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小学1年生の、明るくない思い出。

 とても古い話で、ただ個人的なことで、しかも明るくなくて申し訳ないのですが、もしかしたら、それでも読んでくれる人に、少しは伝わるかもしれないし、伝わったことで、微妙でも誰かと共有できるかもしれない、と思い、書いてみようと考えました。

 不思議なことに、こうして書かないと、確かにあった出来事などが、そのまま存在しないのと同じになってしまう。当然なのかもしれないけれど、人が生きていて起こったことや、目にした現象のほとんどは、そのまま個人の思いの中にあるだけで、消えていってしまうと思います。

 その一方で、人にとって起こることのほとんどは、「ほぼ一緒」だから、詳細を記録しなくても、今も、世界のどこかで、これからも反復するように起こり続けているのかもしれない、と変にややこしいことを、思い出、と名付けられることを書こうとすると、思ったりもします。

 自分自身の、小学1年生の時の話です。

 よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです。


小学1年生

 小学1年生になった時は、今まで通ったことのない場所に行くことになる。
 記憶というのは、本人の中でもはっきりしないから、客観的事実から見たら、違う場合も多いのだけど、それでも、当事者から見たものしか残せない。私の小学1年生の時の印象は、やたらとぼんやりとしていた。

 これも本当かどうかも、すでにあいまいになっているのだけど、小学校に入った頃、学校でほとんどしゃべった記憶がない。かといって、家に帰って、話すわけでもないから、1日中、何も言葉を発しないこともあったように思う。

 それでも、本人は、それほど困っていなかった。

 ただ、淡々と学校へ通い、授業が終わると家に帰り、何をやっていたのか覚えていないが、夜になると、アニメや、特撮ものを見るのが、楽しみだったりしたが、表立って喜びを表す方でもなかった、と思う。

 こうして書いていると、親にとっては、心配な子供だっただろうと思う。
 大人になってから、父親が、難産だった私が、生まれる時に頭部にキズがあって、それはそんなにたいしたことがないのに、こういうことが影響しているのかと思っていた、と言われたこともあったから、当時は直接言わなかったけれど、心配だったのだろうと思う。

知能検査

 今では考えられないことだと思うが、当時は、知能検査が一斉に行われていた。それは地域によって違いがあるかもしれないけれど、1970年代になる頃、神奈川県では、たぶん当たり前のことのようだった。

 まだ小学校に入学してまもなくの時期、教室で、生徒は授業と同じように席について、知能検査の用紙が配られて、テストと同様に、定められた時間内に書き込んでいく。

 私は、たぶん、何が書いてあるのかも、よくわかっていなかった。

 それでも、通常のテストと違うのは、教室の黒板の上にある大きめのスピーカーから、指示が出されることだ。覚えているのは、「次のページをめくってください」というような言葉がほとんどだったと思う。

 私は、小柄なとても大人しい子供だった。

 知能検査の回答用紙に書き込んでいて、スピーカーから指示が出されて、次のページをめくる。自分としては、それを一生懸命やっていたはずなのだけど、いつの間にか、担任の教師が私のうしろに立っていて、ページをめくるときに、「遅い」と言われ続けた。

 どんな気持ちだったのかも覚えていない。
 もちろん、楽しいわけもなかったけれど、言われるまで、その言われること自体を、忘れていたと思う。だから、言われるたびに、驚くような気持ちだったはずだけど、はっきりと嫌だと思っていなかったかもしれないが、こうして覚えているのだから、思った以上に、ダメージがあった可能性はある。


 それよりも、知能検査は、なんだか分からなかった。

 ドングリがたくさん描いてあるページがあった。その課題はシンプルで、「いくつか答えなさい」というもので、私は、一個ずつ、とにかく数えた。途中で、数を見失って、また最初から始めた。その繰り返しをしているうちに、たぶん、嫌気もさしていたのだろうけど、チラッと隣の子の紙を見た。

 その子は、どうやら10個ずつくらいを、鉛筆で丸で囲って数えていた。

 ああやれば楽だった。と思った時は時間切れで、次のページをめくってください、と放送での指示が出ていたはずで、その時もグズグズしていたはずだから、うしろに立っていた担任教師に、「ページをめくるのが遅い」とやっぱり言われていたと思う。

 気持ちのどこかで、あんな方法を知っている人間がいることへの微妙な驚きがあった。同時に、自分では、ああいうやり方を考えつくことはできないと思っていたから、敗北感もあったのかもしれない。

 その後、この知能検査の結果で、親が学校へ呼ばれたらしい、といった記憶もあるが、それ自体がはっきりしない。

 家で、茶筒を使って、どうやら父は、「足し算」を教えようとしていたらしいけれど、すぐに眠くなっていたようで、覚えている光景は、ゆらゆらしたいくつかの茶筒だけだった。

 本当にぼんやりしていた小学1年生だったのだろう。

連絡事項

 何の授業か分からないのだけど、鉛筆でマス目を埋めるように字を書いて、それを提出した。それは、その文字の良し悪し、というか、評価もされるらしいのだけど、そのあたりは、よく理解していないまま、時間がたった。

 数日後くらいに、担任教師に呼ばれて、教室の前に行って、何かをもらった。それは、バッジだったから、ちょっとうれしくて、黄色い帽子につけた。


 そのまま、さらに数週間たった。

 出かけて、帰ってきた母親に、微妙な表情で言われた。

 「今日、〇〇さんと一緒に、出かけたんだけど…」。

 その〇〇さんは、確か同じ社宅に住む同級生のお母さんだった。

「〇〇さんが、息子が賞をもらって、飾られているから、というので、出かけたんだけど、そこに、まことのもあったのよ」。

 まこととは、私のことだった。そこに飾られていたのは、教室でマス目を埋めるように書いた文字のことのようだった。それが、別の場所に行ったことを、理解していなかった。

『ぜんぜん、そのこと聞いてなかったから、〇〇さんが、「あ、まこちゃんも選ばれたのね」と言ってね…』。

 小学校1年生くらいだと、まことという名前は、まこちゃんと呼ばれる確率は高いが、その時の母親の表情は、そのことで、〇〇さんと気まずくなったらしい事実を伝えていたようだった。連絡事項を言わなかった私に怒る、というよりは、戸惑いだったり、そういうことすら出来ない私への悲しさみたいなものがあったのかしれない。

 そう言われても、そのことが何のことなのか、当時の私は、よく分かっていなかった。
 そういえば、教室で教師に呼ばれ、バッジをもらった時に、それと一緒に紙か何かをもらっていたはずだった。

 ランドセルに入れると、家に帰る頃には忘れて、場合によっては、教科書などの下に回りこんでしまい、いわゆるアコーディオンになってしまうことが多く、しばらくたってから見つけられて、親に渡しても、そんなに怒られるというよりは、呆れられることが多かった。

 文字の整い方についても、おそらくはこの時がピークで、今は下手なだけではなく、失笑を誘うほどの、時々、自分でも読めないくらいの文字になってしまったけれど、小学校1年生の時は、丁寧で素朴な文字だったのだと思う。そこから、年をとるほど、素朴さを失い、字の形は崩れていった、ということだと思う。

思っていたこと

 学校は、行きたいところではなかった。
 かとって積極的に拒否するようなこともできなかった。
 ただ黙々と通っていたと思う。

 運動も苦手で、その頃は野球が人気で、「男の子」はグローブやバットを持って、空き地があれば、みんなでやっていたけれど、そこにうまく加わることもできなかった。
 運動会などで走っても遅かった。びりか、よくて、その前だった。
 背も低くて、クラスで並ぶと、一番前か、2番目くらいだった。

 勉強も、何をしているか、よく分かっていなかった。
 知能検査のどんぐり以来、その頃は、そんなに明確でないけれど、自分は、他の人より優ることは出来ないと思っていたような気がする。
 
 これから先は、長いはずだった。

 その頃は、そんなに突き詰めて考えられなかったのは当然なのだけど、目の前の楽しいことに時間を忘れる、ということもなく、何が楽しいのかも、そんなに分からなくて、でも、感情もそんなに表に出すこともなかったし、教室ではおとなしく座っていたから、問題がある子にも見えなかった、と思う。

 だけど、先を思っても、どうしたらいいのか、分からなかったし、どうしたい、という気持ちもあまりなかったようだった。
 
 薄ぼんやりと思っていたのは、このままだと自分は、何もできないらしいことだった。すでに、特に男子の間では、競争といったことが重要になってきそうだったけれど、勉強も運動でも、その他でも、自分が何かができる気がしなかった。人と一緒の場所に行って、そこに競争があった場合には、勝てることがないような予感はしていた。

 かといって、どうしたらいいか分からなくて、でも、小学校1年生で、無口な男の子は、ただおとなしくぼんやりしていたと思う。そして、黙って、周囲のことは見ていた。ただ、じっと見続けていたような気もする。そして、なぜか、水曜日が週の始まりだと思っていた(リンクあり)。

今、思っていること

 それからずいぶんと時間がたって、自分の興味に従って進んできたつもりで、今も貧乏だし、とても成功したとはいえないけれど、何とか生きては来れた。昔、年長者が、何十年も前のことを昨日のことのように話していたのが不思議だったのだけど、それが分かるようにはなってきた。

 だけど、振り返ると、どこかで、無意識かもしれないけれど、小学校1年生の時に思ったように、いつも、人が殺到するような場所を避けてきたのかもしれないと気がつく。

 そして、今、改めて、これまで、何をやってきたのだろうと思うと、何もやってきていないような気がする。そして、2年前の2018年に、19年間の介護生活が終わったが、それからいろいろなことを、やれるはずなのに成果が上がっていないし、思ったよりも疲れが抜けてないせいか、心身も動いていない。

 昨年(2020年)から、コロナ禍で、感染のリスクを避けることを優先しているから活動が縮小するのは仕方がないとしても、そうした中で、自分が10年単位で取り組んできたことが、いったん挫折したようなことが重なって、その無力感を強く引きずっていて、今、これからどうしたらいいのか、よく分からなくなっている。


 そんなことを思っていたら、変な話だけど、また小学校へ入った頃に戻ってきたような気がした。だから、余計に、その頃のことを、思い出せたような気がする。

 コロナ禍の不安もあって、より、どうなるか分からなくなっているし、感染したら生き残れるかどうかも確定していないから、よけいに、これから何をしたらいいのか、よく分からないのだろう。
 今の状況に対しては、自分の能力では、とても考えられないこともあり、ただ、ぼんやりとしている時が、時々ある。

 こんな時に、天才と比べても意味がないのは理解しているつもりでも、あまりにも無力感が強くなり過ぎたときは、葛飾北斎のことを思うようにしている。

 代表作である「冨嶽三十六景」は、60歳を過ぎてからだから、江戸時代だということを考えると、今よりもかなり年上と言ってもいい。相当な高齢になってから、自分のキャリアの中でも、最高の作品を作れている、という事実がある。


 自分ができるとは思えないけれど、そんな人がいた、と思うと、無力感は、ほんんの少しだけ、弱くなる。




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