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転換点で追いかけ(た気にな)る第二次大戦(ヨーロッパ方面編)

皆さま第二次大戦はご存知でしょうか。
ご存知の通り歴史の授業でも絶対に触れる内容です。
では、36年〜45年までに何があったか概説できますか?
実は細かなところでに自信がない人もいるのではないでしょうか?

 どうもミリタリーサークル「徒華新書」です。
 本日のミリしら(ミリタリーの実は知らない)です。
 @adabanasinsyo

 筆者の北条岳人です。
 @adabana_gakuto

 過日の編集会議で、ぼくや久保さんがかつてよく見ていたサイトのいくつかが消えていることが話題に出ました。
「昔はこれらのサイトでなんとな〜く戦史の流れを追っていた、追うことができたけど、これがなかったら今のミリオタはどうやって戦史の流れを掴むんだ?」
「我々は『ミリタリー❝の❞実は知らない』より先に 『ミリタリー❝を❞、実は知らない』を一掃した方がいいのではないか?
 という方向に話が進んでいきました。
 
 それにぼくの実体験としても、歴史という科目に興味を持つきっかけは児童書コーナーにあった有名戦国武将をまとめた本だったと記憶しています。
 そのため、めちゃくちゃ大まかに、言うなれば日本史上の幕府の順番くらいの大まかさでも「こんなことがありましたよ」を抑えることは『本当の最低限度』として必要なのではないでしょうか。

 なので、今回のミリしらでは『ミリタリーを、実は知らない』にフォーカスして基礎の基礎を固める記事を続けることになりました。間違った前提からは間違った結論しか生みませんので。
 基礎の復習など必要ない人にとっては退屈でありましょうが、何卒ご容赦を賜りたく存じます。

 今回は39年〜45年までにヨーロッパで何が起きたか、それも転換点にフォーカスしてお届けします。

 本日のお品書きです。
 


0.前史

 述べたいことは本当に山程あるのですが、そうすると開戦前だけで5000字なんて端文字、余裕で超えるので手短に。

【ドイツ側前史】

 1933年にヒトラーが全権委任法によって権力を握った後のドイツは、1935年の『再軍備宣言』(徴兵制の導入はヴェルサイユ条約違反)、36年の『ラインラント進駐』(ラインラントへ軍隊を送ることは同地を非武装地帯と定めるヴェルサイユ条約及びロカルノ条約違反)を皮切りに、38年の『オーストリア併合』及びミュンヘン会談を踏まえての『チェコスロヴァキアのズデーテン地方併合』、39年の『チェコスロヴァキア解体』及び『リトアニアのメーメル併合』と段階を経て対外膨張ーー❝民族自決に基づくゲルマン民族の統合❞を進めていきます。

【連合側前史】

 こうしたドイツの拡張主義的政策を、イギリスは「ソ連に対する抑えとしては使えるかもしれない」「経済的苦境や政治的不満の蓄積がヒトラー政権を生んだのだから、抑圧は却って激発を招きかねない」との判断のもとに黙認し続けます。これが宥和政策と呼ばれる方針です。フランスは介入したくとも軍備がマジに終わってて介入できるはずもなかったのでイギリスに追随していました。

 しかしミュンヘン会談で『これが最後の要求』『今後はイギリスと相談する』という約束をしたのに、ヒトラーが一方的にチェコスロヴァキアを解体したことを受けて方針を転換、威嚇によって行動を掣肘しようとします。
但しこれは宥和政策の完全転換を意味するものではなく、戦争回避という根本姿勢は変わっていませんでした。

【ソ連側前史】

 ソ連はソ連で、英仏に対する強い猜疑心を持っていました。というのもスターリンは「ミュンヘン会談というチェコスロヴァキアに係る領土調整の場に、どうして俺が呼ばれないんだ。チェコスロヴァキアを餌にドイツを我々にけしかけるつもりか」と考えていました。……まあ、ミュンヘン会談には領土を割譲させられる当事国のチェコスロヴァキアも呼ばれてないのですけれど。
 このため、スターリンは「我々と一緒にドイツを封じ込めよう」との英仏の提案を拒否し、やがて「天敵」ドイツに接近していきます。

【39年、開戦前夜】

 39/3/30に英仏はポーランドの独立を保障し、これにドイツは4月末の独波(ポーランド)不可侵条約の破棄で応えます。
 いよいよのっぴきならない状況になってきたため、英仏は本格的にソ連との同盟を検討せざるを得なくなります。
しかしソ連はミュンヘン会談の時に生じた猜疑に加えて、歴史的な経緯から思うところがあるポーランドに英仏が保障を与えたことで猜疑心が増幅され、最終的にはドイツとの不可侵条約を締結するに至ります。
 ドイツとしても、ポーランドに圧力をかけている今このタイミングでソ連が対独中立を守ってくれないと困るし、なにより英仏とソ連が提携してしまった場合は困るどころの騒ぎではないので、ソ連との条約を結ぶ決心をします。

イデオロギー対立をしてきたヒトラーとスターリンの提携は、世界に大きな衝撃を与えた

 こうして1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結され、後顧の憂いがなくなったドイツはいよいよ「ダンツィヒか、戦争か」の最後通牒をポーランドに叩きつけたのです。

ドイツ軍優勢期

 開戦からしばらくのうちは、概してドイツ軍が優勢を握り続けていた時期です。
ポーランドは兵力的に言えば格下でしたし、フランスも軍備が不十分だっただけでなく効率的運用もできなかったこともあり、割とどうにかすることができました。
 まあ、だからといって毎回完全勝利とはいかず、海軍の水上艦はほぼ壊滅し、陸軍は「楽勝」した西方電撃戦でも機甲師団まるまる1個ぶんの戦車がやられ、空軍もイギリスとの航空消耗戦で負けるなど、かなり手痛い損害は出しているのですけれど、それでも中央~西ヨーロッパにおける軍事的プレゼンスを確立することに成功したのです。

1939/9/1〜9/28 ポーランド侵攻


「ヴェルサイユ条約でポーランドに割譲された都市、ダンツィヒ(ポーランド側呼称ではグダニスク)をめぐる対立は遂に世界を巻き込む戦争の引き金となり、ポーランドは再び地図から消えた。」

 「ポーランド側から砲撃された」(グライヴィッツ事件)という大義名分の下、ドイツは9/1にポーランドに宣戦布告しました(実際は、グライヴィッツ事件は自作自演)。英仏はポーランドと同盟していたため9/3付でドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。
 しかし「自分と英仏とでドイツを挟み撃ちにする」というポーランドの想定に反し、実際には英仏は全く動かなかったため、兵力でドイツ軍に劣るポーランドはどんどん押されていきました。
 挙句の果てには「お前はもう国としての体裁を成してない、ということは国家間の約束事である不可侵条約は無効だ、違うかな?」としてソ連までもが攻めてきて東西から挟み撃ちにされてしまい、1918年に123年ぶりに復活したポーランドは僅か21年で再び地図から消えました。
 この作戦によって、不安定ながらもどうにかこうにか保たれてきたーーように見えた平和がついに完全に破られ、全世界を巻き込んだ戦争が始まるのです。

1939/9~40/4 いかさま戦争・まやかし戦争・座り込み戦争などと呼ばれる事態


「対独宣戦布告したにも拘わらず全く動かない英仏を揶揄した、または延々と8ヶ月にも及ぶ睨み合いが続いた状況を指す言葉。英仏軍の士気を蝕んだ長い長い睨み合いは、40/5/10の黄色作戦で唐突に終わりを告げる。」

 ……始まったように見えました。英仏は確かに9/3付でドイツに宣戦布告したのですが、ポーランドが期待した「我々がこらえてる間に英仏が西から大攻勢」ができるような軍備など、全く整っていませんでした。
 ポーランドを助けるために攻勢をかけるでも、ポーランドに援軍を送るでもなく(尤もそれは物理的に無理ですけれど……)動かずにいたのですから、「ポーランドと同盟してたのに見殺しにした」という国内からの批判は当然起こりうることです。
 ……一応弁護するなら、ドイツの「我々にはフランスのマジノ線にも匹敵するジークフリート線という要塞がある」とのプロパガンダを信じてしまったため、攻勢を躊躇ったという要素もゼロではないですが。

青がマジノ線、赤がジークフリート線。ジークフリート線はところどころ途切れたり二重になっているのがわかる

 一方のドイツも、ポーランド戦が終わったとて暫くは整備や補充、修理の必要がありますから、万全な状態を整える頃には冬になってしまいます。
 特にフランス東部は厳寒期には豪雪地帯となりますから、ドイツ側にも無理攻めする理由がなく、延々と睨み合いが続いたのです。

なお、「いかにフランス軍の戦車の開発・製造が❝終わっていた❞のかを、B1 bisの開発史を具体例として考える」話は既にしました。まあ要するに、戦車開発も製造もまともにできてなかったというクソみてえな話です。手前味噌で恐縮ですが、こちらを御覧ください。

1940/5/10〜6/22 第一次西方電撃戦


「ポーランドに続いてドイツはベネルクス三国とフランスを一気に撃滅。ドイツは第一次大戦の敗北の雪辱を果たし、フランスの降伏によってイギリスはドイツと単独で戦わなければならなくなる。」

 ポーランドを下したドイツ軍はフランスを倒すべく、5月に攻勢を開始します。歩兵主体のB軍集団がベネルクス方向を攻撃し、C軍集団がマジノ線に正面から攻撃をかけて拘束している間に、機甲部隊を集中運用したA軍集団がアルデンヌの森を抜け、そのまま遮二無二突進していきました。 B軍集団の攻撃に対応しているうちにA軍集団の猛攻によって退路を絶たれ、孤立してしまったベルギー方面の連合軍は、装備を全て放棄して脱出を余儀なくされます。これが世にいうダイナモ作戦です。 ダイナモ作戦は奇跡的に成功し6/4までに33万8000人の連合軍兵士が英本土に逃れますが、その後の連合軍は一気に崩壊しました。16日には講和派のペタン政権が成立し、22日には独仏休戦協定が結ばれます。 これによって英仏軍は大陸から駆逐され、中央~西ヨーロッパにおけるドイツの陸軍的な優勢が確立されます。また、この勝利によって静的防御主体、塹壕戦的な戦術に代わって動的攻勢主体の戦術が攻撃側にも、防御側にも注目されるようになります。

 ちなみにこの時、ヒトラーはわざわざ第一次大戦の休戦協定が結ばれたコンピエーニュの森を交渉場所に指定し、これまたわざわざ協定が調印された客車を博物館から引っ張り出し全く同じ場所に設置させ、そこで休戦協定にサインさせるという陰の者ムーブをかましています。

博物館の壁をぶっ壊して客車を運び出していくドイツ軍

 なお、第一次西方電撃戦、それもフランスが負けた経緯については、間接的であるにせよ既に電撃戦の記事で触れています。こちらを参照ください。

 また、斯くも無様に負けたフランスがどうして戦勝国側に居るのかについてはシャルル・ド・ゴールの経歴を追う形で触れたこちらの記事を参照ください。


1940/7/10〜9/15 バトル・オブ・ブリテン

『英本土上陸作戦の前哨戦に位置づけられた一大航空消耗戦。英本土上陸作戦をするためにはこの航空戦に勝つことが前提だとされた。この戦いに勝てなかったドイツは英国への上陸を諦め、いよいよソ連との決戦に向けて準備をしていくこととなる。』

 英本土上陸作戦であるゼーレーヴェ(アシカ)作戦の前段階と位置づけられた、イギリス本土及び近隣海域上空での一大航空戦です。
 ヒトラーは当初イギリスとの戦いに乗り気ではなく講和を提案していましたが、チャーチルに拒絶されたために英本土攻略作戦の計画を立てるよう命じます。
 海軍は「英本土上陸には、敵の抵抗を空軍で排除することが絶対条件です」と進言したところ、空軍が「航空攻撃でイギリスを撃滅して見せます」と言ったため、「英本土上陸作戦の前哨戦としてのバトル・オブ・ブリテン」が行われることとなります。

 空軍で抵抗を排除し、ついでにイギリスの産業基盤にもダメージを与えようとするドイツ空軍と、なんとしてでも祖国を死守しようとするイギリス空軍がバチバチの航空戦を繰り広げました。
 ドイツ空軍はイギリス空軍に勝つ寸前までいくのですが、消耗に耐えられなくなったことに加えて戦略上の重大なミスを犯したために、イギリス空軍を撃滅することができず作戦中止に追い込まれます。
 この作戦の失敗によって、ヒトラーはいよいよ❝彼が一番やりたかったこと❞であるソ連侵攻にのめり込んでいきます。また、イギリス側はこの勝利によって「ドイツと徹底的に抗戦し、絶対降伏しないという意志」が国民全体レベルで共有されました。
 

バトル・オブ・ブリテンで大活躍した戦闘機、ホーカー・ハリケーン。
スーパーマリン・スピットファイアがやれ「救国戦闘機」だの「ザ・イギリス戦闘機」と称賛されているが、バトル・オブ・ブリテン時は配備数でも挙げた戦果でもハリケーンの方が上だった

アフリカ戦線概説

 アフリカ戦線をここで一気に全部まとめようと思います。
理由は
・独ソ戦と並行して行われているために、普通の時期区分の中に入れると視点が散らかる。
 また、例えば42年は東部戦線ではまだ優勢だが、アフリカ戦線では押され気味→反攻作戦成功→押され気味とシーソーのように推移する。
そのため、一緒に語ると「この時期のドイツ軍は……」という大枠で括りづらく、不協和音をもたらす。

 なので、いっそアフリカ戦線だけの部分を作った方が混乱が少ないためです。
 
 イタリアは国内統合のために「英仏主導のヴェルサイユ体制は破棄せよ」「古き良きローマに戻る」という政治的スローガンを多用してきた経緯から、アフリカに対して並々ならぬ執着を持っていました。だから、ドイツがフランスを下した後に単独でイギリス植民地であるエジプトへ向けて進撃を開始します。

 しかしその攻撃は弾き返され、返す刀で押されまくって北アフリカを失陥するかもしれない事態になり、ドイツに泣きつきます。ドイツは正直そんな余裕はなかったのですが、やむなくドイツアフリカ軍団を結成し、ロンメルを司令官としてアフリカに送ります。
 このロンメルが大いに暴れまくって、アフリカ戦線は枢軸とイギリスの間で押しつ押されつのシーソーゲームの様相を呈します。

 そもそも、何故イタリアはエジプトまで攻め込もうとしたのでしょうか。
 自国の経済規模を自覚し、段階的に拡大していこうと思っていたムッソリーニにとって、1940年6月までにドイツがフランスをごく短期間で下し、イギリスも大陸から駆逐したという報告は、英仏憎しのムッソリーニにとってすら福音ではなく衝撃でした。
「このままドイツがヨーロッパに覇権を、新秩序を確立したらどうなる?英仏の植民地は、美味しい部位は全部ドイツの総取りになってしまうかもしれない!」


 後世の我々から見れば、結局そうならなかったのだから杞憂以外のなんでもないのですが、当時の彼にとっては深刻な問題でした。特にムッソリーニ政権は領土獲得欲求も背景に成立していますから、彼が焦燥を覚えることは無理もないことだと言えます。
 だからこそ、焦ったムッソリーニは死にかけのフランスに宣戦布告したのです。戦争準備は全然できていませんでしたが、フランス軍はそれどころではないはずです。何より、「何もやらないと、何処も得られない」。これは確実なのですから。
 しかし、イタリア軍は死にかけのフランス軍にすら撃退されてしまいました。ですがムッソリーニはそれでも対外積極策を止めませんでした。止められなかったというべきかもしれませんが。
 次に彼が目を向けたのは北アフリカでした。北アフリカをイタリアのものにできれば、彼が日頃国民を団結させるために繰り返していた「古き良きローマ時代を取り戻す」ことが叶うのです。
 それに、今ならイギリス軍は「ドイツ軍が本土に上陸してくるかもしれない」から手薄なはずなので、一気に北アフリカを席巻できるかもしれない。このような打算のもと、25万もの大軍を率いてエジプトに向かい……

 イギリス軍に追い立てられて帰ってきた挙げ句にドイツに泣きついたところからアフリカ戦線が始まります。

イタリア軍はイギリス軍より兵数で明らかに優勢だったにも関わらず、リビアのエル・アゲイラまで逃げ帰ってくる。

1941/2/12 ロンメル着任


エルヴィン・ロンメル

「「電撃戦の立役者」エルヴィン・ロンメルがドイツアフリカ軍団の指揮官として派遣される。この男がアフリカ戦線を大いに引っ掻き回す。」

 第一次西方電撃戦で散々暴れ回ったエルヴィン・ロンメルが、イギリス相手に非常に苦戦しているイタリアを支援するために赴任してきました。何故、ロンメル着任だけをここで取り上げるのかと言えば、それはこの男がアフリカ戦線で好き勝手に暴れまわり、大いに状況を引っ掻き回すからです。
 実は、ドイツ軍上層部がロンメルをアフリカに送ったのはイタリア軍の崩壊を食い止めることが目的でしたが、ソ連に対する戦争計画が進行中だったために今アフリカ戦線が大きく動くと面倒なので、ロンメルに「イタリア軍の崩壊を食い止めよ」と伝えて送り出しました。

 問題は、この男は本国では対ソ戦争の準備を進めていることなど知りませんでした。
 この男は、「電撃戦の立役者」、いつも無線機が故障したと言って味方ですら所在を掴めない「幽霊師団」の指揮官たるこの男は、敵軍どころか友軍の想定の枠内にすら収まらず、独断で大攻勢をかけ、不利と見るや大きく引き、また攻勢に転じます。

 「戦争とは、時としてたった一人の人間が大きく状況を変える。」
 例えばそれはジャンヌ・ダルクであり、例えばナポレオンであり、例えばフリードリヒ大王でした。
この男は、前近代だけでなく国家総力戦の時代においてすらも「たった一人の人間が大きく状況を変える」ことがあるのだと証明してみせたのです。
 故に、このロンメルの着任こそが、アフリカ戦線の大きな転換点だと言えるのです。

1941/3/24~5/ ゾンネンブルーメ作戦


「イギリス軍に押し込まれていたイタリア軍を援助するため、ロンメルが仕掛けた攻勢作戦。彼お得意の積極攻勢によってこれまで優勢だった英軍を破るだけでなく英軍指揮官を捕虜にする大成功を収め、独伊軍は勢いづいた。」

 ロンメルが来てすぐに枢軸軍はエル・アゲイラからエジプト領内にもう一度突入した


 2/12、「電撃戦」の立役者の一人であるエルヴィン・ロンメルがイタリア軍勢力下のトリポリに到着しました。ドイツ軍上層部はイタリア軍の崩壊を食い止められればいい程度にしか思っていなかったのですが、当のロンメル本人は部隊の揚陸が終わるや否や攻勢を仕掛けます。

 これに泡を食ったのはイギリス軍です。この時のイギリス軍はちょうど戦力の再配置などがあって戦闘準備が整っていなかったこともあり、独伊軍の攻勢に押されて潰走状態に陥りました。また、ロンメル赴任までは順調にイタリア軍を追い詰めていたオコナー中将が、この作戦により独伊軍によって捕虜にとられるという失態も演じてしまいました。

 このロンメルの介入によって戦局の潮目が変わりました。
 ロンメルの攻勢によって、優勢だったイギリス軍は大きく後退させられただけでなく、優秀な将軍を捕虜に取られ、
 劣勢だったイタリア軍は崩壊の危機を脱しただけでなくアフリカ屈指の良港であるトブルクを窺うこともできるほど前進しました。
 もしトブルクを取ることができれば、敵軍本拠地により近いところに補給拠点を作ることができるので、その後の展開が楽になることは間違いないのです。

1941/11/18~12/4 クルセーダー作戦


「イギリス軍の一大反撃。ゾンネンブルーメ作戦によって大きく進出した独伊軍を再度押し戻し、ドイツ軍は補給物資の欠乏などからトブルクを一時諦め、ゾンネンブルーメ作戦開始時点の位置まで撤退していく。」

 ゾンネンブルーメ作戦でトブルクに迫ったまではいいのですが包囲してもなかなか落とせなかったため、ロンメルはトブルク包囲用の部隊を残したまま自分の本隊はトブルクを迂回してエジプトに直接乗り込もうとしていました。
 このためイギリス軍はロンメルの本隊に対する反撃作戦である「バトルアクス作戦」を発動しますが(6/15)、この時は交通の要衝であるハルファヤ峠を確保することができずに作戦を中止しています。

 ロンメルを確実に倒すため物資を集積し続けていたイギリス軍は、バトルアクス作戦時より豊富な物資と兵力を背景にクルセイダー作戦を発動します。包囲されているトブルクを解放するため、まず歩兵で正面から攻撃して敵の足を止め、その間に機甲部隊は大きく迂回して敵の後方に進出しようという大胆な作戦です。但し、機甲師団が3隊に分かれて進撃していたため、後に各個撃破されてしまいます。

 11/19、ビル・エル・グビのアリエテ師団に対してイギリス機甲師団が攻勢をかけますが、ここを抜かれると後方への浸透を許してしまうためアリエテ師団は頑強に抵抗し、イタリア軍だけでイギリス軍の攻撃を撥ねつけます。

 こうして大きな犠牲を出しながらもどうにかこうにか突破を許さず持ちこたえている間に、ロンメルが敵の機甲師団を弾き返し、イギリスの攻勢を阻止しようとします。
 しかし兵力でも物資備蓄でも勝るイギリス軍の攻勢に枢軸軍は徐々に消耗していき、ついにイギリス軍がビル・エル・グビに到達したことを知ったロンメルは撤退を決意します。
 トブルクの包囲部隊にも帰投を命じ、一路エル・アゲイラまで大きく撤退し、補給をして体制を整えます。無理に踏みとどまって粘るより、補給拠点であるトリポリの近くまで大きく戻った方が結果的に効率がいいからです。

 砂漠は押し込まれると補給拠点が近づいて楽になり、押し込むと補給拠点から遠ざかって苦しくなるクソみたいな戦域である。

1941/12/8 連合国の形成

「日本がアメリカに宣戦布告したため、それまで中立国であったアメリカは正式にイギリス側として参戦する。イギリスとアメリカは大西洋憲章に基づき連合国を形成した。」

 日本がアメリカに宣戦布告したため、ドイツもアメリカに宣戦布告しました(但し、三国同盟に相互参戦義務はない)。このため、アメリカは正式にイギリスの味方として戦争に参加します。
 しかし何故、アメリカが参戦したという事実がアフリカでの戦いを語るこの章に入っているのでしょうか。
 それは、42年の戦闘には、武器供与法(レンドリース法)に基づき供与されたアメリカ製の戦車がイギリス軍の機甲戦力として配備され、また42年の終わり頃にはアメリカがアフリカ西端のモロッコに上陸して枢軸軍と直接戦闘をするからです(トーチ作戦)。

 アメリカの参戦そのものがひとつの転換点であることに加えて、「アメリカ陸軍が、アフリカ以外で、ドイツ軍と直接戦闘する」のは43年に入ってからのことであり、その頃には既にアメリカは連合国として戦っていますから、ちょっと時系列が散らばります。そのため、この章で取り扱うこととしたのです。

1942/10/26~11/4 スーパーチャージ作戦


「ここまで散々暴れ回ってきたロンメル率いるドイツアフリカ軍団が、連合国との戦いで傷つき倒れようとしている。ロンメルの攻撃を弾き返して撤退に追い込んだ連合国は、そのままロンメルを追撃していく。この戦いで、ドイツアフリカ軍団は連合国に対して劣勢の立場に追い込まれてしまう。」

 度重なる戦いによる疲労と、砂漠という一種の極限環境のせいか、ロンメルは肝臓病と高血圧に苦しんでいました。ヒトラーの配慮によって彼はオーストリアで病気療養に専念しようとするのですが、戦地を離れる前に連合国を足止めするための地雷原を作ってから帰国の途に就きました。

 ちょうどその頃、連合国の指揮官モントゴメリーは、枢軸軍を一気に撃滅するための作戦を考えていました。物資や兵力を十分に蓄積し、敵に激烈な砲撃と航空攻撃を何日にも渡って浴びせた後、十分な兵力にものをいわせ一気に敵陣を突破するという作戦で、ライトフット作戦と言いました(42/10/23-28)。
 まだロンメルがオーストリアの病院にいる10/23、連合軍のライトフット作戦が開始されます。集中砲火によって地雷原を誘爆させ無力化したり、枢軸軍にかなりの損害を与えたりするのですが、指揮官の不在を必死に守る枢軸軍の抵抗も尋常ではなく、連合軍にもかなりの損害を出しました。

 病院で連合軍の攻勢の報を聞いたロンメルは病を押して戦地に駆けつけて連合軍の攻勢に立ち向かおうとしますが、モントゴメリーが準備していた十分な兵力を前に、反撃を完全に弾かれてしまいます。
 モントゴメリーは、このままロンメル軍を撃滅するなら枢軸軍の激しい抵抗で進捗が芳しくない今の作戦を続行するより、戦力を集中運用して一気にケリを付けた方がよいと判断し、ライトフット作戦を修正した「スーパーチャージ作戦」を発令します。これによってロンメル軍は全面撤退に追い込まれ、とにかく西へ西へ。一路チュニジアまで逃げていくのです。
 これにより、枢軸軍は完全にアフリカ戦線での主導権を失ったのです。

1942/11/8 トーチ作戦


「アメリカ軍がついにヨーロッパ戦線に参加。北アフリカ西端のモロッコから進撃してチュニジアにいる枢軸軍をモントゴメリーと挟み撃ちにする作戦だった。但しこの時はドイツ軍に撃退され、アフリカから完全に枢軸軍を追い払うのは翌年になる。」

トーチ作戦

 アメリカの本格介入により第二戦線が形成され、いよいよアフリカ戦線が苦しくなったのがこのトーチ作戦です。連合国の計画では、モロッコに上陸してからヴィシーフランス領アルジェリアを通ってチュニジアに侵入。モントゴメリーと枢軸軍を挟み撃ちにして撃滅する予定でした。

 ただし、ヴィシーフランスが領土を通してくれるかは分かりませんでした。そのため、作戦責任者のアイゼンハワーはヴィシーフランスが許してくれないことを織り込んで作戦を組み立てていました。
 案の定というべきか、ヴィシーフランスは通行を渋ったので、アメリカ軍はヴィシーフランス領アルジェリアに侵攻し、11/11にヴィシーフランスは降伏します。これにより、枢軸領のアフリカはアメリカとイギリスに挟まれることとなりました。
 ただ、そのまま勢いに乗って42年中に蹴りをつけようと攻勢をかけますがドイツ軍に撃退され、12/22にもう一度攻勢をかけますがまた撃退されました。

 このトーチ作戦によってチュニジアは連合国に挟まれることとなり、枢軸軍は逃げ場を失いました。しかもこの頃、連敗に次ぐ連敗でもはやヒトラーはアフリカ戦線に興味を示さなくなってきたため、増援も望めなくなってきました。
 枢軸軍は陸戦では頑強に抵抗しますが、制海権も制空権も握られている状態では補給すら難しくなってしまいました。そのため最終的に43/5/14にアフリカの枢軸軍は降伏、北アフリカは連合軍によって制圧されました。

東部戦線前半期

 前章冒頭で述べたようにアフリカ戦線をアフリカ戦線だけでまとめましたが、結局ドイツにとってはしょせんアフリカ戦線などどうでもいい戦線であり、ドイツにとっての主戦線はソ連との戦いである「東部戦線」でした。
 ということで東部戦線の話をします。ドイツ軍がソ連軍に戦争を仕掛けた最初の1年~2年目は、ドイツ軍が比較的優勢に作戦を展開しました。後の時期と比べたとき、少なくとも1943年以降のドイツ軍の攻勢作戦の規模と比較すれば、1941〜42年の夏季攻勢の方がずっと大規模で、非常にだいそれた作戦目標の下に行動しています。

 この時期は、40年までの優勢期と比べるとどういう時期なのでしょうか。それはドイツ軍挫折期だと思います。
 短期決戦で戦争を終わらせるとの目算のもとに攻め込んだら計画は早期に頓挫するわ自軍より優秀な戦車が出てくるのが41年で、
「戦争を終わらせるための戦争」ではなく『戦争を続けるための戦争』にシフトしたけど勝てず、兵力も大きく損なってしまったのが42年なのだと思います。
 この時期に兵力を大きく損耗したことが、後の時期で勝てなくなり、連合国やソ連に主導権を奪われる原因となったのです。

枢軸国の拡大


「ドイツ軍の同盟国はイタリアや(ドイツ軍の傀儡国の)スロヴァキアだけではなかった。ハンガリーやブルガリア、ルーマニア、フィンランドなどの国々もドイツの同盟国として行動した。」

 実は、日独伊三国同盟は日本とドイツとイタリアだけの同盟ではありませんでした。1940年11月にはハンガリーとルーマニアが、41年3月にはブルガリアが加わります。

 1940年10月、イタリアが当時中立国だったギリシャに侵攻する(も、撃退される)という事件が起きます。これによってギリシャは中立から連合国加盟に踏み切りました。
 これはヒトラーにとって全く由々しき事態でした。ギリシャが連合入りしてしまうと、ドイツが石油を輸入しているルーマニアに連合国が爆撃などをしてくるかもしれないからです。だからヒトラーは「バルカン半島で争いを起こすな」と言っていたのですが、ムッソリーニはそれを無視してギリシャに侵攻しました。そしてこの体たらくです。

 そこで、ヒトラーはバルカン半島の安定ーー少なくともそのように見える体制を確立すべきだと感じ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに同盟に参加するよう圧力をかけます。その代わり、何らかの見返りを与えるという約束をしました。
 例えば、連合入りしたギリシャに対して41年4月にイタリアが懲りずに侵攻し、またも撃退され、やむなくドイツが宣戦布告したギリシャの戦い(41/4/6-30)に際して、ドイツ軍を支援したブルガリアにはギリシャの一部を割譲しています。

1941/6/22 バルバロッサ作戦の計画

 
「ソ連への侵攻はヒトラーだけが思い描いていた訳ではなく、国防軍の側でも独自にソ連進行計画は検討されていた。公式的にはヒトラーの指令に従って戦争準備が進むが、後のヒトラーと陸軍との路線対立の原因となった。」
 ヒトラーの戦争指導は「モスクワにまっすぐ行かないから」「南方迂回なんてするから」などと批判されがちですが、実のところ国防軍も国防軍で大概な戦争計画を立てています。

マルクス・プランはヒトラー案より占領地は狭いが、実は共通点は多い

 時はバトル・オブ・ブリテンの真っ最中である1940/8/5。エーリッヒ・マルクスという軍人によって、マルクス・プランと呼ばれる戦争計画が提案されました。
 これによれば、ドイツ軍は来るソ連との戦争でモスクワとレニングラード、キエフ(キーウ)を確保し、ヴォルガ川中流域やドン川下流域の線まで進出するとしています。この計画は総統指令第21号で示される線よりはかなり控えめですが、問題はモスクワ到達まで1週間、ソ連軍の撃滅は4週間程度で可能だとする❝大変野心的な❞想定をしていました。

 対してヒトラー案である総統指令第21号は、国防軍案とは違ったベクトルで楽観的であり、やや理念的です。

 この計画によれば、「ロシア空軍がドイツ領を攻撃できなくなるような線」という、やや漠然としたあたりまでソ連軍を後退させ、陸軍の最終進出目標はヴォルガ川の一般流域とアルハンゲリスクとアストラハンを結ぶ線であり、そこを共産主義に対する防波堤と為す、というのです。
 陸軍の最終進出目標はともかくそれ以外の部分はやや理念的なぶん、マルクス・プランのように「いつまでにソ連軍を撃滅する」ということは総統指令第21号の文中では明示していません(但し、開戦準備は1941 年 5 月 15 日までには完了するようにせよとの日時指定はある)。
 また、ルーマニア軍やフィンランド軍が名指しでドイツ軍の側面援護や後方地域での補助任務を積極的にこなすことになっており、その意味でも楽観的です。

 戦争準備そのものはヒトラーが指示した5月中に間に合うように進められていきますが、ここでヒトラーと国防軍が別々の戦争計画を持っていたことが、後に軍部とヒトラーの思惑が交錯する遠因となったのだと考えてよいでしょう。

1941/6/22 バルバロッサ作戦の実際

「いざ開戦してみると、ドイツ軍の想定どおりに事は運ばなかった。ドイツ軍はモスクワ700km手前で一週間も進撃を止められ、ソ連軍の戦車によってもしばしば進撃を阻止された。このトラウマを拭い去るべく、ドイツ戦車はどんどん大型重武装化していく。」

 独ソ不可侵条約を一方的に破棄して1941/6/22にソ連に宣戦布告したドイツ軍ですが、思った通りの進撃はできませんでした。
 6/22中にはベラルーシのミンスクに侵入しましたが、ミンスクに包囲したソ連軍が頑強に抵抗したため、モスクワから700kmも手前のミンスクの攻略に、マルクス・プラン通りに推移していれば既にモスクワに到達しているはずの一週間もの時間を費やしてしまいました

 また「スラヴ人には重戦車など開発できるわけがなく、軽戦車くらいしか持っていない」と根拠もなく高をくくっていましたが、軽戦車のⅡ号戦車がまだ数の上での主力だったドイツ軍の前に中戦車T-34や重戦車KV-1が現れました

 尤も
 ・T-34やKV-1の数は決して多くはなかった
 ・訓練や砲弾の配備が不十分だった
 ・無線が必ずしも装備されていなかったり、砲塔が2人乗りである(T-34)ことから相互連携が取れない
 などの理由で、スペック的には劣っているはずのドイツ軍戦車でもなんとか渡り合えた事例や、相手が勝手に地形でスタックしてしまう事案が多発しました。
 しかしドイツ軍は自軍より圧倒的に強力なソ連戦車に恐慌を起こし、より重武装で重装甲な戦車の開発にのめり込んでいきます。重武装重装甲ということは必然大重量となり、高スペックを実現するため犠牲となった整備性や生産性ともども攻勢局面で大いに足を引っ張ることとになるのです。

 なお、ドイツ軍の攻勢が全面的に止められた訳ではなく、北ではレニングラードを包囲し、南はクリミア半島を超えてロストフ近くまで一気に占領しています。

1941/9/30~12/8 タイフーン作戦

「モスクワ攻略に焦点をあてたドイツ軍の攻勢。しかし様々な理由により思ったような速度で前進することができず、最終的にはソ連軍の冬季攻勢を受けてモスクワ攻略を断念せざるを得なくなる。ドイツ軍にとって、事実上最初で最後のモスクワへの大規模攻勢であった。」

 ウクライナ方面にソ連軍の巨大な突出部が形成されたため、ヒトラーはこの突出部の包囲殲滅とウクライナの穀倉地帯やドネツ炭田・クリボイログ鉄鉱山など原料の確保も兼ねてキエフ(キーウ)の攻略を優先させました(この突出部の包囲によって、ソ連南西方面軍60万人以上もの大軍を撃滅できる)。

 実際にキエフ(キーウ)を攻略したのは9月下旬なのですが、大筋でウクライナの確保の目処が立ったため、ヒトラーは9/6に「次の目標はモスクワとする」と定めました。

 9/30からモスクワへの進撃を再開したのですが、10月上旬に入ると雨や雪でロシアの軟弱な地面が緩んでそこかしこに泥濘を作り出し、戦車はおろか馬でさえ思うように進めないほどの事態となってドイツ軍の進撃は鈍化します。
 更に「いかなる犠牲を払ってでも冬将軍が来るまでの時間を稼げ」と命じられたソ連軍が、頑強に抵抗してきたのです。
 11月になると寒さで地面が凍って軟地盤からは解放されるのですが、こんなに長期戦になると思っていないドイツ軍は十分な冬季装備が行き渡らず、「もうこれモスクワ行くの無理では?」という雰囲気が漂い始めます。
 12月には「モスクワのシンボルであるクレムリンの尖塔が見える」ほどの距離までモスクワに近づいたのですが、12/5にソ連軍の冬季攻勢を受け全軍崩壊の危機にまで陥ります。12/8にヒトラーから発せられた死守命令でどうにかその場に踏みとどまりますが、もはや攻勢作戦の継続は困難となりました。

 タイフーン作戦失敗により、ヒトラーは陸軍総司令官を更迭して自身が陸軍総司令を兼任することとなります。自身の「ソ連野戦軍の撃滅や資源地帯の奪取などによって継戦能力を奪って破滅させる」との考えのもとに命令を下し、いよいよ将軍たちと侵攻方針を巡ってしばしば意見が対立することとなるのです。
 実際、前述のように小麦や石炭などの原料確保を兼ねてキエフ方面の突出部を優先したときも、将軍たちからは「そんなのどうでもいからモスクワへ」とせっつかれ、ヒトラーは「将軍たちは戦争経済というものをご存知ないようだ」と返しています。

1942/6/28~ブラウ作戦


「ヒトラーの資源地帯確保戦略に基づいた作戦。ソ連軍の一大工業都市であるスターリングラードと一大産油地帯のバクーを奪うべく、ドイツ軍は南方での攻勢を開始した。しかし戦略目標を達成できず、ヒトラーは「スターリングラードでの勝利という構図」にのめり込んでしまう。」

 冬将軍と泥将軍から解放される42年夏になってから、ヒトラーはカフカース方向への攻勢を強めます。
 ヒトラーの観点は「確かにドイツはソ連軍の短期撃滅に失敗したが、ソ連軍にもドイツ軍を直ちにどうこうできる力はない。必然として長期戦になるからモスクワ攻略に拘泥する意味はなく、ソ連野戦軍の撃滅と資源地帯奪取による継戦能力の破壊にシフトすべき」というものでした。

 4/5に下した「大都市ヴォロネジの確保」「ドン川付近でのソ連軍の撃滅」「スターリングラードへの進撃」「カフカースの油田の確保」を戦略目標とした総統指令第41号に基づいて、6/28にブラウ作戦が発動されます。


 そのヴォロネジに向かおうとする途中でドイツ軍の側面にソ連軍が反撃をしかけてきましたが、難なく撃退し撤退に追い込みました。
 しかし調子が良かったのはここまでで、ヴォロネジの制圧に手間取っただけでなく、撤退していくソ連軍の捕捉撃滅に失敗します。あまつさえカフカースの油田確保に向かわせた部隊が油田確保に失敗し、戦略目標のことごとくが達成できなくなってしまいました。


 このままでは夏季攻勢の意味がなくなってしまうので、ヒトラーは方針の転換を余儀なくされます。そのため作戦当初段階では進撃さえすればよかったスターリングラードの完全占領を命じました。その先に何があるとも知らずに……

1942/9/14~スターリングラード攻防戦


「史上最大の市街地戦。激烈な戦闘が展開され、独ソ両軍ともに凄まじいまでの犠牲者を出す。ドイツ軍は苦しみながらも、一時はスターリングラードの9割ほどを制圧するのだが……」

 スターリングラードは一大鉄道ハブ駅にして一大軍需産業都市であり、ドイツ軍を苦しめたT-34の一大製造地であり、ヴォルガ川とドン川をつなぐ運河のほど近くにありました。
 ここを完全に制圧できれば、ドイツ軍は一大補給拠点を作ることができ、ソ連の軍需生産能力をガタ落ちさせることができ、水運を破壊することにより黒海のソ連海軍を干上がらせることもできるのです。
 そのため9/3にスターリングラードを包囲したドイツ軍は14日から総攻撃を開始し、スターリングラード攻防戦が幕を開けます。

 守るソ連軍の抵抗は極めて頑強でした。スターリングラードの防衛責任者であるチュイコフ中将は部下たちに死守を命令します。彼は市街地戦であればドイツ軍側の空地連携・歩兵戦車との協同を阻害でき、自軍に凄惨なまでの損害が出る代わりにドイツ軍にも相応の損害を与えることができると踏んでいたのです。
 地獄の市街地戦に引きずり込まれたドイツ第6軍は、それでも9月末までには中央駅をはじめいくつかの重要地点の確保に成功。10月末までにはスターリングラードの9割を制圧し、11月18日にはソ連軍を絶息に至らしめられるはずの、最後の総攻撃が始まったのです……が。

1942/11/19 天王星(ウラヌス)作戦


「スターリングラードへの補給路を断つべく、ソ連軍がかけた大攻勢。補給路の両翼警護にあたっていたルーマニア軍が蹴散らされ、スターリングラード攻略部隊はスターリングラードに閉じ込められてしまう。」

 ソ連軍の最高司令部は、スターリングラードの防衛隊が決死の奮闘をしている間にスターリングラード近辺にいる敵軍を一挙に撃滅する作戦を考えていました。そして、奇しくもドイツ軍の総攻撃の翌日である11/19に、ついにウラヌス作戦を発動しました。


 スターリングラード市街一帯それそのものを包囲せんとするソ連軍の大攻勢の前に、スターリングラード側面警備に当たっていたルーマニア軍は耐えられる訳もなく、11/19たった1日だけで50kmにもわたる大突破を許してしまいます。翌20日には前日とは別方向からの攻勢が開始され、ルーマニア軍の警護部隊は完全に蹴散らされてしまいました。
 23日にはこの2方向からの突破部隊が合流し、第6軍はスターリングラードを攻略するどころかスターリングラードの中に閉じ込められ、スターリングラード方面の主導権はソ連軍の側に移ってしまいました。

1943/1/31 第6軍降伏


「ヒトラーはスターリングラードの死守命令を第6軍に出す一方で空輸補給作戦を立案させ、ドイツ軍の名将マンシュタインも第6軍の救出作戦を発動するがことごとくうまく行かない。ついに限界となった第6軍はソ連軍に降伏し、30万人以上の兵力を失ったドイツ軍はこれ以降42年までのような大規模攻勢作戦を発動できなくなる。」

 包囲された第6軍をどうするか問題は、当然直ちにヒトラーに上申されます。この時に空軍が「空輸補給で支えることは可能と思われる」と発言したため、ヒトラーは第6軍に救出作戦までは空輸補給で耐え凌ぐよう厳命します。
 また、ドン軍集団の司令官に任命されたマンシュタインも、なんとしても第6軍を救出すべく兵力をかき集めて、スターリングラードまでの回廊を切り開く「冬の嵐作戦」を発動します。

 12/12に発動した冬の嵐作戦はソ連軍の激しい抵抗を受けながらも、19日にはドン軍集団側・第6軍側の双方が、相手が打ち上げた照明弾が見えるくらいの距離までの進出に成功します。マンシュタインは第6軍に包囲網を内側からも食い破るための攻撃を仕掛けるよう求めます。しかし第6軍側からの返事は、マンシュタインを落胆させるものでした。「燃料不足でとても動けない」。「十分な空輸があればなんとかこの場を踏みとどまることができる」。

 翌20日にも再三に渡りマンシュタインは攻撃を要求しますが、第6軍からの返事は同じでした。23日以降は、第6軍だけでなくスターリングラード近辺にいる全てのドイツ軍を包囲しようとするソ連軍の攻勢を跳ね返すだけで手一杯となり、もはや第6軍を救出することはできなくなってしまいます。
 43年に入ると、ソ連軍はスターリングラードを一刻も早く解放しようと包囲網をどんどん狭めていきます。空輸補給の拠点であった空港をも失い、もうもはや完全に万策尽きた第6軍司令官のパウルスは1/31、ついにソ連軍に降伏します。

 これは東部戦線全体で見ても第二次大戦全体で見ても非常に大きな転換点でした。ヒトラーがスターリングラードに固執した結果、30万人以上もの兵力を脱出させられずにむざむざ失ったドイツ軍は人的資源の不足が深刻となり、バルバロッサ作戦やブラウ作戦のような大規模攻勢作戦を二度と展開できなくなりました。

 また、人的資源の不足はドイツ軍から予備の兵力を控えておく余裕を奪いました。つまり、42年までなら敵の攻勢を受けても予備兵力を投入して弾力的に受け止めることができたのですが、その余裕がなくなったために、特に43年秋以降は攻勢を弾き返せない場合は踏みとどまれずに押し込まれる危険性が高まっていくのです。

余談∶スターリングラード飯~スターリングラードで何食うの?~

 よく、スターリングラードでは「おがくず入りのパンを食べ」「針葉樹の葉っぱから抽出したエキスをすすって喉の乾きを潤し、かつビタミンCを得て壊血病を防いでいた」と言われています。それ以外にはどんなものを食べていたのでしょうか。
 包囲されて相対的にすぐの頃は、馬匹用の馬を殺して食べたためにまだ比較的栄養状態はよかったらしいのですが(但し、そのため重装備を運搬しづらくなったことも雷鳴作戦を発動できなくなる一因となる)、
 補給状況が悪くなってくると「水のように薄いスープ」と「パン100g」になり、最終的にパンは50gまで減らされています。しかもこのたった50gのパンも、おそらくは純粋な黒パンではなくおがくずによってかさ増しされているものだと思われます。
 ちなみにおがくず入りのパンを実際に作って食べてみたレポートを、サークル「みりさば」さんが同人誌「クッキングナチVol.6」で書いています。それによると

 「くだいた割りばししゃぶってる」

ような感じがするそうです。当該書はamazon Kindleで販売しています。

ドイツ軍停滞期 東部戦線編

 この時期から、ドイツ軍は必ずしも「この戦争の主人公」たり得なくなってきます。スターリングラードでの敗北以降のドイツ軍は大規模な攻勢に出ることはできなくなり、攻勢作戦の規模も以前に比べれば明らかに小規模、かつ局地的になっていくからです。
 その決して大規模ではない攻勢すらも連合軍の作戦によって阻害され、攻勢が中止になるから更に主導権を取れなくなり……という悪循環に陥るのです。その意味でこの時期はドイツ軍凋落期と言えるでしょう。

1943/7/5 ツィタデレ作戦

 「Ⅴ号戦車パンターなどの新兵器を投入して実施された43年夏季攻勢。ソ連軍突出部を切断して包囲殲滅する計画だったが、攻勢は途中で中止に追い込まれてしまう。」

 クルスクに発生したソ連軍の突出部を叩く作戦です。この突出部には130万人ほどのソ連軍がおり、これを殲滅できれば形成を逆転できる可能性があったとされています。

 本当にこの……幅200km以上にもわたる突出部を切断して殲滅できたとして、戦局が再びドイツ軍有利に推移するようになったかどうかはわからないのですが、少なくとも突出部がなくなれば前線を直線的に整理でき、500kmほど戦線を短縮することができるので、その意味では妥当性がある判断でした。
 しかし、この攻勢をいつ始めるのか、どう攻めるか(どこを主攻とするか)などを巡ってヒトラーと将軍だけでなく将軍の間でも意見が分かれ、結局「ツィタデレ作戦としての」攻勢は7/5までずれ込みます。ずれ込んだ要因の1つには、パンターに初期不良が多すぎたためにそれを改修しなければならなくなったというものもありました。

パンターD型。製造当初は40箇所以上の重大な不具合を「仕様」として抱えていたため、一度製造された車両を組み立て直す羽目になってしまう

 7/5に始まったツィタデレ作戦はソ連軍に大きな損害を与えはするのですが、ドイツ軍の被害も並大抵のものではなく、7/12には早くも攻勢限界を迎えてしまいました。そればかりか、7/10にはクルスクから3000kmも離れた場所で突発事態が発生し、その対応を迫られます。

1943/7/10 ハスキー作戦

「連合国によるシチリア島への上陸作戦。事前に偽情報を流しておいて完全に奇襲の形で上陸作戦を展開した。」

ハスキー作戦

 アフリカ戦線で勝利した連合国は、そのままの勢いでイタリア本土への侵攻を計画します。イタリアを降伏させれば地中海を完全に連合国の海とすることができます。エジプトのスエズ運河が脅威にさらされなくなるためヨーロッパとアジアを結ぶシーレーンがつながり、物資の輸送上大変都合がいいのです(アフリカ戦線があった頃は、喜望峰を回って輸送していた。安全ではあるかもしれないが時間がかかる)。

 ハスキー作戦はその前段階として陸作戦の場所を欺瞞する「ミンスミート作戦」という作戦で枢軸軍の戦力を全く別の場所に振り向けさせた上で、シチリアに上陸しました。枢軸軍はもはや何が本当なのか分からなくなってしまって動けなくなったのです。

第二戦線の効用

「ハスキー作戦は、ドイツ軍の攻勢作戦に決定的な悪影響をもたらした。ドイツ軍はイタリアが連合国に寝返るかもしれないと警戒し、攻勢を中止せざるを得なくなったのである。かくて枢軸軍は攻勢作戦を最後までやり切ることすら難しくなる。」

 ハスキー作戦発動直前までのドイツ軍は、陸軍主力を東部戦線の攻勢に集中投入することができました。しかし、連合国がシチリアに上陸してくると途端に話が変わってきます。

 もしこのまま連合国がローマを解放するか、イタリアが連合国に寝返ってしまった場合、ドイツ本土が直接的に脅かされることとなります。
 東部戦線の最前線はまだドイツ本土から遠いので、攻勢を中止しても直ちに致命的なことにはなりませんが、イタリアとドイツは国境を接しているため、イタリアが寝返るとなると本土に隣接されてしまうからです。

 そのため、東部戦線の攻勢を中止してでもイタリアの寝返りに備えて防衛体制をとらなければなりませんでした。ハスキー作戦への対応で兵力を引き抜かれた東部戦線では攻勢どころではなくなり、グデーリアンはこの事態を「これで東部戦線の主導権はソ連軍に移ってしまった」と評しています。
 この第二戦線の形成によって、ドイツ軍は自らの攻勢を「いつ始め」「いつやめるか」決める自由すら、奪われることとなったのです。

1943/9/8 イタリア降伏

「ハスキー作戦を契機としてムッソリーニは解任逮捕され、イタリアと連合国の間の停戦が実現するが、ファシスト派はサロ共和国を名乗り交戦を継続する。」

 イタリア国内では北アフリカ戦線の全面的敗北を受けて、ムッソリーニの排除および連合国との和平へ向けた政治工作が始められていましたが、ハスキー作戦を受けて排除計画が一層加速します。7/25、ついに反ムッソリーニ派のクーデターによってムッソリーニは逮捕され、後任のバドリオ政権によって連合国との間に停戦協定が結ばれます(秘密協定締結は9/2、公表は9/8)。
 しかしドイツはイタリアと連合国の接触を感知しており、停戦が公表された9/8当日にイタリア北部を制圧、9/12にはムッソリーニを救出してサロ共和国を樹立させ、連合国との交戦を継続させます。

深緑がサロ共和国ことイタリア社会共和国、明るい緑がイタリア王国

 イギリス首相のチャーチルは「イタリアはヨーロッパの柔らかい下腹部」であり、ここを攻撃すればイタリアはすぐ降伏するし、枢軸国は簡単に崩れるはずだと楽観視していたのですが、イタリア本島へ上陸してからの連合国は苦戦を強いられ続けました。
 イタリア本島は山がちな土地が多く、攻めづらく守りやすい地形がずっと続きます。しかもサロ共和国軍はドイツ軍と共に連合国との徹底抗戦を継続し、その意味でもチャーチルの予想は大きく外れました。
 その上、連合軍は枢軸軍の撃滅よりローマなどの大都市の解放を優先して行動したため、枢軸軍はその間隙を縫って防御陣地を整備することができたのです。

 連合国はハスキー作戦のように大軍を誘引するどころか、逆に連合側と比して明らかに寡兵である枢軸軍によって進撃を阻まれ続け、枢軸軍の最終防衛線であるゴチック線の突破は45年の春先ーーそれも本当の本当に終戦直前になってのことでした。

余談∶コラテラル・ダメージ?野蛮な文化財破壊行為?

 時は1944年初頭。枢軸軍の遅滞戦術によって多大な出血を強いられた連合国は、状況を打開するために枢軸軍の防衛ラインであるグスタフ線の裏に強襲上陸をかけようとします。上陸それそのものは成功したのですが、橋頭堡を固めようとしているうちに上陸地点を包囲されてしまい、グスタフ線突破の目論見は空振りに終わってしまいます。
 そんな中、「ドイツ軍が丘の上にあるモンテ・カッシーノ修道院を砲兵観測陣地にしているらしい。だから正確な砲撃を叩き込んでくる」という噂が流れます。

 このモンテ・カッシーノ修道院は聖ベネディクトが西暦529年に建立したもので、彼が理想とした厳しい戒律の下で信仰を深める生活を送るべく、俗世と物理的に切り離すために丘の上に建立した修道院です。
 彼が掲げた「祈り、働け」というモットーと「清貧・純潔・(神への)服従」はキリスト教徒にとって模範的観念であるとされ、ベネディクトによる戒律はローマ教皇グレゴリウス1世が名指しで称賛するなど、キリスト教の歴史に非常に大きな影響を与えたのです。
 
 以上見たように、この修道院はキリスト教の歴史上極めて重要な文化財であり、イタリア方面の枢軸軍総司令官ケッセルリンクも「この修道院は重要文化財なので、軍事利用していませんよ」との声明を何度も連合側に発しています。
 そのため、このような根も葉もない噂がどこから出たのかはわかりません。ですが連合国はこの噂を信じてしまい、米軍が大量の爆撃機を投入して修道院をぶっ壊してしまいました。

 蓋を開けてみると、本当に枢軸軍は修道院を陣地として利用してい

 ませんでした。ローマ教皇庁はこの爆撃に対して非常に強い不快感を表明しました。
 ドイツはここぞとばかりに「文化財を破壊するとは、米軍とはなんて野蛮な奴らなんだ!」との宣伝を開始すると共に、「連合国が言うところの、❝修道院を観測陣地にしているからできるはずの❞正確な砲撃」で彼らの不法行為を糾弾します。

木版画による在りし日の修道院
爆撃により無惨に破壊された修道院

 一番の問題は、枢軸軍が修道院の瓦礫を利用して強固な防御陣地を作ってしまったことです。連合国は出所不明の噂を信じてしまったばかりに、ドイツ軍に強固な陣地の材料と、自分たちを非難する材料とを与えてしまったのです。

連合国攻勢期・ドイツ軍衰退期

 1944年は、主導権は連合国とソ連にありました。1943年の時点で連合国のフランスへの上陸作戦をすることは決まっており(第一次ケベック会談)、ソ連を含めた会議の場(テヘラン会談)では戦後処理をどうするかということまで話が進んでいたのです。
 この年からは、連合国とソ連の「どっちがベルリンに先に入るかレース」の様相を呈していきます。ドイツを直接的に敗北させれば、戦後処理において大きな発言権を持てるだろうとの打算が双方にあったのです。

1944/6/6ノルマンディー上陸作戦(連)


「ネプチューン作戦とも。連合国がイギリス海峡を渡りフランス沿岸のノルマンディーに上陸、今後の作戦のための橋頭堡を確保する。」

 連合国によるフランス北部沿岸への上陸作戦です。この作戦の検討段階では、「航空支援を得やすい」(そんなに英本土から離れてない)場所、というのを前提にしてどこに上陸するか検討を勧めた結果、候補地としてパ・ド・カレーとブルターニュ、ノルマンディーがあがります。

 ですがブルターニュはドイツの本土から遠すぎて、上陸したあとの補給が大変である。
 またパ・ド・カレーは一番ドイツに近いのはいいが、相手はそれを織り込み済みで防御をガチガチに固めているから、こんなところに上陸したらとんでもないことになる。

 として、ノルマンディーが上陸地に選ばれます。

 6/1に上陸作戦の準備が完了しますが、荒天と海が荒れることが予想されたために6/5に実施予定だった作戦は6/6に延期されました。そして6/6、ついにノルマンディーへの大規模上陸作戦が始まるのです。
 連合国がオマハ・ビーチと呼んだ海岸線だけは、たまたまドイツ軍防御陣地の真ん前に上陸してしまったのでとんでもない損害を出しましたが、それ以外の海岸線では比較的スムースに上陸を完了します。

 これによって連合国はフランス北部に橋頭堡を築きました。尤も、上陸は成功したもののしばらくはドイツ軍の頑強な抵抗で思ったとおりに進めませんでした。ですが、橋頭堡を築いたという事実が重要な転換点なのです。

1944/6/22~8/29 バグラチオン作戦(ソ)


「規模で言えばオーバーロード作戦を遥かに上回る。全長1000km以上にも及ぶ前線で一斉に攻勢をかけ、ドイツ軍東部戦線を完全に破壊した。」


 ソ連軍による東部戦線を完全に崩壊させた一大攻勢であり、本当に本当の史上最大の作戦です。全長1000km以上の前線に戦線を4つ設定し、合計167万人もの兵員を動員。30000門もの砲、6000両ほどの戦車および自走砲、6000とも7500ともいわれる大量の航空機を投入し、敵軍の最前線から前線後背地に至るまでありったけの火力を叩きつけ、敵が浮足立ったところを戦車で一気に突破するという、色々な意味で非常にわかりやすい作戦でした。
 これだけの兵員を準備するのは流石に大変なため準備が遅れ、たまたまドイツ軍がソ連に侵攻してきた日と同じ6/22発動と定められたこの作戦によって、ドイツ軍は大混乱に陥ります。ヒトラーは「どこかの戦線を主攻とした陽動だろう」と考えて死守命令を出しますが、ソ連軍は全ての戦線で攻勢をかけたのです。
 これによりソ連軍は1000km以上にもわたる前線で一斉に攻勢をかけ、一番進んだところでは作戦前と比較して最大600kmも前進、一気にポーランドにまで侵入しました。これは文字通り決定的な一撃であり、ドイツ軍の東部戦線は完全に崩壊します。

1944/7/25〜31 コブラ作戦(連)


「ノルマンディー上陸作戦後の状況を大きく動かした作戦。大量の爆撃機を運用し、一気に突破を図ったこの作戦で、フランス北西部を確保しノルマンディー一帯の制圧に成功する。」

コブラ作戦後の戦線

 ノルマンディーに上陸した連合軍ですが、ドイツ軍の激しい抵抗によってなかなか進めずにいました。そのため、兵力を集中運用して突破を図る必要がありました。
 兵力を集中運用して突破を図る作戦なのですが、フランス北西部に向けて攻勢をかける作戦でした。どうして、直接ベルリン方向にいかなかったのでしょうか。
 それは、フランス北西部のドイツ軍を叩いておかないと、連合軍が進撃した時にその背後を襲ってくる危険があるからです。
 また、ノルマンディーには港がないのでマルベリー人工港という即席の港から物資などを揚陸していたのですが、しょせん即席の港なので嵐が来ると流されたりして使えなくなります。そのため、天然の港を確保したいという欲求があったのです。 
 他の方面でも陽動をかけてもらい、数千機の爆撃機で絨毯爆撃をかけてから一気に突破を図ったコブラ作戦により、連合国はフランス北西部方面で優位に立ちシェルブール港の確保に成功します。また、その後の作戦でドイツ軍をファレーズ・ポケットと呼ばれる包囲に閉じることに成功したのです。

1944/8/1ワルシャワ蜂起(ソ)

『バグラチオン作戦によってポーランドの東部まで進撃したソ連軍は、ポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかける。しかしドイツ軍の急派と猛反撃により、ソ連軍の攻勢とレジスタンスの蜂起は食い止められてしまう。』

 バグラチオン作戦によってソ連はポーランド東部にまで進出し、レジスタンスに協力を求めました。こうしてワルシャワでの武装蜂起が起こるものの、ドイツ軍に鎮圧されてしまいました。

 但し、ポーランドのレジスタンスの内部でも「嵐」作戦と名付けられた蜂起計画が43年から検討されており、「赤軍はレジスタンスを煽るだけ煽って蜂起を見殺しにした」との理解は間違っている可能性があります。
 それに、ポーランド領内まで進出したソ連軍はずっと攻勢を続けてきたこともあって疲れ切っていました。そこにドイツ軍が反撃をかけ、7/31時点でポーランド領内のソ連軍は進出できなくなっていたのです。

 そのことを知らないレジスタンス側は、「ドイツ軍はソ連軍の大攻勢で大きく押し込まれており、もはや戦闘は発生しないも同然」と考えてワルシャワでの「嵐」作戦の準備を進めていました。
 彼らは自らの手でワルシャワを解放するという大事を成し遂げることで、戦後に一定の影響力を持つことを望んでいたようです。

嵐作戦概要図(ポーランド語)Autorstwa Lonio17 - Praca własna(own work by uploader) na podstawie "Wielki Atlas Historyczny" - Komentarze historyczne, DEMART, Warszawa 2008, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=80125430

 しかし7/25時点でドイツ軍はレジスタンスの動きを掴んでおり、また先述したようにレジスタンス側はソ連軍の攻勢が止まったことを知らなかったことから悲劇が起きました。

 このワルシャワ蜂起は転換点たりえたのでしょうか。
 少なくとも
①ポーランド入りしたソ連軍がドイツ軍に止められておらず、
②レジスタンス側と積極的に接触でき、
③彼らを味方にできていれば、
もしかしたら年内にはソ連がベルリンに入れたかもしれません。

 しかし実際には
①ソ連軍の攻勢は限界点にあり、ドイツ軍に止められた
②レジスタンス側の回顧によると、ソ連軍との連携をとれていなかった
③レジスタンス側は「ソ連軍の力だけでワルシャワ解放がなされると、それを理由に『ロシアによる解放を望んでいた』と言われかねない。
よって、我々は受け身でいてはならなかった」と回顧している。つまりレジスタンスはソ連に対しても敵意を持っており、おそらくは難しかった
 
 以上の理由から、44年中にソ連側による終戦(ベルリン攻略)は不可能になりました。

1944/9/17〜25 マーケット・ガーデン作戦(連)


「年内に戦争を終わらせるため、空挺降下部隊により橋を確保したあとその橋を確保するため一気に突っ込むという作戦。しかし作戦目標のうちの一本がどうしても確保できず、年内の終戦は不可能となった。」

マーケットガーデン作戦

 連合軍は快進撃を続けていたのですが、そのペースに補給が追いつかなくなり、頭を抱えていました。
 そこで、オランダ国内にかかる橋をまず空挺部隊で抑え(マーケット作戦)、そこに向かって一気に突進しオランダを確保すれば(ガーデン作戦)、補給問題は解決されて、進撃ペースは落とさずに、ドイツの強固な要塞線であるジークフリート線を回避するルートでドイツ国内に入れるという計画が立てられました(なお、ジークフリート線はドイツのプロパガンダの中にしか存在しない強固な要塞線であり、連合国はその意味では無駄足をしているとも言える)。

 進撃ルート検討の結果、アイントホーフェン、ナイメーヘン、アルンヘムが確保すべき目標に選ばれ、マーケット作戦が開始されます。空挺部隊が出撃し、好天なこともあって概ね正確に着陸していきます。
 
 しかし、「ドイツ軍からの反撃は局地的」であることを前提とした作戦だったのに、連合国の進撃コースにいたのがたまたま歴戦の猛将揃いだったこと。
 一日目にして作戦書が奪われたばかりかその日のうちに全部解読されてしまったことなどから連合国の攻勢は停滞。
 アイントホーフェンとナイメーヘンまではなんとか打通できたのですがアルンヘムだけがどうしても確保できず作戦は失敗しました。

 この作戦が成功していれば、確かに年内に戦争は終わったかもしれません。ですが、不測の事態がいくつも重なってしまい、転換点たりえませんでした。

ドイツ崩壊期

 44年末からそれ以降のドイツには、もはや状況を変える力など残っていませんでした。せいぜいが「仮定に仮定を重ねたものを前提とした作戦」とか「もはや願望に基づいた状況判断」、または「場当たり的作戦」をするのが精一杯でした。 

 1945/4/30、一人の男の人生が終わりました。そして1945/5/8、ドイツは降伏したのでした。

1944ラインの護り(秋の霧)作戦(独)


「西部戦線におけるドイツ軍最後の攻勢作戦。連合国の補給線を破壊して講和する、という形で戦局の打開を図るべく精鋭の機甲師団を投入するが、攻勢はうまくいかずに逆に戦力をすりつぶしてしまう。」

 西部戦線における最後の一大反攻作戦です。フランスを下した第一次に準えて第二次西方電撃戦、または連合国側ではバルジの戦いとも呼ばれます。
 この作戦は補給線が伸び切っているであろう連合国に対してアルデンヌから攻勢をかけ、連合国の重要補給拠点であるオランダのアントワープ港までを一気に打通するというもので、これによって士気がガタ落ちした連合国と休戦を結ぶことを最終目的としています。

 この作戦は
 『1)悪天候により連合国の制空権が無力化されている間に機甲戦力で奇襲をかけ』
 『2)一気に交通の要衝バストーニュ(ここから道路が6本も伸びる)を制圧すれば』
 『3)寄合所対にすぎない連合国は意思の疎通に手間取る』
 よって勝てる、そして休戦し西部戦線を終わらせて東部戦線に全力を投じるという算段でした。

 しかし実際には
 1)悪天候が思ったよりも早く回復してしまった
 2)バストーニュ確保に手間取ってその後のテンポが全部乱れた
 3)そもそも連合国は連携した意思決定体制を持っていた
 などを原因に作戦は失敗。ドイツ軍はこのために東部戦線から精鋭機甲師団を引き抜いてきてまで投入したのに、その戦力をことごとくすり潰したことにより、転換点になるどころか最悪の結果を招いてしまいました。
 そもそもこの期に及んで連合国が休戦に応じるのだろうか、という疑問もありますが。

1945/1/12~2/2 オーデル・ヴィスワ攻勢(ソ)

「ラインの護り作戦による東部戦線の弱体化を最大限利用すべく、ソ連軍がかけた攻勢。ソ連軍はベルリンの直前で止まり、王手をかけた。」

 ラインの護り作戦の失敗は、西部戦線だけでなく東部戦線にも甚大な悪影響をもたらしました。スターリンはこの機を逃さずに攻勢開始を早めるよう命令します。

 1/20開始予定だった攻勢を1/12と一週間以上早めたにも拘わらず、ドイツ軍はこの攻勢に対応することはとてもできませんでした。
ラインの護り作戦のために熟練兵や予備役が引き抜かれている上に「ソ連はここ数ヶ月攻勢かけてるから、しばらく攻めてこない」と、
よくわからない理由で正面兵力の弱体化を放置しているのですから、対応できるはずがありません。

 2週間で480km以上も前進したソ連軍は、2/2に予定通り進撃を停止します。スターリンは自分たちソ連軍の手でドイツに引導を渡すべく、休息を与えて万全の体制でベルリンを攻略するために進撃を切り上げさせたのです。もはやベルリンは風前の灯火となりました。

ルール包囲

「連合国によるライン川の渡河によって事実上ドイツ軍の西部戦線は崩壊していたが、それを決定的にした戦い。三十万人の捕虜を取られたドイツ軍の敗北は決定的になった。」
 1945/3/7から3/25にかけて、連合国とドイツ軍の間でルーデルドルフ橋(レマゲン鉄橋とも)をめぐる激戦が繰り広げられました。
この橋はライン川にかかっている唯一の無事な橋であり、これを突破できれば連合国の勝ちはほぼ確定し、守り通すか破壊できればドイツ軍にとっては時間を稼ぐことができます。
 しかし戦いの主導権はもはや連合国にあります。3/31までにルーデンドルフ橋を渡りきった連合国軍は、崩壊して敗走するドイツ軍を追撃しつつ扇状に展開し、ドイツ軍の退路を制限していきます。
 4/14までに連合軍による包囲網が完成し、もはやこれまでと悟ったドイツ軍の指揮官モーデルは軍の解散を命じて降伏しました。
包囲された30万人とも言われるドイツ軍は捕虜となり、ここに西部戦線は完全なるゲームセットを迎えたのです。

枢軸国の崩壊

「沈む船からネズミが逃げる。ドイツの同盟国はその多くが、枢軸を離れることを決める。ドイツは「枢軸国の盟主」という肩書きすらも失った。」
 日独伊三国同盟の拡大は話しましたが、新加盟した国々は、この劣勢の中でどうなっていたのでしょうか。

 ルーマニアは1944/8/23、ソ連軍によるヤッシー=キシニョフ攻勢をドイツ・ルーマニア軍で防御している真っ只中に宮廷クーデターが発生、枢軸国を離脱してソ連側につくことを宣言しました。

 ブルガリアは1944/9/5にソ連から宣戦布告され、無抵抗のまま降伏します(枢軸国の中でブルガリアだけはソ連に宣戦布告していなかったため)。9/9のクーデターにより、ソ連側につきました。

 ハンガリーは連合国との和平交渉を進めていたことがドイツにばれ、1944/10/15にパンツァーファウスト作戦というドイツ主導のクーデターによってドイツの傀儡国になりました。
 そのため、ハンガリーだけはドイツと命運を共にしました。

ベルリン攻防戦

「ドイツ軍の命運はもはや完全に尽きた。それでも降伏しない限り戦いは無為に続く。五月八日、ヨーロッパにおける戦争はドイツの降伏で幕を閉じた。」

国会議事堂に掲げられる赤旗

 再編成を終えたソ連軍は、4/16にベルリンの数百m手前にあるゼーロウ高地のドイツ軍防衛線に殺到しました。4/19、この防衛線を突破したソ連軍はベルリンまであと90kmの位置にいました。
 しかしドイツ軍にはこの90kmの間を埋めるような防衛線も部隊もなく、4/23にはベルリンは完全に包囲されました。
 それでも何日間か絶望的で、かつ無意味な戦闘が続きましたが、4/30についに一人の男が人生を終わらせる決断をしました。その男は、ドイツ国内で総統と呼ばれた男でした。
後継者に指名された男、デーニッツが連合国との講和処理を進め、1945/5/8、ついにヨーロッパ戦線は「ドイツの敗北」という形で終止符が打たれたのです。 

総論

 これまで「転換点」または「転換点になったかもしれないけどそうならなかった点」を論ってきました。
その中でドイツの勝利の目がなくなった点は
・バトル・オブ・ブリテンでの敗北
・スターリングラードでの敗北
であり、
逆に連合国やソ連軍にとっての重大な転換点は
・バトル・オブ・ブリテンでの勝利(連合)
・モスクワ前面での防衛成功(ソ連)
・スターリングラードでの勝利(ソ連)
・ハスキー作戦の成功(連合)
・ノルマンディー上陸作戦の成功(連合)
・バグラチオン作戦の成功(ソ連)
です。

 ドイツ軍が勝てなくなった戦闘に注目すると、飛行機か陸軍かの違いはあれど、どちらも大規模な戦力を投入した決戦であり、
 「その場所」で敵軍を打ち砕く・占領することによってその後の戦争の趨勢が大きく変わるが故に、多少の不利も承知で作戦を実行しなければなりませんでした。
 逆に言えば、その決戦に敗北するということは、ただ戦力を失うという戦術的な意味での敗北のみならず、勝利に向けた重要地点を取れなかったという戦略的な意味での敗北でもあるのです。

 連合国の転換点に着目すると、
・「決戦」に勝った(バトル・オブ・ブリテン、スターリングラード)
・「その勝利が戦略的にも意味を持つような場所や状況、タイミングなど」で勝った(ハスキー作戦、ノルマンディーなど)
の2つに大別できます。
 バグラチオン作戦は「それだけの戦力を整えて、それだけ進撃すれば勝つのは当たり前」という性質があるので、これはちょっと特殊な事例かもしれません。

 結局、転換点とはなんなのでしょうか。ぼくは「ある戦いで勝った方が、その後の戦略的な優位を握る公算が大きいポイントや瞬間」であり、
 この転換点の議論を抑えることによって「その後、どちらの軍が優勢に立ったか?」を理解しやすくなると思っています。

 そして、この議論を踏まえることによって通史の流れが、つまりは「なんでこの時にどっちの軍が優位だったのか?その逆はありえなかったのか?」をよりよく理解することができます。

あとがき

 
 やっちゃいました。
「資料を読んで書けるところから書こう」というところまでは正しかったのです。

 アフリカ戦線で思い切り蹴っつまずきました。
 「講釈垂れる側が理解しておらず、固有名詞としてその言葉を使ってるようではだめだ」と思ってアフリカ戦線の地図を読んでいたのですが、いくら読んでも読んでもアフリカの都市名に馴染みがない、資料によって全部名前が違うために地名と場所が全然頭に入らず、ひいてはどこから攻勢をかけたか、どこまで撤退したか、なぜここが重要なのか……などが全然頭に入っていかないのです。

 ふと気づいたら
「あら?もう水曜なのに1941年以降がほとんど真っ白なのだけれど……」

 しかし締切を守れなかったことはぼくの不徳のいたすところであり、
 読者みなさま始め関係各位には言い訳のしようもなく思っています。

 バトル・オブ・ブリテンに関する内容は「調べてて面白かった」ので無限に書いてたら本文5000字、参考にしたウェブサイトは50を超えて「重すぎんだよ馬鹿」って怒られを発生させてしまったので、別の機会に「何故ゼーレーヴェ作戦はうまくいかなかったのか?」という形でまとめたいと思います。ご期待ください。

参考文献

デヴィッド・ジョーダン、アンドリュー・ウィースト著、宮永忠将訳「地図と解説でよくわかる第二次世界大戦戦況図解」(ホビージャパン、2019年)
A.J.P.テイラー著、古藤晃訳「目で見る戦史 第二次世界大戦」(新評論、1981年)
ジョン・ピムロット著、アラン・ブロック序、田川憲二郎訳「地図で読む世界の歴史 第二次世界大戦」(河出書房新社、2000年)
アントニー・ビーヴァー著、平賀秀明訳「第二次世界大戦 上・中・下」(白水社、2015年)
ダグラス・C・ディルディ著、橋田和浩監訳「バトル・オブ・ブリテン1940 ドイツ空軍の鷲攻撃と史上初の統合防空システム」(芙蓉書房出版、2021年)
田村尚也「萌えよ!戦車学校Ⅱ型」(イカロス出版、
田村尚也「萌えよ!戦車学校Ⅲ型」(イカロス出版、2008年)
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マクシム・コロミーエツ、ミハイル・マカーロフ著・小松徳仁訳、斎木伸生監修 「バルバロッサのプレリュード ドイツ軍奇襲成功の裏面・もうひとつの史実」(大日本絵画、2003年)
大木毅「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(新潮新書、2019年)
スティーヴ・ザロガ著・高田裕久訳「T-34/76中戦車1941-1945」(大日本絵画、2001年)
スティーヴ・ザロガ、ジム・キニア著・三貴雅智訳「KV-1&KV-2重戦車1939-1945」(大日本絵画、2001年)
スティーヴン・ハート著・山野治夫訳「パンター中戦車1942-1945」(大日本絵画、2004年)
MCあくしずVol.15(イカロス出版、2010年)
MCあくしずVol.19(イカロス出版、2011年)
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渡辺克義「ワルシャワ蜂起 (1944) 年の政治的・軍事的背景 ―国内軍総指令部の理念を中心に―」(東欧史研究11-1、1988年)
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渡辺克義「翻訳 ワルシャワ蜂起と国内軍総司令部 ――蜂起最終決定の背景――(2) (D)国内軍総司令部参謀総長タデウシュ・ペウチンスキ中将との会談覚書」(山口県立大学学術情報-3,2010年)

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外務省 条約データ検索>海戦の場合に於ける中立国の権利義務に関する条約 PDF-1<https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-759_1.pdf>
海戦ノ場合ニ於ケル中立国ノ権利義務ニ関スル条約<https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hc13.htm>

Führer Directive 21<https://en.wikisource.org/wiki/F%C3%BChrer_Directive_21>
Führer Directive 21<https://web.archive.org/web/20190314034413/http://alternatewars.com/WW2/WW2_Documents/Fuhrer_Directives/FD_21a.htm>
スターリングラードの戦い2:赤軍の逆襲とドイツ第6軍の悲惨な末路<https://ore-germany.com/stalingrad-germany/>


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