見出し画像

「水」が「金属」みたいに見えて、「錯覚」や「視覚」について、考えてみました。

 見出しの写真の真ん中あたり、ちょっと「金属っぽい光沢がある物質」が見えると思うのですが、古い葉っぱの上にたまった「雨水」です。

 だから、ただ透明に見えるはずなのですが、雨が降ってたまった水が、ある角度からみると、こうして光るような、硬質な金属っぽい感じに見えました。実際に見た感じを、比較的、そのまま撮影することができて、それは、ちょっとうれしく思えました。

雨水がガラスに見える

 いつも、少しお恥ずかしい話ですが、これも本当に身近にあったのに、妻に教えてもらって、初めて、気がつきました。

 「水が、金属に見える」。 

 そう言われて、階段を降りて、玄関を開けて、一歩外へ出ると、左側に「それ」がありました。

 最初は、ただの水に見えて、妻が指定する場所に立って、ある角度からみると、金属みたいに見えました。肉眼だと、もう少しガラス寄りの輝きがありました。

 光の屈折がどうこう。
 周囲の光景の映り込み方の具合い。

 そんな言葉があいまいに頭に浮かびます。
 
 何か塗料を溶かし込んでいるようにも、見えますが、もちろん何も入れていません。
 理屈はあるのでしょうけど、恥ずかしながら、詳しくは分かりませんし、それを聞いて、おそらくは頭で分かっても、再び見ると、金属の光沢を感じたりするはずです。それも、微妙な角度で変わってしまいます。

 この場所に太陽の光がさしている時だけ、こんな風に見えたので、空や雲が映り込んだりしているのかもしれません。もしくは、そばのコンクリートなどが映っているせいなのか、のぞきこんでも、当然ですけれど、分かりません。

 それは、一種の「錯覚」だと思いますが、見えている時は、ただの「事実」でしかありませんでした。

錯覚の「理由の分からなさ」

 日曜日の昼間のバラエティで、「錯覚」をテーマにしていたことがありました。
 胸が実際より豊かに見えるTシャツなど、錯覚を利用した商品なども紹介され、テレビ画面を通して、それが錯覚と分かっていても、再び見ると、そう見えてしまう。だまされないぞ、みたいな意志を持っても、あっさりと「錯覚」に負ける。
 改めて、そんなことを感じて、それは、ちょっと不思議な気もしました。

 コーナーは進んで、錯覚というより、錯視の専門家といえる人が登場し、その理論をもとにして制作した立体物も紹介していました。テレビ画面を通しても、登り坂に見える所に、球体を置くだけで自ら上がっていったり、ということが起こっていました。それが「錯視」を利用したものと分かったあとでも、また見せられると、不思議に思える動きにしか見えませんでした。

 「錯視」には、その「現象」を発見した研究者の名前がついていることが多いようで、「〇〇錯視」と次々に紹介されていました。それは、体操選手が、自分が開発した技に自分の名前をつけるように、天文学者が、新しく発見した星に命名するのと、同じようなことだと思いました。

 そのコーナーで、錯視の専門家は、ある錯視を紹介する中で、どうして、こう見えるかは完全に説明されていないんです、つまり、分からない、といったことを、話していて、それで、人間の脳のことも思いました。その複雑さを、その脳によって生きている人間がわかっていない。それだけでも、時々聞く「俺の体は俺が一番分かっている」は無理がある言葉だと分かります。


 「錯覚」という言葉の意味にひきずられすぎているとは思うのですが、「錯覚」と分かった瞬間、次に、その現象を見る時は、その正体に気がついているから、2度と、そんな風には見えなくなる。それが「錯覚」ではないかと思っています。

 夜、人の姿だと思ったのが、夜中にこっそり出されたゴミ袋で、最初見た時は、不気味な人にしか見えなかったのに、いったんゴミ袋だと気づくと、もう人には見えなくなる。

 だから、こうした「錯視」や「錯覚」は、何度見ても、そのように見えるのだし、人間であれば誰でも、そう見えるから、もう「錯覚」ではなくて「正解」なのではないか、とも思いました。


人間の脳の都合

 人間は、外の世界を、そのまま見ているわけではない。
 人間の目に入った像は、脳におくられて、そこで、それが何なのかが把握される。
 そんな作業をしていると言われていますが、それを「自分」では意識することはできませんし、その「操作」をすることもできません。
 とてもざっくりとした理解だと思うのですが、脳が働いて、そう見せているのですから、「どう見えるか」は、脳が「どう見せているか?」ということになるのだと思います。

 そう考えると「錯視」は、人間の脳の都合だと思えてきます。

 人間が、ここまで生き残ってきた時に、視覚情報は、かなり重要で、そして、おそらくは「見る」作業を早く処理すること。そして、脳の能力の限界もあるので、最小限のエネルギーや処理能力を使って、必要最低限、「見える」ようにすること。それが優先されてきたように思います。

 自分が無知なことを自覚しつつ、そして、今も視覚を使いつつ、人間の視覚のことを、こうして書いているのは改めて考えると妙なことですが、でも、その脳の都合によって、おそらく、「見えること」の何かが省略されたり、歪んだりしている可能性があります。それは、生存を優先させた作業で、そこに「錯視」が生まれてくるようにも思えます。

環境に適応する視覚機能

 あと、「錯視」の原因として、考えられるとしたら、環境の変化です。

 人間の視覚の能力のセッティングは、基本的なところは、人類の歴史の中で出来上がって、そして生まれる時には備わっていると、思います。
 今の人類が誕生してから20万年らしいので、その中で、見る能力は作られてきたのではないでしょうか。そして、その人の視覚能力は、生まれてから、さらに環境に合わせて、それぞれ微妙に違って発達するとも言われています。

 この研究は↑、マウスですが、おおまかにいえば、生まれてきてからある時期までに視覚機能が決定されてしまうという臨界点の話のようです。(理解が違っていたら、すみません)。


   人類の環境は、ここ100年くらいで大きく変わったはずです。20万年の中の100年は、2000分の1ですから、0、0005%というとても小さい値であって、人類史で考えたら、本当につい最近です。ということは、この100年より前までの、視覚環境の中で生きていくのに適した視覚機能のセッティングは、まだ変更されていない可能性が高いようにも思います。

 前出の「スクール革命!」という番組の中で、専門家が、「人間は直角が大好き」という表現を何度も使っていました。それは、直角に見えそうになると、直角に見てしまうことによって起きる「錯視」が多いということらしいのですが、直角は、素人判断でいえば、自然界には、そんなにないような気がします。

 ただ、この100年の人類の環境では、直角は圧倒的に増えました。
 そして、今の人間が多く生まれる場所は、病院が多い気がします。
 人間は、生まれたばかりではまだ目が見えていないはずです。でも、見えるようなった時に、目にするのは、保護者や医療関係者の顔が一番最初かもしれませんが、周囲は、天井や扉や窓など、直線と直角に囲まれています
 生まれて間もない頃に見ているものが、直角が多いので、直角が大好きになる可能性はないでしょうか。

 こうした視覚機能に関する最先端の研究は、やはり一般的には、いわゆる先進国が多くなるので、研究や実験に協力してもらう人も、その国に住んでいるとしたら、やはり「直角」の中で、生まれて間もなくを過ごした人が多そうなので、そういう結果になるように思えます。

 それを確かめるには、生育環境に、直角が少ない人との比較実験や研究が必要になりそうで、そういうことは、素人にはまったく手が及ばないことなので、このまま、想像を重ねて、進むことにします。(すでに違っていたら、すみません)。

 つまり、直角が多い環境で、現代の人類は育つので、視覚機能は、その影響を受ける。
 だけど、生まれながらに備わっている基礎視覚機能ともいっていい能力(があるとすれば)は、人類史2万年の中で、生存に最適と思われる蓄積であって、それは、直角が少ない環境に適応した視覚能力かもしれない。

 とするならば、今の人類は、環境によって直角が好きな(直角に見たがる)視覚機能になってしまうが、基礎視覚能力は、そこに適応していないので、そのズレが「錯視」につながるかもしれない、と考えました。

 ここまでは、ほとんど無知なまま考えてきたので、全く違う可能性はありますが、それでも、人間はどうやら「見えるままを、見ていない。脳の作業で、都合がいい像に変換している」ということは、ある程度正解のような気もします。

ジャコメッティの表現しようとしたもの

 そういうことを考えていくと、20世紀を代表するアーティストの一人、ジャコメッティが表現しようとしたものへの理解が、少し近づいてくるように思います。とても、細い人体の立体が有名な人です。

「見えたものを、見えたまま」

 ジャコメッティは、そのような思いにとりつかれるように、作品を作り続けたと言われているのは有名な話ですが、その結果として、ほとんど針金に近いような人物像を制作した、とも言われていて、それが、どうもピンときませんでした。

 ただ時間がたつほど、ジャコメッティの作品は、シャープでかっこいいと素直に思えるようになり、静物画も、すごくリアルで、この展覧会を見た2017年の頃は、古く感じないように思えてきました。

 「見えたものを、脳の調整が入る前の映像のまま、描きたい」。

 ここまでの話と重ねれば、ジャコメッティは、「錯視のない世界」を描こうとしていたのかもしれません。でも、それは人類の脳を持っている以上、おそらくは不可能なことだともいえます。

 ただ、ジャコメッティの、有名なすごく細い人物像は、途中までは、とても小さいサイズ(数センチ程度)でしか「作れなかった」と言われています。

 どうしてなのか、その本当のところは分からないとは思うのですが、これを、ジャコメッティの網膜に映ったままの人物像を、なるべく正確に作ろうとしていた、と考えると、少し理解できるような気がします。

 どの人間の眼球もそれほど大きくなく、そこに映ったままの像を「見えたまま」と考えれば、1メートル80センチなどは、とても大きくて、眼球のサイズくらいが、一番素直な大きさと言えるのかもしれません。

 
 ただ一方で、ジャコメッティは、かなり大きい人物像も依頼によって制作しているようです。そうなると、それは、さらに、とても細くなっていきます。

網膜に映る大きさのままに

 たとえば、数十メートル向こうにいる人が、近づいてきて、すぐ目の前に来たとします。その時、誰でも、その人の身長が、遠くにいた時と比べて、何倍も高くなるわけではなく、確かに遠くにいた時は小さく見えたかもしれないけれど、近くに来たからと行って、身長が伸びるように見えたら、おかしい、と考えていますし、実際、同じ大きさに感じています。

   ただ、どうやら人間の網膜上に映っているその人の像は、遠い時と、近くに来た時とでは、確か何倍か大きくなっているはずで、人間の脳はそこのところを調節して、不自然でないようにしてくれているらしいです。

 
 もしかしたら、ジャコメッティの、「見えたまま」を描くというのは、この、人間の脳が調整する前の「像」を描こうとしたのではないでしょうか。
 
 つまりは、「錯視のない世界」を正確に表現しようとしていたのかもしれません。
 それは、自分の「脳の機能」に逆らうような作業になるはずです。


 ここまでは勝手な推測を重ねただけですが、それを試みているのであれば、それは本当に大変なことだし、テレビなどで見た時に、ジャコメッティの制作スピードはとてもゆっくり、というか、慎重というか、これでいいのか、と確認しながら進めているようなので、それはとても時間がかかっても当然ではないか、と改めて思いました。

 ジャコメッティの立体は有名ですが、個人的には、その静物画を見た時に、すごくかっこいいと思ってしまい、新しさを感じたのは、不可能と思える試みを続けていることが、形になっているからかも、と思いました。

埋もれた葉っぱ

   冒頭での、見出しの写真の「金属っぽい雨水」ですが、数日たったら、どこに行ったのか、分からなくなりました。
 
 雨も降ったし、風も強かったし、葉っぱも、どこかへ飛んでしまったのも、と思って、妻に聞いたら、変わらずに、そのままあると教えてくれました。

 その地面にあった古い葉っぱの周囲の雑草が育って、伸びて、その中にうもれてしまって、見えなくなっていただけでした。

 だけど、その草をかきわけて、再び見た葉っぱは、周囲の草の成長に押されたせいか、すでに微妙に形も変わってしまっていて、おそらくは、あの絶妙な角度で見せてくれた「金属のような水」は、もう無理な気がしました。

   それでも、写真も撮ったし、いろいろと考えられたし、大げさかもしれませんが、豊かな時間だったことは、間違いないと思いました。




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