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読書感想 『弱さのちから』 若松英輔……「コロナ禍に読まれるべき本」

 とにかく、なめられちゃいけない。

 思春期だったり、不良だったり、ヤンキーだったらともかく、会社という組織で働いている人間からも、老若男女を問わず、その言葉を何度も聞いてきた。

 そのたびに、微妙な違和感があった。

 まず、実用的な面から言えば、なめられちゃいけない、という態度そのものが、最も、なめられるのではないか、という疑問。さらに、なめてくる人間は、その場面で、ある種の本質をさらしているのだから、逆に相手にしやすいのではないか、という想像。

 だけど、それは、組織内にいない人間の戯言かもしれず、そして、なめられちゃいけない、は、結局のところ、弱さの否定であり、それは、現代のメジャーな思考だとしても、おそらくは自分に飲み込めないのだとも思った。

「弱さのちから」  若松英輔

 自分が無知なのが悪いのだけど、とてもすごい人がいたとしても、知らないままにいることが、圧倒的に多い。この著者を知った時も、どうして、これまで知らなかったのだろう、と自分の勉強不足を棚に上げて、不思議な気持ちにはなった。

 もしかしたら、どこかで自分も触れているのかもしれないが、この「批評家・随筆家」の文章が、ほとんど印象に残っていないのが、自分のことなのだけど、意外だった。

 たとえば、現在のコロナ禍で、著者自身が体の調子の悪さに直面した時のことを、こう書いている。

  自分は弱い、そのことを認めるとさまざまな不調は次第に癒えていった。今も完全ではない。だが、その状態を「生のゆれ」として感じ得るようにはなってきた。
 わが身を守る。これは誰にとっても大切な務めだ。今は、自身を守ることが、他者を守ることにもなる。ただ、私たちは、もう一つ、おのれの弱さを認めるという仕事にも従事しているようなのだ。 

 私自身が、この著者の文章に触れることができたのは、失礼なことだと思うのだけど、おそらくは、今のコロナ禍によって、今までのような生活ができなくなり、どうしても内省的になったことで、社会の中での注目の度合いが高まったせいもあるはずだ。

 コロナ禍の今こそ、より読まれるべき作品だと思う。

「弱さ」ということ

 コロナ以前の21世紀は、おそらくこれまでになく「弱さ」が排除されてきた気がする。

 それは、いわゆる新自由主義が盛んになり、自己責任という言葉が「強さ」を増す中では、弱くあってはいけない。というよりも、それを踏み越えて、「弱さ」は悪のようにさえ思われてきた傾向さえあった。

 それが、一変したのが、コロナ禍で、強くあろうとすることが難しくなった。たとえばトランプ元・アメリカ大統領のように、マスクをすること自体は、感染予防のために、しかも利他的に行われることでもあるはずなのに、そのマスクをすることを「弱さ」の象徴のように主張し、それでも、自身もコロナウイルスに感染したことがあった。

 それは、今までの「強さ」について、いやでも振り返り再考する時期に来ている、ということでもあるように思えた。

 弱音を聞くと、人は自分にも弱いところがあることに気が付く。そこを直視するのが嫌で、弱音を口にする人を遠ざける。だが、そのいっぽうで、ひとたび「弱く」なってみなければ見えない世界の深みがあることを、今私たちは、日々、実感しているのではあるまいか。
「弱い人」は何もしないのではない。むしろ、他者の「弱さ」を鋭敏に感じ、寄り添える人でもある。私たちは「弱い人」たちを助けるだけでなく、「弱い人」たちにもっと学んで良い。「弱い人」の眼に映る世界、それに言葉の姿を与えてきたのが、哲学や文学の歴史にほかならない。 

 この場合、もしかすると「弱い人」という表現はシンプルでわかりやすいと思うものの、心の中で、弱い状態でいる人、などと置き換えてしまうのは、やはり、自分の中でも、「弱さ」に関して、避けるべきもの、という発想があるのかもしれない、と気づく。

メルケル首相

 コロナ禍で、その差が際立ったのが、各国のリーダーの言葉と政策だった。

 もちろん、外側ばかりを無条件に称賛するのは、危険だったり、怠慢だったりしてしまうのは分かっている。それでも、ニュースで断片的に見るだけだったけれど、ドイツのメルケル首相は、画面を通してみても、何か違っていたように感じた。そこに、まずは人としてあるように見えたからだ。

 どうやら、それは、単純に気のせいではなかったようだ。

 彼女は国民を直接的にはげますのではなく、「不安」を共有しようとします。「誰もが」と前置きし、「疑問や不安で頭がいっぱい」だ、とメルケルがいうとき、もちろん、そこには彼女自身も含まれています。彼女は自分が抱えている不安を隠すことなく開示したのです。

 もしも、日本のリーダーが、単なるモノマネでなく、そうした言葉を正面から正直に伝えてくれたら、どれだけ違っていたのだろうと思う。最初に緊急事態宣言が出された時、テレビ画面から聞こえてくる日本の首相の声は、本当に虚無的に響いていて、ただ不安がふくらむだけだった。頑張りましょう、というような励ましは、力になることはなかったような気がする。

 励まし合うのはよいことなのかもしれません、しかし、それよりも弱さを互いに受け入れることが最初ではないでしょうか。
 弱さと弱さが重なっても、より弱くなるだけなのではないか、という声もどこかから聞こえてきそうです。「あたま」で考えるとそうなります。しかし、先にもふれたように私たちが、互いに内なる弱い人の姿で誰かに会う。そこには、信頼や友愛、ときには慰めがあり、あるときは孤立から救い出された心地もするかもしれません。不思議なことなのですが、弱さによって実現した「つながり」は、私たちをより弱くするとは限らないのです。その人に眠っている可能性や生きるちからを呼び覚ますこともあるのです。

 きれいごとに聞こえるかもしれない。私自身も、そんなふうに思えてしまうこともある。だけど、こうしたことから始めないと、今の未知の状況では、陰謀論の安心感に巻き込まれる可能性の方が、高いのかもしれない。

コロナ後の世界

 コロナ禍が、いつ終わるのか。
 それを正確に明言できる人は、おそらく今の人類にはいない。

 この非日常が3年目になって、しかも、いったんは収束に向かいそうな気配があった後に、これまでにないほどの感染拡大の状況を迎えているのだけど、同時に、今のオミクロン株は軽症だ、という言説が多く聞くようになった。

 それは、これ以上、不安状況に耐えられなくなっているからコロナ収束の願望混同してしまっている可能性はないだろうか。

 もちろん本当にオミクロン株は、これまでと違うのかもしれないが、今は、過剰に「軽症」という言葉が使われているような気がする。重症者も、死者も増えてきているのに、そこから目を背けたくなっているだけ、ということはないだろうか。


 危機は、日常生活を大きく揺り動かします。しかし、そこから見えてくるものの多くは、新しいものではなく、見過ごしていたものなのです。見ていたはずなのに素通りしたもの、それを今、私たちは取り戻さなくてはならない。そこには自己や他者とのつながりもある。

 何を見過ごしてきたのだろうか。
 それを個々人で考えることと、現在のまだ終わらない脅威に対抗していくことは、それこそ、つながっている可能性が高いと思う。

おすすめしたい人

 本当に疲労したら本を読む余裕もないかもしれませんが、長引くコロナ禍で疲れた人ほど、読んでほしいと思いました。
 表面的でなく、控えめだけど、心が少し落ち着くような気がしました。

 今、自分が弱ってしまっている、と思う方ほど、より深く理解できるようにも感じています。


(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。




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