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銀河フェニックス物語 【出会い編】第四十話  さよならは別れの言葉(まとめ読み版)

宇宙船レースのS1で”銀河一の操縦士”が”無敗の貴公子”を追い詰めていた。
銀河フェニックス物語 総目次
<出会い編>三十九話「決別の儀式」レースの途中に ①  
<会社員編>「起業家の夢は宇宙に輝く」

 銀河最高峰の宇宙船レースS1最終戦、ナセノミラのコース。

『無敗の貴公子』エース・ギリアムは、ラストの三十周目をトップで飛ばしていた。
 きょう勝てば、無敗のまま引退できる。だが、後ろから『銀河一の操縦士』レイター・フェニックスが猛追してきた。

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 ゴールまであとわずか。最後のストレートに入った。

 すごいレースだ。瞬きもできない。
 クロノスのピットでティリーは手を握り締めた。

 レイターが操るエンジン『直線番長』がうなり、エースに襲い掛かる。
『は、速い。これは瞬間最高速度のレコードが更新されそうです』
 実況の声が裏返っている。

「いかん」
 隣にいたメロン監督がつぶやいた。
 エースのプラッタはこれ以上のスピードはでない。
 一方で、レイターのこの勢いなら、ゴールぎりぎりでエースを追い抜く。
 ありえない加速。

 レイターが操縦するハールが金色に輝き、緑の消火剤をまきちらした。
 その様子は美しく神々しさすら感じた。

 ジョン先輩が叫んだ。
 その声が切羽詰まっていた。
「やばいよ! レイターはパラドマ発火を起こす気だ」

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「え?」
「このままじゃ、空飛ぶ棺桶だ。自殺行為だよ。レイターが死んじゃう!」

「いやだ、レイター、死なないで!」
 自分の声が自分の声に聞こえない。

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 メロン監督が、通信機を手にした。
「消防艇をすぐゴールに」

『ハールが不自然に光っています。その様子は、まさに不死鳥フェニックスを彷彿させます。今、エースのプラッタに追いつきました』

 レイターがエースの横に並んだ。

「お願い、燃えないで!」
 わたしは神さまに祈った。




 あれは、同期のチャムールと出かけた軍の宇宙航空祭の帰り道だった
 
 わたしは、チャムールと二人で火星の連邦軍基地の近くを無言で歩いていた。
 戦闘機がオレンジ色の空へ上昇していくのを複雑な思いで見上げた。

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 航空祭の催しである戦闘機の模擬弾戦闘にレイターは代理で出場し、鮮やかな飛ばしを見せて優勝した。
 わたしはレイターにたずねた。これまでに模擬戦ではなく実戦でどれだけ勝ち抜いたのかを。
「五十二戦五十二勝」
 彼は淡々と事実を伝え、わたしはその重さに気持ちの整理がつかないまま帰途に着いたのだった。

 実戦は勝たなくてはいけない。負けたら死んでしまうのだ。
 そして、勝ち残ったレイターの裏には奪われた命が存在する。

 これまでもレイターは何度危険な目に遭っても平気な顔で帰ってきた「俺は不死身だぜ」とニヤリと笑って。

「厄病神って不死身なのかしら」
 問いかけというよりは独り言をつぶやいた。
 チャムールが足を止めた。

「アーサーが言っていたわ。不死身、というか…レイターは死を恐れていないから死の直前まで向かっていってしまうって」
「死を恐れていないって、どういう意味?」
 チャムールは目をそらした。わたしに話そうか話すまいか、迷っているように見えた。

 轟音とともに戦闘機が急降下して基地に着陸する。
「レイターの話なら聞かせて」

 次の言葉を待った。

 沈黙に押されるようにチャムールは口にした。
「七年前の話よ。フローラが亡くなって、レイターはお葬式の場で後を追おうとしたそうよ。頭を銃で撃とうとした。それをアーサーは止めなかった、けれど、お父さまの将軍が止めた」

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 驚きながらチャムールに聞き返す。
「え? それは、レイターが自殺しようとしたのを、アーサーさんが止めなかったということ?」

「そう。アーサーはその時は、その方がレイターにとって幸せなんじゃないかと思ったんですって」

 信じられない。怒りが沸き起こる。   
「何なのそれ? アーサーさんはレイターの友だちじゃないの? レイターが死んだほうがいいっていうの?」 

 友だちという言葉を口にして、違和感を感じた。
 間違えた。レイターとアーサーさんはフローラさんを挟んだ義理の兄弟だ。いずれにしてもアーサーさんは自殺を止める立場にいる。

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「ティリー、落ち着いて。アーサーも、今ではその判断が間違っていたと考えているわ」
「当たり前よ」
「でも、当時のレイターにはフローラしか拠り所がなくて、アーサーは、自分はフローラの代わりになれないし、レイターを支えられるとも思えなかった。それほどにレイターとフローラは依存しあっていたって」 

 苦しい。聞きたくない話。でも、わたしが聞かせてと言ったのだ。 

「その後、レイターは積極的に死にたい、とは言わなくなったけれど、いつ死んでも構わない、って思っているんだろうって…」

 レイターはずっと『愛しの君』であるフローラさんを追いかけている。

 同じような話を、御台所のヘレンさんから聞いたことを思い出した。

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「彼は死んだ彼女のことしか考えていなかった。レイターは病んでたわ。レイターは死んだら彼女に会える、って滅茶苦茶な飛ばしをして、船に乗ったまま死にたがってた」と。

 裏将軍時代のレイターはそうだ。当時の動画を見ても、死と紙一重というところで飛ばしていた。

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 でも、わたしと飛ばしている時のレイターは違う。絶対に事故らないという安心感があった

 なのに、今、レイターはここS1のコースで、自らパラドマ発火を起こして船に乗ったまま死のうとしている。どういうこと?
 この勝負でエースに勝って、そしてフローラの元へ行こうとしている。

 もう、やめて。

 フローラに対して憎しみがわく。
 ひどい、レイターを連れて行かないで。

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 許さない。


 レイターとわたしは喧嘩ばかりしていたけれど、楽しいこともたくさんあった。
 助手席から見る銀河一の操縦士はいつも幸せそうに見えた

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仕事の合間にお祭りやイベントに出かけたよね。デートのようで、わたし、勝手にときめいていた。

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仕事もたくさん助けてもらった。なのに、お礼も言ってない。

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修理をするレイター

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料理をするレイター

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バスケをするレイター

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あの笑顔は偽物だったの?


「俺のティリーさん」ってどんな気持ちでわたしを呼んでいたの?

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 いつもおちゃらけて、本心を見せてくれない。
 けれど、時々透けて見える。孤独と戦っているのが。

 生きることがそんなに辛い?
 だったら一人で抱えないでよ。

 レース実況のボルテージが上がる。

『二機が並んでいます。先にゴールを切るのは無敗の貴公子、エース・ギリアムか、それともスチュワートの新人、レイター・フェニックスか?』

 ゴールラインに二機がもつれ込むように突入する。

 わたしのことなんてレイターの眼中にはないのかも知れない。
 でも、「ずっと一緒に飛んでくれ」ってあなたが言ったのよ。

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 わたしは、あなたとずっと一緒に飛びたい。

 全速で飛ばすプラッタと、金色に輝くハール。
 二機が並んでゴールラインを超えた。

『おっとぉ、どちらが先にゴールしたんでしょうか? 中継席からは同時に見えました。目視ではなく機械判定を待ちます』

 どちらが勝っても、もうどうでもいい。
 ハールが燃えないで、火が出ないで。

 ウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥ……
 緊急サイレンが鳴った。

 レイターは不死身なんでしょ。お願いだから死なないで!  

 

 ゴールを切ったハールに、消防艇が消火剤を吹きかける。
「レイター!」
 機体が白い泡に包まれていく。

 ピロロロロ……。
 順位の計測中を示す待機音がモニターを通して会場に響いた。

 コントロールタワーの横に設置された着順を掲示する大型ビジョンを見上げる。
 三着以下はすでに名前が掲載されている。上位二つの枠が空欄になっていた。

 これまで常にエースの名前が最上位に掲載されてきた。だから『無敗の貴公子』なのだ。

 更新を示すライトの点滅が速くなる。

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 ピット中が息を呑んで見つめる。
 いや、銀河中の人が見つめている。

 エースに有終の美を飾って欲しい人。
 エースが破られる瞬間を見たい人。
 人々の興味が『無敗の貴公子』をめぐる勝敗一点に絞られる。

『さあ、判定がでそうです。優勝はどっちだ?』

 誰も動かない、静まり返っている。

 知りたい、知りたくない。

 ピロロロロ……。
   ・
   ・
   ・

 ピーーーーーー。


 結果は出た。



 エース・ギリアム <クロノス> 1時間56分32,45

 一番上に輝いたのは、王者エースの名前。
『優勝は無敗の貴公子です。エース・ギリアム、ついに無敗を守り切りました』

 ヤッタァーー!!!!!
 クロノスのピットは、全員が立ち上がり、立っていた者は飛び上がった。

『二着がチーム・スチュワートの新人、レイターフェニックスです。スチュワートはこれが初めての表彰台です』

 いつも冷静な年配解説者が興奮している。
『すごい、すごい、すごい! すごいレースだ。こんなレースを目の前で見ることができるとは。無敗の貴公子の引退試合は、歴史に残るレースだ。スチュワートの健闘にも拍手を送りたい』

 レイター・フェニックス <スチュワート> 1時間56分32,46

 大型ビジョンにスロー映像が流れる。
 コンマ0.0一秒差でプラッタが先にゴールしていた。

 エースがウイニングランに入った。

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 レイターのハールは燃えなかった。
 白いホイップクリームに包まれたお菓子のようになっている。

 わたしは力が抜けて椅子に腰かけた。

 ゆっくりとハールは壊れていった。お菓子が割れるように、ペラペラの機体が、羽が、バラバラに分解し始めた。

 ゴールの場所は急遽変更され、後続の船は次々と第二ゲートへ誘導されていた。
 ゴール横では消火剤にまみれたハールの崩壊が続いている。
 スチュワートのスタッフも危険で近寄れないでいた。

『ハールは一回しかエネルギーチャージしていないから、もう燃料は残っていない。爆発の恐れはないよ』
 と解説者がコメントした。

 モニターに映るハールの残骸を見ながら、ジョン先輩がつぶやいた。
「船の限界を越えてたんだ。レイターはよく、ゴールまで持たせたもんだ」
 あのどこかにレイターがいる。生きている。胸が締め付けられる。

 レイターは、ハールの最後にお別れしている。

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 目には見えないけれど伝わってきた。  

 表彰式に準優勝のレイターの姿は無かった。

 船の後片づけが終わらないと言う説明だった。
 レイターの代理で四位に入ったチームメイトのコルバが表彰台に上った。

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『万年六位と呼ばれてきたコルバですが、きょうはいい飛ばしを見せました。今、入ってきた情報によりますと、レイター・フェニックスとは戦闘機乗り時代からの盟友とのことです』

 知らなかった。
 レイターがチーム・スチュワートを応援するわけだ。


 続いて、表彰台の一番高いところに、わたしの推しが立った。
 ついに『無敗の貴公子』はここからおりることなく、その名のまま引退する。

 エースが笑顔で人差し指を立てた右腕を高く掲げた。一番のポーズ。
 歴史に残る大接戦を無敗の貴公子は制したのだ。

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「みなさん、ありがとう。僕はきょうでS1を引退します」
 エースのあいさつに女性ファンから黄色い声があがった。
 エース、やめないでぇ!
 
「僕を愛したように、S1を愛し続けてください」
 無敗の貴公子はどこまでもかっこよかった。

 わたしの憧れ、わたしの推し。こらえきれず涙があふれた。

 ありがとう。

 三位のオクダが表彰台で泣きながらエースに握手を求めた。

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 一緒にデビューして以来、エースのライバルとして対戦してきた。きょうの最後のレースで勝ちたかっただろう。予選から気合いが入っていたことはよくわかった。

 オクダがエースに勝利することはついになかった。けれど、その表情に悔しさがなかった。
 エースと戦ってきたことを誇りに思うすがすがしい涙だった。 

 「オクダはいいレーサーだ」エースの言葉を思い出す。

 情報ネットワークは大騒ぎだ。

 レイターが積んでいたエンジン『直線番長』のメガマンモスファンが狂喜乱舞して大量に書き込んでいる。
 ナセノミラのコースレコードと公式の瞬間最高速度を、レイターが大幅に更新していた。

 レイターが言っていた通りだ。「エースは速くねぇが強い」速さでは『銀河一の操縦士』が勝った。でも、勝負は『無敗の貴公子』が制した。

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 エースの引退を優勝で飾る、というわたしの仕事は無事終えることができた。
 けれど、心が半分に引き裂かれているような感覚。
 わかっている。レイターのことが気になっている。

 
 あれは、宇宙船の見本市スペースシップショーの出張だった

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 レイターとエースが試乗コースで隠れて対戦し、レイターが勝った。
 けれど、エースに宇宙塵が当たったことから、わたしは不公平だとバトルの無効を訴えた。 

 不公平かどうかは誰にもわからないのに…。

 後から聞いた。
 バトルの直前にレイターはわたしたちを守って肋骨を折っていたことを。

 出張から戻り、謝るわたしにレイターは宣言した。
「ティリーさんの言うとおり、誰にも文句をつけられない状態でエースとバトルがしたくなった。あいつが引退する前に決着つけてやる」と。

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 ずっとレーシング免許なんて無駄だと言い続けていたレイターが、ライセンスを取ってレーサーになり、そして、文字通り、このS1の最終戦で命を懸けて戦った。

 決着はついた。
『銀河一の操縦士』は公式戦で『無敗の貴公子』に破れたのだ。

 レイターが死ななくてよかった、とわたしは喜んでいるけれど、本人はどう思っているのだろう。

 あそこで、彼は本気で死ぬつもりだったに違いない。
 レイターにとってレースで負けるとは何を意味するのだろう。エースは引退し、もうリベンジの機会はない。
 銀河一の操縦士にとって宇宙船の操縦は彼の人生そのものなのだ。

 人生の敗北…。
 
 そんなことはない。あのレースを見たらわかる。
 機体の能力が違いすぎた。でも、それを含めて勝つことがS1での勝利だ。

 レイターのこと、わかっているようでわかっていない。

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 わたしにできることなんて何もない。それでも、会いたい…。

 『無敗の貴公子』の引退。

 情報ネットワークには「卒業おめでとう!!!」と涙の投稿があふれた。
 マスメディアは一般のニュースや情報番組で大きく取り上げた。エースはただのレーサーじゃない。大企業クロノスの次期社長なのだ。
 ジュニア時代から天才少年として注目されていたエース。幼いころのお宝映像も飛び出した。

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 漏れがないようにすべて録画した。

 そして、番組はレイターのこともあわせて取り上げていた。
 万年六位のスチュワートが無名の新人起用で念願の表彰台へと躍り出た、『期待の新生あらわる』と。

 レイターのプロフィールが流れる。
 有名人のエースと違って映像が少ない。

 レイター・フェニックス、純正地球人。
 天涯孤独で連邦軍のジャック・トライムス将軍が後見人となっている。

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 将軍の子息、アーサー・トライムス殿下と少年時代から行動を共にし、十四歳という最年少で皇宮警備予備官となり小型二級の免許を取得。戦闘機部隊で活躍する。

 レイターではなくアーサーさんの映像が説明に合わせて使われていた。
 将軍家のアーサーさんの素材はテレビ局にふんだんにあるのだろう。

 ソラ系へ戻り月の公立ハイスクールへ入学。制服を着たレイターの写真が映し出された。

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 情報ネットワークにアップされていたもののようだ。友人が撮影したスナップ写真だろうか。高校生とは思えない幼い笑顔だった。 

 プロフィールの紹介は続く。

 ハイスクール中退後、将軍家を飛び出しギャラクシー・フェニックスの総長『裏将軍』として君臨。飛ばし屋統一時代を築く。

 このころの映像が次々と放送された。ほとんど投稿動画だ。
 見ているだけで怖い。小惑星帯を駆け抜ける死と隣り合わせの飛ばし。

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「皆さんは真似しないでください」とアナウンサーが呼びかける。

 そして、ギャラクシー・フェニックス突然の解散。
 限定解除免許を取得し、宇宙船メーカー大手のクロノス社へ入社する。
 見慣れたうちの本社の外観映像が映し出される。

 一年で退社後、ボディーガード協会に登録し、フリーの操縦士とボディーガードで生計を立て今日に至る。

 どこかの国際会議で警備をしているよそいきレイターの映像が流れた。要人の後ろに立つ姿は普段と違って凛々しい。テレビ局の人がよく見つけてきたと感心する。

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 レイターの過去。

 ほかにも何かある気がするのだけれど、放送されているのは全部わたしの知っている話だった。

 番組を見ながら思う。レイターの人生は普通じゃない。
 話題性に富んでいて、マスコミが放っておくはずがない。

 急に遠い人のように感じた。

 レイターはレース後、メディアのインタビューに一切答えないで、そのまま雲隠れしてしまった。

 住所登録している将軍家の月の御屋敷まで出かけコメントを取ろうとした強者の記者もいたけれど、侍従頭のバブさんに門前払いにあっていた。  

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 エースが引退した後のS1界を引っ張るレーサーとして、まさにレイターはうってつけだ。各チームがレイターの獲得に動きだした、という気になる記事も出ていた。  

 レイターは、次のシーズンどうするのだろう。ハールは跡形もなく壊れてしまった。

 エースが引退した後、うちのチームはどうするのだろう。
 クロノスがレイターを第一パイロットとして引っ張る、という選択肢はあるのだろうか。 

 クロノスの船にレイターが乗る。

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 想像すると胸が弾んだ。うちの船は文句無く銀河一だ。
 それに銀河一の操縦士が乗れば、優勝間違いなしだ。

 レイターはエースより速い。エースの無敗伝説だって塗り変えてしまうかも知れない。

 でも、でもそうはならない気がした。
 レイターはクロノスの船に乗らないだろう。あの人はそういう人だ。

 かといってほかのチームに乗られても困る。うちの第二パイロットじゃ、絶対レイターに勝てない。

 もやもやした気分が晴れない。

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 直接レイターに聞けばいいのだ。
 どうしよう。レイターと話したい。

 フェニックス号の通信番号をセットする。

 でも、何と切り出せばいいのだろう。
「惜しかったね」「残念だったね」「あと少しだったね」「がんばったね」
 どれも違う。
 優勝したエースの側のわたしからかける最初の言葉が見つからない。

「無敗の貴公子はさすがでしょ」
 と、いつものように軽口で自慢してみる? いや、あんなすごいレースを見た後じゃ言えない。

 ほんとうはレイターから声をかけてくれたらいいのに。
 いや、この状況でレイターがわたしのことなんて思い出しているはずがない。

 通信ボタンの前で躊躇をしていたら、着信が入った。


 営業時代の後輩、サブリナだった
「ティリー先輩、相談に乗ってください」

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 泣きそうな声だった。

「ど、どうしたの?」
「この記事、見ました?」
 サブリナが送ってきた記事を確認する。

「スクープ!『無敗の貴公子』はかつてレイター・フェニックスに負けていた」
 大きなタイトルが踊っていた。

 六年前、レイター・フェニックスはクロノス社のテストパイロット時代にエースに勝ったことがある、と書かれている。

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 レイターが退社する前の騒動が記事になっていた。

「ああ、この話。出ちゃったんだ。でも、ちょっと間違っているわね。レイターは営業部だったからテストパイロットだったわけけじゃないわ」
「先輩、よく落ち着いてますね」     

「だって、本当の話だし、当時の担当者ならみんな知ってる話じゃない」

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「でも、箝口令が引かれてるじゃないですか」

 箝口令、という強制力のあるものかどうかはわからないけれど、『無敗の貴公子』のブランドに傷が付くようなことを、表だって話す社員はいない。

「誰がしゃべったか犯人探しが行われると思うんです。専務を裏切っているんですから」
「まあ、社員しか知らない話だからね」
 と口にしたけれど、わたし自身それほど深刻な感じはしなかった。心の中で表に出てよかった、とすら思っていることに気づいた。

「これ、しゃべっちゃったの。ジョンなんです」
「え?」
 サブリナがあわてている理由がわかった。

 ジョン先輩はサブリナの彼氏で、レーシング船の主任研究員だ

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 エースのための船を設計していて『無敗の貴公子』を貶める気持ちなんてさらさらないことはわかっている。

「祝勝会から酔って帰ってきたところに、知り合いの記者がいたんですって。おもしろい話はないかって聞かれて、つい調子に乗ってべらべら喋っちゃったらしくて」

 ジョン先輩らしい。
 先輩は宇宙船の設計で著名な賞を取るほどすごい人なのだけれど、政治的なことにはめっきり疎い。

 一方のサブリナは社内事情に敏感だ。

「わたしがこの記事に気づいて、ジョンに連絡を取ったら、あの人、何かまずかったっけ。なんて言ってるんです」

 ジョン先輩は、レイターと学生時代からの知り合いで仲がいい。

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 レイターがすごい、ってことを誰かに話したいという気持ちがわたしにはよくわかる。

「このままだとジョンが話したってことがすぐにバレて、社内規則十五条の『会社の不利益にあたる行為をしたものは解雇もありうる』が適用されちゃうんじゃないでしょうか」
「解雇? それはないと思うけど…」
 と言いながらも確信はなかった。

「ティリー先輩、何とかうまく取りなして欲しいんです。先輩ならエース専務と直接話ができるし」
「う、うん」
 あいまいに返事をして通信を切った。

 ジョン先輩の行為は情報漏洩にあたるのだろうか? 
 エースになんと声をかけよう。面倒な案件に気分がふさいだ。

 出社すると会社に正式な問い合わせがきていた。
『過去にエース専務とレイター・フェニックスの対戦があったのか。その勝負にレイターが勝ったのか?』

 広報のコーデリア課長が役員室に顔を出して頭を悩ませていた。
「事実を確認中です。とだけ応じていますが」

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 対戦があったのは確かだけれどあくまで非公式のものだ。

 そのバトルではレイターが先にゴールした。けれど、危険暴走行為を取られてエースに勝利判定がでている
 社として答える必要があるのかないのか。答えるのであればどこまで開示するのか。
 二人の副社長を呼んで緊急の話し合いがもたれた。

 サブリナには悪いけれど、すでにわたしが口を挟める状況じゃない。

 エースは動じていなかった。
「まあ、この情報は表に出て困るものじゃない。僕が説明したって構わないぐらいだ。だが、まずい情報もある。それをどうするかだ」
 表に出て困る情報。緊張した空気が室内に走る。

例のS1プライムですな」
 営業畑のアリ副社長が答えた。

 レース形式のS1プライム。暴漢に襲われたエースの代わりに、レイターが替え玉で出場し優勝したのだ。完全なS1規程違反。

 エースが二人にたずねた。
「どのタイミングでオープンにするべきだろうか?」

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「オープンにするんですか?」
 アリ副社長は驚いた声を出した。 

「後からばれるのはまずいだろ? レイターとの過去の対戦もこうやって表に出たわけだし。こちらからS1協会へ申し出て、規定違反の罰金を支払えば出場停止処分にはならない」
「しかし『無敗の貴公子』のイメージダウンは避けられません」

 エースはゆっくりと答えた。
「僕はきのうレイターに勝った。だから、もう構わない」

 自信にあふれた声だった。エースがレイターと戦いたかった理由がわかった。
 過去の敗戦や、レースでの替え玉が明らかになっても、エースがレイターに公式に勝った今であれば『無敗』のブランドイメージは崩れない。

 もう一人の副社長、研究所のサパライアン所長がにこにこしながら発言した。
「あいつを、レイターをうちへ正式に引っ張りますか?」

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 わたしの胸がドキっと鳴った。
 つまり、クロノス社のレーサーとして引き抜くということだ。

「それも選択肢の一つだ」
 エースが答えた。
「こりゃ楽しいな。またクロノスの連勝時代が来るぞ」
 サパライアン副社長はうれしそうだ。サパライアン副社長は、レイターがサッパちゃんと呼ぶほど親しい間柄だ

 アリ副社長が意見した。
「個人的にはレイターを雇うことに反対です」
 やり手のアリ副社長の派閥筆頭はフレッド先輩だ。

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 レイターとはそりが合わない。

「彼は素行が悪い。『無敗の貴公子』で築いてきたブランドイメージと離れすぎています」
 アリ副社長の言うとおりだ。レイターに貴公子と言う言葉は似合わない。
「しかも、契約金交渉がどうなることか」

 サパライアン副社長が笑った。
「ハハハ…ぼったくられるだろうなぁ。だが、払う価値はあるよ。あいつは広告塔としてもってこいだ。『裏将軍』ブランドの船なんて考えただけでもゾクゾクするね。二年前のS1プライムだって存分に利用できる」

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  アリ副社長は苦々しそうな顔をしていた。

 エースが決断した。
「これはビジネスチャンスだ。秘密裏にレイターとの交渉を急ごう」

 サパライアン副社長の顔が曇った。
「ただ、レイターの奴、昨日から全く連絡が取れないんですよ。とりあえずレースの感想を伝えたいと思ったんですが」
 サッパちゃんですら連絡取れないとは…。

「メディアの取材にも応じていないが、スチュワートが囲っているのかな」

 

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  エースの問いをサパライアン副社長が否定した。

「いや、スチュワートもレイターの行方を探しているらしい。内輪の祝勝会にも顔を出さなかったそうだ」
 レイターらしい。勝手に雲隠れしてる。あの人はフェニックス号が自宅で銀河中に隠れ家を持っている。

「ということだから、ティリー、至急レイターに連絡を取って欲しい。この件で打ち合わせがしたいと」
「え?」
 エースが突然わたしに話を振った。

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「聞こえなかったのかい?」
 サッパちゃん、いやサパライアン副社長でも連絡つかなかったレイターに連絡を取れ、と随分簡単に言う。

「す、すぐ、連絡を取ってみます」
 自信は無いけれどそう答えるしかない。

 副社長の二人が心配そうな顔でわたしを見た。 

「失礼します」
 エースの部屋を出て、入り口脇にある自分の机に座った。

 これは専務からの業務命令だ。
 わたしはレイターに連絡を取らなくてはならない。

 どうしよう、とにかくフェニックス号に架けるしかない。
 多分レイター本人は出ない。そうしたらホストコンピューターのマザーに頼み込むしかない。

 それにしてもレイターがうちのS1機に乗る? そんなことは無いというのがわたしの直感。
 だけど、契約金次第ではあるかもしれない。

 通信機を前に自分の心が弾んでいるのを感じた。
 フェニックス号の通信番号をタッチする。

「はい、フェニックス号です」
 予想通りだ。レイターではなくマザーが出た。

「ティリーです。レイターと連絡を取りたいのですが」
「レイターとは現在、連絡が取れません」
 マザーが即座に答えた。嘘だ。直感でそう思った。

「そこにいるんでしょ、レイター。居留守使わないで出なさいよ!」

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 気がつくと通信機に向かって大声を出していた。
 これは仕事なのだ。やらなくてはいけないのだ。仕事という大義名分がこれほどうれしいことはなかった。

 これでレイターと話ができる。
「仕事の話なの。どうしてもあなたに伝えたいことがあるのっ」

 わたしはモニターを凝視した。
 たとえレイターがいなかったとしても嫌がらせのようにこのままずっと通信回線を繋ぎっぱなしにしておこう。

 と、画面に人影が映った。
「ったく、俺は『いない』っつってんのに、お袋さん、何でばれたんだ?」

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 出た。
 寝起きといった顔のレイター本人だ。ソファーで寝ていたのか、いつも以上に髪の毛がはねている。
 心の中で思わずガッツポーズをした。やっぱりフェニックス号にいたのだ。

 つい調子に乗って、
「あなたのことは何だってわかるのよ!」
 と言ってしまった。

 レイターがにやりと笑った。
「そんなにティリーさんが、俺のこと愛してくれてたとは」
「ち、違うわ。あなたの悪巧みはお見通しってことよ」

「ま、いいや。大企業役員室の秘書様がビジネスのお話って言うんじゃ無視できねぇからな」
 仕事の話って言わなかったら出てこないつもりだったんだ。腹が立った。
「専務に変わります」

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 つっけんどんにわたしは通信回線をエースに転送した。

 エースとレイターの間で、どういう話がなされているのかわたしにはわからない。
 レイターの顔が見られてほっとした。
 少しだけ話をしたレイターの様子はいつもと変わったところがなかった。
 エースに負けて落ち込んでいるようでも無い。

 よかった。

 でも、もっと話がしたかった。
 レースの感想も伝えたかった。久しぶりにレイターの声を聞けてうれしかったのに、どうしてこうなっちゃうんだろう…。

 レイターとの通信を終えたエースが部屋から出てきた。
「ティリー、広報のコーデリアと詳細を詰めてくれ。後ほど記者会見を開く」
「は、はい」

 どういう結論になったのだろう。エースの顔を見つめた。
「レイターと契約交渉をする」
「え?」
 レイターがうちの船に乗るということ? 何だか信じられない。

 エースがにっこりと笑った。
「ただし、レイターはもうS1には乗らないそうだ」

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「は? 契約交渉を始めるという会見じゃないんですか?」

「そうだよ。レイターは我々に信じられない位バカ高い契約金をふっかけてきた。というか株式の無償譲渡だな。うちの会社が乗っ取られるくらいのね。それを表でやる」
「ということは…」
「当然交渉は決裂する」

 茶番だ。最大手メーカーのうちの会社が払えないものを他社が払えるわけがない。
「この会見で、S1プライムの替え玉もレイターとの過去の対戦も全てオープンにする。どれをとっても面白い記事になる。プラッタへの宣伝効果を考えると使途不明金を払っても安いものだ。今、情報ネットではレイターが乗ったハールやメガマンモスばかりが注目されているからね」

 エースの一言が気になった。
「使途不明金?」
 エースは答えなかったけれどわたしはピンときた。

 レイターが見返りの金銭を要求したということだ。ったくあの人は…。 

* *


 S1最終戦から一週間が経った。

 スチュワートが自社のファクトリーに足を踏み入れると、レイターがいた。顔を見るのはS1のレース当日以来だ。 

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 アラン・ガランと技術的な話をしている。こいつらはほんとに議論が好きだ。

 俺に気づいたレイターが、手を振ってあいさつした。
「スチュワート、お久し。今度、ギーラル社はスポーツ船のハールを作るらしいぜ。アイデア料を払えって魔法使いのケバカーンに請求しといた」

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 まったくこいつは、自由人というかめちゃくちゃだ。

 S1最終戦のあの日、廃船になったハールの片づけが終わると同時に、こいつは姿を消した。フェニックス号と一緒に。
 祝勝会のために高級店から取り寄せて用意していた料理と酒が、半分無くなっていた。
 俺たちチームのメンバーは、レイターの準優勝とコルバの四位を祝って乾杯したが、レイターは一人で残念会をしたのだろう。
 祝勝会という気分じゃなかったことは想像がつく。

 翌日、レイターは俺には何の挨拶もなしに、クロノスと来シーズンのS1契約交渉を始めた。

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 最終戦が終了した段階で、俺とあいつの契約は切れたから法的な問題はないが、普通は一言かけるだろう。

 この場で驚くことが明らかになった。
 あいつはエースの代打ちとしてS1プライムにプラッタで出場し、優勝していたというのだ。
「クロノスの船はいい。プラッタは最高だ。会社ごとほしい」
 とレイターはほざいた。天下のクロノスを乗っ取る気か。

 あっという間に交渉は決裂。

 わかった。これは茶番だ。
 プラッタの販売機数が見る間にメガマンモスを押さえて首位に立った。

 俺はレイターに話しかけた。
「S1にはもう乗らないのか?」
「ああ、もう充分さ」
 レイターは肩をすくめた。
「もったいないと思わないのか。クロノスのプラッタなら、次は優勝間違いなしだろ」
「そうだな。ま、今回だって、ハールで優勝できたんだけどな」
「どういうことだ?」

 レイターの代わりにアラン・ガランが口を開いた。
「レイター、お前の言うとおりだ、最後の直線で加速を続ければ、エースに勝って優勝できた。その代わり、お前は丸焦げになって死んだ」

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「今、ここにはいねぇだろな」

「お前は、最初から死ぬことを想定して、ハールとメガマンモスという組み合わせを選択した」
 レイターは否定も肯定もしなかった。アラン・ガランは続けた。

「ゴールのギリギリまで、お前はパラドマ発火を起こして死ぬつもりだった。だが、あと、コンマ五秒のところで思いとどまり、アクセルを踏み込むのをやめた」
「さっすが、老師の見込んだ男はよく見てるねぇ」

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 そうだったのか。

 最終戦の最後の最後。金色に光るハールはパラドマ発火を起こさなかった。『無敗の貴公子』には紙一重で勝てなかったが、機体が燃えなくて俺はついていると思った。

 あれは、運がよかったのではなく、レイターが制御していたのか。

 俺は、レイターの肩を叩いた。
「優勝はのがしたが、生きていれば何とかなるさ。とにかくお前が死ななくてよかった。さすがのお前も死ぬのは怖いか」
「う~ん、別に怖いとかじゃねぇんだよな。レース中に『あの感覚』がこなかったんだ」
「全知全能という感覚か?」

「ああ。俺、銀河一の操縦士になるって約束してんだ。だから、このS1に懸けてた。『あの感覚』を使いこなして、完璧な銀河一の操縦士になるはずだったんだ」

 レース一週間前の深夜。レイターがここでハールの調整をしながら話していたことを思い出す。こいつは『あの感覚』がつかめないと頭を抱えていた。

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「結局、あのS1レースで俺は最後の最後まで『あの感覚』にたどり着けなかった。エースに引っ張られて、あと少しで触れるところまで行ったとは思うんだけどな。これじゃあ、まだ駄目って、言われたのさ」

「誰に?」

 俺の問いには答えず、レイターは宙を見つめた。
「だから、もうちょっと、待っててもらうことにした」

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 あれだけレース史に残るバトルをしても、『あの感覚』にはたどり着けないのか。どれだけ究極の高みなのか。俺には想像できん。

 もし、レイターが今回のS1で『あの感覚』を感じていたら、こいつは間違いなく死を選んだのだろう。
 話していてわかる。
 こいつ、病的なまでに死ぬことを恐れていない。

 銀河一の操縦士への執念。『あの感覚』への飽くなき渇望が、こいつに生きるという選択をさせたということだ。
 そして、S1ではもう『あの感覚』をつかめないとわかり、競技レースに対する未練がなくなった。

「お前、これからどうするんだ?」
「どうもしねぇよ。これまで通り、銀河一の操縦士さ。ボディガードのバイトは続けるから必要なら協会通じて申し込んでくれや。じゃな」

 あいつは軽く片手をあげると、俺の前から笑顔で立ち去った。 
 

* *

 レーサーを引退し、無敗の貴公子ではなくなったエースと、わたしはレストランの個室で向かい合っていた。

「S1優勝おめでとうございます」
「ありがとう」
 グラスを掲げて乾杯する。二人きりの時間は久しぶりだ。わたしは緊張していた。

 ひとしきりレースの感想を話した後、エースが切り出した。
「ティリー、僕はもう友だちごっこは、止めようと思っている」

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「は、はい」
 やはりこの話だったか。

 エースから交際を申し込まれて、友だちから始めましょう、と先伸ばしの提案をしたのはわたしだ。
 S1最終戦を終えたエースは先に進みたいと考えている。もうこれ以上、宙ぶらりんの状況を続けるわけにはいかない。

 以前は高飛車なところがあったエースだけれど、最近は感じなくなった。
 推しのエース。
 かっこいいエース。
 話をしていて楽しいエース。
 美味しいお店をたくさん知っているエース。 
 何一つ、文句のつけどころのない大好きなエース。

 なのに、自分の中に、エースとつきあう覚悟がない。
 削除できていないからだ。レイターが好きだという気持ちが。

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 誤解されないようにうまく伝えられるだろうか。エースのことは好きだけれどつきあうことはできないと。
 今の関係を続けたいというのは、虫がよすぎる。悲しいけれどエースから離れるという選択肢しかわたしには残されていない。

 エースがゆっくりと言葉を発した。 
「君を見ているとつらそうだ。だから、僕は君の友だちになりたい」

 論理的なエースにしては珍しい発言だった。今だってエースとは友人という約束だ。

「あの? 意味が分かりませんが」
「恋愛抜きの純粋な友人だよ。友だちごっこ、ではなく友だちだ。もちろん僕は、今でも君とつきあいたいと思っている。だが、君はそれを負担に感じている。君は、今もレイターのことが好きなんだろ。そして、僕は君の憧れの対象のままだ」
「……」
 図星だ。わたしは何も言えなかった。

「君が僕のキスを避けた時に、その気持ちを感じたんだ」
 あの時だ、S1最終戦の前。

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 テストコースの停船した船の中でエースと頬を合わせた
 抱きしめあったぬくもりを思い出す。幸福感に身体中が満たされた。決して嫌いでキスを避けたわけじゃない

「わたし、エースのことが好き過ぎるんです」
「わかっているよ」
 エースが微笑んだ。すべてを許容するという柔らかな表情。

 これまで、推しのエースの表情を見逃すまいとわたしは観察してきた。そのどれにもあてはまらない、わたしだけに向けられたエースの素顔。

「だから、僕なりに考えた。恋愛抜きの友人という関係は、今、君にしてあげられるウインウインの選択肢と思って提示した。僕が困ったときには、友人として君に相談に乗ってもらう。もちろん君の相談に僕も乗る。もし、君が僕を彼氏としてつきあいたくなったら、いつでも言ってきてくれればいい。男女の友情が成立するかどうかは、文献を読んでもわからなかったが、やってみる価値はあると判断した」

 さわやかなライムの香り。
 エースの提案は、わたしの気持ちを軽やかにさせた。

 ずっと、わたしはエースを見て、エースはわたしを見ていた。なのに、その視線は高速航路の上り線と下り線のように重なっていなかった。
 きょうは上下線共通のサービスパークへ一緒に入ったようだ。
 
 心の奥に温かさが広がっていく。

 エースが笑顔で言った。
「イメージは円満離婚だ」
「つきあってもいないのに」
 わたしもつられて笑った。

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「いい笑顔だ。その顔が見たかった。僕は船の気持ちは手に取るようにわかるが、人の気持ちを理解して大切にすることが中々に難しい」
「いえ、エースは十分にできています」
「だとしたら、君のおかげだ」

 わたしは首を振った。
「わたしじゃなくエース自身の力だと思います」

「ありがとう。君には感謝している。ほかに、僕が君に対してできることはあるかい?」
 わたしはもっと現場に近いところで働きたい。
「わたしを営業部に戻してもらえますか?」
「相分かった」


 それからしばらくの間、株主総会と取締役会の対応でわたしも含め役員室は大忙しだった。

 エースは、株式会社クロノスの代表取締役社長に就任した。
 エースの父は会長となり、役員室の秘書には大きな人事異動があった。

 わたしにも辞令が出た。
『営業部 営業企画課への配属を命ずる』
 
 さよなら『無敗の貴公子』、わたしの憧れの人。

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 ありがとうエース、わたしの友人。
 荷物を片付けたわたしは、感謝の気持ちを込めながら役員室のドアを閉めた。       (おしまい)

<出会い編>第四十一話「パスワードはお忘れなく」の前に
<少年編>「自由自在にそらを飛ぶ」に続きます

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