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一回限りで普遍な歌、団結のよすが/架空座談会『日曜日は歌謡日』しぴ研

これまでの座談会記事が好評なので、しぴ研究結社のメンバーでやってみた。話題にするのは、1986年に出版された、和田誠の『日曜日は歌謡日』(Kindle版)である。

思わず歌いだしてしまいそう! 和田誠流パロディ風味の歌のエッセイ。60人の歌手の絵もついて、ますます快調! ニッポンの文化を流行歌から見れば! ーー美空ひばりと「東京キッド」、野坂昭如と「黒の舟唄」、井上陽水と「心もよう」、襟裳岬,リリー・マルレーン……イラストレーターの和田誠が、まな板にのせたあの歌手この歌60曲。お得意のパロディ風味に仕上げた歌のエッセイ。つい歌い出したくなる楽しさです。微妙なニュアンスを絶妙にあぶり出すイラスト。さらに歌謡曲の不易と流行を見事に捉えたといわれ、お楽しみは3倍!デス。

『日曜日は歌謡日』講談社文庫 製品詳細

忙しい人のために、本座談会をまとめると次のようになる。これだけ読めば、このあと約13,000字を通読するのと同じくらいの効能がある。

”歌の本質というものは、普遍的なことばと一回限りのパフォーマンスにあり、人間本来のか弱さを束ねて、団結のよすがになってくれる。たまの休日にはじっくり歌を聴いて、生きる喜びを噛みしめてはどうだろう。”

『日曜日は歌謡日』感想座談会

【座談会出席者】
大塚/先進的な考えを好む。AIなどの科学技術に興味あり。穏やかな性格。
不破/反合理主義を掲げる。保守的な思想が大塚と反発を生む。
ぶりゃん/音楽系ライター。クリームソーダが好き。
司会者/カオスになりがちな議論をまとめる。実は黒幕?


(1) 歌のこころ

司会者「まずは一曲目を聞いていただきましょう。こちら。」

歌を聴くたびに、そら勝て、やれ泣くな、ほら頑張れ、とハッパばかりかけられるのもやり切れぬ。歌というのは優等生ばかりじゃ困るのである。一緒にめそめそ泣いてくれた方がはるかに救いになることだってあるのだ。

和田誠1986『日曜日は歌謡日』Kindle 版、Kindleの位置No.212-214

大塚「歌には完璧さよりも共感や慰めがほしいですね。昔ながらの言葉に突然触れることで、予期せぬ救いを感じることがあるんだから。」

不破「いや、それは甘えだ。歌は民族の魂を鼓舞し、強靭な精神を育むためにある。共感や慰めを求めるのは、弱さを正当化するための言い訳に過ぎん。」

大塚「そんな古臭い考え方はもう終わりにしましょう。歌に癒しを求めるのは、人間らしい弱さを認め合うこと。それが歌と人との結びつきを生んで、人々を前へと進ませるのです。」

ぶりゃん「そう。古い言葉に突然触れるのは、まるでレコードのノイズみたいなもんだね。時代を超えて響く音楽の力は、新しい何かよりも懐かしさにある。この曲の出だしの、『ひと声ないては旅から旅へくろう深山のほととぎす』という言葉には、歌が持つ旅と移動のイメージが込められてる。歌は時と共に変わりゆくものだし、その変遷自体がまた新たな文化を作り出していくんだ。あと本にもあるように、昔の学生らしさを表した、この曲の歌詞も良いね。」

ぼくは「我が良き友よ」を初めて聴いたとき、「いやじゃありませんか軍隊は」というテの歌を連想した。次に、「ひとつ出たホイのヨサホイのホイ」というのを思った。つまり庶民の中から自然に湧いてきたよみ人知らずの歌の匂いがするのだ。もちろん吉田拓郎作詞作曲と、よみ人は知っているのだが。
にもかからわずそういう連想をするのは、まず平易なメロディで憶えやすいことだろう。言葉も平易で下世話にくだけている。

同上、Kindle の位置No.227-229

司会者「なるほど、なるほど。まとめると、歌が人々に慰めや共感を提供することは大切だが、それが弱さの言い訳になってはならないという意見もありますね。だだ、古い言葉が、今の時代に新鮮な驚きを与える効果もあるわけです。次の森繁久弥の曲はどうでしょう。」

歌手・森繁久弥は、語るように歌う。あるいは歌うごとく語る。その結果が説得力を持ち、人の心を打つ。それは森繁が役者だからである。それもきわめて上等な。

同上、Kindle の位置No.189-191

大塚「誰かが言ったかの名文句、『セリフは歌え、歌は語れ』には深い意味があります。歌はただメロディを奏でるだけでなく、それに込められた感情やメッセージを伝える手段なんですね。森繁久弥は、まさにその文句にうってつけの歌手であり俳優だと和田誠さんは言っています。」

不破「確かに感情を伝える手段になりうるとはいえ、しかし歌は元来、民族の歴史や文化を伝承するためのものだ。歌の中に隠された歴史を理解し、語り継ぐことこそが大事なのであって、単なる表面的な感情移入だけで済ますのは甘えだ。」

ぶりゃん「でもね、音楽や言葉ってさ、サブカルチャーの流行やアートの世界でどんなに変わろうとも、人間の根源的な感情に訴えかける部分があるんだよ。まるで旅する鳥の鳴き声のように、人の心を運んでいくんだ。」

大塚「和田誠さんの言葉は深いです。人間の根本的な部分に触れているから。歌には、ただの音の羅列ではなく、人の心を動かす力がある。これはデータにも裏付けられている。AIが生成する歌詞でも、人間の感情を反映したものが共感を呼ぶんです。」

不破「そんな考えはナンセンスだ。歌や言葉は、集団の結束を高めるための手段に過ぎず、技術やデータに依存した共感や慰めなどで個人主義に堕するのではなく、より強固な共同体を築く手段となるべきだ。」

司会者「皆さんの意見を踏まえると、歌や言葉には歴史や文化を伝える役割があると同時に、それを新たな形で語り継ぐことも大切ということでしょうか。さらに、歌や言葉には個人の感情を超えた集団的な力もあって、それを個々人の共感や慰めにだけ使うと歌の力を狭めてしまう、という意見もごもっともです。つまり、歌の歴史を見落とし、単なる感情の交換だけに留まるということだけは避けなければならないでしょう。」

まとめ

不破が言うには、歌はただの甘えへの逃避であり、その真価は民族の魂を奮い立たせることにある。しかし、そこにはある種の厳しさがある。一方で、大塚の言う通り、人間らしい弱さを認めることが、実は結びつきを強める要因となり、それが進歩への糧にもなるのだ。そしてぶりゃんは、昔の言葉に触れることが、懐かしさを通じて新たな感動を与えると主張する。つまり、過去への郷愁が現在における感動を生むというわけだ。

司会者のまとめにあるように、歌が人々に慰めや共感を提供することは重要であっても、歌の力をそれだけに制限してしまっては勿体無い。歌や言葉が持つ、感情を伝え、歴史や文化を繋げる力は計り知れない。それらを深く理解し、語り継ぐことが、我々が担うべき役割なのかもしれない。その背後にあるのは、人間の不変の弱さと、時代を超えた郷愁だ。時を経ても変わらない、人の心の脆さが、歌を通じて露わになる。それは、いつの時代にも切ないほどの真実である。その弱さが歌を通じて集まることで団結し、それぞれがより良い人生を歩むことができるのではないか。

(2) 歌い手の存在意義

(高倉健の『網走番外地』は、)もとは獄歌なのだそうで、歌いつがれて行くうちに、今のような形になったのだろうが、今でも誰かが、「おれの作った歌をみんな知っとるわい」とニヤニヤしてるんじゃなかろうか。

同上、Kindle の位置No.127-129

歌手・野坂昭如はあるステージで、「スターは自分で作詞はしません」と言って客席を湧かせた。

同上、Kindle の位置No.147-149

司会者「つづいては、昔の囚人の歌が変化し、作者不明の歌がスター歌手によって歌われる現象について、皆様のご意見を伺いましょう。」

大塚「これは興味深いデータです。昔の獄歌から現代のポップソングへと変化する過程で、歌の本質が転換している。それに、歌手が作詞をしないことがエンターテインメントの一環となっている現象は、AIによるクリエイティブ作品の認知と共鳴する部分がありますね。

不破「愚かな話だ。歌の本質は、作者の魂を伝えることにある。スター歌手が作詞をしないと公言することは、文化的態度の退廃を示すもので、そういった逸話が楽しまれる現代の風潮は、文化の堕落を物語っている。」

ぶりゃん「でもさ、歌ってのはいつの時代も流行り廃りがあるわけで、昔の囚人の歌が今も歌い継がれているってことは、そこに普遍的な何かがあるんじゃない?野坂昭如のように、自分で作詞しないとネタにするスター歌手も、それはそれで新しい文化として楽しむ価値があるってことじゃん。」

司会者「それぞれの立場から、歌の歴史と文化に対する深い洞察をいただきました。歌の本質が時間と共に変化し、またその変化が新たな価値を生み出していることが見て取れます。しかし、文化の伝承としての側面を重視しつつも、現代の娯楽としての進化を受け入れるバランスが求められるという点には、共通の認識があるようですね。」

司会者「歌で独自の世界を創り出す才能についてどう思われますか?」

どんな歌でも自分の世界に引きずり込んでしまうアクの強さは、誰も持ち合わせているものじゃない。

同上、Kindle の位置No.107-109

大塚「そういった才能は、感情と技術の絶妙な組合せにより、新しい音楽体験を創造している。けれども人間だけが感情を持つという時代は終わり、AIもまた独自の感性で音楽の世界を変えていくと思います。」

不破「そんな愚かなことがあるか!音楽は人間の感情の産物であり、機械が創り出す音楽に魂は宿らない。音楽と人工知能のシンクロなど、たかが技術の見せびらかしに過ぎず、本当のアクの強さは人間だけが持つ情熱に他ならない。」

ぶりゃん「歌を自分の世界に引きずり込むアクの強さって、リミックス文化にも通じる気がするよね。新しいタイプの音楽体験って、昔からあったものを再解釈して新しい世界を作り出す過程なんだと思うけど。今で言ったらAdoとか。」

司会者「それぞれの視点からの貴重なご意見、ありがとうございます。音楽とAIの融合による新しい表現形式が、アクのある歌唱をさらに発展させていく可能性と、人間の感情と情熱が音楽に不可欠であるという点には、意見の相違があるようですね。しかし、どちらにせよ音楽が私たちの文化に与える影響は、2020年代の今でも計り知れないものがあります。」

大塚「そうです。情熱と才能があれば、スターが自らの曲を作らないと公言しても、また無名の作者の歌であっても、それらの背後にある熱量が音楽の本質を突き、私たちの心を震わせるのです。」

不破「音楽は血と汗と涙で作られるものだ。しかし、そもそも作者が失われた囚人の歌や、自ら曲を作らないスターの逸話というものは、音楽がただの商品と化している現代の行き過ぎた資本主義を象徴しているのではないか。」

ぶりゃん「いやいや、逸話が人々を楽しませるってのは、エンターテイメントの多様性の表れだよ。囚人の歌もスターの逸話も、それぞれ異なる文化的コンテキストの中で価値を持っているんだ。時間と共に変わりゆく、それが音楽の本質だよ。それに現代でお金に関わらない作品なんてのは、逆に人間らしさを失った無意味なものなんじゃない?」

司会者「情熱と才能が音楽の本質を生み出し、時代と共にそれらは多様な形で影響を与えているということですね。作者が知られていようといまいと、音楽は常に時代を映し出し、私たちの心に響き続けるものだという意見が出ました。」

まとめ

時代の流れに身を任せ、歌はただ変わりゆく。獄中の嘆きが歌謡のリズムに変わり、歌の本質が何であるかを問うこと自体が、既に時代遅れのようだ。歌とは、その時代の鏡であり、歌手が作詞をしないというのも、ただの時代の流れの一つに過ぎない。しかし、このような現象は、文化の深みを失いつつある証拠である。歌に込められた作者の魂が消え去り、スターの光に隠されてしまう。これは、一種の哀れみを誘う状況ではないか。

しかしながら、そう嘆くことにも無理がある。なぜなら、歌はいつの時代も、人々の心を捉える普遍的な魅力を持っているからだ。昔の囚人の歌が今もなお歌われるのは、その中に人間の本質が息づいているからに他ならない。また、スター歌手が作詞をしないことをネタにすることは、新しい文化の一形態として受け入れられるべきだろう。

歌の本質は、時代と共に変化し続ける。文化的な伝承と現代のエンターテインメントとの間で、微妙なバランスを保つことが求められる。音楽と科学技術のシンクロ、アートの世界でのAIの役割、そして人間の感情の力。これらが交錯する中で、AIが新しい音楽体験を提供する可能性さえある。ただし、人間の情熱が、音楽に不可欠であることも忘れてはならない。文化の堕落と進化が同居するこの時代において、我々は何を選び、何を歌に求めるべきか、常に自問自答を続ける必要があるだろう

(3) 憧れのトウキョウ

司会者「次は、戦後の混乱期を映し出した歌と、その中で垣間見える資源の大切さや外来文化の流入について議論を進めましょう。」

ぼくはあの頃、たまにチューインガムが手に入っても嚙んだカスを捨てなかった。(中略)思うに、あのころの歌は庶民に夢を与えていたのだ。カタカナが多いのもその現われだろう。戦争中に敵性語として禁止されていた言葉が、どっと迸り出た。そしてそれは、まだわれわれには手の届かない舶来品のイメージでもあった。

同上、Kindle の位置No.63-74

大塚「戦後の混乱期、わずかな資源を大切にしていた精神は、今の時代にも受け継がれるべき。チューインガムを噛んだカスを捨てないという行為は、資源を大切にする心を象徴してます。」

不破「しかし、その当時の歌がどれほど文化的な価値を持っていたのか疑問だ。外来文化や言葉が溢れ出したとしても、それが本当に日本の文化を豊かにしたかどうかは、別の議論が必要だろう。」

ぶりゃん「カタカナで溢れる歌詞も、外来文化の影響と戦時下の抑圧からの解放を表しているね。敵性語とされていた言葉が自由に使われるようになったことは、戦後の自由への渇望を現しているよ。」

司会者「戦後の混乱期には、資源を大切にする心と外来文化の受容が同時に起こり、それが歌を通じて表現されていることがわかりますね。資源の大切さと文化の自由は、どちらも今日の私たちにとって重要な価値観であるということです。」

大塚「時代時代の歌には、都会の喧騒の中で夢を追いかける若者のエネルギッシュな姿が映し出されており、進歩主義的な活力を感じます。たとえば『東京キッド』や『東京ラプソディ』、『東京シューシャインボーイ』は、今聴くと古風ながらも、その時の東京を象徴しているのです。」

花咲き花散る 宵も
銀座の 柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティルーム
楽し都 恋の都
夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

藤山一郎 - 東京ラプソディ

不破「馬鹿げている。そんな歌が何を伝えるものか。若者が夢を追いかける姿など、ただの感傷的な幻想に過ぎず、実際の厳しい生活の現実から目を背けるためのものだ。」

ぶりゃん「さて、これらの歌は、サブカルチャーや音楽の流れとして見ると、時代を超えた若者の憧れや生き様が表現されている。『東京キッド』のポッケに夢を持ち、ビルの屋根を見上げる姿は、どの時代にも共通する若者のアイデンティティを描いているね。Vaundyの『東京フラッシュ』は、まばゆいLEDライトの街並みの世界で切迫した愛憎を描いてるけど、この曲もどこか乾きつつ濡れていたいという、矛盾した大都市への憧れを歌っている。」

Stay まだここにいてね君の
Fake の笑顔を見せてよ見せてよね
Stage 4の癌にかかってるみたいかい
Age 越しの性愛じゃないの

東京フラッシュ君の目が覚めたら
何処へ行こう 何処へ行こうかわらないよ
東京フラッシュ君と手を繋いだら
何処へ行こう 何処へ行こうかわらないよ
東京フラッシュ

Vaundy - 東京フラッシュ

大塚「昔の東京を歌った詩は、確かに今となっては古くさいかもしれないが、戦後の新しい文化の解放と若者たちの前向きな姿勢を色濃く反映している。これらの歌詞は、それぞれの時代の生き方を伝える貴重な資料と言えます。」

ぶりゃん「うん。戦後の詩は、限られた資源を大切にしながらも、異文化や新しい言葉を受け入れる柔軟性を示しているんだよ。今では古くさいとされるその歌詞の中に、実は時代を超えたメッセージが込められているんだ。」

不破「そんな詩が何だというのだ。戦後の混乱を美化し、若者たちの夢を語ることで現実逃避をしているに過ぎない。本当の問題は、資源が限られていた厳しい生活環境と、外来文化の押し寄せる矛盾だ。」

司会者「それぞれの意見をまとめてみると、昔の歌が現在に古風に聞こえることはありますが、時代を超えた若者の夢や生き様が感じられるということでしょうか。進歩主義的な視点と現実主義的な視点が交錯する中、サブカルチャーや音楽の観点からもその価値を見出せると言えます。昔の東京を歌った詩は、現在では古くさいと感じられるかもしれないですが、戦後の新しい文化の解放や若者たちの夢を伝える価値があるということですね。資源が限られていた時代にも関わらず、柔軟に異文化を受け入れた姿勢は、日本の国際的な地位が下っている現代にこそ、むしろ通じるメッセージを持っているでしょう。」

まとめ

戦後の時代、混沌とした背景の中で、わずかな資源を大切にしていた精神は、確かに今の時代にも必要な教訓として受け継がれるべきだろう。チューインガムの噛んだカスを大事にするなど、些細な行為に見えても、資源を惜しむ心がそこには確かに存在している。ただ、その時代の歌が持つ文化的価値については、一概に賞賛することはできない。外来文化や言葉が溢れることで、一見文化が豊かになったように錯覚するが、本質的な日本文化の豊かさとは、また別の問題だろう。当時のカタカナで溢れる歌詞は、外来文化の影響を色濃く反映しているが、それは同時に戦時下の抑圧からの解放、そして戦後の自由への渇望を映し出しているのかもしれない。いったい、敵性語とされていた言葉が自由に使えるようになったことが、本当に自由の証なのか、それとも表面的な自由の幻想なのか、その区別はつけがたい

司会者が言うように、戦後の混乱期には資源を大切にする心と外来文化の受容が同時に起こり、歌を通じて表現されていることは事実だ。資源の大切さと文化の自由という価値観は、現代においても変わらず重要であるとされている。だが、それらが過去の遺物として振り返られるだけでなく、今を生きる私たちにとっての真の指針となるには、もっと深い理解と実践が求められる。昔の東京を描いた歌が時代を超えて若者の夢や生き方を表していることは認められるが、そこから単なる懐古趣味としての価値を見出すだけでなく、その本質的な価値が何かという点においては、常に考え続けるべきだ。歌に隠された歴史の表層的な魅力にとらわれず、深層に流れる時代の真実を見極める鋭い目が求められる。

(4) 二項対立を超える

同棲解消の歌が多い。はやりと申しますか、近ごろのポップスのひとつの傾向じゃないかしらね。

『日曜日は歌謡日』、Kindle の位置No.149-150

二人で育てた 小鳥を逃がし
二人で描いた この絵燃やしましょう

由紀さおり - 手紙

ひとりで朝は起きられますか
ハンカチの場所わかるでしょうか

由紀さおり - 挽歌

二人暮らした アパートを
一人一人で 出て行くの

ペギー葉山 - 爪

大塚「これらの歌詞は、単なる失恋の曲ではないんです。二人で育んだ思い出や絆も、時には手放し新たな道を歩む決意と、ひとりに戻った時の寂しさや不安を詠んだ歌詞は、恋愛にたいする当時の人々の価値観がどうだったかを映し出している。二人で育てた小鳥を逃がす行為は、過去を清算し未来に進む強い意志を表しています。」

不破「しかし、小鳥を逃がして過去を捨てることが本当に前に進むことなのか。歌詞から透けて見えるのは、現代社会が個人主義に傾き、絆や思い出を好き勝手に捨ててしまい、集団という意識を軽んじる風潮ではないのか。」

ぶりゃん「うーん。どうだろう。これらの歌詞は、当時の若者が体験していた都会での寂しさや、自立したいという心情を反映しているのでは?サブカルチャーとしての音楽は、そうした時代の感情を伝える重要な役割を果たしてるよ。現代の失恋ソングを聴いてみるとよく分かる。」

有難う愛しい人よ
君と別れて私は
占いの先生と精神科の先生
と疎遠になったよ

ちゃんみな - 君からの贈り物

司会者「みなさん、歌詞が時代の変化と価値観の移り変わりを伝えているという点では、一致していますね。しかし、その変化を肯定的に捉えるか、批判的に見るかについては意見が分かれるところです。この議論から、音楽が持つ歴史的な価値と、それをどのように受け止めるかについて、さらなる考察が必要だということがわかりました。また、揺れ動くのは恋心のあいだだけではありません。義理と人情。その複雑なアンビバレンスの中で苦しむ人々をえがく歌も多くあります。」

「義理」と「人情」という言葉がある。一般に「義理人情を大切にする人」などと二つ一緒に用いられるけれど、本来は二つの言葉は両極にあるもので、両方一度に大切にするのはむずかしいのだ。つまりこの場合の人情とは情け深いという意味よりも人間としての感情という意味の方が強いから、義理を守るためには人情を捨てなければならず、人情をとるなら義理を捨てねばならぬ。義理と人情の板ばさみとはそういうことなのね。

同上、Kindle の位置No.306-313

義理と人情をはかりにかけりゃ
義理が重たい男の世界

高倉健 - 唐獅子牡丹

好いた女房に三下り半を
投げて長脇差(ながどす)永の旅

上原敏 - 妻恋道中

大塚「進歩主義の観点から見ると、個人が自らの道を選ぶ自由と、その過程での孤独と葛藤を描いている。義理と人情の間で揺れるのは、個々人が成長し、自己実現を果たすための必要なステップだ。」

不破「そんなふざけた見方があるもんか。義理と人情は共同体の絆を象徴している。それを単なる自己成長の発露であると考えると、社会の解体を加速させる。義理と人情は両立しないにせよ、行き着くところはどちらかを捨てて、片方に身投げするのみだ。」

さて、薩摩の女はですね、これは女だから無理もないのだが、義理ある人に背を向けて来ちゃった。と言うことは義理ゆえに耐えるという演歌の定石をはずしている。つまり裏がえし演歌でありまして、そこが別の魅力になっている。

同上、Kindle の位置No.319

ぶりゃん「でもね、時代が変わっていく中で、人々は新しい価値観を模索している。昔ながらの義理や人情が、今の生活に即していないと感じる人もいるわけで、そういう変化を歌に託すことも大事だと思うよ。」

司会者「要するに、歌詞に表現された義理と人情の葛藤は、時代の変化を反映しているということですね。しかしながら、その変化をどう捉えるかについては、意見が分かれるというわけです。」

まとめ

時代が変わるごとに、人の心もまた移ろい、かつての価値観は風化していく。和田誠の見解を参照すれば、歌詞の中に隠された歴史はまさにその変遷を映し出す鏡である。しかし、この変化を単純に進歩と捉えることはできるのだろうか。

大塚の言うように、小鳥を逃がす行為が過去への決別を意味するとしても、それは果たして未来への一歩と言えるのか。過去を捨て去ることで、本当に新しい価値を得ることができるのだろうか。私たちは進化しているのか、それとも大切な何かを失いつつあるのではないのか。

不破の指摘するように、現代社会の個人主義がもたらす絆の希薄化は、進歩の陰で静かに進行する病理かもしれない。歌詞に込められた単なる自己実現を超えたメッセージは、結局、私たち自身が忘れ去りつつある人間関係の大切さを訴えているのかもしれない。

ぶりゃんが言及するサブカルチャーとしての音楽の役割は、確かに時代の感情を伝える重要な媒介である。だが、それをどう受け止め、どう理解するかは、私たち一人一人の心の在り方に委ねられている。音楽は歴史の証人でありながら、聴く者の解釈によってその意味が変わる。

当たり前であるが、歌詞が示す時代の変化をどう評価するかは一様ではない。時代の変遷と価値観の移り変わりを伝える歌詞の背後には、私たちの心の動きが反映されている。過去を懐かしむのも、未来に目を向けるのも、個々人の選択であり、その選択が時代とともに変わりゆく私たちの価値観を形作っていくのだ。

(5) 普遍でもマンネリするな

司会者「最後のテーマは、全国どこでも通用する歌詞の普遍性と、その表現の変化についてです。和田誠のコメントを踏まえながら考えていきましょう。」

「私鉄沿線」の題名を聞いて、やるもんだなあと思った。(中略)具体的だが地名までを織り込んではいないから、全国的に通用する。聴く側は自分の家の近所の駅を思い浮かべたりして、感情移入がしやすいのであろう。うまくできた歌である。

同上、Kindle の位置No.264-272

大塚「歌詞が具体的な固有名詞を避けることで普遍性を保ちつつ、歌い手の心情によって表情や動きが変わるのは、その瞬間の感情を大切にする現代の表現主義の反映かと思います。」

不破「しかし、そうした個人の感情に振り回される表現は、集団における統一感を損なう。やはり、歌は共同体の結束を象徴するものであるべきだ。」

ぶりゃん「でもさ、歌っていうのは生き物のようなものだよね。同じ歌でも、歌い手の心の変化で千差万別になるのは、音楽のダイナミズムを示すものだよ。和田さんは、当時の若い歌手がこぞってやらされたボディーアクションに批判的だね。」

歌が心で歌うものなら、表情も心から出てくるし、動作も心から出てくるのが道理であって、同じ歌を繰り返し歌っていても、歌い手のその日の気持によって動き方は変わっていい筈なのである。

同上、Kindle の位置No.296-299

ピンキーの時代には魅力的であったアクションも、エスカレートしてしまった今は鼻についてたまらない。(中略)同じ歌を歌うかぎり天気がどうだろうと、舞台がどうだろうと、当人の気分がどうだろうと、同じアクションをする。(中略)あれを見ているとぼくはイルカの曲芸やサーカスのクマを思い出してそぞろ哀れになるのです。

同上、Kindle の位置No.288-295

司会者「それぞれの意見をまとめると、歌詞の普遍性と歌い手の表現の自由度が、現代音楽の多様性と個性を生み出していることになりますね。つまり歌には、聴く人がどこに住んでいようと分かり合える内容と、それでいて、その時その時の特殊な状況でしか生まれない歌心、という一見対立する二つの要素を大切にすべきということです。それによって、歌が生き物として集団のダイナミズムに影響するのでしょう。」

※2024/4/13追記
「THE FIRST TAKE」の動画を何の気無しにここへ貼り付けたが、改めて考えると、音楽を気軽に楽しみたいけど、緊張感も味わいたい人へ向けて、一発録りを原則として制作しているこれらの動画は、歌の一回性をとても上手く伝えていると思う。ご存知かもだが、YOASOBI以外にも多くの著名アーティストの動画あるので、ぜひ見ていただきたい。

まとめ

歌手は普遍的な意味を歌に託し、それを聴く側は一人ひとりの色に塗り替え楽しんでいる。しかし、このような自由な表現だけでは、集団の中での一体感を希薄にし、かつて歌が持っていた共同体の絆を揺るがす結果を招くのではないか。

かつての歌は、個人の心情を超えた何か、共有されるべき価値や情緒を歌い上げていた。だが今や、歌は個々の表現の場と化している。確かに、歌は生きとし生けるもののように変化し、それが音楽の魅力の一つである。だが、この変化は同時に、かつて歌が担っていた共同体意識を希釈化させ、個人主義の増長を許しているのではないか。

一方で、歌詞の一般性と表現の自由度が生み出す多様性と個性は、現代音楽の新たな価値として認められるべきものだという意見もある。この矛盾する価値観の交錯する中で、私たちは何を歌うべきか。集団の中での一体感を求めるべきか、それとも個人の表現の自由を最大限に尊重するべきか。歌とは、その時代の鏡であり、私たちの選択が反映される。だが、その選択が必ずしも正しい方向に導かれるとは限らない。歌い手にできる唯一のことは、万人に伝わる普遍的なことばを、その時その場所でしか生まれようがない演奏で表現することだ。

(6) 考察

不破が言うには、歌は甘えへの逃避としての側面がありつつも、民族の魂を奮い立たせる力を持つという。しかし、この力には厳しさが伴う。そこで、大塚が語るように、人間の弱さを受け入れることがつながりを強め、進歩への糧となる、という一見矛盾した心の動きが大切になる。ぶりゃんの言う昔の言葉に触れることが新たな感動を与えるという主張も、郷愁を通じての感動というものを示している。

司会者がまとめるように、歌は人々に慰めや共感を与えることができる。だが、それを弱さの言い訳にするのは本末転倒である。歌や言葉が感情を伝え、歴史を繋ぐ力は計り知れない。歌は時代につれて常に変わり、その本質を問おうと躍起になる頃には、すでに時代遅れとなる。歌詞が持つ作者の魂が消え去り、スターの光に隠される現象は、文化の深さを失うことを示しており、哀れみを誘う。しかし、歌が普遍的な魅力を持つことは変わらない。文化は静止せず、常に変わり続けるものだ。

歌は時代を映す鏡、などと詠われるが、そこに映し出されるのは何か。それは、過去への郷愁にすがる人間の弱さ、そしてそれを受け入れることの苦悩である。真実というのは、我々が伝統という名の鎖に繋がれながら、進歩という幻想を追い求める妄想でしかないのではないか。また、共感が社会を動かす力となるという楽観論も、その根拠のなさにおいては、虚構の産物に他ならない。共感が進歩を生むというが、果たしてそれは真実か。我々は共感を通じて結ばれることで、本当に進歩するのだろうか。

こうした進歩への懐疑的な見方は、ひるがえって我々が時代の流れの中で自らの立ち位置を見失っていることを痛感させる。昔の歌を再評価する感動は一時の懐古趣味に過ぎず、それが社会全体の進歩にどう繋がるかは定かではない。音楽は確かに進化するが、それが人類の進歩を意味するとは限らない。音楽はただの道具であり、社会の進歩とは別の存在なのである。

結局のところ、我々は過去の歌に新たな感動を見いだし、それに意味を求める。しかし、その感動が進歩に繋がる保証はどこにもない。歌は時代の鏡であり、我々がそれを受け入れることは自制の一形態で、過去への郷愁に囚われ、自らの文化的アイデンティティを保とうとするが、それは結局のところ、国民性という名の呪縛を自らに巻きつける行為に過ぎないのかもしれない。

個人が優先される現代社会で、歌うべきものが不明確になり、新たな歌を求める探求が虚無へと繋がる悲観的な予感を拭えない。例えば、現代の最新テクノロジーを使ってAIが創り出す新しい音楽体験なども、我々の文化を蝕むものだ。なぜなら、有限のデータセットで学習され出力されたAI楽曲というのは、蠱毒(壺の中に毒虫を入れ、共食いに勝ち残った最後の一匹を、呪いにつかう古代中国の呪術)のようなもので、伝統的な歌への情熱を食い荒らすからだ。時代の移ろいと共に歌が変わり、その変化を称える声があるが、その底に潜むのは継承された文化を蝕んでいく腐食作用である。歌はかつて民族の魂を奮い立たせるものであったが、今日ではその本質が流動し、文化民族としての魂がそこかしこにふわふわと漂っている。歌を通じて人々の心の脆さが露わになることは変化を受け入れる力となるが、進歩とは名ばかりの文化発展の名の下で、真の団結が脆弱にさらされるのである。

また、昔の曲を新しいジャンルにアレンジすることが増え、それを文化の進化と見なすこともできるが、それは表層的な見方に過ぎず、文化は繊細な織物のようであり、アレンジという名の下でその織物が単なるパッチワークに変わる瞬間に、我々は何を失ったのか、という問いを投げかけるべきだ。例えば音楽のストリーミングサービスによって、昔の歌がリバイバルする現状がたびたび起きており、これは時代に乗った一種の文化形態である。しかしその背後では、歌そのものが持つ本質的な価値が、市場の論理によって歪められていることを見落としてはならない。

歌の本質というものは、聴く人がどのような時代で、どのような場所にいても受け入れられる、普遍的なことばと意味をもつこと。そして、その時でしか、その場所でしか、生まれることのないパフォーマンスを生み出すこと。この矛盾する二つの要素にある。人間は限りなく弱い。そして昔を懐かしむ。それは、どこまでいっても切実な真実である。その人間本来のか弱さを束ねて、団結のよすがになってくれるのは、歌おいて他にはない。その根本を忘れてただ表面的に聞き流すよりも、たまには休日を費やし、正面から「歌を聴く」ことは、生きる上で不可欠の営みだ。


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