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「表情管理」という響きの怖さを考える。

 食器を洗う時間なので、思った以上に聴く機会が多いラジオ番組がある。

 最初は、同じ時間帯で、「先輩」のアイドルがパーソナリティを務めていたので、やりにくかったのかもしれないが、でも、たちまち順応し、この人でしか、この番組ができないのかも、と思うくらいになるまでが早かった。

 学習能力も高いのだろうし、適性もあったのだと思う。

 そして、この番組で初めて知ることも多くなった。


表情管理

 ある日、「後輩」といってもいいグループアイドルの一人が出演し、そこで新曲のMVの話題になり、その中で「表情管理」という言葉が出てきた。

 ちょっとこわい響きに感じたのだけど、それは、すでに常識になっているようだった。

 何が起源なのかはっきりとは分からないのだけど、KPOPアイドルのパフォーマンスから派生した言葉だとすると、なんとなく納得ができる。

 人前で仕事をし、その全身が見られ、その中でも特に顔の表情は大事だから、それが魅力的であればあるほど人気も上がりやすいから、評価の対象になるのも納得ができる。

 そして、そうしたプロの世界で「表情管理」が語られるのは、わかる気がするし、人前での仕事では、必要不可欠な要素なのはわかる。

 だけど、表情管理、という言葉が一般的になりすぎて、それが強制力を持つ言葉として、職場などに波及するのは、ちょっとこわい。

外からの視点

【管理】
 そのものを全体にわたって掌握し(絶えず点検し)常時意図する通りの機能を発揮させたり、好ましい状態が保てたりするようにすること。

(「新明解国語辞典」より)

 管理という言葉は、改めて辞書を引くまでもなく、経営者側、というのが大きすぎるのであれば、上司のための言葉であると思う。さらには、外からの視点でもあるはずだ。

 そして、この「管理」の意味からいっても、この言葉が適用されたのは、当初は、機械や人工物に対してのはずだ。「常時意図通りの機能を発揮」させることができるのは、休むことを知らない機械に対してだけ通用するはずだからだ。

 ただ、そんなことを言っても、今は、人間相手でも「管理」という言葉は自然に使われている。

 「管理職」は、一般用語すぎて、そして、この言葉が否定的に使われるとしたら、「管理職なのに、部下の管理が出来ていない」といったセリフで、さまざまな企業を舞台にしたドラマで数限りなく聞いてきた気がする。だから、その言葉への抵抗感は少ないけれど、同時に、そのことは不可能ではないかという思いは今もある。

 もともと、人間は「管理」出来ないし、それは感情のある生き物だから、という原則があるからだ。

 だから「管理教育」は、批判的に語られることも少なくないし、「管理野球」も、賛否両論になっていた。それも、もっともだと思う。

 ただ、管理に関して、このような反射的な嫌悪感が出てしまうこと自体が、古かったり、少数派の感覚になっているのではないか。と思うのは、「表情管理」が、いいこととしてカジュアルに使われ始めているようだったからだ。

看護師

 繰り返しになるが、「表情管理」ということが、人前でパフォーマンスを見せる仕事をする人の間で、その仕事の時だけに使われるのであれば、意味があるのだと思う。

 ただ、他の職場で「表情管理」という言葉が、自主的ならばまだしも、外からの視点として使われるようになったら、それは、地獄のような環境への第一歩のような気がする。

 と思ったら、すでにこうした記事もあった。

 表情管理とは「その場面や状況にあった表情で、そこに存在すること」をいいます。
 例えば、採血に自信がない新人が患者さんのところに行くとき、見るからに「自信のなさそうな表情」をしていたら、患者さんは「この人、失敗するんじゃないか」 と一気に不安になりますね。だから看護師は自信がないときでも、「患者さんを不安にさせてはいけない。 あれだけ練習したんだからだいじょうぶ。1回で入る !」と、自分に言い聞かせて表情を整え、患者さんのところに向かうのだと思います。
 こちらの感情を表情に出して相手を不安にさせない ように配慮すること、これが「表情管理」です。

(「Mina Okuyama Official  Site」より)

 このあたりまでは、ごく当然の常識論でもあると思う。

 特に、ほぼ例外なく不安の中にある患者が、目の前の医療者に左右されるのも事実なのも間違いない。

 もちろん、気をつけていても不安が表出してしまうことはあります。しかし自分の表情が相手に及ぼす影響」を、「相手の視点から考えて整えよう」とする「在り方」が何より大切。その気持ちが相手に伝わり関係がよくなるのです。またこうした「在り方」で生きている人は振り返りができるので、徐々にその場面、状況に合った表情ができるようになります。逆にいうと、そうではないスタッフが「クレーム」を受けることが多くなるのです。 表情管理のゴールは、他者視点で自分自身を俯瞰することができるようになることです。

(「Mina Okuyama Official  Site」より)

 ただ、なんとなく危うさを感じるのは、それこそ俳優には、この能力は不可欠かもしれないが、「他者視点で自分自身を俯瞰」することをやりすぎると、表情と感情が分離する可能性が出てきて、それは、長期的に見たら、その本人の精神的な健康を損なわないか、と思うからだ。

 普段、自分では自分の表情は見えません。私たちの表情がその場面や文脈に合っているか、適切かどうかを判断するのは患者さんであり、ご家族です。大切なのは、表情の評価者は相手方であるということを忘れない姿勢でしょう。「今の表情や態度はよくなかった」 ということを教えてもらう機会が、すなわち「クレーム」です。

(「Mina Okuyama Official  Site」より)

 表情管理、という言葉の怖さは、おそらく、ここにあるように、表情という個人的なものが、評価の対象になること。さらには、外からの視点で見える部分だけを評価するであろうこと。その2つにもあると思う。

笑い測定機

「表情管理」の評価が、他人という人間だったらまだしも、その判定を機械に行わせるという発想をする人もいる。それは「笑い測定機」という形で、すでに商品化されているのを知った。

 私には、ただこわい。

面白いことに、人間の「笑い」を客観的に計測する「笑い測定機」を開発していたのは日本だけであることが分かりました。

(「笑うヒトの生活」より)

この「スマイルスキャン」は、健康医療器具のメーカーであるオムロン社が開発した笑い測定機です。

自分が笑顔をしたときの顔の形を想像してもらえれば分かるように、笑ったときには口角が上がったり、目尻が下がったりします。

スマイルスキャンでは、この笑顔の表情をカメラで読み取り、笑顔の度合いに応じて0~100%の指標で表現します。

このスマイルスキャンは、接客業の研修などで笑顔のトレーニングをするときに使われているほか、私たちの身近なところでいえば、デジタルカメラで笑顔になると自動的にシャッターが下りる「スマイルシャッター」の技術としてすでに実用化されています。

(「笑うヒトの生活」より)

 個人的には、スマイルスキャンで研修をしている企業では苦痛で働けないし(採用されないだろうけれど)、この機械を導入して接客していると知ったら、なるべく別の店を使いたいと思ってしまう。

 そんなことは、とても小さい抵抗なのかもしれないけれど、人の笑い、という表情を機械で判定することが、場合によっては、どれだけの精神的な苦痛を与えるかがわからないのだろうか。また、このトレーニングでできる笑顔は「作り笑顔」(最も大事な目での笑いは測定できないと思われるし)になる可能性も高く、それは長期的に見れば、顧客も離れるかもしれない、と考えないのだろうか。

なお、このスマイル・スキャン、アメリカのニュース雑誌である『タイム』誌上の「世界最低の発明」にノミネートしたことでも一時期話題になりました。

(「笑うヒトの生活」より)

 海外の判断が全て正しいとは思わないけれど、この『タイム』誌の評価は、とても適切だと思う。ただ、このコラムによると、「笑いの測定機」は他にも、違う要素で判定する2種類の機械があるようだ。

 大げさかもしれないけれど、こうした測定機は「悪魔の発明」のような気がするし、そうした流れは、さらに加速しているようだった。

管理強化

授業中の生徒が集中しているかどうかを、教師がリアルタイムで把握する。

5月9日朝、埼玉県久喜市立鷲宮中学校の1年3組では、家庭科の授業が始まっていた。生徒31人の手首には、脈拍を測るリストバンド型の端末が巻かれている。「集中度」をほぼリアルタイムで把握できる日本初のシステムがこの日、初めて本格稼働した。保護者には概要を伝え、個人情報への配慮も説明。了解を得ているという。 

 これは、今年(2023年)の記事だけど、学校へ意見することへの怖さを考慮したとしても、それでも、自分が、ここに意見を言える立場だったら、反対したい。

一方で懸念はないのだろうか。教諭は少し考え込んでこう説明してくれた。「生徒の無意識の部分を見るのは、申し訳ないような気がする。でも、授業が生徒に『はまって』いるかどうかが分かるのは、すごく参考になる」 

 この「申し訳ないような気」は、この教諭の人としての真っ当な反応だと思う。

 もし、自分が、こうした測定機を付けられて授業を受けたとしたら、特に高校時代は寝ていたから、参考にならない数値になるはずだけど、そうした装置があったら眠れなかったかもしれないし、かといって、授業に集中できた気がしない。

今回のシステムを提供しているのは元国立健康・栄養研究所協力研究員の高山光尚さんと、ヘルスケアIT企業のバイタルDX(東京)。高山さんに聞いたところ、脈拍に着目するのは、身体の機能を調整する自律神経との関係が深いためだ。 

「脈拍はうそをつかない。自分ではコントロールできないから」

 こうした測定機が人間につけられている場合で、これまで個人的に知っていたのは、犯罪に関係していると見られ、取調べ中に使われる、いわゆる「ウソ判定機」で測定されるとき。さらに、フィクションだけど(「カイジ」)、裏賭博で自分が有利になるために、こっそりと相手の脈拍数がわかるようにして、相手の心理状態を把握するための装置が付けられているときだった。

 もしくは、自分の健康を把握するために、健康診断の際などに、医療者と自分だけがわかるように測定される場合だけだ。

 こんな内心にも、健康というプライベートな情報にも、密接につながる数値が他人の目に触れるのは、こうした「特殊事態」に限られてきたことの意味を、この「集中度を測定する」システムを開発した人は考えていないのだろうか。そして、このシステムを導入しようとした「教育現場」は、もっと深く考えた方がいいのではないだろうか。

次に、1年3組の生徒たちに感想を聞いた。「データを取って授業が良くなるなら歓迎」「自分たちが関わった取り組みが、もしかしたら世界に広がっていくかもしれないのが楽しみ」「わくわくする」  新技術の可能性への期待が次々と出てくる。脈拍を常時測定されることに抵抗はないのだろうか。ある生徒は「脈拍ぐらいなら、いい」。

 こうして、生徒の声を集めることで、このシステムは正当化されるのだろうか。だけど、こうした状況(教室で、周囲に人がいると思われる)で批判的な言葉は、おそらくは言いにくい。それこそ、内申書などに反映される可能性も考えているかもしれない。

 ただ、こういうシステムの導入が日常的になれば、そのうち、おそらく「脈拍ぐらい」ではすまないはずだ。それが「笑い測定機」が3種類も開発されてしまう国に住んでいる怖さかもしれない。

「表情」という言葉

【表情】
 感情を外に表すこと(によって、からだ、特に顔に現れる変化)。

(「新明解国語辞典」より)

 表情管理という言葉を、職場管理として使おうとする人が、意識的なのか、あまり言及していないのが、表情というものが「感情を外に表すこと」という大事な点だ。

 だから、表情の源泉は当然だけど感情で、その感情を、外からの評価でコントロールしようとすることにつながりかねない「表情管理」という言葉を、それこそ、管理側から使うのは、大げさにいえば、個人の尊重を脅かすものだということは、もう少し考えた方がいいような気がする。

 それに、その感情を外に出すかどうかは、本人が状況によって決める権利があると思う。例えば、前出の「看護師の表情管理」に関わる記事でも、原則的には正しいことのように感じたとしても、例えば、過酷な労働環境の中で、感情そのものが良好になりにくいにも関わらず、「表情管理」だけを強制するのであれば、それは「やりがい搾取」のようなことにつながる行為のはずだ。

 もしも、その職場で「自然な」笑顔が少ない場合は、接客であれば、感じがよく振る舞った方がいい、という原則は伝えるものの、その感じ良さを表現する方法は、人それぞれでもあるという原則は忘れないようにしたい。

 そして、その職場を管理する権限や力がある側が考えるべきなのは、その個々人が「表情管理」をするように「笑い測定機」という、地獄のような(自分が毎日使うことを想像して欲しいけれど)システムを導入することではなく、その職場が、より気持ちよく働ける環境にすることを、報酬も含めて考え直すことだと思う。

 環境が悪ければ、感情も安定せず、そうなってしまえば、自然で上質で、人を惹きつけるような笑顔が出るわけはない。

 だから、まずは、「表情管理」を職場に持ち込もうとしている管理職は、表情は、感情が外に出ているもの、という原則を思い出した方がいい。顔の形を自在にコントロールして、自分の感情と無縁にそれができることは、俳優というような職業には必要なことかもしれず、そのために報酬も多いはずだけれど、一般的な職場で、そこまでのことを要求するのは過剰すぎることを、もう一度確認してほしい。

 感情が時にコントロールできないように、表情も管理しきれるわけがない。それが人間なのだと思う。

俳優の言葉

菅田将暉、松坂桃李の表情管理を絶賛「お芝居では見れないキレがすごい」

 この記事もタイトルでは「表情管理」という言葉が使われているものの、ここに出てくる菅田将暉は、こう語っている。

新CMの撮影時のエピソードについて聞かれた菅田は「桃李くんのキレはすごい」と一言口にすると「同じタイミングで同じ表情に揃えたいときがあるんですけど、普段のお芝居では見られないキレがすごいんですよね」と説明。

またテーマに沿って撮影する中で徐々に様々なパターンをやっていく内に、「だんだん監督とかも『本来どんなんだっけ』みたいな感じになるときがあるんですよ。で、『1回目の時の表情をもう1度』とかって言われるんですけど、桃李くんはスッと戻せるんです。あれは技術ですよね」と感嘆の声を上げた。

これに松坂は「自分の中で保存しておこうと思ってやっているのはありますね」と振り返っていた。

(「モデルプレス」より)

 表情に対して「キレがすごい」もしくは「同じ表情に揃える」という表現はしているものの、「表情管理がすごい」という言い方にはなっていない。

 もちろん、これだけ広く使われていれば、すでに使う俳優はいるとは思うものの、菅田将暉が、「管理」という、自分ではない他人の「評価」に偏りすぎるような、もしくは、やや固定的な印象につながるような言葉を使っていないことには、なんとなく納得できる気がする。

 「キレ」や「揃える」は、人間の主体的な行為とつながる言葉だとも思うからだ。

 そして、一般的なレベルで言えば、「顔で笑って、心で泣いて」ということが、表情をコントロールする指標だと思うし、その程度の自主的な努力や工夫で十分で、それを「表情管理」のように、外の視点から評価するのは、やはり不自然なことではないだろうか。

 そこまで評価したいのであれば、一流俳優並みの報酬を用意するべきだと思う。

目の表情

 コロナ禍でマスク着用が日常になり、それが長引くにつれて懸念されていたのが、「表情が分かりにくい」ということだった。

 確かにそのことによって、口元は見えなくなるものの、何しろ肝心の目が見えているから、表情がわからない、というのは言い過ぎだと思っていたし、目の表情は最も重要だし、それこそ「ウソがつけない」ものだとも思っていた。

 それこそ、人前に立つ仕事であっても、そして、何より俳優であっても「目の演技」は重要であり、このコントロールしにくい表情を、それこそ適切に演技できれば名優と言われるようになるはずだ。

 今年話題になったアニメ「推しの子」は、伝説のアイドルの存在がとても重要なのだけど、そのアイドルの表現は、他のアニメと同様にとても目が大きく、違うのは瞳の中の星が異様に大きく輝きが強いことで、それが、そのアイドルが「特別な存在」であることを示しているようだった。

 それくらい目の表情は大事で、そして、それは「表情管理」というような言葉で収まるようなレベルではなく、心からの感情が出ているようでないと、たくさんの人を惹きつけられないという表現をしていたようだった。

 基本的には、表情は管理できなくて、それは、感情が本当の意味でコントロールできない、ということも伝えているようでもある。

 そして、それは、本当のことだと思えた。

もう一度、「表情管理」

 表情というのは、感情があらわされているもので、感情というのは、その人のプライベートなもので、そして、基本的には、人には何を考えてもいい自由がある。それは、大事にされるべきことであるのは、その人の存在そのものを尊重する、ということにもつながるので、おそらくは誰にでも共有できる「常識」だと思う。

 さらには、少し大げさになるかもしれないが、内心の自由-----人は心の中では何を想像しても、思っても、考えてもいい、ということは、基本的な人権として憲法で保障されているのは、人にとってとても大事なことでもある。

 だけど、人類の歴史全般からみたら、素朴すぎる見方になってしまうが、権力側は、力で押さえ込んでいる時ほど、いつも恐れがあるようだ。支配しているはずの市民が、何か社会を転覆させることを考えていて、それが実現したら自分の命も危ないのではないか、などと不安で、だから、市民の内心に踏み込みたがる。今、(自分たちにとって)危険な思想を抱いている人間はいないだろうか。そんなことを知るために、内心の自由を犯すことさえある。

 だから、そうした権力側の暴走を止めたくて、憲法というルールをつくってきたのが、人類の歴史のように思える。

 そうなると、例えば職場で、あまりにも適切でなく、仕事にマイナスになるほど、不機嫌な表情をあらわにする人間がいたら、管理職側が注意するのは、当然のことになるけれど、あまりにも踏み込んだ「表情管理」は、それこそ、その人の人権を犯す可能性すらあるのではないだろうか。

 それに、管理側としては、その不機嫌が、もしも、職場の環境や待遇などに問題があったとすれば、それを改善するのが優先されるべきことのはずだ。

 それを検討する前に、とにかく働いている人の表情をコントロールする強制につながりかねない「表情管理」を振りかざすことは、とても暴力的だと思う。

 特に人の前でパフォーマンスするような仕事をする(アイドルや俳優など)人であれば、自分の仕事の質を上げるために「表情管理」を心がけるのは、プロとして当然かもしれないが、でも、もし最高の表情というものがあって、遠くまで届く力があるとすれば、それは、感情と完全に一致して、心から浮かべている表情のはずで、それは、どの職場でも、どんな人にでも、共通することだろう。

 しかも、表情を伝えるのは、人間相手であるのが基本だから、それを、機械で判定されることは原則とは外れる。

 そして、例えば、「笑い測定機」の前で、OKが出ないと職場で働けない。といった、暴力的なルールがある場所があるとすれば、どうしても気持ちの調子がイマイチで、だけど、働きながらきちんと整えようとする気持ちがあるのに、ずっと機械の前で「×」が出続けて、仕事ができないとすれば、それは、拷問に近いことのはずで、そのことは「笑い測定機」を開発したり、導入したりする人に想像してほしい。

「表情管理」という言葉があまりにも一般的になり、仕事に限らず、まるで常に正しいことのように扱われすぎることは、そうした拷問のような経験をする人を増やす危険性があるから、「表情管理」という言葉そのものより、その言葉が力を持ちすぎることを想像して、怖くなったのだと思う。

 感情は外からは、管理できないし、管理してはいけない。

 同様に、表情を本人がコントロールしようとするのは、場合によっては必要なことだろうけれど、それを、外側から、しかも、人間が評価するのではなく「客観的」という名前のもとに、機械などを使うというようなことをするのは、やはり人間を尊重する気持ちが少しでもあるのなら、それが間違っているのは気がついてほしい。

 さらには、集中力を脈拍で測定するようなことは、最初は、測定される側の利点になるなど、いろいろなことを言ったとしても、容易に「感情管理」という、さらに踏み込んではいけないことに進みがちだから、最初から導入すべきではないと思う。

 それは、ごく当然のことかもしれないが、「表情管理」という言葉について考えていたら、そんな一応の結論にたどり着いた。


 私のここまでの思考も、未熟なこともたくさんあると思いますし、もし、よろしかったら、皆さんのご意見を聞かせていただければ、うれしく思います。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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おちまこと
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