「結婚」と「妊娠」のプレッシャーから解放される話。

10年間、母から「結婚」「妊娠」のプレッシャーをかけられている。
5年間くらいは女友だちからプレッシャーをかけられている。

交際初日に「僕は結婚しないし子どもはつくらない」と恋人から宣言されてから早5年が経過。実は、交際1年後に婚約した。婚約しなければ交際の継続ができないほどのプレッシャーを両親からかけられ、彼が妥協したのだ。

私の希望で、ホテルの上層階の高級レストランでプロポーズを受けた。
彼は涙目で声を震わせ、手紙を読み上げた。感謝の気持ちと愛情と将来への希望。
私たちは手を取り合った。

婚約指輪は自分で買った。
「婚約指輪なしなら認めない」という両親と「ダイヤモンドは児童労働による搾取の産物だ(?)」とゴネまくる恋人の間で「うるせえ!だったら自分で買ったるわ!正社員の社畜なめんなよ!」と月給1ヶ月分+10万円を出して自分で購入。
何故だか完成した指輪を取りに行く日に恋人はついてきた。
事前に担当者のお姉さんに連絡し、金額には付箋をつけてもらった。
彼は亀のように首を伸ばして覗き込んだけれど、金額は見えなかった。

後日、ミシュランの星をもつ小さな創作料理屋の個室を借り、私の両親と恋人とで食事。手土産は銀座で並んで買う某モナカ。店もモナカも私が決め、彼が決めたことにして両親は「センスがいい!」と喜んだ。
緊張する彼は震えてどもりながら「一緒に幸せになっていくつもりです。結婚をお許しください」と言った。両親が何と答えたかは覚えていないけれど、私はそんな彼の横顔を眺め続けていた。

あれから早4年。

私たちは結婚していない。
私の薬指には私のど根性の証であるダイヤモンドが光り輝き続けたままで、彼は結婚する気がないことを知りながら、母と女友だちからのプレッシャーを私はのらりくらりとかわしてきた。

結婚するかどうかはわからないけれど、私たちは一緒に暮らす家を探し始めている。同棲を機に結婚しようと以前の私は考えていたけれど、不思議と今の私は「結婚しなくてもいいのかもしれない」と思い始めている。


1.「結婚」は価値観か?

最初に聞いた彼の考えは「ドイツでは若い世代の多くが結婚しない。結婚制度は古くて保守的で、互いを束縛し不幸にするものだ」というものだった。
結婚制度を支持する私を彼は「保守的な価値観」だと言う。

価値観か〜。
価値観なのか?

確かに28歳だった私は結婚したいと思っていた。
こんな式を挙げたいと夢見ていた。
私の結婚は、キラキラ輝く素敵なものだと想像していた。

女友だちは誰が先に結婚という名の宝石を手に入れるか、競い合っていた。
私が一番幸せになる!
先を越された女友だちは情緒不安定になってよく泣いた。
恋人と喧嘩が増える友人、別れる友人も少なくなかった。

結婚してしまえば、両親や女友だちのプレッシャーからおさらばできる。なんて魅力的なアイテムなんだろう。これさえあれば、悪戯にセクハラを受けることもなくなるのだ。恋愛市場から公式に降ろされる。

でも、結婚はゴールなんかじゃないのだ。
その先も二人の関係や現実は続く。
ロマンティックは色褪せ、欠点と問題が目につくようになる。

結婚は二人のものだ。
決して、プレッシャーをかける第三者のものなんかじゃない。

じゃあ、結婚って何だろう?


2.”私たちの幸せ”を探す旅に出る

「夫の手前、好きなネイルにお金をかけられなくなった」
「家事を手伝ってくれない」
「セックスを求められるのが辛すぎる」
「もう腹いせに数十万円のバッグや指輪を買ってる」

私の周囲は既婚者だらけになったけれど、愚痴は変わらない。カップルたちは幸福を語り、愚痴を言い合う。

妻子がいて幸せだけど浮気する男友だち。
仲良しと喧嘩を往復する女友だち。
結婚してもしなくてもカップルは幸せで不幸せだ。

私の恋人はケチなのでお金は綺麗に折半。旅先でお土産を買おうとすると渋られる。パニックになると暴走する。そのくせ後で自己嫌悪に陥る。面倒くさい。のに私を面倒くさい女だと言い、私がそれに傷つくとは思ってもいない無神経な男だ。

けれど、私の自由を侵略してはこない。週1〜2しかデートしないから基本的に私を美しい人として扱うし、彼の家で会うから家事は彼しかしない。セックスは私が応じなければそっと抱きしめるだけで留まってくれる。すれば気持ちがいいし、私が満足しているかいつも確認してくれる。私も倹約家だから気が合う。

結婚しなくても、私たちは彼・彼女たちのように不幸せで幸せなカップルなのだ。うっすらと彼は結婚すれば変わってしまうと恐れていることを私は感じ取っている。信用されていないと悲しく感じた時もあったけれど、今の私たちの関係性を大切に思うからこその恐れだと思えるようになった。

きっと彼が思っているように、結婚すれば私たちの関係は変わっていくのだろう。
私は彼の目を気にして、自分にお金をかけられなくなるかもしれない。彼は私を美しくない女として扱うようになるかもしれないし、家事で揉めるようにもなるだろう。パニックで暴走して自己嫌悪する彼に私は嫌悪するかもしれないし、互いの面倒くささに付き合いきれなくなるかもしれない。

じゃあ、今からでも彼から逃げようか?
未だに彼は問題だらけだ。成長速度が著しく遅く、彼のせいで私のライフイベントは遅延状態で、親や友人たちからのプレッシャーは私にとっては彼のせいで起きた玉突き事故で、たまに心の底から彼が憎いと思う。

けれど、彼は私にとって逃げたいと思う存在ではない。
そっと抱きしめ、目を閉じ、彼の腹肉の温かさと彼の匂いを感じれば、自分が安全だと知る。

28歳からつい最近までの私にとって「結婚」は逃げ道だった。
毒親から逃げ切る先のシェルターで、
女友だちからのマウンティングを避ける盾だった。

私が悲しい過去を断ち切るには、彼という存在が必要だ。
けれど、それは「結婚」とイコールではない。
彼と私がそれぞれ幸せであること。
それが私にとって毒から解放される生き方なのだ。


3.「女」ではなく「人間」になる

私の曖昧な結婚観を知っている友人が妊娠した。
ずっと妊娠を希望していたことを知っていたので喜ばしいことだ。

妊娠がわかってから初めて会った時、彼女は少しナーバスになっていた。
つわりで顔色が悪く、普段は何事も肯定的に捉えるのに否定的で攻撃的だった。気遣うパートナーにもチクチクしていた。

「それでいつ結婚するの?」
「旅行楽しそうでよかった。でもごめん、私には全然良さがわからないわ」
「外国人と結婚した知人にも妊娠を勧めたよ。可愛いハーフの赤ちゃんじゃん絶対に。半年以内なら同級生になれるからつくってほしい」
「仕事は休むけど、キャリア転換するつもり。でも本当はもう働きたくない、不労所得がほしいけど、細々とした仕事は向いてないから難しいよね」

いつもと違うのは、やっぱりセンシティブになってるからだろうなと勝手に考えながら話を聞いていた。彼女の不安を感じ取りながら、妊娠を経験も想像したこともない私は話を聞きながら、やっぱり曖昧に答えるしかなかった。

人は変わっていく。
妊娠していない私も日々変化しているし、妊娠している彼女も日々変化している。不安や喜び、幸福と不幸がないまぜの日常生活の中で他の人の生き方を眺めながら生きている。

我が子と対面した時、その日彼女が口にした言葉たちも消え、新しいキラキラとした言葉が生まれてくるんだろうと思う。

私がそんなふうに、妙に他人事のように話すのにはわけがある。

数年前、婦人科での検査で私は妊娠しづらい体だと知ったからだ。
「エストロゲンが多くてプロゲステロンが少ないね。受精しても流産しやすい。いつも胸が張ってるんじゃない?この数値も高いと妊娠しづらい。甲状腺もね。まあでも妊娠を希望するようになったら普通に治療で改善できるし、今は問題ないので気にしなくて大丈夫よ」とお医者さんは言っていた。
ちょっとした病気の可能性があって受けた検査で、そちらもグレーゾーンでよくわからないまま家に帰った。予想外の話に「私は私なのに、この体の何も知らないんだ」と、自分の体から切り離されたようだった。

パートナーはもともと子どもを欲しがっていない。
子どもと無縁の人生でも何の支障もない。両親は体の弱い私は出産しない方がいいだろうと数年前には考えていたけれど、兄に子どもが生まれ、可愛いもののお嫁さんの存在で孫とあまり関われないために、私に「賢い孫を産んでほしい」と言うようになった。友人たちはお世辞なのか「ハーフの赤ちゃんで学歴高い二人の子どもでしょ?超見たい。早く産んで」と言う。

皆、勝手だと思う。

私も、赤ん坊も、誰かの夢を叶える道具なんかじゃない。

私は曖昧に返事を濁し、話題を変える。
不妊治療を受ける気はまだまだないし、この体の現実から目を逸らしてもいる。

とはいえ、パートナーに検査の話をなんとなくぼかしながら伝えた。彼はいちおう知る権利があるだろうと思ったからだ。クリニックではショックなど受けていなかったはずなのに、彼に告げているうちにぼろぼろと涙がこぼれた。
子どもが欲しいなんて思ってなかったはずだ。
でも、彼のお父さんやお母さんの笑顔が思い浮かんで涙が止まらなくなった。彼も彼女も結婚も妊娠も何も求めず、ただ私たちの幸せだけを願い続け、いつもニコニコ笑顔で私を抱きしめてくれる。他人の両親に、私は申し訳なさで嗚咽をもらした。初めて自分を欠陥人間だと感じ、惨めで悔しくなった。

大げさだ。
現代医療技術があれば不妊治療で治せるものだし、自然妊娠は確率の問題でもあるし、本気になれば方法はいくらだってある。

彼は子ども嫌いで子どもが欲しくないと言うけれど、「もし数年後や10年後に子どもが欲しいと思った時は養子でいいと思っている」と交際当初から言っていた。私の体にかかわらず、そう言っていた。先日もぼそりとそんな話をしていた。

そうか。
そうだよね。
「私たちの子ども」に血縁が必要なんて誰が決めたんだろう。
血縁にこれほど苦しんできた毒親サバイバーの私が、なぜもっと早く彼の言葉の良さを信じようとしなかったのか。

何も知らなかった過去の彼の言葉に私はなんとなく救われた。

そんな経緯もあってなのか、不思議なことに、友人が妊娠したと知った時、私はまるで肩の荷が下りたように安堵した。「ああ、これで私が産まずに済む」と辻褄が合わない身勝手な考えが脳裏をよぎったのだ。

友人が子どもを産み、愛情を注いで子どもを育てる。
子どものいる家庭の葛藤や幸福に詰まった人生を友人は歩む。
彼女の願っていたことが叶う。

そう思うと、私は他人の夢を追わずに済む気がした。
もしかすると出産や子どもの行事がある度に私は傷つき、葛藤するのかもしれないけれど、それでも私は「今あるがままの私」を精いっぱい駆けめぐっていけばいいだけなのだ。

いろんな人生があっていい。
そう思えば、毒親育ちの理不尽さにも、妊娠しづらい体という理不尽さにも、振り回されなくていい。うまく付き合いながら、毎日を大切に生きていけばいいと思える。


4.「結婚」も「妊娠」も「共に生きる」も、結局のところ「2人の合意」がつくりだすもの

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」
ゼクシィCM

この言葉は私の胸をうったけれど、残念ながら彼の胸には響かなかった。

しかし、彼以外の多くの人間、私の周囲の9.9割は「結婚はすべきもの」だと考えているし、私と同じようにゼクシィCMの神コピーに心打たれた。

だから、今日も今日とて、家族や友人からのプレッシャーは続く。
ほぼ毎日続く。私の答えなんて聞こえなかったように、息をするように私にプレッシャーをかける。私が結婚しなくても彼女たちが結婚した事実は変わらないし、私が結婚してもしなくても、彼女たちの幸福や不幸にも微塵の影響も与えないはずなのだが、まるで自分たちの結婚を肯定しようとするように今日も彼女たちは私に聞く。

「いつ結婚するの?」
「子どもはつくるの?」
「早く幸せになれるといいね」

私は十分に幸せなんですけど、幸せを祈り続ける人々。
ありがたいけれども、年を重ねてやがて聞き飽き、「私は、私たち2人の関係に専念しよう。この人を大事にしよう」と心に誓ってしまえば、馬耳東風。春の風。罪悪感もない。幸福を願う言葉に黒い何かが潜んでいるのを感じ取るからだ。

だから、嫌な気持ちにもならず、心微動だにせず、息するように答える。「さあ、するかもしれないし、しないかもしれない」「いつかするかもね」。

恋人の結婚に対する価値観も微動だにしない。
外国人の友人に会わせないのは私に問題があるのか?と数年悩み続けた私に、ようやく彼が打ち明けた真の理由は「彼らは君の保守的な結婚観とは違うから…、それで君が傷ついたら嫌だなって。辛い思いをさせたくなくて」というものだった。

かっこつけんじゃねえ!
てめえがただ自分を守りたかっただけだろボケェ!!

言葉が悪いですね、すみません。
しかし、いかにも彼らしい、自分のことしか考えていない答えに思わず私は吹き出した。彼は困惑顔を浮かべたけれど、それが本当に彼らしくて、私は「よかった、私に問題があるわけじゃなかったんだ」と自分勝手に安心した。

結婚に対する恐怖心。
結婚に対して自分自身の考えを見つけられない迷子。

それは彼が自分で見つけなくちゃいけない答えで、彼の問題だ。私の問題なんかじゃない。そうわかってしまえば気が楽になった。彼の弱さを知っているし、自分を変えることを極度に嫌がる人間だから、彼からポジティブに結婚を決めることを私は想像できない。

けれど、結婚は2人の合意のうえでするものだ。
結果がなんであれ、私にできることは「気楽に待つ」ことだけで、私たちが互いに幸せに生きていけるよう、私自身が成長していくだけだ。


あらためて問う。結婚とは何か?

答えは簡単だ。

結婚は制度だ。
日本国内でみれば、結婚は一人の男と一人の女がセックスするのを社会的に認める法であり、一組の男女が違いにセーフティネットになることを支援する制度だ。

結婚=愛じゃない。
それが真実なら、日本で同性愛婚は異性愛の婚姻と区別されずに済むはずだ。法制度のせいで、同性愛の婚姻は区別されてしまっているのが現実だ。

だから、私は結婚を望んでいる。
私と彼は国際カップルなので、法で守られる結婚はリスクマネジメントとして必要だと思っている。現実問題として、私たちの関係性を保障し、いずれかに何かがあった場合に代理の権限を持てることは安心して生活を送ることにもつながる。

結婚を望まない彼のことは「リスクマネジメントもできねえやつ」と思っているし、「無責任だな…と皮肉りたいけど、彼はいつだって自分のことで手いっぱいだから私までの責任を負うなんて無理そうだよね、うん」というネガティブな評価から、彼の否定的な姿勢を気楽に受け入れるようになった。
私が病気でも怪我をしていてもマイペースを崩さない姿勢に「あなたが私を守ってくれるなんて思ってないから」と伝えた時には「え、マモルヨ…?」とキョトンとされたが、一向に信じていない。

つまり、私たちはまだまだ互いに「結婚」に対する合意形成をする段階に至っていないのだ。未熟で身勝手な私たちらしい。

妊娠も同じく、本来ならば2人の「合意」あってこそのものだ。
ひとりの人間がこの無常なる世界に生み落とされた後に幸福な人生を歩めるよう、親として見守り、背中を押すには、私一人では頼りなくて彼が必要だ。彼の家族もいてくれたらいいなと思う。

私が安心して生きていけるように。
彼が安心して生きていけるように。
子どもが安心して育つように。

私の人生の主人公は、私だ。
主要な登場人物は彼で、もしかすると第三部で子どもが登場するかもしれない。

私の人生のシナリオは私が書く。
合意が必要なものは彼と書こう。

私の人生に責任をとらない第三者に殴り書きされる必要はない。
親の人生も、友人の人生も、私にかかわりなく自由に幸せを描いていってほしい。

「隣の芝生は青い」と言うけれど、青でもピンクでも何色でも良いのだ。同じ色である必要はない。刈ってしまってもいいし、花園にしてもいい。プレッシャーに感じなくてもいいのよ。だからプレッシャーをかけなくてもいいんです。

自分の生き方を信じて進んでいく。
それだけで私はひとりの「人間」として生きられる。

世の中基準の幸福を追い求める人生を生きるより、自分の体で風を切って進む人生を私は選ぼうと思う。それは、当たり前の幸せを得られなかった子どもに課せられた宿命なのかもしれないし、当たり前じゃない価値観を持つ人をパートナーに選んでしまった人間の愚かさなのかもしれない。

それでも、苦楽を自分の手でもぎとりたいのだ。

多様性に価値を見出だし始めた社会。誰かを羨んだり、誰かと比較することで自分の幸福を確かめる呪縛を拒絶していい時代になったのだと思う。なら、私は私として生きるために、プレッシャーに振り回されている場合なんかじゃない。

強く生きよ。
女である前に「人間」として強く生きたい。

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