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薬物使用もリストカットも短期的には自殺・自死への時間稼ぎができる。だからこそ、安全に使い続けながら伴走者が登場できる場面を探す猶予も与えられる。

こんなことで死なせちゃいけないのに。そりゃ薬取り上げたら自殺するしかなくなっちゃうじゃんか、バカバカしいじゃないか!

https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2231667

韓国でふたたび俳優さんが自殺に追い込まれたようだ。
毎度のことだが、日本では大概は生け捕りにされて晒し者にされ、延々辱めを受けた後裁判所に送られる。どっちにせよ同じことだ。厳罰政策の行方は刑務所か死ぐらいしか残されていない。


依存症対策の前提条件が認知されていない問題



治療がもっと普及していればいいが、警察者そのものが「警察が病院の代わりをやってるんだ」という誤った自己認識から自由にならない以上はノルマ稼ぎのために逮捕者を上げ続けることに躍起になるだろう。愚かなことだが、末端の委託事業者(警察は司法的事業)に大きな政策論を持ち掛けたって通用するわけがない。所詮は末端、というのが警察だ。逮捕されて留置所でどれだけ意見を並べてみても、パソナやリクルートスタッフィングの委託業者同然の法務省の委託で逮捕権限を持たされているような「雇われ小役人」は何もできない。職質ができて逮捕ができてもおとり捜査ができないのも委託仕様書に書かれていないからなのだ。逆にマトリは取り締まり権限と逮捕権があるけれど職質の権限がないから市民に接触する権限は本来は持っていない。だからおとり捜査でハメるのだ。世界人権宣言や日本国憲法にてらして、違法なのはおとり捜査なのは言うまでもない。だから、違法捜査だと裁判所が見做した無罪判決が物証があるのに出されたのか、これをよくよく私たち主権者である国民は学習する必要がある。

前科者の皆さんが、もし、なにか政策に関する提言を言いたいのなら検察官や裁判官に響くような供述調書をつくるべきだ。末端の警察官や留置所の係官に並べ立てたところで何の意味もない。お手盛りの調書を上にまで上げさせておいてとっとと裁判終わってくださいなんていう態度で薬物行政も権利も人権も変わるわけがない。
こんなことに末端が慣れっこだから、肝心の悪党を捜査する段になって冤罪と犯罪の区別もつかない麻痺が生まれてくる。
どんだけお手盛りの作文やってきたんだよ、という話なのである。

行政官や対人支援職に就く人たちがハマりやすい関係性依存や行為依存の落とし穴も知っておく必要がある。


プロダクトアウト症候群ともいうべき「自分の作り上げたストーリーにしか興味と正しさを求められない依存症=政策万能主義」の病理ではないか。どこかしら行政官は共依存症の気があるわけで、「私(たち)がいなければ」という使命感が良くも悪くも作用する。だが、この「あなたのためだから」という思い込みが、家庭にあっては毒親を生み、社会においては失政を生み出すということもこの際学んでもらいたいものである。
学習能力の高い人たちなのであるならば、である。


薬物使用もリストカットも短期的には自殺・自死への時間稼ぎができる。だからこそ、安全に使い続けながら伴走者が登場できる場面を探す猶予も与えられる。これは世界のIDUの健康リスクとライフマネジメント(要するに公衆衛生上の)の「スタンダード」。で、メインとなるアディクション(嗜癖行動)が薬物依存(物質依存)なら、それが封じられれば食事(摂食障害=過食や食べる依存)かセックス(変態返上への強迫観念)かギャンブル(行動=失われた経済の取り戻し)へ依存が飛び火する次の段階が待っている。これも世界標準の理解。過食気味の人たちを10年も15年も放置して糖尿の予備軍や心筋梗塞の警戒域に入ってからフォーシガを飲んでいるようでは遅いのだ。「食べる強迫観念から自由になれるまで待つ」ではない単なる腎臓内科のセオリーだけで物言いしたって依存症者が納得できるわけがない。
食欲抑制も含めた健康的に無理なく痩せ続ける習慣を作るための支援でなくてだれが飲み込んで納得づくで伴走者に選べるだろうか?ということだ。

ハームリダクションの王道は単なる注射器配布や使用場所の提供でも何でもない。安全に時間を稼いで死ななきゃ気が済まないような当人にとっての悪現実とは何なのかを知り、それらへの課題を解決していくために伴走する許しを得ること、それによってもっと声や態度や行動で見せられない声なき声を拾えない。

声なき声を拾い社会に表面化する問題の根っこにある問題解決を探していくのが成熟した民主主義国家の本来の姿で、当事者が申請書を出したから初めて認定するという前近代のやり方をそろそろ卒業できるようになろうよ、というのが21世紀の「行政サービス」でありたいものである。

税金で先行投資している社会である以上は、である。

そうした発想の転換ができるか=民主的な発想の転換ができるのか=がハームリダクションのキモの部分でもある。



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