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「ルールが理解できない」という能力について

 かなり無茶な設定なのだけど、悪魔を表現するCGや、さらには、新しいゲームをどうやってつくるのか、といったことが気になるし、もしかしたらマンガ『カイジ』に似てくるのかもしれない、といった予感もあって、ドラマ『アクマゲーム』を見ている。

 ただ、「アクマゲーム」として戦っているゲームのルールを、テレビだから映像も含めて丁寧に説明しているはずなのに、そのルールがびっくりするくらい分からなかった。

 それは、全く知らない外国の言葉。もしくは見たことがないスポーツが急に始められたように感じたくらいだった。

 そして、時々は感じていたのだけど、自分が「ルールというものが分からない」ことを改めて分からされて、ちょっとショックを受けた。

 自分が、ここまでルールを理解できないとは思わなかった。


トランプ

 今はどこまでみんなが頻繁におこなっているのかどうかは知らないけれど、トランプは、おそらく知っている人の方が多いと思う。

 私自身も、子どもの頃から何人かが集まり、なんとなくやることがないとトランプをした。

 いろいろなゲームがあって、全部を裏返しにして、同じ数字を合わせるという記憶力を競う「神経衰弱」は人がめくったカードを覚えられなくて弱かった。「7並べ」というのは、4種類ある7をまず並べて、そこから数字順に置いていき、自分の持ち札を早くなくすと勝ちになる。ただ、この「7並べ」は自分の持ち札をどうやって消化するか?というだけではなく、自分の持ち札を置かないことによって、対戦相手のカードを置けなくする、といった戦略があるのだけど、そうしたことを考える力が極端に欠けていることに、子どもの頃から気づいていた。

 何より、そうしたことが面倒臭かったし、ということは、いわゆる勝負事、というものに興味が薄かったり、さらには単純に好きではなかったのかもしれない。

 ただ、そのことを認めにくかったのは、特に男の子は競争心が弱かったり、戦略的なことが得意でないとバカにされる。そんな「常識」を知っていたからではないだろうか。

 そういう男の子への見方が、今は変わっているのだろうか。

麻雀

 大学生の頃、サッカー部の練習が終わってから、そのまま雀荘に行く時期があった。

 13枚の牌を並べて、何かしらの役をつくらなければいけない。4人で対戦している形式だから、それぞれの人が何を不要として、場に捨てているのか、そういう捨て牌を見て、相手の状況を把握しないと、勝てない。

 まず、そうしたあれこれに気を配ることがあまりできなかった。さらには、自分の13枚の組み合わせで、同じマークが集まりだすと、その組み合わせが複雑になって、途中から完全に何をしているのか分からなくなる。

 そういう人間は、やはりバカにされるから、なるべく自分でもわかりやすい役をつくって、あがろうとした。

 さらには、点数の数え方そのものも、よくわかっていなかった。

 だから、当然だけど何回やっても、うまくも強くもならなかったけれど、それで特に悔しかったわけでもないのは、トランプから始まって、こうしたルールのあるゲームに関して興味がそれほど持てなかったからだ。

会社の選びかた

 学校を卒業し、どんな仕事をするのかを選ぶときも、自分が色々なゲームを楽しめないのは、まずそこに定められたルールを理解するのが、人と比べると極端にできないことを、麻雀などを通して、よくわかっていたから、なるべくルールが少ない、ということを基準にして選んでいた。

 だから、先輩たちに誘われるまま、就職活動というものもよくわかっていなかったので、人に会い続けていたら、いつの間にか内定のような話が出ていた金融関係の会社は断り、競争率が高いから無理かも、と思いつつもマスコミに行こうと思ったのは、それも何も知らない愚かな学生が考えそうなことではあったけれど、原稿を書くのであれば、取材して書く、というシンプルなことをして、最低限のルールを守っていれば、あとは「面白いもの」を書けばいいのでは、と思っていたせいだ。

 もちろん、実際に入社すれば、そんなに単純ではなく、さらには、組織の暗黙のルールを理解したり、察する能力が低いために、気がつかないうちにチャンスを逃したり、不利な立場に追いやられている可能性もあるので、会社をやめた後だけでなく、組織にいない時間の方がはるかに長くなったのだけど、それで、今でも貧乏なままなのかもしれない。

 それでも、他の仕事に比べると、ルール通りに動くというよりは、現場によって、状況によって、毎回違う対応が必要とされるような仕事の方が、どうやら向いていたし、残念ながら、突出したオリジナリティはなかったから、大した成果はあげられなかったけれど、それでもなんとか今までは生きて来られたと思う。

 できないことが多いから、仕事を選ぶときの選択肢が少なく、そういう意味では楽だったのかもしれないと改めて思ったりもする。

「3色ショッピング」と「ゴチになります」

 学校を卒業すると、仕事以外の付き合いでは飲み会が主流になり、だから、麻雀をやったり、ましてやトランプをしたり、といった機会自体がなくなっていた。

 自分からわざわざすることもなく、何人かの集まりで「UNO」をするくらいだったけれど、そのルールは難しくなかったので、普通に楽しめたのは、かなり運に左右されるゲームだったせいかもしれず、それほど戦略的なものを考える必要もないせいだったのだと思う。

 途中で酒を全く飲まなくなったので、付き合い自体が減ったけれど、その頃は、仕事を辞めて家族の介護に専念するような期間が10年以上あったので、それが不自由に感じる機会も少なかった。

 その間に本を読む習慣がついて、いろいろと考える機会は増えたせいもあって、ルール理解に弱い自分については、それほど直面する機会が減っていたし、読書も、ルール理解が重要になるような書籍を避けていたのだと思う。

 ただ、テレビをなんとなく見ていて、昼間の番組で、山里亮太が「何色の何?」と叫んでいて、ファッションをテーマにして競っているのは理解できても、ずっとそのルールがわからなくて、色がかぶって残念!と言っていた理由もわからないまま、その「3色ショッピング」から山里亮太が卒業した。

 さらに、「ゴチになります」も、そのルールが、今もよくわからない。

 真剣に見ていないせいもあるのだけど、それでも、どうなれば全員分をおごることを避けられるのか。料理の選択がどのように勝敗に関係してくるのか。それを誰かに分かりやすく説明してください、と依頼されたとしても、それができないのはわかるので、やはりルールを理解する能力が極端に不足しているのだと思う。

 その力は、若い時からずっと変わらないので、加齢による能力の衰えだけでではないような気がするし、本を読んだり、いろいろと学ぶことを増やしたりしても、 こうした能力は上がるわけではないようだった。

 ちょっと残念な気持ちはある。

ルールが理解できない、という能力について

 そうしたルールを理解する能力の不足について「アクマゲーム」というドラマを見て、久しぶりに思い出した。それも、少しは能力が上がっているかもしれない、などと思っていたのに、それが全くなくて、ちょっとがっかりはしたけれど、改めて考えた。

 ルールを理解できない、というのは欠けているとも言えるのだけど、それも能力と考えられないだろうか。

 ルールを理解するのは自分にとっては難しい。

 それは、個人的には自分の思考を決められた箱に収めていく、ということにも感じて、それができれば、組織の中で力を発揮しやすくなるのもわかっている。

 だけど、自分の思考のようなものをどこかに収めることが、ちょっと気持ちが悪い。

 それは、書類を作成するときに、細かい四角の中に定められた書式で、何かを書くことをすると、極端に作業が遅いことにも表れているのだろうけれど、それは、事務処理という仕事をする上では、ただの無能であることもわかっている。

 だけど、好きにやっていい、といわれるとうれしい。その時は、その好きに関しての限界の確認はするけれど、例えば、何か自分がやりたいこととしての「企画」を考えるのは、おそらくは苦痛が少なくできる。

 だから明らかに向き不向きがはっきりしていて、能力の偏りはある。

 そんな自分にとっては、ルールを理解する能力と、何か新しいことを考える能力は、やはり両立しにくいのではないかと感じている。

 もちろん、ルールを理解する能力が高い方が社会で生きやすく、適応できる確率は高く、だから、収入にも結びつきやすいはずだ。逆に、何か新しいことを考える能力は、それだけでは社会不適合に近く、その能力は、ルールを理解する能力のレベルよりも、はるかに高く新しいことを考える能力がなければ、仕事に結びつくことは少なく、だから、その新しいことを考える能力を育てるよりも、ルールを理解する能力を身につけようとする。

 それは正しいかもしれない、でも、それは苦しいことだと思う。

 ルールを理解できないこと。も能力だと捉え、もしかしたら、そのことで、例えば何か新しいことを考え出す能力などがある印かもしれない、と思えれば、いろいろな人が生きやすくなるのではないだろうか。そして、程度の差はあっても私のように「ルールを理解すること」が苦手な人は思ったよりも多いのではないだろうか。

 もちろん、ルールが理解できないことが、すぐに他の「役に立つ能力」に結びつくわけではないし、他の能力があったとしても、それほど社会に有用かどうかもわからない。天才は、どちらにしてもほんの少ししかいない。

 だけど、極端にできないことがあったとき、それは、他の能力があるかもしれない。そこまでいかなくても、他に向いていることがあるかもしれない。少なくともできないことがわかるのは、大事な能力ではないか。そんなふうに考えることができれば、今よりも社会は楽しくなるような気がする。

 かなり自分の思考に寄っていて、理屈としては無理があるような気もするけれど、そんなふうな視点も持てるようになるのが、多様性の時代ではないかとも思っている。



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