#東京大空襲
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 31
一九八三年(昭和五十八年)、三月三十一日。その日の尾崎さんは、同じ月の一日に逝去したばかりの小林秀雄を特集した『新潮』を隅から隅まで読んでいたそうです。小林秀雄も、尾崎さん同様に、志賀直哉の門下であり、志賀直哉を敬愛してやまなかった人でした。それゆえ、尾崎さんの失意はひとかたならぬものでした
夜になり、尾崎さんは体調の異変を感じて、習慣になっていた晩酌(一週間でオールドの瓶を一本空けるペース)を
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと20
父にとって姉のような存在だった従姉の世都子さん。彼女のことは何度か書きましたが、世都子さんは、父が宇久須村から修善寺に移ってからも、ちょくちょく様子を見にきてくれたそうです。父を引き取った家での待遇が目にあまり、「まアちゃん、あんたは近くにできた戦争孤児の施設に入ったほうがいいんじゃないか」と心配されたこともありました。
戦争孤児の施設。当時、どんな様子だったのでしょうか。二年前、終戦記念日前後
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと14
父が家族の骨を持ち続けた話は、ずいぶん昔に聞いた記憶があります。でも、その骨、最終的にはどうしたのでしょうか。「しばらくは、いつもポケットの中に入れていて、手のひらに乗せて転がしたりしてたよ。辛い時は、しゃぶったこともあったなあ」。父母、兄、妹、その誰の骨かわからぬものではありましたが、父にとって一片の骨は、家族の象徴だったのでしょう。「心の支えだったんだ。でも長く持っているうちに、骨を持っている
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父は、辛いことがあると、頭がぼーっとして、頭痛が続くといいます。尾崎さんが亡くなった時、母が亡くなった時、同じ症状が出ました。発端は、東京大空襲で家族を亡くしたことにあり、そんな父の深い深い心の傷を、娘である私は、あまり感じることもなく、のんきに育ちましたが、それでも、それなりに生きてきて、ようやく最近、父の悲しみの片鱗を感じられるようになり、こんなふうに文章に残す作業を続けています。
東京大空
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと12
人の運命というものは、あみだくじみたいなものでしょうか。この世に生まれるところから始まり、折々の岐路で選択しているような気でいますが、あらかじめ決まった道を我知らず進んでいるのかもしれません。東京大空襲の日、学童疎開していた父一人が生き延びたことを思う時、そんな思いにとらわれます。父が生き延びなかったら、母との結婚はもちろんなく、私も存在していませんでした。家族皆が助かったとしても、やはり、同じこ
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父の一家が深川に引越しした頃から戦局が悪化、様々な統制とともに、学童疎開も始まり、慌ただしかった時期、尾崎さんの身辺では、尾崎さんの作家人生における一大事が起きていました。尾崎さんは、そのあたりのことについて、様々な作品で触れているのですが、ここでは『末っ子物語』から引用してみます。
昭和十九年、夏から秋に移ろうとするころ、大きな不幸が多木一家を襲った。ここ一、二年来、とかく不健康がちだった多木
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと10
父の子ども時代の話には、しばしば書生さんが登場します。伊豆の親類縁者から、大学に通う子供を託されることが多かったようですが、近くの美大生を預かることもあって、さてどんなツテだったのか、もう少し詳しく知りたいところです。美大生らは、父の母や兄をモデルに、油絵や彫刻を制作しています。
それにしても、父の家は家族五人と女中さん、それに加えて常に書生さんがいる環境で、しかも結構頻繁に親類が上京しては宿泊