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地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング [森美術館]/美術館の[匂い]

 森美術館の「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(2022.6.29~ 11.6、会期中無休) 初日に足を運んできた。

2020年以降、目に見えないウイルスによって日常が奪われ、私たちの生活や心境は大きく変化しました。こうした状況下、現代アートを含むさまざまな芸術表現が、かつてない切実さで心に響きます。本展では、パンデミック以降の新しい時代をいかに生きるのか、心身ともに健康である「ウェルビーイング」とは何か、を現代アートに込められた多様な視点を通して考えます。自然と人間、個人と社会、家族、繰り返される日常、精神世界、生と死など、生や実存に結びつく主題の作品が「よく生きる」ことへの考察を促します。

森美術館ウェブサイト 展覧会概要より

 オノ・ヨーコのインストラクション(指示書)『Grapefruit』の言葉がはじまりと締めくくりを務め、16名のアーティストによる約140点の作品が展示されている。

オノ・ヨーコ『Grapefruit』(Wunternaum Press、東京、1964年)※この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています

本展のタイトル「地球がまわる音を聴く」は、オノ・ヨーコのインストラクション・アート(*1)から引用しています。意識を壮大な宇宙へと誘い、私たちがその営みの一部に過ぎないことを想像させ、新たな思索へと導いてくれるものです。パンデミック以降の世界において、人間の生を本質的に問い直そうとするとき、こうした想像力こそが私たちに未来の可能性を示してくれるのではないでしょうか。
*1 コンセプチュアル・アートの形式のひとつで、作家からのインストラクション(指示)そのもの、あるいはその記述自体を作品としたもの。

森美術館ウェブサイト 展覧会概要より

■懐かしい「森美術館の匂い」

 人生のなかにアートを愉しむ余裕が少し生まれ、惹かれるままに美術館巡りをはじめたのが十数年前のこと。森美術館の「年パス」を購入、毎年更新して、「使い倒していた」。

パンデミックに伴う休館頃までは、年パスは展望台や展望デッキまで入り放題で、たまたま集まった人たちが同じように静かに夕陽を観る、こんな平和なシーンにも立ち会うことができた(六本木ヒルズ展望デッキ)

 現代アートの知識など何もない状態で、しかし空間がとにかく心地よく、展示されている作品は、ときに難解でも、「知りたい」という好奇心をかき立てるものだった。

 1回の展覧会に5~10回は通ったそのなかで、少しずつ気づきが生まれていった。森美術館のキュレーターにアートを学ばせていただいたようなものだ。そして、良質な企画展で数多くのアーティストを知った。チームラボも、瀬戸内海の直島や犬島のプロジェクトも、出逢いは森美術館だ。

 ただ、パンデミックで休館となり、その後の開館や、年パスの扱い、窓口対応などは、迷走した(ように、わたしには見えた)。次第に足が遠ざかり、さらに、直島の地中美術館に嵌ったりしているうちに、1,2年が過ぎていた。

かつての「年パス」には、展覧会とコラボしたデザインもあった。こちらはレアンドロ・エルリッヒ展のもの(展覧会は、とにかく楽しかった)

 森美術館の新しいメンバーシップ制度を遅ればせながら知り、足繫く通っていたことを鮮明に思い出した。自然な流れで、美術館のみ年間入り放題になる個人メンバーに申し込んだ。

 六本木ヒルズの美術館エントランスも新しくなっており、会員証はデジタル、事前にQRコードを取得してゲートを通ってエレベーターへ、という流れに変わっていた。

 ただ、美術館に入った瞬間の「匂い」は同じだ。うまく言葉にはできないが、石膏のような、古い建物のような。決して不快ではないのだが、六本木ヒルズには不似合いなその匂いは「森美術館の匂い」で、ああ、戻ってきたのだなあという感じがした。

■凝縮された生命が自然光の下に映える

 オノ・ヨーコの言葉に導かれた1つ目の作品は、ヴォルフガング・ライプの《ヘーゼルナッツの花粉》。白い台の上に敷き詰められた鮮やかな黄色のヘーゼルナッツの花粉。生命が凝縮された微細な粉たちが、とてつもない量の集合体になって黄色い存在感を放っている。その姿は、遠目に見ると抽象絵画のようでただ美しい。

ヴォルフガング・ライプは、花粉や蜜蝋、牛乳などの身近なものを用いて、生命のエッセンスを最もシンプルかつ美しく提示してきました。エレン・アルトフェストの森の中で描き続けた木の絵は、自然やそこに含まれる幾多の生命の本質を明示します。

本展が問いかけるもの&出展作品について」抜粋
ヴォルフガング・ライプ《ヘーゼルナッツの花粉》※この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています

 採光も素晴らしく、写真のように自然光が細く降り注ぐ。外は最速の梅雨明けとともにやってきた酷暑の太陽が照り付けていたけれど、そんな光の下で十分鑑賞できたのはラッキーだった。

ヴォルフガング・ライプ《ミルクストーン》※この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています

 大理石の上に毎日牛乳を差し入れ、表面張力の緊張感とともに、観る者に一日の生命やエネルギーについて考えさせるという《ミルクストーン》。

■鏡の上に広がる、ダイヤとガラスの曼荼羅

 もう1作品だけ、印象的な大型サイズの作品を。鏡、ガラス、ダイヤモンドの曼荼羅。タイトルには子宮の文字。なんだか、ぞくっとするような静寂と、吸い込まれたくなるような魅力のある作品だ。作品前にはベンチがあり、しばらく佇んだ。

ツァイ・チャウエイ(蔡佳葳) 《子宮とダイヤモンド》※この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています

ツァイ・チャウエイ(蔡佳葳)の作品は、鏡に映り込むわたしたち自身の存在もまた、曼荼羅の表す壮大な宇宙の一部であることを示しているようです。

本展が問いかけるもの&出展作品について」抜粋
《子宮とダイヤモンド》についての解説パネル

■心をかき乱される作品にも出会える喜び

 果てしなく解放されていくような、美しい作品について語ってきたが、人の不安や恐怖といった内面を反転させて外に出すような、心がかき乱される作品も展示されている。

 ドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマにした飯山由貴の新作は、被害者と加害者の双方からのインタビューを中心としたインスタレーション作品で、鑑賞する私たちひとりひとりに、自分自身の日常を異なる視点から見つめることを促します。小泉明郎の新作映像は、催眠術を用いて言語に頼った人間の認識の脆弱性を明らかにしながらも、心の回復の可能性を考察するものです。

本展が問いかけるもの&出展作品について」(抜粋)

 上記の飯山由貴氏の作品では、(おそらくトラウマの対象を)パンとして等身大に形作る→人型に並べて添い寝する。嗚咽する→それを乱暴にちぎる→食べる→吐く、打ち捨てる、といった行為の繰り返しで、そこから解放されようとするあがきのような姿を映像で生々しく捉える。嗚咽したり叫んだりする人をそういえば長らく見ていないし、自分でもしていない。そして、その映像の中の女性に共感している自分もいて、それゆえ目が離せない。

 小泉明郎氏の作品には、居るべきでない場所にいるような「居心地の悪さ」と、延々と続く微妙な繰り返しから「いつ、自分が離脱するか」を問われているような、何かモヤモヤとしたものが演出されており、そこから自分もその当事者であることが浮き上がってくる(ように感じられた)。

■作品を通して自分と対話する

 森美術館は遅くまで開いている、ところも魅力で、本展は10:00~22:00開館(最終入館 21:30、火曜日のみ17:00までで最終入館 16:30)。

 インバウンド旅行者などで混み合いがちだったころは、朝一番か、夜の、比較的人のいない時間に行って、ゆっくりと過ごした。情報量の多い展覧会が多いため、何かを受け取るつもりでじっくり観ようと思うと、途中で息切れることもあった。「今日はここまで、続きは次回」とできるところが、年パスの醍醐味だ。

 それは作品鑑賞であるとともに、自分との対話であったと思う。そんな機会がまた戻ってきたことを、嬉しく思う。

ルイーズ・ブルジョワ「ママン」 こんなふうに下から見上げて、母蜘蛛のおなかのなかの「卵」を見ると、なんだかほっとする

 


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