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シャルル・ドゴールの第二次世界大戦 非承認政府「自由フランス」の闘い
皆さま自由フランスをご存知でしょうか?
そう、ド・ゴール将軍の率いたあの自由フランスです。
では自由フランスが「亡命政府」として扱われなかったのはご存知でしょうか?
アメリカが自由フランスを無視してフランスを軍政下に置く計画を持っていたのはご存知でしょうか?
どうもミリタリーサークル
『徒華新書』です。
@adabanasinsyo
本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
本日は久保智樹がお送りします。
Xアカウント
@kubo_adabana
軍隊と政府との関係に興味が尽きないオタクをしております。
先日ドイツの電撃戦が命令無視で成功したと書きました。
では敗れたフランスはどうなったのか。
今日はそんな実は知らない自由フランスのお話です。
本日のお品書きです。
第二次世界大戦のフランス概説
――来た、見た、敗けた
ドイツのフランス侵攻はナチスの電撃的勝利だった。
難攻不落のフランスマジノ線は迂回され、主力は包囲された。
パリを守る予備戦力はもういない。
パリは無防備都市宣言をしてドイツの手に落ちた。
フランスは敗れたのである。
フランスは敗北を前にしてその政府は混乱の極地にいた。
フランスの内閣は抗戦派のレイノー首相をよそに、講和派が主流だった。
レイノー首相は6月16日最後の賭けに出た。
辞職である。
しかしそれは講和の最後の一押しとなった。出来上がったのは講和派のペタン内閣だった。6月17日深夜ペタン内閣はドイツに停戦を申し入れた。翌朝にラジオで国民に知らせた。そして6月22日にコンピエーニュの地にてフランスはドイツに下った。
フランスにはペタンの率いるドイツ傀儡のヴィシーフランスが建国された。
しかしまだ闘志のある人々がいた。
「自由フランス」である。
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自由フランス不遇の日々
――代表だが国家じゃない
フランスが講和に転げ落ちるのを海の向こうで眺めていたイギリスのチャーチルは将来のことを考えていた。
彼はスピアーズ将軍をフランスに送り、ヴィシーフランスに対抗可能な人物を探し出すように命令されていた。
まずはレイノー首相、しかし彼は固辞した、フランスに残ると。
有力な抗戦派の国務大臣ジョルジュ・マンデルはペタン内閣に逮捕された。
スピアーズ将軍は途方に暮れた。
そんな彼がイギリスに連れてきたのがシャルル・ド・ゴールであった。
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50歳の大佐。190㎝を超えるアスパラガスのあだ名を持つ男。軍の機械化の推進者「モーター大佐」のあだ名を持つ男。ナチスの侵略に対して戦車師団を率いて反撃に出た男。その軍功から戦時昇進で一応准将になった男。戦時内閣の陸軍次官に起用された男。
若く、無名の、レイノー政権の陸軍次官に過ぎない戦時昇進の准将。
確かなことはだれよりも抗戦の意志が強いことだけだった。
しかし彼こそがフランスを戦勝国となる運命に導く男だったのである。
6月23日にイギリスは「フランス臨時国民委員会」の組織を認めた。
この時のド・ゴール自身自らが数年後にこれを率いてフランスに舞い戻るとは思ってもいなかったように思われる。組織を作るにあたってド・ゴールもイギリスもいまだ兵力を保った植民地の司令官に期待を寄せた。
北アフリカ総司令官のノゲス将軍、地中海艦隊のダルラン提督の指揮下に入る旨の連絡を取ったがこの二人とも、ペタンに懐柔され地位が保証されたことでド・ゴールとイギリスの呼び掛けに応えることはなかった。
誰も立ち上がらない。皆が敗戦の衝撃で闘志が挫けていた。
もはやド・ゴール自らが立つしかなかった。
イギリスも腹を決め6月28日にド・ゴールをフランスの首長と認めた。こうして「自由フランス」が誕生した。
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「何が起こっても、フランスの抵抗の炎は消えてはならず、消えることはありません。」
彼が6月18日に語ったことは4年の時間をかけその正しさが明らかとなる。
それはドイツに対してであると同時に、フランスを没落した二等国とみなす世界に対してもである。
と、ここまでなら話は簡単なのだが、イギリスは掛け金の全てをここにつぎ込んだわけではなかった。老獪な帝国はヨーロッパの安全に保険もかけていた。
一つの保険が、自由フランスの地位である。
オランダやベルギーの亡命政府、ポーランドやチェコスの国民委員会は政治的な代表と認めたが、「自由フランス」は武装団体とした。
自由フランスはあくまでつなぎであった。いずれフランスの高官の誰かが連合国に鞍替えしたときに真の亡命政府をつくるまでのつなぎと考えていた。
もう一つの保険が、ヴィシーフランスとの交渉である。
イギリスは公式にはヴィシーフランスとの関係を断っていたが、カナダ大使館はヴィシーフランスに存在していた。このカナダ大使館を通じて秘密交渉を行っていた。その意図はヴィシーフランスの第二次世界大戦参戦の回避だった。引き換えにイギリスは密かにヴィシーフランスの領土を承認した。そのために自由フランスがアフリカで反攻に出るのを掣肘することさえあった。
余談ながら、大戦に参戦していないアメリカはヴィシーフランスを承認し大使館を設置しており、ヴィシーフランスは国際社会において一定の国家承認を得ておりフランスの代表とみなす向きも強かった。
自由フランスはイギリスの手駒に過ぎなかった。
それも、イギリスとヴィシーの秘密交渉の結果、手足を縛られた武装集団として。
連合国の思惑に戦うフランス
――アメリカのフランス・フランスのフランス
自由フランスは、不確かな立場にいたが第二次世界大戦の推移のいくつかは彼らを有利な立場にしてくれた。
1940年4月1日、イラクの首都バグダードでクーデターが発生し親独派政権が樹立された。そしてドイツに支援を要請し、それはヴィシーフランス領シリアを通過してイラクへと送られた。
ド・ゴールは歓喜した。今こそ状況を変えるチャンスだと。
彼はイラクがナチの手に落ちるのを阻止するために自由フランスとイギリスでシリアに侵攻することを持ち掛けた。ヴィシーフランスとの密約から当初は消極的だったイギリスであるが最終的には英領のインドやエジプトへの脅威となることからこの案は承認された。
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ド・ゴールにとってシリア侵攻は心が痛んだ。同じフランス人が戦うのである。
侵攻は連合国優位に進み、ヴィシーフランスから停戦が申し込まれた。イギリスは受けた、しかしその内容は自由フランスを無視するものだった。
停戦に対しての将軍の答えは一つだった。「ノン」。
自由フランスは戦闘を継続し、ダマスカスを実効支配した。イギリスは改めてヴィシーフランスと協議を行った。この時イギリスは自分のことしか考えていなかった。
シリアをイギリスが併合するような内容を目にして当然ド・ゴールは激怒した。しまいには連合国を離脱すると切り出して怒りをあらわにした。将軍の剣幕におされたチャーチルは自由フランスに大幅な譲歩をした。最終的に現地の武器と兵士は自由フランスのものとなり部隊は大いに増強された。
年が明け1941年末アメリカが大戦に参戦する。チャーチルもスターリンも歓喜を持って迎えたがド・ゴールには試練となった。アメリカの参戦を受け、アメリカからほど近いヴィシーフランス領のサンピエールミクロンの占領を米英に相談なく行った。ド・ゴールの態度に不満を覚えた英米は仏領マダガスカルの占領でこれに応えた。もはや子供の喧嘩である。
自由フランスはあくまでも対等な主権国家としてふるまおうとしたが現実的な力の壁がド・ゴールの前に立ちふさがっていた。
1942年の革命記念日に自由フランスは「戦うフランス」に名前を改める。
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再び潮目が大きく変わるのは、連合国がアルジェリアに上陸し反撃に乗り出すトーチ作戦だった。1942年11月8日ヴィシーフランス領アルジェに上陸が行われた。ド・ゴールには知らされていなかった。それどころか作戦の11日前から通信が取り上げられていた。
将軍はシリアのようにこれを奇貨としようと部隊の派兵を急いだ。
しかし上陸初日の8日の午後には戦闘は終わり、10日には停戦した。主導したのはかつてド・ゴールが連絡を取ったダルラン提督だった。彼は“たまたま”アルジェに居合わせた現地指揮官を説得しアメリカと講和した。13日にアメリカはダルラン提督を「アフリカ高等弁務官」に任じた。アメリカはド・ゴールを切り捨て自らの息のかかったフランスを作った。
アメリカの勢いは止まらない。11月23日にはダルランらを現地政権と承認。12月7日にはダルランが「北アフリカのフランス国家元首兼陸海空軍総司令官」を名乗る。
アメリカによるド・ゴール外しは完璧に軌道に乗ったように思われた。しかし一発の銃声がすべてを変える。12月24日ダルランが暗殺された。民政長官のアンリ・ジローがこの地位を引き継いだ。
ここで意外にもチャーチルがド・ゴールに手を差し伸べた。すべてアメリカの思惑通りに進むのはおもしろくない。ならばド・ゴールをぶつけようという計算が働いた。しかしド・ゴールは自らの主導権を求めたためにジローとの会談は破談となった。イギリスも諦めたのかジロー支援で連合国は固まった。
連合国はド・ゴールを切り捨てたがフランス人はド・ゴールを求めた。
フランスのレジスタンス評議会はド・ゴールを首班とする政府を求めた。戦うフランスもめげなかった。アルジェの戦いに続くチュニジアの戦いでドイツに対して全力で戦った。フランス人はド・ゴールを求めていた。抵抗をつづけた将軍は国民にとってもはや無名の准将ではなかった。
ついに6月3日「フランス国民解放委員会」の設置が決まった。分裂したフランスの抵抗運動は一つにまとまった。一度は蚊帳の外に追いやられたド・ゴールは議長となった。ただしジローとの輪番制ではあるが。委員会は軍事部門に優越する中央政府であった。
8月27日のケベック会談を受けてソ連は委員会をフランスの代表として承認した。イギリスはいまだ彼らを武装団体のままとした。不満のアメリカは不承認を明言した。
ジロー失脚の話は紙面の都合上手短に済ませる。
ド・ゴールが台頭するのに焦ったジローはコルシカ島の奪還で失地回復を図る。しかし手を組んだ相手がいけなかった。アメリカやイギリスの警戒する現地の共産系レジスタンスを支援したことで連合国から見放され、またこのことを口実にド・ゴール派に糾弾された。追い込まれたジローは委員会を通さずに独断でフランス内のレジスタンスと接触する。共産党系以外はすでに戦うフランス主導のレジスタンス評議会の息がかかっているのでまたもや共産党員に頼った。これがとどめだった。発覚するや否やジローは閑職に封じられることとなるがそれを不服として委員会を去った。
ド・ゴールはアメリカのフランスを跳ねのけ、唯一無二のフランス人によるフランスを手にしたのだった。
堂々の戦勝国への道
――偉大さという太陽が現れ出る
アメリカはアフリカにダルラン政権という都合の良いフランスを作ることに失敗した。しかし諦めたわけではない。フランス本土を連合国の軍政下におくことを考えていた。
実際にアメリカがダルランをトップに据えた直後の1942年11月23日に「ダルラン・クラーク」協定をダルランと結び本土の軍政を既成事実とした。
この事実に加えてド・ゴールはアメリカが占領地で使う独自の通貨を準備しているのを知るともはや事態はのっぴきならないものであると感じていた。
当然、ド・ゴールという男はそんな屈辱的なことを受け入れる気はなかった。
フランス本土の軍政の方針である英米に対抗するため国民解放委員会は本土解放後の行政組織の整備に取り掛かっていた。そしてそのことを協定の形で英米に提示した。しかし当然のように無視された。
フランスが戦勝国として凱旋するか、占領地として統治されるか。
名誉の上からも、実際上の理由からも何としても連合国の軍政は避けねばならない。
5月26日、連合国の一大反攻作戦「ノルマンディー上陸作戦」の気配が迫る中、ド・ゴールはフランス国民解放委員会を「フランス共和国臨時政府」に改名すると布告した。アメリカは当然顔をしかめた。
ノルマンディー、史上最大の作戦の日、ド・ゴールは戦場に向かう兵士に演説をすることになっていた。用意された原稿の内容は連合国の軍令に従うように呼びかけるものだった。そう、軍政を受け入れろと呼びかける演説である。
フランスのためのフランスを目指す将軍がこんなものを認めるはずがない。彼は他の連合国と時間をずらして演説した。
「フランス政府およびその資格を認められたフランス人指導者が発する命令に従ってください。我々の血、われわれの涙が立ち込めさせた重苦しい雲の影から、ほら、もうわが国の偉大さという太陽が現れ出ようとしています。」
そして行動に出た。上陸から数日、ノルマンディーのバイユーの街が解放されるとド・ゴールと政府は同地に飛んだ。そして有無を言わせずそこに臨時政府の行政を布いた。軍政下に置く時間を与えないことにした。ド・ゴールの決断はついにアメリカのフランス占領計画を打ち砕いた。他の亡命政府は自国が軍政になるのはたまったものではないとすぐさまフランス支持を表明した。
フランス人はフランス人の統治を歓迎した。アメリカ世論もこの解放の英雄に賞賛を送った。ついにアメリカが折れた。7月12日ド・ゴールとルーズベルトの会談の後にアメリカはフランス共和国臨時政府を承認した。
残るはパリ解放である。臨時政府の活躍に刺激されたパリ市民は蜂起した。アイゼンハワー総司令官は対応に迷ったが、ドゴールは進撃を進めた。方針が決まるとすかさずルクレール将軍のフランス第2戦車師団が突入した。もちろんド・ゴールは師団とともにパリに入った。
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「パリ!パリは侮辱された!
パリは傷つけられた!
パリは犠牲となった!
だがパリは解放された!
永遠のフランスの力を借りて自ら解放されたのだ。」
その後もド・ゴールの熱烈な戦いぶりは変わらなかった。
ドイツ最後の攻勢「春の目覚め作戦」でストラスブールが陥落しかけた。アイゼンハワー総司令官は撤退を決めた。しかしド・ゴールはフランス軍で死守すると誓った。国家の敗北からよみがえった男に戦闘での一時の劣勢などうろたえることではなかった。この判断は連合国が踏みとどまりドイツの意志を砕く一手となった。
そして勝利は時間の問題となった。世界の関心は戦後処理に関心は移った。アメリカはかねてより「4人の警察」構想を持っていた。米英ソ中の4ヵ国を中心とした国際機構、国際連合、の設立である。
ド・ゴールはフランスの席を求めた。台頭する米ソに対抗するためには英仏の協同が必要だとチャーチルに説いた。スターリンに対してはドイツと最後まで戦うと謳い、仏ソ相互援助条約を締結した。ルーズベルトにはドイツ占領の負担を減らせると説得した。
ド・ゴール外交は成功した。
1945年2月ヤルタ会談の結果フランスは国連の常任理事国となりドイツ占領地の一部も任されることとなった。
無名の将軍が率いた武装集団はついに国際社会の5大国の一つと認められるまでになった。1940年に失った領土も威信も1945年にすべて取り返した。ド・ゴールはフランス人によるフランス人のためのフランスを再建したのである。
偉大さという太陽は再び昇ったのである。パリよ永遠に。
おわりにかえて
ド・ゴールの物語は第二次世界大戦が折り返し地点である。
第4共和国の大統領、アルジェリア紛争の結果崩壊しかかったフランスを救うため再び立ち上がり第5共和国の大統領としてフランスを導く。
この話も書きたいが、しかし、自由フランスを語るこの記事の射程を超えるためいずれの機会に譲ることにする。
この話を書いた理由は、私の興味が国連にあり、ヤルタ会談で5大国となったフランスは戦時中何をしたからこの地位を手にしたのかが知りたかったからである。すると実は自由フランスは吹けば飛ぶような弱小団体から戦勝国にまで返り咲いたと知りこの偉業を知らしめるために筆をとった。
ミリオタとしての私の興味は「命令」という行為にある。どんな機関がどんな権力を握り、何を達成したいのか、それが命令という形でよく表れると信じている。
この稿を通じて、ド・ゴールの足跡を追うことはそんな私の興味を満たしてくれた。
夏コミでは、ドイツ軍最高司令部と陸軍総司令部がどのような任務を分担し、命令を出したのかについて書く予定である。なぜなら、OKWとOKHという言葉は第二次世界大戦を知るものなら誰しも単語は知っているが、これがどう役割を区別し命令を出していたのか私は実は知らない話だからである。
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参考文献
佐藤賢一『シャルル・ドゥ・ゴール 自覚ある独裁者』角川ソフィア文庫、2023年
シャルル・ド・ゴール『ドゴール対戦回顧録、I~IV』みすず書房、1960~1965年
児島襄『誤算の論理』文芸春秋、1987年
加藤俊作『国際連合成立史: 国連はどのようにしてつくられたか』有信堂高文社、2000年
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