居場所
高校生時代、僕が所属していた剣道部の皆んなは碌に日々の稽古もままならない自分なんかにも居場所でいてくれました──── ────
僕は小学校一年生から中学校3年間、そして一応は高校3年間と剣道を続けていました。
高校2年生の夏に、僕は一度剣道部を休部しました。
それは僕が皆んなと同じようには稽古に付いていけなかったことが始まりでした。
元来より僕は夏場の暑さにめっぽう弱い方だったのです。
小学生の頃は地区のソフトボール大会の練習後に熱中症を起こし勢いもそのままに少し倒れてしまい頭を強打しました。
中学生の頃は剣道部の夏休みの稽古中、立っていられない寸前ほどの状態の中、顧問の先生から「大丈夫?」と聞かれ、「大丈夫です」と答えましたが、全くもって身体は大丈夫ではなかったようで吐き気を催し、流石にそれ以上はまともに稽古を続けられず結果的に熱中症となりました。
顧問の先生からは「大丈夫じゃない時はきちんと大丈夫じゃないと言いなさい」と諭されました。
高校に上がった時も剣道部に入りました。
しかし夏場の暑さに弱いことは変わらぬままでした。
何度も限界寸前まで、これ以上は危険だというところまで稽古を続けていたと自覚しています。
これには顧問の先生も理解を示して下さいました。
実質、二階建ての武道場の一階にある男子トイレの個室でへたり込んだまま動けなくなり、肩を貸してもらいながらトイレを出ました。
酷暑の中の稽古にも僕を除く皆んなは懸命にハードな稽古に喰らい付いています。僕は防具の類いを脱いだ格好で、それを激しく肩で息をしながら、半ば頭がぼーっとした状態でただただ皆んなの稽古の様子を見ることしかできませんでした。
また熱中症手前までとなり、先生から親御さんを呼んでそのまま病院に行きなさいと言われ、母が到着するまで先生の指示通り部室で横になって過ごしていました。
自身のあまりの不甲斐なさに涙が出ました。
ちょうど先生が部室に僕の様子を見にこられた際に僕が泣いている姿を見られてしまいました。
先生からはとても心配されました。
その時も僕は先生の問いに、大丈夫ですと答えました。
それらをだんだん引け目に感じてしまい、高校2年の夏休みに顧問の先生と一対一で話す機会を作って頂きました。
その時は剣道部を辞めようと思い、その場に臨みました。
ですが先生からの提案で「退部ではなく、休部にしてもいいんじゃないかな。ひろきの居場所はきちんとあるんだから」と仰ってくださりました。
そしてしばらくは休部するという選択をしまし
た。
ですが、それは後々尾を引くことになってしまいます。
同期の皆んなはそれを受け入れてくれていたのだろうと思います。
一人一人にそのことを聞いた訳ではないので実際どう思われていたのかは正味のところわからないのですが。
休部期間を経て、部活に戻ったところ皆んなは前と変わらず接してくれました。
しかし、相変わらず稽古には自分だけ付いていけないということは夏を過ぎても変わることはありませんでした。
稽古中、呼吸が荒くなり動悸を感じ、途中で自分だけが稽古から抜けて休憩する。
自分はなんでこんなにも弱いのだろうか。
なんでこんなにも情けないのだろうか。
その現状をなんとかするためには何をどうすればいいのだろうか。
きっと体力をつければいいのだろうと、帰宅してからランニングに行き、竹刀で素振りをしました。
しかし結果は芳しくありませんでした。
皆んなに顔を合わせることがなんとなく心の中で申し訳なく思い、次第に部活のみならず学校からも足が遠ざかってしまいました。
そして高校3年に上がる春休みに初めて心療内科を受診しました。
そこで一通り事の顛末を話したことろ、その先生からは防具を着けて、特に面を被る時に閉塞感などを身体が受け取っているのではないかと、
"パニック障害"と診断されました。
それについてはそこから数年後、精神科の病棟に入院した際の心電図で脈拍が異常な数値だったそうで「よくこの状態で剣道をできたね」と言われ、更に「パニック障害ではなく不整脈が原因だったのでは?」と言われました。
話を戻しますね。
その後、僕は顧問の先生に病気について話をしました。
その日は母がわざわざ学校まで車で送ってくれていました。
先生から「今日ひろきのお母さんは来てるの?」と尋ねられたので「駐車場に居ます」と返答しました。
すると先生は「少しお話しをしてくる」と仰り、母の元へと向かわれました。
僕はその時顧問の先生に病名は伝えましたが僕が心療内科で受けた詳細な内容は話していませんでした。
後々母から聞いたところ、母から僕の家での様子や症状などを聞いた先生は母の前で僕のことを大変心配して下さり涙を溢されたそうです。
そして、その日の稽古の終わりに心配してくれていた同期の皆んなに集まってもらい現状を伝えました。
その時僕は同期の部員に「皆んなと同じようには稽古はできないと思うけど、剣道部は続ける」と伝えました。
後々に聞いたのですが、ひろきは大丈夫かなと心配してくれた他の部員たちに対して同期の男子部員たちは僕が休部した時「自分たちは〇〇が帰ってくることを待つだけやけん」と言っていてくれたそうです。
その後は先生のご厚意もあり、付いていけるところまでの稽古は防具を着けて短い時間で稽古をしたり、新一年生で剣道を未経験の後輩に素振りの仕方や防具の着け方を教えたりしていました。
そしてなんとか曲がりなりにも皆んなと同じタイミングで卒部することができました。
その全てが叶ったのは僕に剣道部という居場所を皆んなが与えてくれたからこそです。
顧問の先生や同期の皆んながいてくれなければ僕は高校すら退学していたかもしれません。
本当に頭が上がらない思いでした。
だからこそ今となって思うことがひとつあります。
県外に就職した友達がもし疲れきってしまったら。
そして故郷に戻るという決断をしたその時は。
僕の居場所で居てくれた分、今度は僕が居場所となって、心から「おかえり」と言葉をかけたいのです。
ですから、僕は地元の福岡を出ることはよっぽどの事情が無い限り、今後も恐らくないと思います。
長々と自分語りをしてしまいすいません。
ただ、自分にとって居場所があるということの安堵する気持ち、ありがたさを言葉に変えて今綴っています。
これは短くまとめますが、現在僕が非正規雇用で勤めている介護施設の主任から、なかなか出勤できず僕が休職をしているような状況だった時に「心身共に安定していないと寄り添った介護はできません。〇〇くんの居場所はきちんとここにあるので安心して療養して下さい。また落ち着いたら元気なお顔を見れることを楽しみにしています」と仰ってくださり、こんなにも人に優しい職場が他にあるだろうかと思うほど僕の精神疾患に深く理解を示して頂きました。
なかなか居場所が無く、辛い思いをされている方は少なからずいらっしゃると思います。
僕は居場所と優しさを充分に与えてもらった分、今度は僕自身の言葉を誰かへの拠り所にしたいと本気で思っています。
これは軽々しい言葉、気持ちではありません。
これは、これからを生きる僕の役割だと身勝手ながら感じています。
生きる辛さ、苦しさ、地獄を見てきた自分だからできることなのではないかと。
安っぽいチンケな言葉を吐いたつもりはありません。
過去のnoteの記事でそう腹を括ったのです。
届けるために身近なところかもしれません。
届けるためには随分遠いところかもしれません。
ですが、言葉を、想いを、気持ちを伝えることに距離は関係ないと思っています。
沢山の苦悩を抱えながらでも、今この記事を読んで下さっている貴方へのメッセージです。
苦しみながらでも必死に生きている貴方へのメッセージです。
"ひろき"こと僕は、今を生きています。
これは紛れもない事実です。
なので、貴方も僕と一緒にこの生きにくい世界をまだ生き抜いてみませんか?
僕もまだまだ生きると思いますので、手を取り合いましょうよ。
その傍に僕の言葉があるとしたら、それは何よりも幸いです。
さあ、まずは今日という日を。
そして明日という日を。
その次には明後日という日を。
目の前の短い少し先を生きて積み重ねていこうじゃありませんか。
大丈夫。
貴方はここまで生きてこれました。
だから大丈夫だと少なくとも僕は貴方を信じています。
どうか僕と同じく生きることに悩める貴方の、生きるためへの居場所にでもなれますように。
悩める方へ最大級の願いと祈りを込めて。
貴方を安心で包み込めますように。
ひろき
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