見出し画像

マイノリティが存在しない、「なめらかな社会」

今、『なめらかな社会とその敵』という本を読んでいる。

先生にオススメされて読んでみたものの、思った以上に難しくて、今のところ正直二割くらいしか私には理解できなさそう(笑)

それでも本書から学んだことを、なんとかnoteにつづってみたい。

まず、タイトルにある「なめらかな社会」とはなんなのか。

こちらの本では社会の状態を、ステップ、フラット、なめらかの3つに分類して説明している。

そうなのです。
この数学を用いて社会を説明しているところが、私のようなバリバリ文系には難しいのです(笑)。
ただこちらの関数については、私にも分かりやすいと感じた(ほぼ図のようなもんなので)。

ステップな状態とは、二元論的なものである。ある状態と別の状態は連続的にはつながっておらず、ギャップが存在する。
フラットな状態は、一元論的なものである。いたるところで平等で対等な状態を意味する。しかしここには、文化や多様性の源泉でもある非対称性が存在しないという問題がある。フラットな社会は一見理想的なようで、生命のもつ多様性を否定している。
一方でなめらかな状態は、非対称性を維持しつつも、内と外を明確に区別することを否定する。ある状態から別の状態までは連続的につながっており、その間のグレーな状態が広く存在する。

なめらかな社会では、社会の境界がはっきりとせず、だんだんと曖昧になっていく。ある人が日本人であると同時にフランス人であったり、ある土地が日本の国土であると同時にロシアの国土であったりする。日本人からなめらかに連続的にフランス人になることもできるし、ロシアからなめらかに日本になることもありうる。
フラットではないので、日本人やフランス人という概念そのものは変質しつつも、完全になくなるわけではない。世界中すべてが完全に同質化するのではなく、価値と文化の多様性は維持される。

「なめらかな社会とその敵」p.76~80から抜粋して引用

以前に、“言語と文化は密接に関係していることから、仮に言語が英語一つになってしまうと、文化も一様化してしまうのではないか” ということをこちらのnoteに書いた。

私たちは、「グローバル化する現代では、公用語は英語一つに絞ってしまった方がきっとコミュニケーションが円滑になる」とか、そういう極端な立場をとりがちだ。

しかし上記の引用部分にもあるように、フラットであることは、同時に “多様性を否定する” ことにも実はつながりかねない。

では、どうすればいいのか。

そこで筆者が提案するのが、「なめらかな社会」なのである。

近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがばらばらに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる。
中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす。
今までの例外が例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる。

なぜだか社会は、“中間的な状態” であることに寛容ではない。たとえばこれまで性別は、男か女のどちらかだと考えられてきた。それが今ではLGBTQという言葉が社会に浸透し始めている。
この一例にもみてとれるように、一昔前に比べれば今の時点でも、社会は少しずつ「なめらか」になってきているのかもしれない。

今の社会では、“中間的な状態”にある人や、“少数派”である人たちはマイノリティになっている。
それは、“中間的な状態” でいられる選択肢が今の社会には存在せず、そうした “少数派であることに寛容でない社会” が、マイノリティをつくり出しているからだといえそうだ。

しかし、万人がマイノリティであるような世界、つまり今はマイノリティ(少数派)である人たちがマジョリティ(多数派)となるような社会では、例外が例外ではなくなる

本当の意味で多様性を尊重している社会とは、意外と「フラットな社会」ではなくて、「なめらかな社会」なのかもしれない。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,181件

#読書感想文

189,831件

いつもお読みいただきありがとうございます。よろしければフォローやサポートもぜひお願いします😌💐