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A Course in Miracles 学習&実践レポート

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『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体…
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2021年12月の記事一覧

自分の中が空っぽであるとわかるとき、他者の中も空っぽであるとわかります

自分の中が空っぽであるとわかるとき、他者の中も空っぽであるとわかります

「夢を見ている者」の自分を自覚していくふだん、私たちは、「私」は存在していると思っています。

それに対して、非二元の教えに触れていくとき、「私はいない」ということを学んでいくわけです。

もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のテキストやワークブックでも、以下のような表現で述べられています。

ようするに、私たちは何も見ていない、何も聞いていない、何もしていない、何も感じていない、

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「私は誰か?Who am I?」と問いかけるだけでは意味をなさないことの理由

「私は誰か?Who am I?」と問いかけるだけでは意味をなさないことの理由


私は誰か?Who am I?という実践について先日の記事『私は誰か?Who am I?』の続きです。

前の記事では、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるだけではほとんど意味をなさない、ということを述べました。

それがどういうことなのかというと、つまりは、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるとき、その実践の意味合いが理解されていない場合に、そうなってしまうということです

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私は誰か? Who am I?

私は誰か? Who am I?


実践していくための基盤となるもの私は誰か? Who am I?

インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」という問いで探究していく道が最も重要な方法であると説かれました。

私はすでに二十年以上も前に、その言葉に触れていたわけですが、正直に申しますと、その言葉はその当時の私にとってはまったくと言っていいほど意味をなさなかったと言うことができます。

つまり、「私は誰か?」と問いかける実践は

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自分だと信じている自分、それ自体がまったくのデタラメなのだということ

自分だと信じている自分、それ自体がまったくのデタラメなのだということ

自分は、本当の「自分」ではないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、「自分は何も分かっていない」ということがますます自覚されてくることになります。

自分が誰なのか?
自分は何をしているのか?

そのことがまったく分かっていないどころか、

自分は今や狂っている(病んでいる)ということが自覚/認識されていくことになります。

そのことはコースを学んでいく上で私たち

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苦しみとはいったい何なのか?なぜ苦しいのか?苦しみの原因は?

苦しみとはいったい何なのか?なぜ苦しいのか?苦しみの原因は?

メタフィジックス(形而上学)は不可欠である苦しみの原因は何なのか?

というならば、自我が問題なのではありません。

罪、罪悪感、恐れ、が問題なのでもありません。

分離の想念(小さな狂った考え)が問題なのでもありません。

何が問題なのか?

それは、それらを信じていること、それが問題なのだということです。

信じているのが問題なのだということです。

自我、分離、罪、罪悪感、恐れ、などといった

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