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人口減少社会で差別していられる「ゆとり」は社会のどこにも存在しない==<基本的人権が尊重されれば「納税者が住み続けたい」場所「弱者が住み続けられる」場所がイコールにできる>持続可能社会(SDGs)の絶対不可欠条件==

住みやすい街、住みたくなる場所、住み続けたい場所選びは30年以上前から弱者の中では始まっていた



「まともな自治体」を選んで引っ越しをする・・障がい者福祉や疾病対策、社会保障、明確に格差が出ているので、差別者が多い自治体地域はすでに敬遠されて、とっとと引っ越す・・これが続いているって案外知られていないのかな?って思ったりします。
LGBTのパートナーシップ制度がなぜ渋谷や世田谷や宝塚で始まったのかといえば、自治が他の自治体よりまともに働いて弱者への考え方が分かりやすくていいから子供をもたないLGBT達も大勢引っ越してきていて納税を惜しまないんです。もう30年以上この傾向は続いているんですよ。HIVが身体障碍者に認定されて30年経つのと無縁ではありません。
障がい者認定をするというのは当時も今も行政の保護下に実名登録することです。マイナンバーどころではなく健康プライバシーを行政の台帳に書き込むことで保護が与えられる、という制度です。
最初に人口流入が目立ったのは横浜です。障がい者手帳に障害等級のページと生涯部位のページが明確に分けられていたから「何の障害か」というプライバシー情報は自分が許可した人にしか見えない仕組みになっていた。だけど帳面の書かれ方と福祉の手厚さは違うわけです。
「免疫機能障害=HIV/AIDS=ホモだゲイだとイジメられる」ことを恐れた人が真っ先に横浜へ引っ越したんです。HIV陽性者たちの中ではいの一番に障がい者手帳の申請の受付態度、職員の言葉、手帳の様式、生涯部位がどこに書かれているか、どんな障害者支援制度の説明を受けたのか・・・90年代末に始まったこの制度、インターネットの普及もまだまだの段階から当事者の情報交換はすごい勢いで進んでいました。で、東京都の障碍者手帳が横浜市に近づいて今のスタイルに変わるまで20年かかっているのです。そのぐらい自治体ってタコツボで、一度作ったものを変えようとしない。しかも既存の弱者への福祉政策って当事者を抜きに当事者の意見も聞かずに健常者(しかもほぼ男性だけ)で作ったものばかりです。女性目線、LGBT目線、障がい者目線がないまんまで制度設計されているから問題なんです。障がい者福祉センターがついこの前まで「障がい者当事者団体は利用資格がない」という施設が大半だったって案外知られていない。障がい者は「お世話されなければ生きられない人」だから自助団体は存在しないと決めつけていたんです。私がHIV陽性者のNPOを立ち上げようとしたとき猛烈な攻撃にさらされましたが、その時相模原市の障がい者福祉センターは「障害に困っている人を支援する人が使う施設です」と門前払いをしました。(今は改正され何事もないようにふるまっています。)
思ってもみてください。同性の他人同士がアパートなどの賃貸物件に住まうって、大概「アジト」だと目されるので、ヤクザや薬の売人が集まっているというイメージになりがちなんです。管理組合の目を通すにせよ「いとこ」とかにしないと了承は得られないなんて「ざら」です。
LGBTQの中には稼ぎまくっているデザイナーから何からが大勢いる一方で差別やいじめで精神疾患を持つにいたる人までいるわけです。なので普通の人間に変わらない、と思える人たちが多ければ何も考えないか、不利益を取り除いてあげたいと思うでしょう。それが今の東京都あたりの大半なわけです。そこで自治体側から一肌脱いで住みやすくしましょうとパートナーシップ制度を作った。(私も大学職員ですから税込みなら800万ぐらいはあるわけです)それが他の自治体職員目線では人口流出を加速されると危機感に襲われただけなんですよ。働き盛りの人口5%の減少。それが気に食わない議員がトランスジェンダー攻撃(オカマは女装という偏見から口走った)に走った。そんなレベルじゃないかなーと思っています。だから、住民より職員優先という東京都職員の事例もあるわけですが同時に住民なわけですから。どこから先に手をつけたかは重要ではないのです。労働者の福利システムに導入する、という労働環境整備に着手した組織体があるかどうかが重要です。

<ここでやっと初めて出てくるのが日本国憲法の「天賦人権論」でしょうに。>



ふるさと移住支援でうまく行っていない事例を見ていると、行った人が「餌食」にされているだけですよ。自分たちの子どもや孫に逃げられた地域の行事要員でしかないんだもの。雑用ばかり「他人」に求めてあとは自分たちで支配しようとあれこれ指図してきたって人を何だと思っているんだ?ってハナシ。限界集落かどうかではなく、集落の因習がなくなってから引っ越せばいいって話です。別に集落の全員死んでからでも他人には痛くもかゆくもないわけだし。

<東京都は美濃部都政の恩恵を改悪し続けている真っ只中>



東京都が今でも福祉制度が充実して良いのは、美濃部都政時代にそれだけちゃんとした福祉基盤を作ってあったからなんです。だから人も集まるし企業も集まって抜けない。都心であるからという議論のすり替えからそろそろ目を覚ます必要がある。土地代の高い都心部に会社を立てるから経費が増すわけで人口集中も起こるのでますます住環境が悪くなる。その不満を弱者が税金を使うからだとすり替えるのが経営者=支配者の奴隷化の論理だ。これは産業革命を見るまでもない近代の発想であり、現代に見合った発想ではない。だからアマルティア・センが出ようがトマ・ピケティが出ようがすべて「海の向こうの問題」として「ここは日本だ」「日本すごい」「日本のものづくり」「体操ニッポン」「水泳ニッポン」とまくしたてた。政策としてはありだけれども水際対策ではネット時代の情報遮断をできる層はおめでたい層に限られている。

今でも県域の自治体がここまでの水準を維持できるかといえばNOなんですよ。だから地方からすれば東京からおしゃれで稼ぎの良い人たちを引っこ抜きたいはずです。差別・選別といわれたくないから黙っているだけかもしれませんが。

例えば、ですが、「障がい者手当」ですが、東京の大田区は3級から支給されますが、ほとんどの区や市は2級(日常生活に支障がおきる)まで出しません。さらに働いていた人が病気で無収入になった場合ですが健保は傷病手当を自動的に出しますが、自治体の障がい者向けの医療費補助制度である「マル障」は年収ベースで受けられたり受けられなかったりする。
台東区は届け出で無収入に切り替わったことを証明しないと働いていた人が「マル障」(医療費の公費負担制度)適用は絶対にしないんです。不利益に見舞われた人でさえ受益者負担なのです。(これが自己責任社会です)
大田区に引っ越した時に私は台東区にいた2年分、私費で医療を受けていたことがわかります。ただ、私の場合私費だったとしても傷病手当が年間300万ぐらいあったのと、医療機関が自主基金を持っていてくれ、年収回復までの1年半金銭に問題のある生活保護者の金銭管理と同等に一日2000円ずつ貸してくださったのでなんとかなっていたのです。ですが、私は年収回復したあと大田区へ引っ越したのに2000円の3級障害に手当をくださるというので、「生活保護者のために「マル障」で受けるはずだったお金を辞退して役立ててもらおうという風に考えます。」と伝えました。
だから、といいますか精神科医療や障がい者職業センターやそれぞれの利点を徹底的に知った上でサポートし伴走してくださったアパリクリニックの精神保健福祉士村岡さんには心から感謝をしているわけです。
この1日2000円のシステムもアパリクリニックがダルクとともに当事者へ行っているシステムの一つですが、基金として先生方が寄付をして私のような一時的な無給者・無職者に無利子無担保で貸してくれることまでしてくれたのです。働けるようになった今、ダルクやアパリや12ステップグループで回復した人たちが仕事を得やすくする、家族との暮らしを良くしようとする、地域サービスの一つに事業として迎え入れられることを願って、お米やお肉を贈ったり、退職金をつかって福祉作業所などの資本にしようと考えています。これだけ優れた才能や資質のある人たちを病気や一度や二度の投獄で失ってはならない。納税者に変えて一緒に歩むことこそが急務だとさえ私は考えている次第です。なんとかしなくっちゃ、なのです。

<2004年の神戸「春日野道商店街」で目の当たりにした「意識高い系」の「障がい者差別」を盾にした「弱者いじめ」>

そこで交わされた会話のあらましはカギカッコ、マルカッコはその場で立ち上がり消えていった私の感情である。
大きなダイソー(両開きの自動ドアつき)の向かいにあるこじんまりした100円ショップ(昔ながらの木造店舗)で買い物をしていた時、恐ろしい形相でやってきたご婦人方数名が店主を取り囲んだ(つるし上げ)。
お客である私がいる、ということなどお構いなしに何をまくしたてたか。
「私達はこのあたりで障がい者の福祉の仕事をしている者だけどもね、この前アンタの店は車いすの人を店に入れさせず玄関先で対応したそうじゃないか(出た!意識高い系!)」
「間口がせまく、1本しかない通路を車いすが通れませんので、ご希望の品物をご覧に入れたんですが(よくわかっていらっしゃる。通路の突き当りはレジで商品は両側の壁側にしかないのだ。)」
「商店街で晒し者にしたら傷つくでしょう!?(え?神戸って障がい者が街を歩くだけで傷つけられるんですか?そんな街なんですね?)」
「ここは車いす対応できませんって看板立てたらどうなのよ」(車いすの障がい者、この人たちに飼いならされて性格悪く飼育されてない?)
なぜ自分は春日野道に居たのかといえば、「AIDS文化フォーラム2004神戸」というイベントがあったからである。「AIDS文化フォーラム」は1994年の国際AIDS会議の開催時に国内の民間NPOが国際会議を記念してスタートしたAIDS問題とAIDS対策をテーマにしたイベントで、神戸での開催は後にも先にもこの1回しかない。京都や九州へと全国にイベントの手法とメッセージを引き受けている拠点が育っているのに、神戸は別だ。ある医者とHIV活動家の功名心から「やらされた」イベントだからだ。コミュニティから「もう二度とやりたくない」と愛想をつかされたことだけを明記しておく。翌年の「アジア太平洋地域ブロック国際エイズ会議」開催をもし「大変だ」「地獄を味わった」という輩があったとしたら、そいつこそが功名心だけですりよった詐欺師である、ということだけを申し上げておく。
それはそれとして、年月とともに地域がかわるのだろうと期待していたのだが(相模原市の障碍者福祉センターが当事者団体に門戸を開いたように)神戸がいかに閉鎖的な「ムラ社会」かというのは10年後、まさか応援している「神戸ダルク」が被害に遭うとは思ってもみなかった。

同じ春日野道商店街のハズレに神戸ダルクはひっそりと活動を始めた。タコス屋を開店させようとしていた矢先に、工事をしている入寮者の袖のふちからちらりと見えたTATOOを見逃さない「意識高い系」が神戸ダルクの人たちを取り囲んで今度はつるし上げた。「覚せい剤の連中を入れるわけにはいけない」というわけだ。
神戸ダルクは新長田にとっとと移転し、住民の皆さんたちと共に街づくりを進めている。今、おしゃれなタコスハウスも経営しはじめ地域の人たちに親しまれる味を提供しているし、私も神戸ダルク5周年のイベントに昨年出かけてきたばかりだ。新長田は阪神淡路で壊滅的な被害を受けた地域でもあるだけに、新しい人がどんな過去があろうが受け入れてくれる寛容な街でもあった。だから一緒にこれから作ろうとすることについて一生懸命だった。代表の梅田夫妻はフロンティア精神にあふれている一方、梅の実がとどけば1年分の梅干しを作ったり、農作業プログラムで玉ねぎやニンジンやジャガイモを沢山収穫できる農園もやっておられる。梅仕事もできる生活感覚の整った人たちでもある。(私は神戸ダルクを心から応援しています。)

別に神戸市に恨みがあるわけでも呪いがあるわけでもない。ただ、神戸から出てきた活動家がとんでもない法律まで作り上げて数十年来の己の差別感覚を実体化させたことへの怒りだけは忘れない。(この稿未完)


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