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どうして、こんなに消極的な人生なのだろう?

 中年の危機、という言葉がある。

 これは心理学的にも言われているし、文学的にも語られているし、ただ、それは実はずっとあったもので、その気持ちに対して、あとになって言葉がつけられ説明されたことなのだろうとも思う。

 同時に、ある程度の年月を生きることができて、さらに、ふと自分のこれまでを振り返るような、そんな余裕ともいえる時間がないと、もしかしたら、その中年の危機は訪れないかもしれないと思うと、一種のぜいたくなことかもしれない。


35歳問題

 「35歳問題」は、それまで語られていたように、選べたかもしれなかったけれど、選べなかった不在の未来。これまでの人生の歩みの中で、選択肢が複数ある場合は、一つしか選べないのだから、その選ばなかった自分の未来への悲しさもあるかもしれない。

 ただ、それ以上に、先まで見える下り坂を下るように、先が分かっているのに、歩まなくてはいけない悲しさもあるのではないかと考えた。

 ただ、それから、さらに年月がたつと、また違う気持ちになる。

 35歳問題と違って、選ばなかった未来、といった思いは、個人的には、ほとんどなくなってきたのか、元々少ないのか分からないものの、もし、あの時に、こういう選択をしなかったら、というような発想は、どんどん少なくなってくる。

 多少、選択が違ったとしても、そして、表面的には違っていたり、その過程が変わったとしても、ある程度の年齢になったときは、同じような感じの状況になるのではないか。そんなふうに思うようになった。

 それは、最初から運命が決められているとか。何かしらの意志で、逃れられないとか、遺伝子によって生かされているとか、そういうようなこととは違うのだけど、自分の努力や工夫などは、とても小さいもので、自分の意志のようなもので何とかなることは、思った以上に少ないのではないか、と感じるようになったせいかもしれない。

どうして、こんなに消極的なのだろう

 ただ、ふと振り返る時があると、少し不思議に思うことがある。

 生まれてから、これまで、どうして、こんなに消極的だったのだろう。

 それは、今でも続いているのだけど、積極的とは言えない思考と行動をしている。現代においては、単純にいっても、例えば社会的に成功しづらい人間だと思っていて、そのことは、ずっと分かっていたはずで、どこかで、積極的な人間になろうとしたこともあった。

 だけど、それは自分に合っていないせいか続かず、今に至っている。

 人によって、生まれ持った性格があるとはいっても、例えば同じ家に育った兄弟でも全く違った姿勢で生きていることも珍しくなく、自分を振り返っても、そういうことはあるので、環境もあるけど、元々の性格が占める割合が大きいし、どうやら、年齢を重ねるほど、その持って生まれた性格のようなものが表に出てきやすいような気がする。

 だからこそ、改めて不思議に思う。

 どうして、こんなに消極的な性格なのだろう。

 そして、似たようなことを思っている人は、想像以上に多いのではないだろうか、とも考えた。

小さい頃の記憶

 とても小さい頃の記憶ははっきりしない。

 それは、誰にでも共通することだと思うし、あまりにも明確な場面の記憶は、あとから周囲の人から聞いたことに影響をされている、どちらかといえば、作られた記憶に近い、といった話もどこかで聞いた気がする。

 それでも、薄く覚えているのは、お風呂のぼんやりした映像だった。

 それは、とても小さい頃、旅行に行ったのか、家なのか、それも分からないけれど、あーあ、みたいな思いをしていたらしい。それが、どんなときのことか、分からないままだったのだけど、大人になってから、父親に聞いて、それが、どこなのか、理解できた気がした。

 どこかの旅館、おそらくは箱根の旅行へ行ったとき、まだ3歳か、2歳か、それもはっきりしないけれど、お風呂に父と一緒に入って、そのときに、私はうんこを漏らしたらしい。まだ、小さいから、便も、それほど大きくもなく、においもキツくなかっただろうけれど、そのうんこはぷかぷかと浮いてきて、それをすくって、お風呂場の排水口に少しこすりつけるようなことをして流してくれた、と聞いた。

 まだ記憶になかった幼い頃、あとは両親や周囲の話などから推測するしかないのだけど、例えば、予防注射などで周囲の同世代の赤ん坊たちが泣いても、それに反応せず、黙っていたこと。
 近所の八百屋の店主に、ほとんど笑わないけれど、笑うときは可愛い、と言われていたらしいこと。
 小さい頃は、おとなしくほとんどしゃべらなかったこと。
 クルマに興味を示すと、そればかりに夢中になって、その車種をたちまち覚えたこと(もう少し成長したら、全く記憶になくなっている)。

 様々なエピソードが示すものは、コミュニケーションの困難さを示すようなことでもあって、だから、お風呂の思い出も、便意を積極的に伝えることができなかった、ということでもあったのだろう。

 泣きもしなければ、訴えもせず、気がついたら、漏らしていた、というような、それは、おとなしいけれど、別の面から見たら、おとなしすぎる、という子どもだったのかもしれない。

 小さい頃に床屋に行き、坊主にしてください、と母親が言って、いいんですか?と何度も確かめられ、変だと思ったら、女の子だと思われていた、というエピソードも、つまりは男の子のイメージである、元気さとか、時にはワンパク的な要素が全くなかったという可能性もある。

 だから、積極性とつながる記憶もエピソードも、ほとんどない。

 元々の性格は、消極的だったのは間違いないと思う。その後も、消極的だったとしても、ある意味では自然だったはずだ。

幼稚園

 小学生以前に、自分で何かを積極的に選んだ記憶も薄い。

 幼稚園の頃の写真で、その頃は半ズボンに黒いストッキングの制服で、ベレー帽までかぶっていたから、その頃の流行で、何かしらのモデルがあったのだろうけど、そんな姿をして、同じ社宅に住む同級生2人くらいと一緒に撮った写真もある。

 そこには、はしゃぐような姿の同級生2人と、その隣で少しこわばった顔で、しかも、私はこぶしを握りしめていた。「人間失格」でもないのに、ただ、こういう子どもは実は多いかもしれないという思いもある。

 おそらく、親に言われるがまま、近くの幼稚園に通っていた。

 その頃、着ていた服も、これが欲しい、と自分の意志で買ってもらっていたわけではない。

 でも、その一方で、自分が気に入った服があったらしく、その服を母が洗濯して干していると、強く主張することはなくても、そのそばで、乾くのをずっと待っていた、という話を聞いたこともあった。

 本人は全く覚えていないから、それは、こだわりの強さみたいな表れなのだろうと思うが、そこで、はっきりと言葉では主張していないようだったから、積極的というよりは、頑固といった性格だったのかもしれない。

 幼稚園の頃の記憶もあまりないけれど、園内でプール遊びをした時も、水着に着替えて、また集まっていうような行動がうまくとれずに、ただ、裸でウロウロしてしまったような光景をぼんやりと覚えているけれど、それが本当かどうかは分からない。

 そして、砂場に行っても、そこで何かを作ったり、穴を掘ったりというよりも、砂を手で握って、それをまた下へ落として、それを繰り返していて、それをじっと見ている。そんな姿を母親は覚えていると聞いたことがある。

 おとなしいけれど、なんだか心配な子どもだったのだろう、と想像はできる。

 その頃、何が好きだったとかも覚えていない。

小学生

 小学校に入るか入らない頃だけど、その当時、男の子は野球をする場合が多かった。

 だからなのか、いつの間にか、うちにもグローブやバットがあった。それは、父親の世代では野球がポピュラーなスポーツで、男の子なら必ずやるもの、というイメージがあったせいかもしれない。

 その頃、住んでいた鉄筋4階建ての社宅が並ぶ小高い山の上には、空き地もあって、そこには、社宅に住んでいる子どもたちが集まって遊んでいて、そこでは野球も行われていた。

 そこに混じって、遊びたい、というような気持ちもあったのだけど、一人でグローブを持って、そばに行って、すぐに溶け込むことができずに、建物の角から、様子を伺っていた、と思う。記憶ははっきりしないけれど、そこから、自分も混ぜて欲しい、というようなことを言えずに、ただしばらく見ていて、そして、結局、野球ができなかったはずだ。

 そのため、ずっと野球は上手くならなかっただけではなく、野球の試合は、1回から9回までのイニングがあって、スリーアウトによって交代する、というルールさえ、小学校高学年になるまで知らないままだった。

 だから、消極的、という言葉だけで表現できるような子どもではなく、いろいろなものが足りなかったのだと思う。

できたこと

 それでも、何ができたのかと思うと、小学校に入る頃、なぜかローラースケートが流行ったことがあった。光GENJIの時代より随分と前のことだけど、それは、親に頼んだかで、買ってもらったものだった。その頃のものは、靴を履いて、その上から、さらに装着するようなものだった。

 だけど、野球と違って、何も知らなくても、ローラースケートをつけて、自分一人で滑っていれば、少しはできるようになる。だけど、その社宅の小高い山から坂道を下るようになると、かなりのスピードも出て、楽しいけれど、怖くて、転んだりして、そのうちにやめてしまった。

 そこからどう努力して、怖さを克服するかも分からなかったし、どうすれば、もっと楽しくなるのか知らなかったし、モデルケースもいなかったし、とにかくもっと上手くなるまで滑り続けるという集中力はなかったから、そこで止まってしまった。

 ただ、その後、アイススケート場に初めて行って、フィギュア型のシューズとはいえ、すぐに滑れたのは、その時の「貯金」のようなものがあったせいだと思う。

 そのアイススケートも、親に連れて行ってもらわないと滑れないし、行った時に、できないことをできるようになるまで集中的に滑る、といった方法を選択するような強い意志もなかった。

 だから、それも中途半端なままだったと思う。

上半身の力

 小学生の頃、住んでいた地域では、市内の小学校6年生が集まってスポーツ大会のようなことを行っていた。足も遅く、肥満体型だったし、放課後にグランドで遊ぶようなこともしない消極的な男子だったから、運動全般は苦手なのに、全員が何かしらの参加するのが義務だった。

 それでも、何もできないと思っていたのに、唯一、懸垂は人並みにできた。だから、その種目に参加するために、練習の期間まであった。

 だけど、あまり賢くもなかったので、回数を競う競技なのに、より重くして練習すれば効果的なのではないか、とランドセルを空にして、そこに石を詰めて、懸垂をしていた。

 本番では、優勝するような小学生は、軽々と回数を重ねて、20数回していたのだけど、自分は、大会前の自分の目標10回にも届かず、7回しかできず、そのことでクラスの女子にからかわれた。

 ただ、考えたら、肥満体なのに、懸垂ができるということは体重を減らしたら、もっとできるはずだったし、スポーツが苦手かもしれないけれど、実は腕の力があったかもしれないのに、そういうことに意識がいかず、やっぱりダメなんだという気持ちだけが募った。

 10代も後半になると、ほんの遊びで、物干し竿のようなものを投げたら、人より飛んだし、それほどうまくもないがサッカー部には入部して続けていたのだけど、高校3年生で、運動部を引退したあたりで、体育の授業で円盤投げを初めておこなった。

 フォームはめちゃくちゃで、円盤が縦にしか飛ばないのに、もっと体格も大きくて、上半身を使う運動部の人間もいたのだけど、そうした人たちより飛距離があった。初めて投げて、30数メートル飛んだ。

 あ、こういう投てき競技のようなものの方が、もちろん、高いレベルにはいかないとしても、自分には向いていたかもしれない。とふと思った。そして、小学生の頃に肥満体だったのに、自分の能力の中では懸垂ができたということは、腕力を生かすことを考えた方が良かったのだと、気がついた。

 だけど、そこからはどうしようもなかった。

 実は、もう少し冷静に自分のことを考えて、できることを伸ばし、それが少しでも成果につながれば、そこで自信につながり、もしかしたら、もう少し積極的な人生になったかもしれない。

 だけど、そのためには情報や熱意や賢さなどが決定的に足りなかった。

興味を持ったこと

 家庭では、子どもの頃には、いろいろと興味を持たせてくれようとしたのだと思う。

 家には、子ども用の文学全集のようなものが並んでいたのを覚えている。だけど、ほとんど興味が持てなかった、後で、それがダイジェストであるとも知った。ダイジェストの世界文学全集だったけれど、そういうものが子どもの教育用として広く出回っていたのだと思う。

 個人的に、小学生の頃、興味を持ったのが「子供の科学」という雑誌だった。

 それを読むようになったのは、ただの偶然で、その頃は中部地方の小さいまちに住んでいたのだけど、小学校は1学年1クラスで、全校生徒が200人くらいのあまり人口も多くないところだったけれど、その町の古くからの本屋に毎月、1冊だけあった雑誌だった。

 月刊誌で、紙飛行機も付録についていて、それを切り取って組み立て、飛ばすのも好きだった。鉄筋の社宅の周りは畑だったから、収穫が終わった時期は、そこも含めて遠くまで飛ばせた。

 この雑誌の情報のおかげで、うさぎの目がなぜ赤いのか?に関して、かなり正確なことを知っていた。

 だけど、それを人に向かって伝えても、特に大人の反応はあまり良くなかった。

 正確な科学的な知識は、人に歓迎されないようで、唯一、夏休みの自由研究の時に役立って、賞状をもらったりもしたけれど、それで、すごくほめられた記憶もない。
 
 そして、興味があるといっても、科学者になろうと思うほどの才能がないことも、そうした「子供の科学」などを読んでいて、知ることになる。

 その読者のページや、最年少でハムの試験に合格する男子や、投稿される写真などを見ていると、なんだかすごい小学生がいることを知って、早々とあきらめるような気持ちになった。

 それでも、中学校までは、その時の知識で、理科の試験もあまり苦ではなかったが、ただ、そこから、何かもっと興味を伸ばすような知識も情報もなく、それこそ「子供の科学」止まりだったので、高校に進んで、理科が、化学、物理、生物、地学に分かれてからは、急に全くわからなくなった。

図と絵画

 生徒数が少ない中部地方の小学校に通っていた頃は、何かを図で表すことが楽しくなって、それが、珍しく教師にほめられたこともあり、放課後にグランドで遊ぶことはほとんどなくても、家に帰ってから、自由帳のようなものに学んだことを、もう一度、再構成し、図を多くして書いていた。

 だから、気がついたら、その量は多くなっていたけれど、分量で言えば、もっと書いているクラスメートもいた。

 ただ、そのこと自体が、学ぶを追求する可能性があることに気がつかないまま、転校し、小学校6年生の3学期に首都圏に戻ってきた時は、そんな自由帳を歓迎されるようなこともなくて、ただ忘れていった。

 同様に、小学4、5年の頃、絵を描く時間は、時々、楽しいと思える時があった。それは、小学校の周りは田んぼで、木々もあって、だから、その樹木を描くとき、天気も良かったので、木漏れ日のようなものも描けたら、とぼんやりと思い、あ、そうか、細い筆で、点で描けばいいんだと思いついた。

 印象派という作品も言葉も知らず、周囲には美術館などもなく、家には画集もなかったから、影響ではないと思えるのだけど、そのことを思いついて、でも、その手間ひまに一瞬、ちゅうちょをして、だけど、授業時間内に終わらないのを覚悟して、その方法を試みた。その最初の絵は、自分でも納得のいくもので、同時に、クラスの中に点描ブームまで少し起こった。

 だけど、そんな自己満足だけで終わってしまい、その最初の時のように楽しくできなくなったから、図画工作の時間は、ただ面倒臭いものになってしまった。

 他にも、絵が楽しいと思えていた同時期に、お寺や城の作りに興味を持ち、それは、父が日曜のドライブで連れていってくれて、中部地方には、さまざまな寺や城や遺跡もあったからだった、と思う。

 だから、手帳にその様子をうまくはないけれど、小さい絵で残したり、小遣いで購入した単行本が「城と書院」で、それはかっこいいものとして見ていたのだけど、誰とも、そういう話もできないまま、いつの間にか、興味も薄くなっていた。


 もしかしたら、その時々の自分の興味から、もっと先までつながって、さらに見たこともないような、楽しいことまで経験できたのかもしれない。だけど、それは、独学の限界でもあるし、そこから、自分の能力を伸ばす機会に出会えることもなかったし、もし、そこへつながる可能性もあったとしても、気がつかなかった。

文化資本

 そんな、これまでのことを改めて振り返ると、無意味と思っていても、つい想像してしまう。

 さまざまな興味を持ったとき、何かを身につけて、その能力を伸ばしたいと、どこかで思っていたとき。

 ローラースケートを少し滑っていた頃。
 肥満体であっても、腕力が比較的あったこと。
「子供の科学」が好きだった頃。
 お寺やお城に興味を持ったとき。
 絵を描くのに、点描法を思いついたとき。

 その時、そうしたことが好きだったのは間違いないのだから、そこから先にさらに興味を持って持続したり、少しずつレベルの高いことに挑戦し、そのことによって、さらに興味や楽しみも膨らんだり、といったことがあれば、と想像すると、それは、あえて前に出るようなことはしないとしても、知らないうちに「積極的な人生」を歩んでいたような気がする。

 例えば、それほど不満はないものの、養育してくれた両親に、もっと文化資本があれば、子どもである私の興味に対して、自然に、その次のレベルを提供してくれて、どこまで到達できるかどうかは分からないとしても、少なくとも、もう少し長く興味が続いて、さらにレベルの高い知識やスキルが身についていたと思う。

 だから、文化資本を豊富に持っている保護者がいた場合は、その保護者自身の文化資本だけでなく、例えば、知り合いや友人や親戚に、さまざまな分野の仕事をして、その中にはさらにレベルの高い文化資本を身につけている存在している可能性もあるので、自然と、子どもの興味が引き上げられていく。

 そして、できることが増えていけば、自信も積み重なるし、そうであれば、新しいことへチャレンジすることも増えていきそうで、気がついたら、人から見たら、積極的な人間になっていたと思う。

 それは、想像しても仕方がないのだけど、自分が年齢を重ねるほど、そうした文化資本を持つ家族や一族は確実に存在していて、それは、生まれた場所で決まってしまうのだから、やっぱり、そこに不平等はあるのだから、そんなことを考えていくと、もう取り返しもつかないし、理不尽さを突き詰めると、絶望的な気持ちに襲われそうになるけど、それから遠ざかろうとしても、なんだかもやもやしてしまう。

 自分が消極的な人間であるのは、生まれながらの自分の性格であって、それは自分や保護者も含めて誰が悪いわけでもないのだけど、それに加えて、自分にとっては必然であった生育環境も、消極的な人間になっても仕方がないように思う。


 そして、このことは、自分だけではなくて、おそらくはかなりの数の人にとって、共通するような実感でもあると思っている。

 つまり、環境によって、誰にとっても積極的な人生を歩める可能性はある。

 そんなことを、自分のこれまでを振り返っても、改めて思った。

最近接領域

 そうしたことを考え続けると、発達心理学の分野で、思い出す理論がある。

 発達の最近接領域とは、旧ソビエト連邦(ロシア)の心理学者であるヴィゴツキー(Vygotsky)によって提唱された理論です。

発達の最近接領域とは、現時点で自力で課題を解決できる水準(現下の発達水準)と他者の助けを借りれば解決できる水準(潜在的発達水準)の差を指します。

つまり、既に一人でできることと、まだ自分ではできないことの間にある、一人ではできないけど、外部の助けがあればできる領域のことを指し、この領域での学習が効果的な成長・発達を促すことが期待されています。

ヴィゴツキーの発達理論では、子どもは他者との関わりを通じて発達を遂げると考えられており、できるようになるまで発達を待つのではなく、発達の最近接領域に対して働き掛けることが重要であると考えられています。

具体的には、現時点で解決できる内容より多少難しい課題を与えた上で、助言を与えたり、自分より高い発達水準にある仲間と協同して取り組ませたりすることで課題を達成させるプロセスとなります。

(「Psycho Psycho」より)


 豊かな環境。文化資本に恵まれた環境とは、例えば、保護者によって、子どもの現時点での状況を理解した上で、この説明の中にあるように、「現時点で解決できる内容より多少難しい課題を与えた上で、助言を与えたり、自分より高い発達水準にある仲間と協同して取り組ませたりすることで課題を達成させる」ことが、日常的に存在することなのだと思われる。

 こうしたことが、どこかに出かけて習う(例えば、さまざまな塾など)だけではなく、もし、毎日の生活の中に自然と提供されるようなことがあれば、特にギラギラした感じがなくても、いやでも「積極的な(さらには、能力の高い)人間」に育っていくはずだ。

 この「発達の最近接領域」の理論を生かして、どの子どもにとっても、このことを生かした環境が与えられるとすれば、誰にとっても自分の能力を伸ばしたい方向に、できるかぎり育てられるような日常ならば、それは不可能と思いつつも、想像すると、かなり楽しい毎日のような気がする。

「教育」という「環境」

 そう考えると、当然のことだけど、教育はとても重要になる。両親の文化資本には限界がある場合も多いから、特に義務教育の小中学校で、どれだけ豊かな環境が提供できるかどうかがカギになってくるはずだ。

 例えば、私のように消極的な子どもであっても、絵を描くときに点描をしていたり、走るのは遅いが上腕の力がありそうだったり、科学的なことに興味があったり、寺や城などの本を所有していたりするのに、さりげなく気がついて、それぞれの興味や能力について、本人に無理なく「最近接領域」の理論を生かすような働きかけができる担任や、他の教師がいたとしたら、私だけではなく、そのクラスの他の子どもにとっても、それからの人生はかなり変わってきた可能性がある。

 ただ、こうした教育環境を可能にするには、想像するだけで、とんでもない条件が必要になってくる。

 まず、一つのクラスの人数を20人程度に抑えるべきだろう。どれだけ優秀な人間であっても、それ以上の人数がいれば、それぞれの子どもに細やかに目を配れるとは思えない。

 その上で、こうした環境を提供できる教育者の質は、とても高いものが必要とされてくるのは間違いない。

 それに、そのときに考えられる教育者としての質の高さは、すでにある答えや、望ましい大人(今の大人が想定している)に向かって、どれだけ早く、どれだけ多く到達できるか、といったことを可能にする能力ではないはずだ。それでは、教育というよりは訓練に近い。

 だから、すでにある答えをなるべく早く出す、という思考法になるのではなく、自分の興味に基づいて、未知に向かって伸びていくような能力を促す、というようなイメージで、そうした関わり方をできる教育者が、どの地域でも豊富に存在していれば、おそらくは自然に積極的な人間が育ちやすい、と思う(とても難しそうだけど)。

 さらに言えば、親戚の中の変わったおじさんやおばさんのような人がいて、少し視点が変わるような大人と接する機会もあれば、より豊かな教育環境だと言える。

 そんなふうに考えると、より大勢の人が、自分の興味をもとに、自然に積極的な人間になっていく環境を作るのは、とても難しいのがわかるし、現在、文化資本が豊富な家庭では、こうしたことが普通に行われているであろうことを想像すると、改めて、なんともいえない格差の現実が見えるような気もした。

インターネット

 何かをしていくとき、情報の質と量の差は、テクノロジーの発達で、以前よりは少なくなったように感じる。

 だから、昔ほど環境による文化資本の差も少し縮まっているように思う。

 それはインターネットの進歩によって、自分の興味に関しての「最近接領域」に関する情報自体は、手に入れやすくなっているから、そのことによって、自然に積極的な人間になりやすくなっているはずだからだ。

 ただ、そうであれば、インターネット環境が、どの世帯でも、どんな個人でも平等に自由に使えるようにすることが前提で、さらには、スマホやコンピュータなどの端末に関しても、できたら全員に行き渡るようにすべきだろう。

 さらには、自分が必要な情報をきちんと獲得できるような検索の方法なども、最低限教えることも保証されれば、(自分ではどうしようもできない)生育環境による文化資本の格差は、少し縮まると思う。

 とても優れた教育者を揃えることも大事だけど、それよりは、手間も予算が少ないはずだから、まずは、このインターネット環境の平等性は、日本に住む人全部に保証されるべきではないだろうか。

下り坂の「最近接領域」

 自分のこれまでを振り返り、びっくりするほど消極的だったことを考えたとき、もちろん自分自身の問題はあるとしても、もしも環境が違っていれば、本当に違う現在だったかもしれない、と思った。

 同時に、例えばサッカーは以前よりも日本の社会で浸透し、フットサルも一般的になったおかげで、昔よりも年齢を重ねてもサッカーに親しめる環境になったのだから、学生時代にサッカーをやっていたことを、続けられる可能性が出てきている。

 さらに、日常的にとてもささやかであるけれど、筋トレだけは続けてきたので、もし、今でも少しは腕の力が残っているとすれば、ボルダリングの施設が比較的近所にあるから、年齢を重ねてもできるのかもしれない。

 中年になってから、図書館に通って本を読むようになった。
 当たり前だけど、どの分野もさまざまな進歩があって、知識も更新されていくから、最新の情報の方が「正しく」なっていることも多い。若いときに身につけた教養があまりにも少ないから、新しい情報に対して、素直に接することができているかもしれない、とも思う。

 つまり、現在、行なっていることは、頭脳も含めて肉体的には確実に「下り坂」になっていくのは間違いないのだけど、でも、その必然性の中でも、その「下り方」が少し緩むようなことを試みているのだと思う。

 
 私だけではなく、すべての若くなくなった大人は基本的には「下り坂」を降りていっているとしても、「下り坂の最近接領域」を各人に提供するような環境をつくっていけるとすれば、もしかしたら、高齢になってから意外な才能を発揮する人も今より多くなるかもしれない。

 発達という「上り坂」ではなく、老化という「下り坂」でも、興味や能力を広げられるような、「下り坂の最近接領域」が研究され、そのための環境の整備ができれば、眼にみえるような成果は稀だとしても、年齢を重ねても、充実した人生を送れる可能性は高まるはずだ。

 それは、個人では、どうしようもできないほど大きい課題だし、十分な予算をかけた研究も必要なはずだけど、人口が減少し、高齢化が進む社会では、世界の他の場所で取り組むところが全くなくても、少なくとも検討を始めてもいいのではないか、と思う。

 そうなれば、私のような個人でも、成長を通り越し、老化と言われる段階に入った後でも、気がついたら「積極的な人生」を歩めるようになっているかもしれない。




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