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アウトプットがしたくて

9/20〜9/28まで徳島を離れて12人の友人と会った。久しぶりに会う人が多くてワクワクしっぱなし。その反動か、夜は眠れずやや疲れ気味。
10人以上と対話し、インプット⇄アウトプットをして、それを更にメタ認知したい。

「今、ここ」に至った経緯

去年1年間行った研修作成と、それに伴う言動・思考が主な今の自分の要素だと再認識した。

「やりたいことは何か?と相手(例えば研修相手や生徒、後輩)に問うのはいいが、そのままブーメランで自分に返ってくる。」

この言葉を多く使ったし、逆に何人かからも聞いた。そして、考えるしかない、と至るのは自然。
そしてその「思考の体力」(思考し続ける力)も、研修という期限がある外的要因のおかげで、体育会系の様に鍛えられた。

ただし、思考は底なし沼。
思考できると言うことは、自分外の言動も観察・思考・配慮でき、自分を相対化できるようになること。
ここで思い出してほしいのが、最初の問い。
「やりたいことは何か?」だ。
これは相対化しても出てこない。自分自身の内から出てくる絶対感を持たなければならない。しかも、相対化できる故に、他に惑わされてはならない。つまり、相対化できる許容と揺るぎない絶対感の共存が実現されなければならない。

これは実社会で生きていると非常に困難だ。相対化することで自分自身を迷わせ、絶対化することで社会(周囲)を迷わせることを含むからだ。それをも超える絶対感はエゴと見なされ淘汰されることもあるだろう。
だからこそ、それを許容してもらえる環境が必要だと思う。

悩み辛み、妬み嫉みから、思想思考、挑戦発想を共有許容できる仲間が何よりも必要と思う。

僕は幸いにもその様な仲間を得、またそれを今回再確認することができ、恵まれていると感じずにはいられないのだ。

問われる「今後」

とは言え今後も生きていく。
不確実だが、おそらく明日が来る。

「どうするの?お金は?生活は?完成は?」

今の話を終えたら次は未来。
とりあえず僕はそこまで先を考えてはいない。どうなってもいい精神。その方が楽だから。
しかし「来たるその時」のための準備もやはり必要な訳で、そこを心配してくれている(のだと思う)。
今僕が持っているのは、
2年は過ごせる貯金
どんな情報も得られる時代
助けを乞う勇気
どうにかなる精神
ぐらい(ほぼ他力笑)。
と言うのも「所有」は仏教的には「執着」であり、それは一時の幸福で長くは続かず、ゆくゆくはさらに求めて「苦」に転じるから、「所有」の概念は堅苦しい。

まぁとは言え考えないといけないなーと少しの危機感を持ってるので、起業のことやお金のこと、資本主義のことは勉強してるって感じ。

ゆくゆくはそんな生涯必要っぽいこととか、やりたいことって何だ?とか、それこそ何で生きてんだろうってこととかを、一緒に学べる場所を今の徳島で造ってみたいのであります。

その時に仏教とかアートのこととか話せたらおもろいなーって思ってる。

今現状の仮説だけど、生きるって話すことだと思う。

誰かともそう、自分とも草木とも話して、「生きてんなぁ」って感じずとも感じることが生きることじゃあないかなぁ。

だから僕は、今は少し社会を離れて自分のペースで(ゆっくりと)対話していきたいんだと思う。
だから今回お話ししてくれた方々とは、本当にその時間空間を楽しんだ。

旅のお供に読んだ本にこう書いてあった。
大事なのは

「話すより聞くこと」「違いを楽しむこと」

ゆっくり、いそげ

と。
これからの場所はそんな場所にしたいし、したいことが許される場所にしていきたい。

※次の投稿でやりたいこと書く!!


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