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子育てのあり方を見つめ直す

子どもを育てることができないならば、子どもを生んではいけないのだろうか?

今日は阪大子ども科研のオンラインシンポジウム「地域での子育て、誰も取り残されない社会の作り方」に参加した。

「NPO法人 こどもの里」理事長の荘保共子さん、「社会福祉法人 浦川べてるの家」理事長の向谷地生良さんが登壇されていた。それぞれの法人の概要は以下の記事を参照してほしい。

シングルマザー、シングルファザー、経済的困窮、精神障害、知的障害により子どもを育てることに困難を抱える人々がいる。知的障害や精神障害を持った人に対しては、そもそも子どもを生むということすら許されず、強制不妊手術が施されてきた歴史もある。

精神障害や知的障害を持つ人々は、子どもを生む権利さえも奪われてきたのだ。今でも知的障害や精神障害を抱えた人々が子どもを生むことに対して、懸念を持つ人々がいる。子どもを生んでも1人では育てられない、周りに迷惑をかける、どうせ施設行きになる、子どもがかわいそう、という周りの人々の言葉、支援者の言葉を何度か耳にしたことがある。子育てをする人々の多くが1人で子育てをする現状、孤独を感じている現状の日本ではこのような考えが生まれてくるのも仕方ないのかもしれない。確かに知的障害を持つ人々がなかなか家族計画をできず、多くの子どもを生み、ネグレクトになっていたり、妊娠中に精神疾患が悪化し、自殺をする人、産後に精神疾患が悪化し、子どもを育てることが難しくなる人々はいる。

しかし、これらは親個人が問題なのではなく、子育てをすることが困難な人々に対して、支える社会の仕組みがない事が問題なのである。育てることが難しいのならば、生まないという選択を取らせることではなく、生んだ後に地域で支える仕組みを作れば良い。

私自身も大学の時に妊娠した。1人では子育てが難しかった。だから、母に支えてもらったし、大学院の友人、教員、託児ボランティア(学校内で託児ボランティアを募集して応募してくれた学生達)が支えてもらった。大学院に子どもを連れていくことに対する賛否両論はあったが、私は大学院に子どもを連れていき、院生部屋の一室をお借りして託児ボランティアの人、院生の友人に授業中息子を見てもらっていた。私の存在は他者からすると、迷惑だったかもしれない。

今回の講演会の中で、子どもの存在はとても象徴的で、子育てをする中で私自身が育てられていく、気づきを得られる部分が多くある、というようなお話があった。

お金もなく、自身も未熟な中で私のような人間が子育てをしたい、子育てをしながら大学院にも行きたい、というのはただのわがままなのかもしれない、と悩むこともあった。だけど、未熟だからこそ周りの人々に支えられ、私も息子も育っていくことができた。また、私が大学に子どもを連れていき、多くの人に支えてもらう中で、「普段こんな小さい子と接することがなかったからすごく勉強になった。」「キャシーの妊娠中から命が生まれ、育っていく様を見ることができて、命の大切さ、母親という存在について、改めて考えさせられた」「子どもを持つ親の大変さがわかって、子どもを持つ友人と旅行に行った時にその子の気持ちを考えるようになった。小さい子どもを連れて外に食べに行くのは大変だと思ったからその日は部屋食にしたよ」という言葉をかけてもらった。このような言葉を受けて、子どもという存在、親という存在が私たちに投げかけているものは、自分が思っていた以上に多いのだと実感した。

「こどもの里」や「べてるの家」が実践してきたように地域で仲間と共に子育てをしていく仕組みを作っていくことが今後の社会で益々必要になってくるだろう。

私も子どもを生み育てることに不安を抱えている人々、子育てに孤独を感じ悩んでいる人々の少しでも支えになりたい。1人だと子育ては辛く、苦しいことが多いけれど、皆と一緒だったら楽しく子育てができるんじゃないかなぁ。





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