ブギー!!
始めに
新年1発目の投稿。
さぁ、2024年の自分にとってのnoteの元旦は何を書こう…。
そうだな。
今興味のある事を題材にしてみようか。
ここはやはり好きな音楽の事を新年1発目のテーマにしてみよう。
そして今まさに調べてみたかった事…。
今巷で話題の「ブギー」について少しばかり自分なりにまとめてみようか。
っというか調べてみたかった。
「ブギ・ウギ」
「ブーギ・ウーギ」
「〇〇のブギー」
「東京ブギ・ウギ」
などなど、ブギーとはジャズやブルースとも関連深くその軽快なリズムは人々の足取りを軽快にさせ、リズムを刻ませる。
そして心は沸き踊る。
そんなブギーを今回は取り上げてみよう。
取り分け自分はブルースに興味を持ち、ジャズは全く詳しくないので、ブルースに関連するブギー!っな話中心にまとめています。
まぁ、ブルースも人に偉そうに説明できるほど詳しくありませんが💦
っというわけで果たしてどこまでまとめられるか分からないが…
ある意味自分の知的好奇心を掘り下げていくブギーの旅…。
いざ「ブギー」の世界へ!!
ブギー
まずはGoogleさんで「ブギ」を検索してみると…。
っと冒頭で記されている。
ここで言うスウィングやシャッフルというのはジャズやブルースに用いられるリズムであり、簡単に言うと跳ねるようなリズムが特徴と言われている。
自分はギターでブルースのボトムリフを弾く時があるので、それは俗に言うシャッフルのリズムになる。
口でリズム感を言うならば「タッタタッタ、タッタタッタ…。」
みたいな感じか。
「タタ」の部分が跳ねるように聞こえ、それが1番のミソなのかも。
人によって感じ方は違うかもしれないので自分の言うように一概には言えませんが…。
まあ、このシャッフルのリズムの俗に言う「中抜き3連」と呼ばれる音符の形が一つのリズムの特徴なんでしょうね。
そして、非常に簡単に述べるとGoogleさんの説明にもあるこのリズム感の反復フレーズが件の言葉の根幹を成すリズムというわけなのだろう。
だいぶとザックリした説明ですが(*´д`*)
ちなみにスウィングの方は…
っと軽く触れる程度にして、まぁ簡単な説明の中からジャズやブルースにブギーのリズムが用いられる事は分かった。
更にロックにも用いられるということは根幹にはジャズやブルースがあるという事でもある。
そう考えてみると少しばかりジャズやブルースにいつ頃からブギーのリズムが使用されてきたのか…
それは自分の力では特定する事は難しい((+_+))
具体的には分からないので、ただジャズとブルースの20世紀初頭の頃の事を少し追いかけてみよう。
ジャズ
アメリカは深南部に位置する港町ニューオーリンズ。
ミシシッピ川がメキシコ湾に注ぐ河口に位置する。
そういった地理的な湾岸都市という特徴もあり、様々な文化や情報が入り受け入れる都市でもあった。
ニューオーリンズはスペイン領から始まり、フランス領、スペイン領、そして1718年にフランス領になり、1763年にスペイン領に、そして再びフランス領、1803年にアメリカ合衆国がルイジアナを購入し、アメリカの領土となる。
こういった経緯もありラテン系の入り混じった独特な気風に街は満ち溢れる雰囲気になっていく。
そしてスペインやフランス系白人と黒人との混血、クレオールと呼ばれる人達がこの町にいたという事もジャズを形成する上での一つの大きな事だったのだろう。
それは白人の子弟たちとも同じ教育を受け、ヨーロッパ音楽を咀嚼し楽譜が読める物も多くいたそう。
アメリカで起きた南北戦争の後、1863年に奴隷制度が廃止されクレオールはアフロ・アメリカンコミュニティーで共に演奏したりするようになる。
その時にクレオールの譜面を通したヨーロッパ音楽と、黒人ブラスバンドの耳から聴いた音楽を即興的な演奏や、フレーズに変えたりするこの両者の出会いがジャズとしての形成に一役買ったそうだ。
クレオールの西洋音楽と、アフロ・アメリカンのリズムや即興性。
そこから独自のフィーリングなどで演奏してゆき、同じ南部のブルースや、スピリチュアル(宗教的な民謡)、ラグタイムなどの要素を混ぜていきインプロビゼーション(即興演奏)やシンコペーション(強拍と弱拍の位置を通常と変えたりしてリズムに変化を与える)を含んだジャズへと徐々に進んでゆく。
このニューオーリンズの文化の中で形成されていったジャズはその生活の中に溶け込んでいく事になるのだが、そうして生まれた初期のジャズの事をニューオーリンズ・ジャズやディキシーランドジャズと呼ぶそうだ。
ちなみに1917年にジャズとして初めてのレコーディングをしたのが、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドというバンドだったそう。
彼らの有名な曲で1917年にジャズのスタンダードと言われる「タイガー・ラグ」という曲がある。
何でもトロンボーンの音にタイガーの鳴き声を演じさせたとか。
いや、調べてみると色々と面白いですね~。
ジャズがこのようにして形成されていった頃、ピアノでも西洋音楽を耳で聴き、アフリカの独特の音楽(複数の異なるリズムや拍子が同時進行=ポリリズム)にシンコペーションを組み合わせて、独特のジャンルを形成してゆく。
ワークソングや、スピリチュアルなどがミックスされ独特のリズム感を生み出す、「ラグ・タイム」が誕生するのである。
ラグ・タイムは1897年~1918年に最ももてはやされたそうだ。
代表作として1897年に発表されたスコット・ジョプリンの「メイプル・リーフ・ラグ」が大ヒットしたそうだ。
この時代レコードはまだ発明されていない。
なので売り上げの一つの目安として各家庭で用いられる楽譜が一つの目安だったそう。
その辺の媒体も各時代によって変わってくるもんですね。
楽譜がレコードに、レコードがCDに、CDからサブスクリプションに…。
あと個人的にスコット・ジョプリンの代表作、映画「スティング」の主題歌「ジ・エンターテイナー」も忘れられない。
このラグ・タイムはジャズやブルースに影響を与えていく。
ブルース
ジャズがこのように形成されていく中、南部プランテーション(大規模農園)などで農作業中に歌われるフィールド・ハラ―(一人で歌うもの)や、ワーク・ソング(労働に規則的にリズムを生み、コール&レスポンスだったり)に、当時放浪生活を主にしていたストリート・ミュージシャンや、伝統的な歌や民衆文化に溶け込んだソング・スター達の歌う伝承歌(バラッド)などにブルースの前身が形作られていく。
スピリチュアルや、バラッド、そして上記の事象がアフリカ的な表現や即興の能力でもって混ざり合っていき、独自の音楽を形成してきたいう感じか。
モーン(叫び声)や、独自の歌詞の様式や形成、独特のリズム…。
このアフリカ的な伝統とヨーロッパ的な音楽というものが融合していく事によってブルース固有の形式というものが生まれていく事になる。
そして労働を終えた週末の夜というのも音楽を形成していったのに一役買ったと思われる。
その場にはバイオリンや、ギターを持ち寄り弾いたりしてどんちゃん騒ぎをしたりして踊っていたりしていたそう。
そしてスコットランド系やアイルランド系の移民たちが持ち寄ったジグや、リールなどのダンス音楽を演奏したり、ダンスもアフリカ系ダンスとヨーロッパ系ダンスが融合していくなどの事が起こっていくのである。
こうして独自の音楽や、リズム的なものが形成されてゆく中、週末に楽しむ酒場などでもその場で演奏するバンドやピアノの音に合わせてダンスを踊るのである。
特に農作などで、新しい仕事などに取り掛からなくてはならなくなる手前の7月の農閑期には、長い時間続いたそうだ。
その場でダンスに用いられた音楽は、様々な伝統からのものを使った。
ヨーロッパ起源のスクエア・ダンスや、田舎の村々にまで浸透するポピュラー・ソング、物語風のバラッドといった具合だそうだ。
このような土壌がブギーのリズムを形成してゆく一つの土壌であったのかもしれない。
そして1890年代には農村に住んでいた南部の黒人達の都市に出て、新しい生活のスタイルを歩むようになっていった。
工業化が進む中、町の工場などに移動しそれがまたフィールド・ハラ―や、ワーク・ソングに代わり、感情を直接に歌う即興性を保ちつつも、表現力に富んだ都会的なサウンドに代わっていくのである。
そしてカントリー(田舎)の音楽は、そういった都会からの影響を受け、洗練されたリズムや韻を使うようになり、進行にも統一感を生み出していった。
そうして初期のブルースは形成されていったと思われる。
テキサスや、ミシシッピなどのカントリー・ブルースから都会へ…。
1900年代にシカゴでは工業の発達に合わせて、多くの労働者を必要としていた。
そして1910年代には第一次世界大戦が起こりさらに多くの労働人口を必要としていく。
それに合わせて南部からの黒人の人々の移住はより一層多くなっていった。
新たな生活と、賃金の事…など色々とあったのであろう。
同様にジャズ・シンガーや、ブルース・シンガー達もシカゴに移住をしていくのである。
シカゴにあるステイストリート界隈。
第一次世界大戦後の10年余りのあいだ、この界隈の娯楽施設では多くのジャズメンやブルースメンで賑わっていたそうだ。
そこにジャズやブルース、更にはシカゴの文化が熟成されていった貯蔵庫みたいなものが伺える気がする。
そして興味深い事に1920年のシカゴの黒人総数10万9000人のうち、9万人以上が他州の出身者でそのほとんどが南部諸州から出てきた人々だったそうだ。
ミシシッピ州や、ジョージア州、アラバマ州にルイジアナやアーカンソー、テキサスなど…。
この中にきっと数多くのブルース・シンガーなどもきっといたのだろう。
これは結構重要な事なのかもしれない。
1900年代の初頭のギターの普及にブルースはフィットし、ブルースは広まった。
そしてブルースにはブルース・ピアニストもいる。
著者のブルース・ピアニストの深い考察。
そしてメキシコ湾岸一帯に根強いピアノの伝統があったという風にも綴られている。
ピアニストは生活のために材木伐採などにあるバレル・ハウスや堤防工事などの現場を周りピアノ一台あれば演奏して周るという生活を送るブルース・ピアニストも存在していたそうだ。
そこで著者のラグタイムとブルースの混合物の中から現れたという表現…。
どうやら20世紀の初頭にはこういったリズムで演奏をされていたらしい。
だがそのリズム・パターンには確固たる名称がつけられていなかったそうだ。
この「混合物」の科学反応によってブギのリズムは演奏の一つの形式という形で生まれたのではなかろうか。
そして人々がシカゴに集結していく1900年代、ジャズやブルースがひしめくその土地で音楽が熟成されていき、世相もレコード技術の発達によって音源が残されるようになっていく。
1920年代になるとハウスレント・パーティー(家賃パーティー)なるアパートにミュージシャンを呼んでパーティーをするという事がシカゴなどで流行っていた。
その際に踊り狂うリズムが「ブギ」のリズムだったそうだ。
このブギーのリズムが「ブギ・ウギ」としての名で市民権を得るエポック・メイキング的な出来事…
パイントップ・スミス
1904年にピアノが盛んだったアラバマ州に生を受けた「パイントップ・スミス」。
彼が10代でバーミングハムに引っ越し、腕を磨いていく中で1927年にピッツバーグの安酒場にて演奏をしていたスミスは同じ、ピッツバーグにあるスター劇場に出ていた「カウ・カウ・ダヴェンポート」なるブルース・ピアニストから助言を受ける。
スミスの演奏を聴いていたダヴェンポートに今弾いていたダンス曲を演奏するように励ましたそうだ。
このアドバイスの一言にさりげなく「ブギ・ウギ」という言葉が出ている事にその重要性を感じる気がする。
この言葉にスミスは励まされ、妻を伴いシカゴに移住するわけである。
そして1928年12月。
この作品が商標的に初めて「ブギウギ」と命名されたという作品を発表する。
「パイン・トップ・ブギウギ」をレコーディングしたのである。
この曲はヒットを飛ばし、「ブギウギ」という一つの名前が市民権を獲得した瞬間でもあるわけか。
そしてピアノスタイルは名を伴って確立するのである。
この「パイン・トップ・ブギウギ」にはどうやら2テイクあるらしく、テイクA では「これがパイントップのブーギ・ウーギ」と言っているそうで、違うバージョンだと「これがパイントップのトラブル」と始まるそうだ。
曲はレイ・チャールズが戦後になって「メス・アラウンド」として新たな作品にしたり、トミー・ドーシー楽団が吹き込み大ヒットし、スウィングジャズに取り入れられたりしている。
何よりもアフロ・アメリカンのブルース/ブギ・ピアノの伝統として色濃く残っていく事になるのである。
後身にも「パイントップ…」と名乗るシンガーが出現したりするなど、その影響は音楽を発展させたという観点からも重要な出来事だったのであろう。
パイントップ・スミスの残した功績はそれほどに大きいという事か。
ちなみにパイントップ・スミスは1929年に次の録音が控えていた中、シカゴのダンス・ホールで騒動に巻き込まれ誤って銃弾に倒れてしまう。
ブギウギの録音からすぐの事だった。
そして時代は流れ1940年代。
最初に触れた20世紀初頭ではないが、ブギのリズムを武器に強烈な印象を残した一人のブルースマンの事もちょいとだけ触れてみたい。
ブギ・チレン
ジョン・リー・フッカー。
所説ある生年は1917年生まれとも。
ミシシッピで生を受け小作人兼宣教師の息子として育ち、教会で霊歌を歌ったりして育っていった。
その父が死別し、母の再婚相手であるウィル・ムーアからワン・コードブルースギターの手ほどきを受けたそうだ。
14歳で家出をし、1930年代にメンフィスに住みビール・ストリートでも演奏をしたという。
1940年代にデトロイトに出てきて自動車工場や、鉄鋼会社の職員として働くかたわら、夜はヘイスティングス通りの周辺のクラブで歌っていた。
そこで評判が高まっていくなか、音楽プロデューサーのバーニー・ベスマンの目に止まって音楽スタジオに連れられ録音する事になる。
1948年秋の事だ。
そこでベスマンは自身のギターの伴奏と、椅子に座って足で拍子を取るための踏み板(マイク付き)のみで数曲吹き込ませたそうだ。
何とシンプルな事か(*'ω'*)
そしてその中からジョン・リーの代表作である「ブギー・チレン」が発表されるのである。
同じコードを繰り返し、リズムを取る足踏みの音が単純ながらもクセになり中毒性を生む。
何よりも淡々と歌っているように聞こえて、味わい深い深みを感じるフッカーの声と間が好きなギター・ブギーな曲だ。
時は電子の力を借りて音としての増強をエレキ・ギターで遺憾なく発揮されようとしていた時期。
その電子の力を借りてこそ、このシンプルな構成でもブギーとしてのリズムの力強さと、粘っこいフィーリングを兼ね備えられたのではなかろうか、なんて思ってしまう。
そして「ブギー・チレン」の歌詞ではブギーでクラブで(ヘイスティング・クラブ)みんなが大いに盛り上がり、楽しんでいる様子などが記されている。
一晩中出歩く事を許してくれない母親に、父親があの子にブギウギさせてやりなよ、という節もありいかにブギが定着したものなのかというのが伺える。
ちなみにその答えに母親は…
何かブギーのリズムそのものの本質を掴んでいるような気もするし、音楽そのものの本質を述べているような気もする母親の答えだ。
そう…
やはりフィーリングは本人の中にあって、それが外に出て来ないといけないんですよね。
何もブギーや音楽に限った事ではないか。
結構この部分の母親のセリフを気に入ってたりする。
ちなみに自分は専門家ではないから詳しい事は分からないが、リズム面の仕組みが複雑らしく、ピアノ・ブギとビッグバンドスウィングという、二つの違ったリズムを組み合わせたものと分析する専門家もいらっしゃるとか。
シンプルに聴こえて実は複雑なんですね!
果たしてそれをどこでジョン・リーは自分のキャリアの中でブギーを自らの中で咀嚼していったのかというのは未知の部分であるそうだが、この後数々のブギーの作品を残し、「ブギ・チレン」も幾度も吹き込んでいる。
シンプルながらも力強くて奥深いジョン・リー・フッカーの「ブギ・チレン」。
これもまた素晴らしいブギの作品だと思う。
やはり足踏みのリズムとギターの音の絡みが良いのかな。
最後に
っと長々と己の興味の赴くままに、「ブギー」の世界の一端を調べてみました。
間違っている箇所もあると思われますが、どうかご容赦くださいませ。
そして興味を持って頂き、ここまで記事を最後まで読んで頂き誠にありがとうございます!
2024年もスタートしました。
ここは一つ先人達が編み出し、人々を躍らせた「ブギ・ウギ」のリズムに身を寄せてスタートしてみるのも一興かも…?
・参考文献一覧
・黒い蛇はどこへ~名曲の歌詞から入るブルースの世界~ 中河伸俊著
・世界のポピュラー音楽史 山室紘一著
・ブルース百歌一望 日暮泰文著
・ザ・ストーリー・オブ・ザ・ブルース ポール・オリヴァー著
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