことからくる心細さにもよるものだったかもしれないが、これは曖昧にしておけない問題だと思った。
 阿畑の携帯に電話してみたが、忙しいのか応答はなかった。部屋の静けさが、何となく薄気味悪く感じられた。
 安莉は、階段下の玄関と、上の居間に入る扉の鍵を、内側からしっかりと施錠した。
 台所は、サッシのある居間とは反対側、入口を入って左側のほうにあった。シンクで手を洗い、冷蔵庫を開けてみて安莉は驚いた。
 なかには食料品がいっぱい入っていた。牛乳、卵、牛肉、豚肉、鶏肉、バターにジャム、温めるだけですぐに食べられる冷蔵の即席麺、ペットボトルのお茶、冷凍室には肉や沢山の冷凍食品が、きちんと並べて入れられていた。
 まるでこれからここに籠城でもするみたいだな……と安莉は苦笑した。食品はすべて、未開封で賞味期限に余裕のあるものだった。ちょっと異様な感じもしないではなかったが、自分に対して村がこんな風に気を遣ってくれたのだろうと感謝することにした。
 冷凍庫にあった冷凍そばで簡単な夕食を済ませ、台所の脇にある浴室でシャワーを浴び、濡れた髪を拭いていると、阿畑から電話がかかってきた。
「どうも、かけ直すのが遅くなってすみませんでした」
 阿畑は言った。安莉が鍵のことについて述べると、仰天したようになって、自分が帰りがけに荷物運びを頼んでいた若者のところへ行って、一時的にその若者に鍵を預けた、今はもう返してもらって鍵は間違いなく自分のところにあるから、どうか安心して欲しい、と言った。
「不安になるような思いをさせて、まことに申し訳ありませんでした」
 急に行政的な堅い口調になって、阿畑は謝罪した。彼が電話を持ったままお辞儀をしたのまでが、安莉にはわかった。
「そうだったんですか……。いえ、そういうことなら、安心しました。すみません、お騒がせして……。ところで、冷蔵庫にあんなに食材を揃えて下さってて、びっくりしましたよ。ありがとうございました」
 それを聞くと、阿畑は破顔一笑した。電話を通してでもそれはわかった。
「いえいえ、大したおもてなしも何もできませんで……。食堂も何にもない村ですけん。我々からの、せめてもの気持ちと思って下さい」
 そして、今日帰る前にそのことを説明し忘れていた自分の世話役としての不甲斐なさを、しきりにびるのだった。
 ――そしてこれも言い忘れていたが――と阿畑は恐縮しながら言った。
「明日の朝八時に、お迎えに上がります。〝郷の駅〟のほう、ご紹介しますので」
 
 まだ寝るには早い時間であったので、安莉は早速仕事を始めようと思った。荷物を運び上げたあと、スーツケースを開け、大方の荷解きは終えていたが、まだ手をつけていない荷物があった。
 安莉はまるで神聖なものを取り扱うように、ブリーフケースに手をかけ、うやうやしく開けた。なかには何本ものシャープペンシルと消しゴム、ボールペンや万年筆といった筆記用具の入った筆入れと、十冊を下らない新品のA4判のノート、走り書き用の紙、そしてノートパソコンが入っていた。安莉はそのひとつひとつを、厳粛な儀式を行うかのように、丁寧に東側のデスクの上に並べた。
 そう、これから彼女は小説を書くのだ。雑音のない静かな環境で、たっぷりの時間を確保しながら、自分の心に移りゆくやる方ない想いを、誰にも邪魔されず、ただ心のままに書き綴ってみようと思っていた。悩み多き人生を、創作のなかに打ち明けることによって、せめて何らかの形を成すものにして、自身の疑問に納得できる答えを見い出せはしないかと、淡い期待を抱きながら。それには、リーフレットにあったこの土地での過ごしかたはおあつらえ向きだったのだ。
 ――午前中だけ簡単な仕事に出ればよし、あとの時間は大自然を満喫しながら、どうぞ好きなだけご自分の時間をお楽しみ下さい――
 渓谷を流れる美しい小川の写真の下に、こんな文言が書かれていたのだから。

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