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「お気持ち帝国主義世代」2世。自覚と克服=通俗道徳教育「期待される人間像」で飼いならされた私達=

菅野完氏は、軍国主義時代の議会記録まで引っ張り出して明確に整理してきている。

<信田さよ子・上野千鶴子をくぐってきた人の視点>
菅野完の着眼点は鮮やかでシンプル。
ホラー映画「ミザリー」は日本では当たり前の現象。
日本はミザリーに溢れている。
「ワタシはこんなに大好きなのに!!」
ドイツナチズムに国民が染まった全体主義はロジックに結集した。
日本軍国主義の全体主義の結集はすべて感情に結集し、ロジックは後付け。
信田さよ子のプログラムもくぐってきた人の視点だと思って聞き直すとすごい。

<「お気持ち帝国主義者の2世」世代=自覚と克服=>

僕らは「お気持ち帝国主義」世代の申し子として「太陽族」から「クリスタル族」まで押しなべて「気分と感情」で飼いならされた世代に他ならない。

高等教育機関で真っ当に学問や世界的な潮流と出会った人たちは、その衝撃に旋律し、ショックとやり場のない怒りや恐れにそれまでの感情中心の育ちだった自分たちが駆り立てられた。
しかしロジカルにパラダイムシフトができる基盤があった人たちはまだ幸いで、そうでない人は感情のはけ口に投石やテロに走る以外になかったとすればそれは必然でもあっただろうと思う。、
それさえも「思想っぽい」と冷笑してタモリやタケシのお笑いに滑ってフジテレビを見続けたのが「昭和40年男」たちの消費型人類の大半だったのかもしれない、という自覚と自責が鬱・統合失調・依存症・ACとして自己の発達と生き方の不全感を修正する「真のモラトリアム」を奪還しようとしている。たとえ「健常者至上主義」「生産性疎外因子」のようないわれをされようとも、メンタルヘルスやセルフヘルプグループの活動と出会えた人たちはまだ真っ当な神経があった組だと思うのである。

安保闘争を戦ったではないか。その真の衝撃の言葉に耳をかすわけもなく「お気持ち」に流れた壺の中の蛙で終わった人たちが、今自民党を筆頭に馬脚を現しているだけに過ぎない。

<進化した人を過去に引きずり戻すのは子供を子宮に戻すのと同列の「固定的人間観=封建的人間観」>

菅野完氏が意見を述べると必ず過去の性暴力疑惑などの記事を引っ張り出して封じ込めようとする人がある。「一事が万事」と同じ轍を繰り返している人も中にはあるだろうが、それをとっくの昔に別の次元に成長・飛躍できている人たちに向かってデマを流し続けている人たちの言説は滑稽以外のなにものでもない。

<「昔は可愛かった」「小さいときは良い子だったのに」=感情で支配と隷属を強いる家族家庭の地獄と毒親たち=>
しかし、同様のことは日本の市民社会ではごくごく普通にでてくる。特にママ友たちの他愛のない会話でさえも、である。「昔は可愛かったのに」「言う事を聞かなくて(憎たらしい)」子どもは親の背中を見て成長し巣立っていくものだとすれば親は乗り越えられる存在、反面教師としても見られていることを自覚していない大人たちの心無い言葉がいかにあふれていることか。同時に子育てや子供の教育という場面で配偶者片方の性から発信される言葉に溢れている異常にきづけないまま母親の言葉だけが闊歩する。封建的近代文明社会を作った軍国主義時代この方の、家事実務はオンナ、稼ぎと管理はオトコ、という分業がいつのまにかオトコは家族から逃れて仕事の砦に逃げ込んで酒とたばこと仕事談義に埋没し、オンナはママ友のパワーゲームと足の引っ張り合いに子供を引き合いにして「成長期の我が子を子宮にふたたび引き戻そうとたくらむ」異常な言動を増殖させるといった、病的強迫性だけが膨らむ「オトナ」社会を形成し、この傾向がやがてモンスターペアレントへと変貌を遂げていくように変わる。
そうならなかった人たちの家庭は幸いである。


<「太陽族」から「クリスタル族まで」=偏差値からトレンド・セックスまでマニュアル本で買い漁った消費世代=>

われわれ23区生まれはおしなべて四谷大塚・東進スクール世代でもある。
塾通いで節操や教養より、親のカネで高い偏差値を買い求めた世代である。 「なんとなくクリスタル」よろしく「万世はサーロイン以上じゃないと・・万世ステーキ食べるくらいなら・・」という残酷な天使があーじゃこーじゃと噂話をふりまいて、さも「味を知っている」という風を装ったものである。「なんとなくクリスタル」は小説ではなくカタログとしての役割を果たし、文字よりビジュアルと「ポパイ」「ホットドッグプレス」「アンアン」「ノンノ」で手っ取り早く大人ファッションやセックスを手に入れるように仕向けられた世代でもある。だから人生までお買い物できると思い込んでいる人たちが精神科デイケアのウインドーショッパーとなって渡り歩くし、治療が必要なのでは?と助言する人たちを傷つけてでも「二言目には治療治療と私たちを傷つける」と被害者ヒエラルキーの上で仁王立ちになる人たちまでいる。
挙句、超一流のカウンセラーにまで著書がどうの、差別がどうのと噛みついてあたかも被害者たちをくぐってないアレが足りないコレが足りないとあげつらって見せる。カウンセラーの仕事領域ではなくすでに精神科医に委ねねばならない人たちに取り囲まれようとお門違いの物言いには「ごめんなさいねー」とささっとかわしてとっとと我が道を歩んでいく。「自称当事者」に取り囲まれたところで所詮は「病識のない人たちの強迫観念=感情」に過ぎない。混乱は混乱のままでは向き合えない。だからこそ「棚上げ」して自他の境界を知ることが治療の扉が開いたか、病識を持つ=当事者性に目覚める一丁目一番地の指標でもあるだろう。加害者・被害者に限らず、依存症や難病、メンタルヘルスの当事者プログラムをくぐった人たちがみずからの「病み=闇」と向きあうと、闇などというアイマイなものではなく具体的かつシンプルな自分の内側の問題の存在と自分ではどうしようもない他者や外部の問題とが整理されるように変わる。どうにもならないものをどうにもならない事として自覚化し突き放して考えられるように変わらなければ、ロジックに考えているのか感情に流されてただ喜怒哀楽の反応をしているだけなのか、さえわからない。だから誤りを認めてごめんね、と切り出したり気持ちや行動指針を切り替えて新しく踏み出すこともできないまま感情のままに周囲を威嚇し自分のストーリーのお眼鏡にかなった人以外仲良くなれなくなるのである。それは社会にある自立した大人としてあまりにも損失の大きな生き方だし周囲を傷つけることでしか自分の傷は守れない人たちということになる。資質や能力の問題以前に集団の中で仲間を傷つける人たちは共に歩むことはできない。相手を変えられないが自分の考え方と行動は変えられるのだから自己調整能力を持ち寄ろうというのが社会だ。人間の価値は上から号令して押し付けるものではなく、ダイナミックに価値観の衝突と対話の中で新しく常に更新されるものだからこそ、社会はよりよく、より合理的に、より円滑に、より多様な人々に受け入れやすくなるように変化していく。
民主主義は資本主義の原理の中から生まれているが、一方で資本主義の毒性や野蛮を許さない方向で調整弁となりながらあらゆる人たちが受け入れられることを目指さねば市場の拡大がない事に気付くからこそ、持続可能性とは民主的かつ価値の多様性を受け容れる社会を目指す理念とゴールが示されるように変わる。限りない消費や開発はいずれ格差による矛盾や恐慌を生む。貧富の格差があれば飽食の人たちと飢餓の人たちを生むだけで、飢餓の人たちが消費に加わることは、彼らが購買力を持たない限りはできないのであり、彼らに競争を強いることでごまかすことはできない。等しく最低限の精神的・肉体的・霊的・物質的に生きる事=つまりは生活者として生きることが保障される必要があるし、人々に優しく投資ができない社会が幸せな生き方を手に出来るわけがない。人類が機械生産で生まれる生き物でない以上、出生した地域や国籍や民族や文化の土壌はあったにせよ、そのことで縛り付けられることなく尊重され生き生きとした生活者へ育っていく権利を持ち、その権利のもとで真っ当に育てる責任が先行く世代はある。
差別はなくせないが、差別からは不幸しか生まれない事も学ぶ必要があるし、それをより良い社会の実現のために過去から現在現在から未来へとつなぎ続けることが重要だし必要なのだ。

<場面の条件をおさえること=「わたし」から「わたしたち」の視点へ>

それゆえに民主主義社会では時系列にものが考えられる必要があり、どんな歴史的社会的場面の条件の上に過去から現在に向かって事例・事案が解決され未解決のまま受け継がれたのか?歴史的に事実と向き合う事でこれらの情報や考える材料がそろっていく。過去から現在へ・・・過去から現在へのパースペクティブで比較されることは、現代に過去を引きずりだしてあれが足りない・これが足りない、と指摘したところでそれは「無い物ねだり」に過ぎない。しかし、「過去はその時点での現実」であり、その現実の場面の条件下で精一杯の限界がある中で選び取った一つの手法・試み・実践にすぎない。だからこそ、現代だからこそ解決・克服できる視点や道具・手法が見出されているのであれば、その過去は過去が大事なのではなく新しく過去から現在のギャップは克服される準備ができる。そして未来に向けてどうありたいのか、どうしたいのか、という希望や願いが生まれるのも自分たちが一方的に与えられるだけの無知無能で無力な存在ではないことを知るからだ。しかし一人では社会を変えるような力には到底なり得ない。一人ひとりは無力なのだ。しかし一人ひとりが尊重されるためには黙っているだけで「お気持ち」や「感情」を吸い取ってくれるような奇跡は起こらない。「神様が世の中を動かしているわけではない」からである。もちろん神の手が配慮すると信じられた時代もあったことは事実ではあっても、である。

バカは杉田水脈に始まったわけではないのだ、という自覚と自己批判の上に立てる人たちでなければ明日の地平は見えない「期待される人間像」に飼いならされた世代でもある。 1965年生まれ以後は井戸ならぬ壺の中の蛙なのだ。 「啐啄同時(そったくどうじ)」高等教育でわれわれはきちんと壺から外に出るパラダイムシフトを経験できているだろうか?わかることは変わることだ。あのショックと驚きと不安から地べたに足をつくあの感慨を経験できた人たちはまだ幸いである。でも、そのまんまではただ発散しただけなのだから、その先の対話を失ってきた時点ですでに限界、つまりオワコンなのである。

その視点で、過去から現在、現在から未来をもう一回見つめなおす事をしていきたい。わたしはそのために、自民党結党の「55年体制」と60年安保、70年安保、ミリタリーフェチだった岸信介が軍国主義を失ったあとフェチズム由来のオリンピック招致・国体奨励へ走る体育会主義を考案させ統制下の人間の量産と壺行政による「期待される人間像」で特設道徳教育で徳目主義教育・損得と感情の教育へすりかえていき、実業・実学というスローガンを掲げ、手っ取り早い経済復興には「多様性」は回り道だと「生産性疎外因子」を拵え揚げ、都合の悪い子供たち(肥満、不適合、発達障害、鬱、統合失調、反抗まで)を十把一絡げに養護学校へ送り暴力による支配、または精神病院送りにすることで隔離した。

<埼玉の知的障がい者施設のバンド「すーぱー猛毒ちんどん」>
「いじめ」

https://youtu.be/uNFjgzjkZwQ?si=nMeb1DkXPMXWSbov

ま、この曲はけっこう教育委員会とかがからむイベントだと「演らないでください」とか言われたりしますが、やっちゃいますねー。以下歌詞紹介。 「いじめ」
俺たちは先生に いじめられた
養護学校の先生に いじめられた
動きがのろいって 蹴られた
こんなのもできないのって 殴られた
給食を食うなって 言われた
教室にいなくても いいと言われた
あの先生は
俺たちのこと 助けては くれなかった
どうせなんにも わからないって
障害があるだけで バカあつかい
(コメントbyスーパー猛毒ちんどんコンポーザー佐藤)


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