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【育休90日目】父親にはなれない、でも。

昨日の記事(以下)を書いてから、
さらに『なんで「働く」のだろう』とか、
というかそれを考え始めた感情はどんなものだったかなとか考えていました



で、

それを考えてみたら、
育休を取得し始めてから、
週五日の勤務が無くなった僕の社会は
明らかに小さく(人との関わりが少なく)なっていて、



これはある意味で自分の社会(コミュニティ)の選択なのかなとか考えまして、



で、
仕事をすると、否が応でもさまざまなクライアントが発生して、
そのクライアントと関わるということは、
自分の社会が広がっているとも受け取れるのかなと




また、
会社の同僚とかそういう人たちと関わることは、

この広い社会の中で
同じ場所で同じような仕事をしている人の中にいるということで、

なんなら、
・売り上げを上げること
とか、
・従業員満足を高めること
とか、
同僚たちとは何かしらの物差し(正義)を共有しているような人で、


つまりは、
広い社会の中でかなり似た属性の人と時間を共有することは、
似たもの同士で自分たちの考えを
ミルクレープみたいに何層にも重ねているようなものなのかもと。
(これの良し悪しは別として)






そんなふうに、
仕事っていうのは
自分の社会や思考を広げたり積み重ねたりする場所だったんだなとか思いました





で、

そこに参加することがなくなると、
自ら主体的に新しいものに触れない限り、
社会は広がりを見せず、
思考は自分の層をより厚くすることになるのかも知れない





そんなふうになって、
僕は広がらず、狭くなった今の社会の中にある幸せを意識するようになって、
思考も、目の前のことにつかようになると、

そのものの価値を感じていて、、、、、、






というのは一側面では事実なのだけど、




もう一方で、
仕事が好きな僕としては、
そこに参加できない寂しさもどこかで感じていて、



「あぁ、もっと働きたいな〜」とか



そんな気持ちを持っている



そう、
「今が最高に幸せだ〜」というのは
本当にそう思う瞬間があることは事実なのだけれど、



ふと、
こうして筆を進めてみると、



どうやら、
「働きたい気持ちを抑えて目の前だけを見ろ」
という、



「子どもファーストな良き父親であれ」

という

自分が生み出した理想の父親像の自分から、
仕事好きな個人の自分に対しての、攻めのメッセージなのかも知れない




あぁ、やばい
そんなことに気がついてしまった




僕はまだ、
・父親
になりきれていないのだ



そんな事実を突きつけられている気がしている



「父親、母親にはなれるものではなく、子どもと共になっていくもの」



そんな言葉を聞いたことがあるけれど、


自分も御多分に洩れず、まさにそれなのかも知れない。



高校生の頃から保育園でボランティアして、
大学時代も夫婦関係の本をたくさん読んで、
右葉曲折ありつつも、保育業界に勤め早7年



正直、
「父親」になる下地はできていて、
「良き父親」にまっしぐら!

くらいの気持ちも見え隠れ(いや、隠れていなかったかも知れない)していたのに、



やっぱり父親になってゆくことには時間がいるようだ




きっとどんなに本を読んでいても、
誰でも すぐに

「父親にはなれない」


でも、きっと
子どもと共に

「なっていく」

ものなのだろう


と、未来の自分に淡い期待を抱きながら、
おやすみなさいというところです。



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