緞帳を上げ下げしていただけの「文化祭」
学生時代の文化祭が楽しかった記憶が、ほとんどない。
考えたら、普段から「文化的な活動」をしていて、「みんなの前で発表したい」というような人で、その活動のレベルが高かったりすれば楽しいのだろうな、と舞台の袖から見ていたことは薄く覚えている。
緞帳
体育館は、多目的な場所だけど、誰もいないと不思議なくらいガランとしている。
体育館履きという、他の場所では使えない薄い底のシューズで走って、床がキュキュとなったりするくらいのあいまいな思い出しかないのは、体育館で練習をしていた運動部でなかったせいもあるだろうし、さらには、年に一度のイベントの文化祭との関わりが薄いせいもあると思う。
どうして、そうなったのか。
よく覚えていないけれど、中学生の時、前もって決められていないはずだったけれど、気がついたら、体育館の舞台の緞帳の上げ下げをずっとしていた。
昔の話だし、今のシステムがどうなっているのか分からないのだけど、やや重いハンドルをとにかく回して緞帳を上げて、逆方向へ回して、緞帳を下げる。その単純な繰り返しをしていた。
最初は、サッカー部の先輩が、舞台で演奏をするとき、「あ、やってくれる?」みたいな声をかけられて、普通に優しい先輩でもあったし、嫌とも言えずに、ハンドルを回していた。
そこから、緞帳を上げ下げする1日が始まったはずだ。
ギター
文化祭の時の体育館は、スケジュールがうまっていた。
演劇や、音楽で、かなり分刻みのような予定表を渡されたような気がするが、どれだけの観客が入るかどうかは、その登場人物や団体によって、かなりの差があった。
サッカー部の先輩が舞台で演奏したのは、いわゆる「フォークソング」だった。
三人でギターを抱え、演奏しながら、歌う。
もう何十年も前から変わっていないが、演奏と歌の力の差が出やすいスタイルでもあるはずだった。
その先輩は、1年の時は野球部にいて、玉拾いが多いことにうんざりし、隣で練習しているサッカー部は、とにかくみんながプレーしているのを見て、転部してきたと言われている人だった。途中の入部なのに、運動能力が高いためか、たちまちサッカーにも適応をしていて、試合にも出ていた。
運動能力もセンスも低い自分にとっては、うらやましい存在だった。
その人が、ギターを弾いて、歌う姿は初めて見たが、そのレベルは音楽に詳しくない私には分からなかったけれど、観客はたくさん入っていて、女子生徒の声援が盛んに送られていた。
薄暗い舞台の端から見えた姿は、照明に照らされてもいたし、その瞬間は、紛れもなくスターだった。
そういえば、この人は女子からも人気があった人だった、と思い出す。
指示
演奏の終盤に、緞帳の上下に関して、その先輩から指示を受けた。
演奏をしている途中にゆっくり下げ始めてほしい。そして、演奏が終わってから、しばらくたってから、また上げ始めてほしい。
それは、今だと理解できる。アンコールのようなもので盛り上げるようなことだったのだろうけど、おそらくは学校の文化祭という制約があるから、いったん完全に舞台からいなくなって、拍手と共に、再び現れる、といった「時間の余裕」は許されていなくて、その中での工夫だったのだろう。
だけど、その時は、私は、いろいろなことに無知な中学生だったから、その通りにやったつもりだったのだけど、意味を理解していなかったから、再び、緞帳を上げるタイミングが早かったようだ。
その演奏自体は、かなり盛り上がって、本当に「黄色い声援」っていうのがあるんだ、と思ったものの、拍手をたくさん受けて、舞台袖に戻ってくる時、その先輩は、「ちょっと早かったんだよな」と微妙に厳しく言われたので、反射的に謝っていたのだけど、何が悪いのか、その時は分からなかった。
文化祭
そのカーテンのハンドルが重めだったせいか、運動部の男子には適していた作業のようで、その先輩の演奏が終わっても、そのハンドルを回し続けた。
上下のタイミングも、一度失敗しているから、ちょっと気をつけるようになった。注意を受けたり、怒りをかうこともなく、だんだん、その上下のスピードにも工夫をする余裕もできた。
そのまま、その文化祭の1日は過ぎたけれど、本当に裏方だから、プログラムが終わると、ただ回さなくてよくなっただけで、何かを労われた覚えもない。
中学生の時の文化祭は、薄暗いところから、光を浴びていた人たちを、横向きのアングルで見ていた風景の記憶が、薄く残っている。
久しぶりに体育館という空間に入ると、何十年もたっているのに、場所も全く違うのに、ほとんど誰もいないと、あのガランとした、少し心細い感覚は変わらないと思った。
(他にも、いろいろと書いています↓。読んでいただければ、うれしいです)。
記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。