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言葉を考える㉑「和を以て貴しと為す」は、本当だろうか。

 そろそろ使われなくなったと思っていたけれど、まだ有効のようなのが、「和を以て貴しと為す」だった。

礼記―儒行」に出て来る一節から。「礼は之これ和を以て貴しと為す(儀式作法では、その場の人々の心が調和することが重要だ)」とあります。似た一節は「論語―学がく而じ」にも見られ、七世紀の初めの日本で聖徳太子が定めたという「十七条憲法」の第一条でも使われています。 

(『コトバンク』より)

 どうやら、かなり古くから言われている言葉で、一般的には「仲良くしなさい」に近いニュアンスで使われていて、今もどうやらまだ有効だと知って、改めて考えてみたくなった。


十七条

 中学時代、サッカー部の顧問がいた。

 20世紀のことだから、かなり乱暴な部分もあったのだけれど、高校に推薦で進学し1年生からレギュラーになって、インターハイにも出場し、かなり足の速い先輩と、その顧問の教師は一緒に走って追い抜いた。

 そういう実力を見せられると、やっぱりすごいと思ってしまい、サッカーに関しても、学生時代に大学のリーグで一人で成績を上げたらしいというような噂があったし、練習中に見せるプレーもそれを裏付けるようなものであったから、無茶を言っていると思うこともあっても、だいたいのことは信じた。

 その顧問が、どんな流れでそんな話をしたのか覚えていないのだけれど、サッカーのルールの話題になった。

 Jリーグが始まる前は、サッカーはどちらかといえばマイナーなスポーツと見られていた、というよりは、野球が唯一のメジャースポーツの時代が長かった。少なくとも昭和の間はそうだったと思う。だから、どの中学校でも野球部はあって、通っていた中学校もグランドを半分ずつ使用していた。バッティングのボールもよく飛んできて「あぶない!」といった言葉もよく発せられてきた。

 だからなのか、顧問がルールの話をする時も、野球のことから入ったと思う。

 野球のルールは、とてもたくさんある。お前たちでは、とても覚えられない。それに比べてサッカーのルールは少ない。十七条しかない。聖徳太子のようなものだ。だから覚えられるはずだ。

 そんなようなことを言っていて、確かにサッカーのルールはオフサイドを除けば、分かりやすいものが多く、それから時代が経ってゴールキーパーに関することや、オフサイドのマイナーチェンジなど、やや複雑にはなったとしても、今でもルールはシンプルな方だと思う。

 ただ、十七条と言えば、聖徳太子が定めたもの、ということは常識のようにもなっていたはずだ。同時に、その第一条に、「和を以て貴しと為す」があることも、それほどモノを知らない中学生でもぼんやりとイメージできるほどだった。

時代背景

 そのころは、そんなものかと思ったけれど、権力側の人間が定めた公式のルールの最初に「仲良くしましょう」があることには違和感はあった。

 さらに時間が経って大人になる頃になると、聖徳太子(年月が経つ頃は、自分たちが聖徳太子と信じていた肖像画も、どうやら別人かも、と言われて、微妙なショックを受けた)が、「仲良くしましょう」というルールを打ち出した頃の歴史背景も改めて考えるようになった。

 古墳時代末期から飛鳥時代前期にかけて、最初に起こった大変革は仏教の伝来でした。仏教を受け入れるか否かの派閥争いが朝廷内の権力闘争に発展し、豪族同士が対立。
 最終的には、崇仏派(すうぶつは:仏を崇拝する人々)の「蘇我馬子」(そがのうまこ)が台頭し、朝廷内で最大の実力者に伸し上がりました。

 この際、天皇に擁立されたのが33代天皇「推古天皇」(すいこてんのう)です。ただし、推古天皇は自分が傀儡(かいらい:他人の言いなりとなって動き、利用されている者)になることを防ぐため、摂政に「聖徳太子」(別称:厩戸皇子[うまやどのおうじ/うまやどのみこ])を任命。
 ここに「蘇我氏」の権力を背景とした、聖徳太子による国作りが始まったのです。聖徳太子は、日本で初めて法律による治世を行うなど政治手腕を発揮し、大いに国を栄えさせました。

(『名古屋刀剣ワールド』サイトより)

 つまり、聖徳太子が権力の中枢にいる頃までに、俗な言い方をすれば、散々、争いをしていたことになる。

 とすれば、「和を以て貴しと為す」は、とても好意的に解釈すれば、これまで戦乱の世の中が続き理不尽に亡くなる方も少なくなかったのだから、これからはそんな争いのない世にしていきたいという、そうなればいいな、といった願望のような言葉ともとれる。

 さらに、もう少しリアルに考えれば、現在、権力の座にある人間が、争ってはいけない、といった言葉を発するとすれば、それは権力維持、つまり、例えば異議申し立てのような争いにつながりそうなことに対して、その異議の内容を検討する前に、波風を立てること自体を牽制できるのが、この「和を以て貴しと為す」という言葉だと思う。

 だから、この「和を以て貴しと為す」というのは、かなり政治的な表現のはずだ。

違和感

 そう考えると、この言葉への違和感が自分としては説明がつく。

「仲がいい方がいいよね」といった平和を望むような言葉というよりは、もし、この「和を以て貴しと為す」という言葉を使う人間に社会的な力があった場合は、そこで起ころうとしている、これからにつながるはずの未来への混乱などを止めてしまうことさえある。

 その社会的な力がある人間にとっては、自分の力をそのままにするような現状維持につながるのだから、それは、現在の不均等を動かすことにはならない。

 それで、この言葉への警戒心があったことに、自分自身では納得がいく気がした。

 これが一般的な解釈でも理解でもないのだろうけれど、自分としては、これからも変わらずに、「和を以て貴しと為す」をそんなふうに思い続ける気がした。





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