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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと10

父の子ども時代の話には、しばしば書生さんが登場します。伊豆の親類縁者から、大学に通う子供を託されることが多かったようですが、近くの美大生を預かることもあって、さてどんなツテだったのか、もう少し詳しく知りたいところです。美大生らは、父の母や兄をモデルに、油絵や彫刻を制作しています。

それにしても、父の家は家族五人と女中さん、それに加えて常に書生さんがいる環境で、しかも結構頻繁に親類が上京しては宿泊していました。平屋の二畳、三畳、六畳、八畳だった上野桜木町のさして広くない家で、どうしてそんなことが可能だったのか。「子どもは女中さんと一緒に寝たりしてたよね」と、布団だから可能な生活が、戦前の日本にはあったようで、しかもプライバシーという概念が希薄だったのかもしれません。「部屋中に布団が敷き詰められるから、子供には楽しい空間だったなあ」

とはいえ書生さんにとっては他人の家、それもあまり広くないとあっては、家にいることは気詰まりだったことでしょう。次男坊の父を見つけると「まアちゃん、行く?」と誘い、父も待ってましたとばかりに家を飛び出します。「書生さんにとっては、子どもを連れて行くことが、出かけるうまい口実になったんだろうね」

上野桜木町からの一番の遠出は神田神保町。書生さんは地図を広げて、「近い近い」と、歩いていくことに。最初に行ったのは小学校一年生か二年生で、さすがに遠くて、言問通りから善光寺坂、本郷の東大横を抜けて西片のあたりに着くころには音を上げて、ずうっと、あと何分? ねぇ、あと何分? って聞き続けてね。家に戻った書生さんが、まアちゃんには参りましよ、と苦笑いしてたな」。以来、書生さんは、父から「出かけよう」というと、「あと何分?」とからかったそうです。「それでも、もう一回は歩いて行ったかな。子どもの足では、一時間以上かかったと思うよ。そのあとは、一人で電車やバスを乗り継いで出かけるようになった。乗り物は得意だったんだ」

上野桜木町から深川に引っ越しても、やはり書生さんを預かっていました。なにしろ父の母である久子さんは、根っからの世話好きで、書生さんたちも母親のように思い、慕っていたそうです。

昭和十八年(一九四三)の五月中頃、深川に引越しすると、父は越境入学で明治小学校に転入します。公立ですが、明治初期に儒学者の村松渓翁が始めた私塾が始まりで、由緒ある公立学校です。が、忍岡小学校とは環境がガラリと変わりました。この小学校は男子校だったのです。「忍岡小学校は、男組、女組、合組と分かれていて、合組は男女混合。僕は合組だったから、男子ばかりは不思議な感じだったな」

転校生ということで目をつけられもしました。「初めの頃は学校行くのが嫌で嫌で」という父は、引越しをした初夏は外が気持ちよく、夕方、家族で富岡八幡宮にお参りに行くような時も、トボトボと下を向いて歩いていました。「毎日、いじめっ子が僕に自分を背負わせておりないんだよ」。が、運が味方してくれました。「相変わらず僕の背中に乗った時、その子のまぶたがピッと切れて血が出たんだ」。原因がわからず「かまいたちだ」ということになり、父に畏れを抱くようになったと言います。かまいたちとは妖怪のこと。人知れず傷つけると信じられていました。「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場しますね。

また、違う子は、父が文鎮にできるかなあと筆箱に入れていた天保通宝を目つけ、「くれよ」と持っていってしまいました。でもそれは、父が通りにこぼれていたものをたまたま見つけたもの。「もっとないのか」と催促されてたので、また拾って持っていったら、僕も僕も、と皆が欲しがり、父にとっては拾ったものなので「いいよ」と惜しみなく渡しました。それがクラス中に広がりました。「落ちている古銭を追って行ったら、粗い葦簀が巡らされたような物置があってね、そこにはお寺の鐘楼や刀も積まれていた。お賽銭なのかなと思ったよ」。おそらくそれは、金属類回収令の供出品だったのでしょう。薬莢などもあったそうです。あの時代、政府は国民からたくさんの金属を集めていました。

かまいたちと古銭のおかげで、転校生の父はたちまち一目置かれたようです。二学期に入った時、級長の推薦があり、父はなんといじめっ子を推薦します。そりゃ面白い、と当選してしまい、父も副級長になってしまいました。制服に縫い付けた副と書かれた白い布が、なんだか誇らしかった父でした。そんなこともあって、新しい学校に行く憂鬱も解消されたようです。

当時の上野桜木町と深川では、生徒たちの家庭環境がかなり違いました。父が越境入学をしたのは、府立三中(現在の都立両国高校)を目指すためで、明治小学校は府立三中進学で有名な小学校だったのです。父は、進学塾に入って勉強したそうです。塾には違うクラスの材木商の子どもたちが通っていました。戦争の最中でも、子どもたちは未来を目指していたのです。

「材木商の家の子は、立派な家に住んでいてね。世界が違ってたなあ。びっくりしたよ。僕に、顕微鏡をあげるよ、とくれた子がいて、その子は大きな古美術商の子だった」。そんな中でも、父が最初に仲良くなったのは、洲崎遊郭の家の子でした。洲崎というと、戦後の洲崎パラダイスのイメージが強いのですが、実は、明治時代に根津遊郭が移転して生まれた下町の遊郭。帝国大学校舎を新築するために、風紀上の理由で立ち退かせたとか、学生が入り浸って問題になったとか、そんな理由だったようです。最盛期は大正末期で、吉原に匹敵する賑わいでしたが、ここも空襲で焼け野原に。洲崎パラダイスは、その跡地にできた歓楽街でした。

父の記憶が蘇ったのは、私が岐阜県の多治見市にある、モザイクタイルミュージアムに行った話をしたことがきっかけでした。「昔の遊郭は、みんなタイル張りだったなあ。柱も床も、みんな綺麗なタイルが貼られていたよ」。どうして父が昔の遊郭を知っているのか不思議に思って尋ねると、深川時代の友だちの話になったのです。「おとなしい子でね、僕と一緒で越境入学、他の子達とあまり馴染んでなかったから、転校生としては話しかけやすかったのかな」。その子は洲崎弁天町から都電に乗って、二つ目の停留所で降りると、父の家の木戸前で「ぼおや」と父を呼んで、一緒に学校へ行きました。ぼおや、とは、きっと自分が遊郭のお姉さんたちにそう呼ばれてたから、同じように呼びかけたのだろうと、父は推測します。

放課後、父はその子の家によく遊びに行ったそうです。二階建てか三階建てかとにかく立派な建物で、広い廊下に囲まれた中庭がある、洲崎でも有数の料亭でした。当時の遊郭は料亭もあり、家族連れで食事や宴会をするような用途にも使われたようです。

「ランドセルはかならず背負っていくんだ」。なぜなら、帰り際、きれいなお姉さんたちが、ランドセルにお菓子を詰め込んでくれるからです。「ハーシーズのチョコレートや、ナツメヤシの甘いお菓子、外国の珍しいお菓子が色々あったのは、お客の船乗りさんが持ってきたもので、それがこっちに回ってきたわけだ」。民間船の船員さんたちは、国の徴用で東南アジアに武器や備品を送る任務を帯び、帰りにはあれこれまた持ち帰って商売をしたのだそうです。「きっとみんなモテたいから、お土産をせっせと女性たちに貢いだんだろうなあ」

戦時中の統制下、そうした舶来品の売買は厳しく取り締まられていて、洲崎橋のふもとには交番があり、荷物チェックがありました。お姉さんたちがそれを知っていて、チェックされても取り上げられないように、うまくお菓子を詰めくれたそうです。「子どもがまさか、って思ったのか、一度も足止めされたことなかったよ。別に売ったりしたわけではないけどね」

父がランドセルにお菓子を詰めて家に帰ると、家にいた書生さんが〝待ってました〟とばかりに寄ってきます。そして、「まァちゃんは、その年で女郎買いか。いいなあ」とからかわれたそうです。女郎が何かを知らない父にはジョーロウとしか聞こえず、「ジョーロなんてどこにも売ってなかったよ、て答えたなあ」

そんなふうに、書生さんの存在は、父にとってオマセな情報源でもありました。ある書生さんに教えてもらい、神保町の三省堂(父はもっぱら三省堂だったそうです)で、教師用の教科書を全科目、親に内緒でお小遣いで買ったそうです。きっと、効率よく勉強できるという入れ知恵でしょう。書道くらいはいいだろうと学校に持っていったら、先生がふと目を留めて「これは僕のか?」と尋ねたので、悪びれることなく「いえ、僕のです」と答えたといいます。先生は、久子さんに「参りましたよ」と、これまた苦笑いの種でした。

私が子どもの頃、父からよく聞かされていたのは、いい半紙を使うと習字も上手に書ける、と教えられ、わざわざ日本橋の榛原まで買いに出かけた話。東京の東の端っこで育った私にとっては、日本橋は大都会ですから、小学生が一人で、しかも老舗に、なんて想像もつかず、どんな小学生だったんだと、呆れていました。でも、深川からバスや都電を利用すれば、そう遠くはなかったのです。

昭和十七年四月十八日、ドゥリットル指揮の米陸軍機十六機、東京、名古屋、神戸などを初空襲。米軍の攻撃は国内に及び始めます。そして昭和十九年になると、子どもたちを疎開させる話が現実味を帯びてきます。尾崎さんの作品『運といふ言葉』には、当時の学童疎開について触れた一節があります。

昭和十九年春頃から、東京では、學童疎開といふことがやかましく云はれた。私方では、長女の一枝が小學六年生、長男の鮎雄が四年生だった。山下家では、長男佳伸が中學一年生、長女雅子が就學一年前で、學童疎開に該當するのは、小學五年生の二男の昌久君一人だつた。

田舎に縁故がある者はその田舎へ、それの無い者は、教師が附添つて集團的に安全な地方へ疎開する、といふのであつた。私方では、郷里下曾我に小さいながら自宅があつて、老母が一人これを守つてゐる。當然、ここへ子供たちを送ることになつたが、老母の手にいたづら盛りの子供二人は任せられぬ、そこで思い切つて、一家を擧げて、東京を去ることにした。

山下家では、昌久くんを、出身地伊豆の奥地の縁者に預けることになつた。「かうして、集團疎開だの縁故疎開だのと云つて、子供を安全なところへやるのはいいけれど、萬一東京に残つた両親がやられちやつたら、どうなるんでせうね」「ほんとに、どうするつもりでせう。おかみであとのこと引受けてくれるんでせうか」

父は最初、明治小学校の集団疎開で福島に行く予定でしたが、腸チフス(家のそばの水路で泳いだのが原因とか)で入院をしたため、秋になって縁故疎開をすることになりました。明治小学校のウェブサイトの学校概要には、「19.8.21新潟県岩船郡上村、瀬波町、祥納町、女川村へ学童疎開をした。20.3.10大空襲により区内の大部分は消失したが、幸いに本校は難を免れ避難者の収容と救護の拠点となった。21.3.14集団疎開児童全部が復帰した」とあります。福島ですから、父は女川村に行く予定だったのでしょうか。そっけない年表表記ですが、恐ろしい状況を物語っています。のちに父が知り合いの女性から聞いた話だと、深川界隈で明治小学校に逃げ込んだ人は皆助かったそうで、当時、就学前だったその人も、家族も、それで命を取り留めたそうです。一方、一年後に戻ってきた子どもたちの中には、家も家族も失った子が多くいました。親たちの危惧は現実のものとなったのです。(ちなみに、親が無事だった家庭の同級生は、その年に限って、無試験で府立三中に入れたそうです)

次回は、父の疎開と尾崎さんの瀕死の病について触れることになりそうです。今宵はこのあたりで。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!


※トップの写真は、今はなき洲崎橋の名残。戦後の洲崎パラダイスの面影ももうほとんどありませんでした。ここから父の通っていた明治小学校まで歩いてみました。途中の冬木弁天堂には、戦災殉難者の供養塔があり、手を合わせました。もともと冬木家という材木豪商が祀っていた弁財天が前身とのこと。冬木家といえば、尾形光琳が、秋草の小袖を冬木家の妻のために制作したなあと思い出したのですが、まさにその冬木家でした。

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明治小学校も健在でした。

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尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。