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#聖霊と共に見る
自分を向上させるためのスピリチュアリティとはまったくちがう
この自分が聖者になるという霊性の道ではないときに、私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)について誤解したところから、その学びと実践をしていたりするときがあります。
この自分がより良き自分に、より素晴らしい自分に、より崇高な存在に、そのような自分になっていくためのものだと思いながら、コースを学び、コースを実践していたりするということです。
この自分が裁かない人間になるとか、
この自分
これは思考を逆転させていく道である
泣きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。悲しみなさい。心配しなさい。不安になりなさい。
通常、私たちはそれらをネガティブなものとして捉えて、それらをなるべく小さくしようとしたり、抑圧、排除(隠蔽)しようとします。
じつは、そうすることによって私たちはそれらになおさらパワーを与えているいる、つまり実在化させているということを知っておく必要があります。
それによって葛藤が生じて、私たちはなおさら苦
それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である
思考を止めようとすることについてノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティの実践において、ときに、思考を止めることを試みようとしたりします。
たしかに、静かに座って、深い瞑想に入っていくならば、(それにはかなりの訓練を要しますが、)それは可能だったりします。
ただし、たとえそれができたとしても、また日々の日常生活に戻っていくならば、思考はまた沸き起こってくることになります。
ようするに、
コースは「間接的なアプローチ」をとって非二元に至る霊性の道である
自我をありのままに見るコース(奇跡のコース/奇跡講座)は非二元(一元論)のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということは言うまでもありません。
ただし、コースは非二元(真理)に至るまでのアプローチとして間接的なアプローチをとっていくところが、他の非二元のスピリチュアリティとはちがった特徴的なところだと言うことができます。
つまり、直接的に神と合一していくような一般的な非二元のスピリチュアリテ
神の教師という生き方について
手本を示すコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩む学習者たちは、その学びが深化していくにしたがって、やがては神の教師として生きはじめることになります。
それは、コースの学び自体が実践的なものとなっていくことを意味します。
つまり、実践/訓練を通して学ばれていくプロセスになるということです。
ちなみに、コースを教えていくこと、つまり、コースの教えを誰かに伝えていくことが、