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#実相世界
悟りを生きている者の知覚とは、いったいどんな世界を見ているのでしょう?
ありのままに見るとはもし人生で起きていること、経験していることに対して何の意味付けすることもスピリチュアライズすることもないならば、私たちはこの人生をどのように捉えるようになるのでしょう?
じつのところ、それこそが「ありのままに見る」ということなわけです。
ですが、私たちはそのように見ることをひどく恐れています。
なぜなら、私たちは人生で起こる様々なことに意味付けをしたいからです。
人生に
「ただ在る」という神の在り方を修得する
「私はいない」といくら知っていても意味をなさないその理由ノンデュアリティのスピーカーさんたちがよく言葉にする、
「私はいない」
という概念は、たしかに真理を述べているとも言えますが、ただし、それだけでは不十分だと言うことができます。
それは「行為者はいない」ということを意味するわけですが、そのことをいくら知ったところで、ほとんど助けにならないからです。
なぜなら、私たちは「私(自分)は存
恐れとどのように向き合っていけばいいのか?どのようにして恐れを超越していくのか?
誰もが神の愛を恐れている私たちは、「自分はこの世界の中に居る」と信じています。
そして、この世界をそのように知覚しています。
それがどういうことなのか?
というなら、
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、この世界に居るということ自体、もっといえば、この世界を知覚しているということ自体が、神(の愛)を恐れているということなのだということです。
そうでないならば、私たちは
目覚めのプロセス~学びの階梯について
「短期的な赦し」と「長期的な赦し」真理から言えば、目覚めは「一瞬」なのだといえます。
というのも、それは時間のない領域のものであるからです。
ただ、私たちはこの今もまだ時間(と空間)の中にいるわけです。
ここで私たちが知っておかなければならないのは、時間の中に囚われている私たちにとっては時間が必要であり、その時間をどちらの目的で使っていくのか?が私たちに問われているということです。
よう
苦しみがもはや苦しみではなくなるとき
私たちは「幸せ」とは何なのか?まったく分かっていない幸せとは何か?
というとき、
私たちは「幸せ」とは何なのか?まったく分かっていないと言うことができます。
誰もが「幸せ」というものを追い求めてはいるものの、実際のところ、私たちは「幸せ」が何なのか?分からずに追い求めているということです。
というのも、私たちはこの世界に自分を幸せにしてくれるものがあるかのように見ています。
ただし、正し