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2021年12月の記事一覧
自分の中が空っぽであるとわかるとき、他者の中も空っぽであるとわかります
「夢を見ている者」の自分を自覚していくふだん、私たちは、「私」は存在していると思っています。
それに対して、非二元の教えに触れていくとき、「私はいない」ということを学んでいくわけです。
もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のテキストやワークブックでも、以下のような表現で述べられています。
ようするに、私たちは何も見ていない、何も聞いていない、何もしていない、何も感じていない、
「私は誰か?Who am I?」と問いかけるだけでは意味をなさないことの理由
私は誰か?Who am I?という実践について先日の記事『私は誰か?Who am I?』の続きです。
前の記事では、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるだけではほとんど意味をなさない、ということを述べました。
それがどういうことなのかというと、つまりは、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるとき、その実践の意味合いが理解されていない場合に、そうなってしまうということです
自分だと信じている自分、それ自体がまったくのデタラメなのだということ
自分は、本当の「自分」ではないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、「自分は何も分かっていない」ということがますます自覚されてくることになります。
自分が誰なのか?
自分は何をしているのか?
そのことがまったく分かっていないどころか、
自分は今や狂っている(病んでいる)ということが自覚/認識されていくことになります。
そのことはコースを学んでいく上で私たち
苦しみとはいったい何なのか?なぜ苦しいのか?苦しみの原因は?
メタフィジックス(形而上学)は不可欠である苦しみの原因は何なのか?
というならば、自我が問題なのではありません。
罪、罪悪感、恐れ、が問題なのでもありません。
分離の想念(小さな狂った考え)が問題なのでもありません。
何が問題なのか?
それは、それらを信じていること、それが問題なのだということです。
信じているのが問題なのだということです。
自我、分離、罪、罪悪感、恐れ、などといった