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今の状態は、本当に「人手不足」と言えるのだろうか?

 最近、よく聞く言葉の一つが「人手不足」になっている。

 もしかしたら、そのことを切実に感じている人たちも思った以上に多く、そのことで苦しんでいる人もいるとは想像もできるのだけど、個人的には、「人手不足」を感じることはほとんどない。


需要と供給

 もう10年以上前のことだけど、仕事を探すとき、非正規の雇用を希望しても、何十社にも「お祈り」された。もしくはただ何の返事もなく、本当に仕事が見つからないことがあった。それから、年月が経っても、自分としては現場でベストを尽くしていたとしても、そこから仕事はほとんど増えていない。

 物流業界や、タクシーの運転手の人手が少なくて、タクシーを待つ駅前の列がなかなか減らないという現状も聞いたりすると、「人手不足」は本当のことだと思うのだけど、でも、自分自身に仕事が多く依頼されることは、今でも夢のまた夢のような感覚のままだ。

 昔はフリーのライターをしていて、その時も、仕事は少なかった。とは言っても、同業者では、仕事の依頼が多くて大変、という人もいた。かといって、仕事の少ないライターに仕事が配分されるわけでもなくて、自営業のような場合は、とても一人では出来ないような仕事の量が殺到するか。もしくは、自分から売り込みに行くしかなくて、それでも仕事が少ないか。どちらかの状態しかないように感じていた。

 そして、仕事が殺到していたとしても、時がうつれば、向こうから仕事が来る状態がなくなることさえあるから、単純に生活を考えたら、フリーのライターのような自営業は、選んではいけない仕事だと思っていたが、これは、単純に考えれば、需要と供給のバランスの問題でもあった。

 もともと、仕事の量に比べて、ライターの方が多いはずだった。

 だから、一人当たりの仕事量が十分に供給されることは、おそらく今でもないはずで、もしくは現在の方が、無料でも書いたり、もしくは生成AIが登場したりもしているから、今後はもっと「書く仕事」は減っていくかもしれない。

 そういう仕事は、才能と運に恵まれ、知名度を獲得したごく一部の人間には集中的に集まるかもしれないが、他の多くの同業者は仕事が少ないから、冷静に収入面を考えたら、選んではいけない仕事のままかもしれない。

 だから、今は専業よりも兼業としてのライターが増えているだろうし、それでも、ライターの仕事が少ない状況は、ずっと変わらない気がする。

 そして、今は資格をとって支援職を10年前から続けているが、その仕事も学んでいるときから、生活するには厳しい仕事と言われていたし、それも、その資格を持っている人に比べて、社会の中で仕事自体が少ないせいだった。

 だから、需要と供給のバランスで、供給の方が多ければ仕事は少ないし、あったとしてもその仕事の対価も上がりにくくなる。

 だから、もちろん個人的な才能や努力や運によって、需要が少ないとしても、多くの仕事を対価も十分に得ながら続け、そのことによって仕事の質も上がっていく、といった例もないことはないが、それも、当然ながらごく一部の人だけで、今の自分から見たら、夢のまた夢のような状況のままだ。

 だから、「人手不足」を実感し、仕事の受け手として、次から次へ依頼が来る、という状態は、一度は味わってみたいのだけど、それは実感としても遠い。

人手不足

 「超・人手不足時代」というタイトルがついている番組を見た。

 この番組によると、現在の状況は、これまでとは違った質の「人手不足」らしい。

 つまりは、今後、日本は人口が減っていく。その上で、すでに超高齢社会で、若い人が少なくなっているから、当然、できる仕事が限られてくる、という意味で、一時的ですまないことのようだ。

 それに関しては、自分も歳をとっていくし、周囲にも高齢者が増えてきたし、実感としてもあるけれど、かといって、本人が望まないのに、いくつまでも働かなくてはいけない状況もおかしいが、この番組のテーマはそこにはなく、あくまでも労働者という機能だけに絞った話のようだった。

 そういった現状を、労働供給制約、という言葉で表しているようだけど、それは、もうどうしようもできない前提になっているらしい。

 さらには、私が知りたかった内容にも触れてくれていた。

 つまり、「人手不足」と言われているのは、全職業ではないのでは?といったことだ。

 いま日本で何が起きているのか?公共交通、物流、介護などエッセンシャルワーカーの人手不足が全国各地で発生、暮らしに影響が出始めている。2040年には1100万人の働き手が不足する試算も。一方、事務や販売などホワイトカラーでは将来480万人が“余る”という真逆の予測が。

(「NHK」より)

 職種によって足りなかったり、余ったりしているのだけど、自分の仕事も明らかに「余っている」側の仕事なのだろうことが、改めて分かった。

 さらには、エッセンシャルワーカーが人手不足になる原因の一つが、賃金が低い、ということも、評論家的な人が冷静に話をしていた。

人間が尊重されない社会

 そのとき、ふっと、「本当は人手不足と言えないのではないか?」と思ってしまった。

 それは、エッセンシャルワーカーという名称が、コロナ禍以来、定着したといっても、公共交通、物流、介護の仕事が大変なのは、私でさえ知っているし、個人的には、もともと、体が強くないし、できないことだともわかる。

 それでも、「エッセンシャル」という名称をつけて、社会に欠かせない仕事、ということが社会的に合意できることであれば、低賃金のままにしてはいけないのだと思う。

 こうした、エッセンシャルワークと言われる中では、介護を家族として経験したこともあって、特にケアに関わる仕事は効率を重視するべきでない部分が多くあるのは少し分かる気がする。

 だから、いわゆる資本主義的な価値観では、そのままでは、そこに携わる人たちの賃金を上げることが難しいのも理解できる。

 そうであれば、「エッセンシャル」という名称で、社会に不可欠な仕事であれば、その賃金を、十分以上の水準にするのは、市場に任せていては不可能であれば、そうした部分にこそ、税金を投入するべきではないだろうか、と思う。

 それで賃金が上がれば、本当にそのままでも「人手不足」という状態が続くのだろうか。大事な仕事であれば、他の仕事よりも賃金水準を上げれば、それでも本当に「人手が足りない」になるのだろうか。

 現在の「人手が足りない」という言葉は、こんなふうに聞こえてくる。

 賃金が安くても、大変な仕事でも、黙々と働く人。そういう人を求めているのに、そういう条件に合う人がいない。

 そんなことを議論していることになっていないだろうか。そうであれば、永遠に「人手不足」は続く。

 もちろん現場の人たちは、そんなふうに思っていなくて、もっと「〇〇さん」といった具体的な人としての接し方や考え方になりそうだけど、現場から遠く、テレビ番組などで「我が国の経済」といった発想をする人ほど、働く人を人間として尊重する発想から遠いように思う。

 そういえば、「人手不足」という言葉で、不足しているのはあくまでも「人手」であって、「人」ではない。それは、「人」の労働力だけを必要にしているのであって、もちろん、それは言葉に過ぎないのかもしれないけれど、どちらにしても人を人として尊重する気配は薄い。

 だから、シンプルに言えば、人を尊重していない場所では、人は働きたがらない、ということなのではないだろうか。もちろん、現在、そうした状況でも、働いている人はすごいとは思うけれど、その人たちの賃金も含めて、十分以上に支払われることがなければ、いつまでも働いてくれないような気がする。

 まず人を尊重すること自体を大事にしないで、低賃金で黙々と働く人が少ない、といった発想のままでは、この状況は続くと思う。

減反政策

 突然、家族を介護することになり、仕事をやめざるを得なくなり、介護に専念する生活を続け、今は、家族介護者の心理的支援をする仕事をしているから、それでも、そういうことについてほんの少ししか分かっていないのだけど、市場原理だけに頼っていては、質の高い介護を大勢の人に提供するのは難しいのは分かる。

 もし、質の高い介護を望むのであれば、かなりのお金が必要になり、ほとんどの人は介護サービスを受けることも難しい。そんな方向に、現時点でも進んでいるような気がして、とても不安と怖さがある。

 元々、介護は、資本主義の原理には馴染まない部分が多いのだとしたら、やはりさらに税金などの公的資金の導入を考えるしかないと思うのだけど、特定の分野に公的資金を導入することには、批判が集まるのも予想できる。

 ただ、昔、市場原理に任せていては、その産業の存続が危ういとして、約50年、政策として予算を投入し続けた分野があった。

 それは、農業、特に国内の米の生産を守るために実施された「減反政策」だった。

 生産量を増加し続けてきた米に余剰が発生するようになる。当時、食糧管理制度により米の価格が調整されてきたが、農家からの買取価格より市場への売値の方が安くなるという事態も発生。米の生産計画は大きな見直しが迫られた。

 そこで、日本政府は1970年に新規の開田を禁止し、耕作面積の配分を行うなど生産調整を開始。これがのちの減反政策へつながっていく。

 こうして開始された減反政策。果たしてどんなメリット、デメリットがあるのか。今回は生産者の立場から考えてみたい。

 メリットとしては、政府の方針に従えば収入がある程度確保されることだ。生産量・価格は政府が決めるため、農家はそのとおりに生産すれば生活が安定しやすくなる。

 また、水田で米以外の作物を生産する際の補助金も大きな収入源となる。例えば、水田で麦や大豆などを作る農家に対しては、10アールあたり3万5000円の補助金が付与される。菓子類などに使われる加工用の米を生産した場合にも、2万円の補助が与えられる。さらに、家畜などの飼料用の米に対してはより手厚い補助がつく。その金額は最大で10万5000円。

(「SMART AGRI」より)

 この政策は、1970年から、2017年まで約50年続いた。

 こうした補助金が出され続けたということは、その間、ずっと予算が組まれ、税金が投入されてきたということだ。それは、市場原理では、日本の稲作が守れない、ということでもあって、そのことについて税金が投入されたのは、政権与党の都合もあるのだろうけれど、日本のお米にお金が注ぎ込まれることに、国民の合意もあったせいだと思う。

 その減反政策は、2018年度に廃止された。

 こうした特定の産業の存続のために税金が投入された約50年もあったのだから、次は「エッセンシャルワーク」が、低賃金のために「人手不足」がひどくなり、存続が難しいのであれば、そこに税金を投入する、というのは、それほど突飛なことではないはずだ。

 もしも、「エッセンシャルワーク」が社会に必要であれば、そこに税金を使うことで、他の分野で「余る」などと言われた人たちも働くことで、「人手不足」はかなり解消されるかもしれない。

社会保障費

 こうしたことを考えるだけで、ただ隅っこで暮らしている人間でさえ、国の予算が足りないのではないか、といった発想が生じ、その思想が内面化されているような気がしてくる。

 社会保障費に関しては、予算がふくらみ続けている、といった表現もされて、実際、そうなのだと思うけれど、世界一の長寿国になれば、それも予想されたことで、人が生きていくことにお金を使うというのは、家族の健康のために、家計を使うのと似ていて、当然のことのように思えてくる。

 例えば、社会保障費が、その国のGDPに対しての割合を比較するデータもある。

 日本のGDPに対する公的社会保障費の割合は、22.30%で、世界ランキングの順位は19位です。

 ランキングの1位はフランスの32.39%、2位はデンマークの30.62%、3位はフィンランドの29.55%です。

(「世界ランキング」より)

 とてもシンプルに考えれば、上位3位に入っている国はどこも、日本よりもGDPでいえば、より少ない。ということは、日本でも、その政策次第で、まだ社会保障費全体を増やせる余力があるとも考えられる。

 その費用を、「エッセンシャルワーカー」の賃上げに使えれば、それで社会がより快適にもなる可能性もあるし、「人手不足」(この人手不足も、人を労働力だけで考えている感じがあるから、この言葉を使うこと自体を考え直した方がいいかもしれない)が解消されるかどうかも、その国に住む人間の選択次第、ということだと思う。

 もちろん、自分も無知とはいえ、特に国際的な比較などは、本当に知らされていないことばかりだという、印象が強まっている。だから、だんだん疑り深くなっていくような気がする。

 つまり、「人手不足」と言われているけれど、それは、政策次第で解消できるかもしれない、ということ自体は、NHKの番組でも語られることがなく、視聴者としては、疑問がふくらんだ。

 本当に、今の状態は「人手不足」と言えるのだろうか。




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