映画『怪物』感想 大きすぎる余白は現実への願い【ネタバレあり】
今作、感想書くのが難しいので、いっその思いでネタバレ全開。『ゴッドタン』でしごかれていた野呂佳代さんの是枝作品出演に熱いものがこみ上げます。映画『怪物』感想です。
『誰も知らない』『万引き家族』などで、言わずと知れた日本映画を代表する存在になっている是枝裕和監督の最新作。今までは監督自身が脚本まで務めることが多かったのですが、今作ではドラマ『カルテット』『大豆田とわ子と三人の元夫』や、映画『花束みたいな恋をした』などの脚本家である坂元裕二さんによる脚本作品となっており、発表当初から話題となっておりました。結果として、カンヌ映画祭で主演男優賞に輝いた是枝監督の前作『ベイビー・ブローカー』に続き、またしてもカンヌで絶賛され、脚本賞とクィア・パルム賞に輝いた作品となりました。ただ、前評判と違い、諸手を挙げて絶賛というよりは、絶賛する意見と酷評する意見と真っ二つに分かれているようです。
是枝監督作品も、坂元裕二脚本作品も大好きな自分にとっては、これ以上ない組み合わせなのですが、結論から言うと「完成された作品」というよりは、「スペシャルコラボの実験的作品」という感じの印象です。お互いの魅力を打ち消してしまっている部分もあれば、お互いの魅力が見事に合致した部分もあるという、良い意味でも悪い意味でも歪な作品という印象を受けました。
3部構成で、母親の早織の視点、担任の保利先生の視点、そして3幕目で湊と依里の子どもたちの視点で、どういう出来事かが把握出来るものになっています。視点を変えると同じ場面が、全く違う意味を持つという手法は目新しいものではありません。レビューで黒澤明の『羅生門』、その原作である芥川龍之介の『藪の中』が引き合いに出されているのをよく目にしますが、あの作品は3つの視点が全く違う事実を描くことで、真実が永久にわからなくなっている物語なので、正確には違いますね。本作では真実は1つだけど、3つの視点がそれぞれで形を変えてしまうという事を描いています。
早織の視点で描かれていた胸糞悪くなる教師たちの姿にも、別視点ではそれぞれの事情や心情があるという描き方になっているように見えますが、本作の特徴として、一概に善良な人間だったという描き方ではないと思います。
もちろん、それぞれに善良な部分があるという描写にはなっていますが、それと同時にそれぞれに罪があるという描写にもなっているように感じられました。
保利先生が暴力を振るわずとも「教師であろうとする」振る舞いが、悪気無く湊を追い詰めていったのもそうだし、早織に問い詰められているのにアメを口にするという行為も、保利先生の人間性を疑わせるものになっています。一応、別視点では彼女の鈴村広奈(高畑充希)のアドバイスがあっての行為だとわかるようになっていますが、それでも大人がする行動ではないですよね。ただ、保利先生の素顔は、かなり内向的で社交的では決してない人物として描かれています。だから、アメを舐めるという社会性の欠片もない行為をしてしまうのも、わかる気がするんですよね。こういう役をやらせたら永山瑛太さんは本当に巧いですね。広奈が出て行った後に、ドアスコープを覗いてしまう惨めな姿、最高の演技だと思います。
母親としての愛情から行動している早織も、あまり上品な人間とは言えない振る舞いが強調されています。事が起きる前から保利先生の噂話に興じる姿(ここの野呂佳代さんの演技も最高)も良い振る舞いではないし、校長の伏見の孫の事故死を引き合いに出す言動も、子どものためというよりも、自分の怒りの発露が優先されているように見えてしまいます。
子どもたち2人にしても、嘘と火事という罪をそれぞれに抱えていることになっています。全ての人物が、人間的な善良さと人間的な罪を併せ持つものとして描かれていると思います。
その象徴が校長である伏見というキャラクターですね。孫の事故死、学校組織を守るために保利先生をスケープゴートにする罪、スーパーで騒ぐ子どもに足を引っかける悪意まで描かれているのに、この人物の言葉で湊が救われるという展開になっています。普通に考えたら、キャラクター造詣が矛盾していると思う人も多いと思いますが、償え切れない罪や、どうしようもない悪意を抱えている人でも、他人を救うことはあるはずという願いや優しさが込められたキャラのように思えます。この矛盾の塊を演じ切る田中裕子さんの説得力が凄まじいものになっています。間違いなく日本トップの演者の1人ですね。
それぞれの人物背景が複雑に絡み合い、誤解を生みだしていくという作劇は非常に巧みで、この辺りは坂元脚本が冴えわたる出来になっていますが、観ている間は、その出来事を読み解くのがメインとなってしまい、それぞれの人物の心情そのものに寄り添うような視点を持ちにくいものになっているとも感じました。是枝作品も坂元脚本の作品でも、登場人物の魅力溢れる描写があるから、どんなに辛い展開がある作品でも、その人物たちにまた会いたくなって観返したくなるという素晴らしさが共通していたように思えます。
けれども、今作は出来事を追う作劇なので、その魅力が半減してしまっているんですよね。この辺りは、お互いの魅力を打ち消してしまっている結果と感じました。心情の変化する過程も、出来事を進めるためにかなりカットしてしまっているように思えます。保利先生が作文のメッセージを感じ取ってから、すぐ湊の家の前に居るシーンに移っていますが、これも飛躍させ過ぎですよね。
子どもたちの真実を描く第3幕が、人間の柔らかく美しさが見える日々と、そこを脅かす周囲の理不尽さを描いた、最も是枝監督らしい空気になってはいますが、ここでも伏線回収のための台詞やシーンが多く、物語を追うことに邪魔されて、せっかくの空気感が損なわれているように思えます。それと、カットしたエピソードが多いのかもしれませんが、そういう裏設定を匂わせるような部分を詰め込み過ぎにも思えます。湊が死別した父親が、早織とは別の女性と居た時に事故死したなんて設定、流石に要らないでしょう? ちょっと要素詰め込み過ぎ問題が発生しているように思えてしまいました。
惜しくも逝去された坂本龍一さんの楽曲の使用は、作品に非常に効果的な配置となっており、最高の仕事だったと思います。さらに音楽に加えて音効での表現も素晴らしいものがありますね。特に管楽器が鳴らされるシーンは、別角度から3回ありますが、怪物の鳴き声のように不穏に聴こえた不協和音は、死へ向かう保利先生を引き留める叫び声へと印象が変わり、実は言葉に出来ない湊のものだったという構造にはとても感嘆させられる場面です。湊が自身の言葉に出来ないセクシャリティだけでなく、嘘をついたことの罪悪感ということも含めていると考えると、保利先生を引き留める結果となったのは納得だし、その音を鳴らすことを促したのが、保利を追い詰めた校長の伏見というのも、皮肉なようだけど、言い表せない運命のもつれに思えます。
賛否分かれるラスト数分のシーンですが、個人的にはここが最も是枝作品と坂元作品が融合した名場面になっていると思います。確かに現実の場面ではないのは明らかなので、あの2人に現実的な希望を与えられなかったという解釈も成り立つとは思います。その解釈によって生まれるマイノリティを安直に可哀想なものとして描いたことへの反感は、『ミッドナイトスワン』で自分も感じたものでした。悲劇の演出のために、キャラクターを動かすのは無責任な作劇という思いもわかります。
今作を初見で観た際は、そういった哀しさを僕も感じてはいましたが、その中でも美しさと歓びある子どもたちの声に、安堵の涙をしていたんですよね。そして2回目の鑑賞では、悲壮感はより少なくなり、肯定的な感情を抱けるようになっていました。
このシーンがポジティブなラストと思える理由は、2人の会話にあります。依里が生まれ変わりについて語っていたのは、生に絶望して死に向かっていたのは明らかだと思いますし、湊もそこに引っ張られていましたが、あのラストの会話で、「生まれ変わったかな?」「そういうのはないと思うよ」と、結局生まれ変わりを否定しているんですよね。それを考えると、やはりあのシーンは現実ではないけれども、2人が完全に彼岸に至ったというわけでもないと思えます。
そのメッセージを表現するならば、もっとそういう解釈に寄せた終わり方を演出するとか、現実を描くエピローグを用意するというやり方もあるとは思えます。ひょっとしたら映画作品としてはそちらの方が、万人が認める名作になり得たかもしれません。
ただ、希望を込めつつもはっきりと提示しなかったのは、その希望は作品内ではなく、現実で示すべきという願いが込められているようにも思えます。作品内でハッピーエンドを満喫して終わってしまうのも、ある意味無責任とも考えられます。
『ブルー・バイユー』『マイスモールランド』という作品でも、同じような感想を抱いたのですが、この後のハッピーエンドは、観た人が現実に生み出していくための、大きな余白を与えてくれているものだと解釈しています。このエンディングの美しさと歓びは、誰もが当たり前に享受出来る世界を目指す、可能か不可能かではなく、そこに向かうということが大事であると教えてくれる作品だと思います。また一つ、観た記憶を大事にしたい作品が増えました。