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『ペトリコール』第一話

〈あらすじ〉
2013年春。西川理恵はとある事情から妹の娘・花菜と大阪で暮らすことになった。ふたりが暮らす市営団地は大阪のさつき町。どういうわけか雨がよく降り、そこかしこに錆びた筒状の鉄が落ちていて、奇妙な町だった。さつき町にはさらに奇妙な規則があり、それは『雨の日に子供を外に出さない』、『子供をひとりで水場に行かせない』ということだった。慣れない土地で慣れない花菜ははついこれを破ってしまい、その日から不可解な行動を取るようになる。手に負えなくなった梨恵はあらゆる方面に助けを求めるが、逆に孤立していってしまう。その中で唯一、手を差し伸べてくれた人物を頼り、ふたりは町の禁忌に足を踏み入れていくのだった。

《第一話》

 パァッ、と眩い光球が夜空の真ん中で弾けた。
 辺りを照らしながら落ちてゆく光の屑は、枝垂桜のようだ。空を照らしたまばゆい光が川面に映り、見慣れた川を天の川に変えてゆく。
 極彩色に彩られた火花が地面に向かって落ちていくのを、ただ眺めていた。
 夏祭りの最後の夜、櫓を囲んで盆踊りをしている光景。知っている顔も知らない顔も、みんな笑っている。汗で額と胸元をぐっしょりと湿らせながら、一心不乱に踊る。頭によぎるのは、そんな楽しい思い出。
地上に落ちた光がたちまち火をまとい、家を焼いた。それはまるで祭提灯のようで、思わず頭に盆踊りの光景がよぎった。ほんの一瞬、たった一瞬。
 だが夏の風情にはまだ早い。
 パキパキ、と近くの神社の木が鳴った。
 降り注ぐ火花の雨に、祭囃子とは似ても似つかない、断末魔が上がった。


※※※


 境内に小鳥の囀りのような幼い声が飛び跳ねていた。
 神社の階段では、茶色いまだら模様の野良猫が目をこすり、丸まってあくびをしている。砂利を蹴とばす音と子供たちの声が葉を揺らし、大きなご神木がそんな日常の一場面を見守っていた。空は今にも茜色に移り変わろうとしている。
 もうすぐ帰る時間だった。
「おねいちゃん、おねいちゃん」
 片方の鼻から鼻水を垂らした幼女が水色のブラウスの裾を引っ張った。わたしはそれがとても厭でその手を叩き落とした。お気に入りのブラウスを汚されるのが我慢ならなかったのだ。
「触らないでってば! もう、ついてこないでよばっちいし!」
 妹は返事の代わりにずるるっ、と鼻を啜った。
 すると引っ込んだほうの鼻と逆の鼻から、鼻水が飛び出した。
 風邪を引いているくせに、どこにでもくっついてくることに腹が立った。
「もう、やめてよ!」
 妹が手の甲で鼻水を拭おうとするのを見て手を弾く。
 驚いたような表情を浮かべた8歳になったばかりの妹が、きょとんとしたままわたしを見つめた。
 わたしが友達と遊ぶ時にも、妹はついてきた。幼い妹と一緒のわたしに、みんなは嫌な顔を浮かべ、私を遠ざける。
 ――りえちゃん、妹連れてこないで。
 ――その子まで一緒に遊べないよ。2年生なんて子供だし。
 ――みんなと遊ぶならひとりできてよー。
 待って。
 わたしも仲間に入れて。
「おねいちゃあーん、なにしてあそぶー?」
 ずるい。妹ばっかり。
 家でもいつも特別扱い。いつだってわたしは我慢、我慢、我慢だ。そんなことも知らずに妹は、おかまいなしにわがまま三昧だ。思い通りにならなければすぐ大声で泣くし、お菓子もおもちゃもひとり占め。
 そのくせわたしは「お姉ちゃんでしょ」って言われて、なんでもわけてあげなきゃいけない。
 わたしだって、好きでお姉ちゃんになったんじゃないもん。
 妹なんて欲しくなかったもん。
「おねいちゃん、まあさ、まじょプリごっこしたい」
「まじょプリごっこなんてしない! あんたみたいに子供じゃないんだから!」
「いや! おねいちゃんとまじょプリするの! おねいちゃん、まじょプリの悪者やって」
 憎かった。わたしの自由を奪う、この生き物が。
 妹。血が繋がっているだけの、無用の存在。
「……わかった。やってあげる」
「やったー。じゃあ、まあさね……まじょプリレモンする」
「うん。じゃあ、悪者してあげるね。今から隠れるから、100数えたら捜して。見つけたらまじょプリレモンの勝ち」
「わかった! 絶対、見つける!」
 妹が……真麻が10数える頃、わたしは神社の鳥居から飛び出すようにして階段を駆け下りていた。
 空がでこぽんの色に染まった頃、わたしは友達と合流し、暗くなるまで遊んだ。

 家に帰ってくると家中響き渡る真麻の泣き声に辟易した。
 本能的に「怒られる」と思ったのだ。
「梨恵! なんで真麻と一緒にいてあげなかったの!」
 案の定、赤鬼の形相でお母さんが詰め寄る。でもわたしは唇を強く結んで、睨みつける。
「なんなのその顔は!」
 ――わたし、悪くないもん。
 言葉には出来なかったが、強くそう思った。
 わたしの表情からなにかを感じ取ったお母さんは、眉間をひくつかせると奥の部屋へ消えると、すぐに真麻を連れて戻ってきた。
「え?」
 お母さんが連れてきた真麻は、腕に包帯をしている。国旗のように丸く滲んだ赤い血が痛々しい。
「真麻、犬に噛まれたんだよ!」
「犬……?」
 そういえば、学校の朝礼で野良犬が近所で目撃されているから注意するように言っていた。でも、そんなのわたしは見たことがない。
「あんたが一緒にいたら怪我なんかしなかったのに!」
「あ……あ……」
 それまで真麻に抱いていた憎らしさが、嘘のように霧散し、すり替わるように烈しい後悔の念がわたしを襲う。
 唇は震え、スカートの裾を掴んだ拳は石みたいに固まり、ほどけない。
 背中を伝う厭な汗、と滲む視界。
 わたしが神社に真麻を置き去りにしたばっかりに。
「おねいちゃん、悪くないもん。おねいちゃんはまじょプリごっこで悪者してくれただけだもん。今まで隠れてたんだもん! ねえ、おねいちゃん」
 ぐずぐずと涙と鼻水で汚れた顔で、真麻は言った。
 その言葉にわたしは反応できず、首を縦にも横にも振らずにただ固まる。
 真麻に怪我をさせてしまった。それも野良犬に噛まれた?
 その恐怖と不安を想像すると、余計に体の芯が冷え、震えが増す。
 暗くなった境内で、殺気立った目で牙を腕に突き立てる犬と、おねいちゃん、おねいちゃん、と助けを呼ぶ真麻。
 そんなことも知らず、友達と遊んでいたわたし。妹を邪魔者扱いした友達と、妹を邪魔者にして遊んでいた、わたし。
「病院に行ってくるから、あんたは家にいてなさい」
 わたしを庇おうとする真麻を前に、お母さんはそれ以上責めようとはしなかった。
 真麻を連れ、玄関からでてゆくふたりの背中をただ震えながら見送った。
 ごめんなさい、も言えなかった。わたしは真麻のお姉ちゃんなのに。
 真麻は、嘘を吐いてくれたのだろうか。それとも本当にわたしが今の今まで隠れていたと思っていたのだろうか。
 どちらにせよ、真麻が怖く、痛い思いをしたのはわたしのせいだ。それだけは確かな事実だった。
 わたしは、真麻の腕の……歯形痕を見る度、思い出す。
 そしてその記憶から必死で、逃げ出すのだ。


※※※

■1

 2013年は例年よりも早く桜が咲いた。

 早咲きの桜を眺めながら、始業式までもつだろうかと心配になった。桜が散る始業式は寂しい。

 西川梨恵(ルビ/にしかわりえ)は環状線を走る電車の中、傍らでガラス越しの景色を見つめている少女を憂いた。

「花菜ちゃんは、春は好き?」

 少女は、渡辺花菜(ルビ/わたなべはな)といった。4月で小学3年生になる。妹の渡辺真麻(ルビ/わたなべまあさ)のひとり娘だ。

「あんまり好きくない」

 花菜の返事に思わず面食らう。春が好きではない子供などいるはずがないと思い込んでいた。

「だって、学校が始まるし。それに鼻もむずむずするし」

 花菜の言い分になるほどと思った。もしかして自分もそうだったかもしれないと考え直す。

『まもなくニュー有宮、ニュー有宮に到着いたします』

 車内アナウンスが到着を告げる。「降りよっか」と花菜の手を引いた。

 551の肉まんの香りがする南海ニュー有宮の連絡通路をでると、目の前に餌を誘うように大口を開けた建物があった。

『有宮労働公共職業安定所』――そう大きく書かれた看板を見上げて、梨恵はこれから花菜とふたりで暮らす家へと歩いた。


「次の学校で友達いっぱいできるといいね」

「別に」

 小さく答えたっきり、花菜はまた黙ってしまった。

 いたたまれない空気に苦しみながら、梨恵はそれでも懸命に話しかけてみる。だがそのどれもが空を切り、会話と呼ぶに堪えないものばかりになった。

 花菜の人見知りは、その境遇が原因だ。それはわかっている……だから、せめて自分にくらいは心を開いて欲しい。梨恵の正直な本音だ。

「えっと、そうだ。おうちに花菜ちゃんの荷物とかも届いているし、着いたらお姉ちゃんと一緒に開けていこっか」

「お姉ちゃん? おばちゃんじゃないの?」

「……あ、おばちゃん。うん、おばちゃんでもいいんだけど……お姉ちゃんって呼ばれたら嬉しいかな、って」

「どっちでもいいけど、いつもママが『お姉ちゃん』って呼んでるからなんか変な感じする」

「あ、そうか。私はママのお姉ちゃんだもんね。じゃあ、そうだな。『りえちゃん』なら呼びやすい?」

「うん。じゃあ、りえちゃんって呼ぶ」

 花菜の小さな歩幅に合わせ、話を聞く時もできるだけ視点を低くした。花菜は目も合わさない。

 独特な臭いがする道だった。ふたりの間に居座る沈黙のせいで、やけに臭いが鼻につく。無意識に梨恵の眉間にしわが寄っていた。

「おおきに、ごめんなぁ」

 通りすがりの声におもわず立ち止まった。通行人の誰かが言ったのか、そのフレーズだけを耳に残して、声の主を目で追う。

「りえちゃん?」

「ああ、ごめんね。いこっか」

 花菜の声に我に返り、ふたりは再び歩きだした。

 すこしすると、街の入口に小さな祠が佇んでいた。理由なく梨恵はその前に立ち止まると周りを見回す。誰かに呼ばれた気がしたのだ。

「どうしたの、りえちゃん」

「ううん、なんでもない」

 きっと気のせいだと言い聞かせながら歩いていると、四方をフェンスで囲まれた小さな公園を通りがかった。

 バラックのようなテントと、テレビや冷蔵庫が無造作に捨てられた広場に、よれよれのシャツを着た老人たちが集まっている。

 見れば将棋を観戦しているようだ。どの老人も顔が白い。

『血の犠牲 汗で応えて 頑張ろう』

 フェンスには、黄色く変色した白い横断幕になにかのスローガンが掲げてあった。

 なんだか厭な感じがするな……

そう思った瞬間、花火の火薬のような臭いが梨恵の鼻先を舐めた。

「……なんだろう」

 脈絡のない臭いに顔をしかめ、広場の老人たちと目が合わないよう歩く。

 コツン、と固い何かが足の爪先に当たった。

 梨恵の爪先に当たったのは、細長い長さ五〇センチほどの鉄の筒だった。

 よほど古いものなのか、烈しく錆びついていて、梨恵のシューズの先が茶色く汚れてしまった。

「なんだろうね、これ」

 話しかけてみるが、花菜は無関心だった。

 溜め息を押し殺し、正面に目を戻す。よく見れば同じような筒がいくつも落ちているのに気づいた。

 ――整備されていないのかな。

 初日から先が思いやられる。治安について不安しかなかった。


 市営住宅『さみだれ』。これから生活するところの名だ。

 ドミノのように均等に建ち並ぶ棟の隙間を縫うようにして、ふたりは奥へと進んでゆく。途中で住民用の乳白色の掲示板があった。

 掲示板の足や雨よけが剥げたペンキの隙間から血のように、茶色い錆が滴っている。不気味というよりも汚い。住む前から生活の不安を禁じ得ない。

「これ、なんて書いてあるの?」

 ふと花菜が掲示板のチラシのひとつを指差した。四文字熟語のようだ。

『八紘一宇』

「はちこういち……う……かな?」

「どういう意味?」

「さあ。りえちゃんにもわかんないや」

 四文字熟語の横にはA4の紙に『教育勅語』と見出しがあり、そのあとにつらつらと小難しい言葉が並んでいる。この住宅の暗部を垣間見た思いになり、梨恵は気が重くなった。

「えっと、Bの22ね!」

 気を取り直すつもりで、声を弾ませて目当ての棟番号を口にした。B22にふたりの部屋がある。

 見上げると棟の壁肌にB19とあった。進む方向を見上げるとさらに先の棟にはB20とある。

「あの先だね」

 花菜に声をかけるが反応はなかった。もっとも気が重い原因は、住む場所ではなくこれから同居する人間にあるのかもしれない。

「今日は大和路線動いとんかい」

「ああ、今日はえろう調子ええな。すぐ人身で止まるさかいの」

 B22棟の集合ポスト前で、犬を連れた住人同士ががなるように話している。

 首輪の付いたパグがぐるぐると喉を鳴らして花菜を睨んだ。

「犬……怖い」

「え? 犬?」

 自室の郵便ボックスを確認していた梨恵は、そこに犬がいたことに気付かず、聞き返す。

 なにごとにも無関心を決め込んできた花菜だったが、犬は怖いらしい。

「なんやお嬢! 自分犬あかんのか? こないかわいらしいもん怖がったら気の毒やろ」

「あほか。どこがかわええねん。くしゃみした拍子に顔潰れたようにしか見えへんわ」

 しわくちゃ顔の老人たちは、漫才のようなやりとりで花菜をからかった。いちいち声がうるさく、喋るたびに花菜は肩を震わせている。

「すみません。花菜ちゃん、そんなに怖がっちゃだめだよ」

「怖い、怖いもん」

 花菜は陰に隠れたままだ。よくよく犬を見ると、珍しく黒いシェパード犬だ。こちらを睨む眼光が鋭く、吠えたり唸ったりはしないがこちらを睨みつけている。

 花菜が怯えるのも無理はない。

「ん? もしかして姉ちゃんら、東京もんかいな」

「あ、はい。わたしは5年前から大阪に住んでます。この子は今日……」

 そこまで言って言葉に詰まった。花菜については迂闊に言えない事情があった。

「ほうかほうか。……まぁよしなにな」

「ありがとうございます。実はここに引っ越してきたばっかりで……」

 喋っている最中なのに、ふたりは足早に去ってしまった。

 口を半開きにしたまま、それを見送る。

 去っていくふたりはなぜか、雨も降っていないのに傘を手に持っていた。


「ごめんね花菜ちゃん。ここ、結構古い建物でさ、今時エレベーターもないんだよね。まあ……その分家賃は安いんだけど」

 階段を上がりながら、後ろについてくる花菜に話しかけた。花菜は黙ったままを崩さない。

 さみだれは古い。

 古いし、汚いが定期的にペンキや外壁の塗り直し、各所の修繕の形跡もあるため古い割にはまだマシなほう、という印象だ。

 しかし、じめついた湿気と、蛍光灯が付いていても薄暗い屋内が、どことなく不潔で不吉な雰囲気を漂わせている。

 ふたりの部屋は、5階建て住宅の4階にあった。

 小学生の花菜には4階までの階段はすこし辛いかもしれないな、と梨恵は心配した。

 それでも賃料の安さを考えれば我慢するしかない。

 階段を上がれば階ずつ、両サイドに部屋があった。赤錆色(あかさびいろ)した鉄製のドアが向かい合っている。ふたりの部屋は右側だ。

「ここだよ、花菜ちゃん。入って」

 ドアを開け、三和土(たたき)でパンプスを脱ぎつつ声をかける。花菜は向かいの部屋のドアをじっと見つめていた。

「りえちゃん。おとなりさんって誰もいないの?」

「え? ああ、そういえばいないかも。なんかここって、安くて立地も悪くないのにちらほら空きがあるんだよね」

 そう言って花菜に釣られて見上げると、『江口三矢子』と色あせて辛うじて読める表札プレートがある。

 しかし、表札があるにもかかわらずそこは空き部屋のようにも見えた。鉄の扉の冷たさが、人の気配を押しつぶしているのだろうか。

 この市営住宅の入居者抽選を申し込んだのは、妹の真麻だ。花菜の母親でもある。

 真麻がどのような手続きを取ったのかわからないが、すんなりと決まってしまったので拍子抜けした記憶がある。市営住宅の抽選倍率は高く、十中八九当たらないと思っていたが、真麻の強運がいとも簡単に射止めてしまった。

 倍率の高さの要因は、母子家庭や独居高齢者など、そのほか様々な理由で通常の不動産で暮らせない、訳アリの入居希望者が多いからだ。実際、老人の入居者は多そうだ。

 ――ここってペット禁止だよね。なのにさっきの人、普通に犬なんて飼ってたし。

 あからさまなルール違反。治安も悪い。梨恵は顔をしかめ、エレベーターもなく薄暗いこの住宅が人気がない理由を肌で感じ取った。



 ――『お姉ちゃん、お願いがあるんだけどさ……』

 事の始まりは、真麻からきた一本の電話だった。

 二年前、福島に住んでいた真麻は、東日本大震災に被災し、夫を失った。畳みかけるように自宅がある地域が汚染区域に指定され、帰宅も叶わなくなった。東電の原発事故のせいだ。

 真麻親子は県外へ自主避難することに決め、知り合いや友人を頼った。だがどこも長居できるわけもなく、各地を転々とする日々を送った。

 どこへ行っても親子の居場所はなかった。故郷と家族を失う残酷さを、真麻と幼い花菜は厭というほど浴びせられたのだ。

 一方、未婚で独身の梨恵はその時にはすでに大阪にいた。

 そんな梨恵に花菜を預かってほしいと打診したのは、ほかならぬ真麻だった。

 夫の誠一の葬儀以来、梨恵は真麻と花菜とは会っていない。

「そんなの無理だよ。そんな生活力ないし」

『わかるけどさ、花菜はまだ低学年だし落ち着かないのもかわいそうでしょ。それに私もいずれ大阪に移るつもりだし。だからそれまでの間でいいから、お姉ちゃんに花菜の面倒見てほしくて』

 それは建前だ。本当の理由ではない。

 それがわかっていたから余計に、引き受けるわけにはいかなかった。

「だったら最初からふたりでこっちに住めばいいじゃん」

『そんなこと言わないでよ。知ってるでしょ、こっちの状況もさ。それに今、条件のいい仕事があってね、うまいこと先方に気に入られたら大阪の事業所に入れてくれるっていうし。研修期間っていうか、そういうの。ねえお願い、ずっと面倒見てくれって言ってるんじゃないんだしさ』

 そう言われても……と梨恵は渋った。

『頼れるのはお姉ちゃんだけなんだよ……。これ以上、花菜といると私――』

「わかった、わかったからもういいよ。言わないで」

 真麻の言葉を遮り、梨恵は引き受けた。本当は安請け合いしてはいけないことはわかっているが、それよりも真麻の口からそれを聞きたくない。卑怯だ、梨恵は思った。


「りえちゃん」

 段ボール箱を荷ほどきしていると、肩を叩かれた。

 振り向くと猫のぬいぐるみで顔を隠した花菜が、その人形の手を振っている。

「お腹空いたにゃん。ごはん食べたいにゃん」

 猫の主張にふと窓の外を見る。いつのまにか空は橙色に染まっていた。

「あ、そっか。ごめんね、気付かなくて。じゃあ、何か買いにいこっか?」

「いくにゃんいくにゃん」

 花菜が心を開いてくれたのかと思ったが、単に顔を隠して猫に扮しているだけらしい。

「あら、おとなりさんやないの。かわいらしい嬢ちゃん連れて、どこ行きはるん」

 階段を降りたところで、年配の女性に話しかけられた。

 人懐っこそうな笑顔とは対照的な、奇抜な色のセーターが個性を放っている。さらに奇妙なのは晴れているのに手に傘を持っていることだ。

「おとなりさん、いないよ」

「いないことないよ、あれはちょっと表札が……」

 花菜の返事に思わず焦ってしまった。

 だが婦人は気に留める様子もなく「ちゃうちゃう」と手を振る。

「そうやのうて、反対側のとなりやで。扉側やなしにベランダ側」

 笑いながら婦人は答えた。

 花菜は意味がいまいち理解できていないようで、きょとんと眼を丸くした。

「あの、今日越してきた西川です。すみません、まだちょっと勝手がわかっていなくて、ご迷惑のかからないようにしますので」

「ええよええよ。別にそないかたっくるしい規則とかもないしな。そないなことより、あんたら……大阪の人間ちゃうんかいな?」

「――え」

 思わず梨恵は息を呑んだ。

 さっき犬を連れた別の住民にも同じことを訊かれたからだ。府民かどうかが、それほど重要なことなのか。

 ――そういえば、関西の人って異常に関東人を敵視するってテレビとかで観たことある。だけど、そんなの……

 戸惑いつつも梨恵は、「ええまあ」と歯切れの悪い返事をした。

 やはり老女はスイッチが入れ替わったように突如として無表情になり、無言のまま行ってしまった。

「ええ……?なんなの一体……」

 越してきて早々、気味の悪いことばかりだ。溜め息をつき、花菜の顔を見ると気が滅入ってきた。


「りえちゃん」

 しばらく歩いたところで、花菜が手を引いて呼び止めた。

「どうしたの?」

 訊ねてみると、花菜は黙ってある方角に指を差す。ビルの隙間からチカチカとなにか光っていた。

「あれ、花火?」

 打ち上げ花火の軌道で光るそれを見ながら、「スーパーだよ」と答えた。

「スーパー? 花火屋さんじゃないの?」

「残念。あれで普通のスーパー。丁度いいや、あそこにごはんを買いに行こうか」

 複雑な表情を見せつつ、花菜はうなずいた。

 大阪では有名な安さが売りのスーパーマーケット。トレードマークの黄色いテントの上で打ち上げ花火のネオンが躍っていた。

「ね? スーパー」

 花菜は不思議そうに見上げ、釘付けになっていた。

 店内に入ると中は、夕方の買い物客でごった返していた。タイムセールや買い得商品を売り込む声で活気づいている。今の時間は書き入れ時だ。

「花菜ちゃん、食べたいもの買っていいよ」

 そう言ってやると花菜は、総菜コーナーに広がる弁当や寿司、おにぎりにパンなどをひとつひとつ見ていく。

 その姿を横目に店内を見回してみると、客は年配者が多かった。そういう土地柄なのだろうなどと考えながら、梨恵はカートを押して歩く。

 奇妙なのは客の誰もがなぜか傘を持っていることだ。今日は降らないはずだ。

 寿司の盛り合わせを手に取り、梨恵は飲み物のコーナーへ移動した。

 見慣れたジュースやお茶に混じって、ラベルのない濁った泥水のような液体の入ったペットボトルが並んでいる。

 誰かのいたずらなのかと疑ったが陳列されているのを見るに、ご当地ドリンクの一種だと思った。

「りえちゃん、トイレに行きたい」

 梨恵がグレープ味のナチュラルウォーターに手を伸ばしたところで、ハンバーグ弁当を抱えた花菜が尿意を訴えた。

「トイレ? どこだろう……。あ、あそこの店員さんに聞いといで」

 品出しをしている店のジャンパーを着た男を指差すと、レジの列に並んだ。

 だが花菜はすぐ戻ってきた。

「りえちゃん、トイレないって言われた」

「ええっ、ないの? そんな訳ないじゃん」

 そうは言いつつ、防犯の一環でトイレを貸し出していないことはままあることだ。

 ――確かここにくる途中にコンビニあったよね。

「花菜ちゃん、じゃあここのお店でたらトイレ借りに行こう」

「トイレ借りるやて。そんなんどこも貸せへんで」

 すぐ近くで誰かの冷笑が聞こえた。

「え?」

 顔を上げ、その声がどこからしたのかを咄嗟に探すが、周囲の客の誰が言ったのかわからない。それどころか誰も目を合わせようとすらしなかった。

 ――なんなの。気味が悪い……。

「次にお並びのお客様どうぞ」


 清算を済まし、きた道を辿りつつふたりは通りがかったコンビニに入った。

 トイレを見つけ、花菜の手を引いてそこまで行くがドアの貼り紙の前で立ち止まった。

《使用禁止》

「ええっ、ここも? そんなぁ」

「りえちゃん、おしっこ漏れちゃうよ」

「ああ、ごめん! しょうがない、違うところ行こう」

 すぐに外にでて小走りで次のコンビニへと向かった。

 あちこち足元に転がっている筒のせいで走りづらい。一体、なんなのか。苛立ちを押えながら、コンビニに駆け込んだ。

《当店ではトイレの貸し出しはしておりません》

「嘘でしょ!」

 下腹部を押さえ、顔を歪める花菜を見て、たまらずレジの店員に話しかけた。

「あの、貸し出ししていないって書いてあるんですけど、子供が漏れそうなんでどうか貸してもらえませんか?」

 年配の男性店員は上目遣いで見つめる。なにか品定めをしているような、ねっとりとした眼つきで見つめると、迷惑そうに答えた。

「すんまへんけどな、うちはトイレの貸し出しはできませんねや。貼り紙にも書いてありまっしゃろ。子供なんぞ連れてからに……。悪いこと言わんから我慢さして家のトイレ使わなはれ」

「漏れそうだって言ってるじゃないですか!」

「ああ無理や無理。いくら言われたかて、あかんもんはあきませんわ」

 取り付く島もない男に頼むのをやめ、梨恵は再び花菜の手を引いた。

「あーお客さん。この辺の人やないんでっしゃろ? 他所(ルビ/よそ)行ったかて無駄でっせ。どこもそんなもん貸してくりゃしまへんで」

「……どういうことですか?」

「どないもこないも、そういうことですわ。うちも昔は貸してたんやけどね、すぐやめたんですわ。お子さん漏れそうか知らんけど、トイレ探すより家帰っ――」

 頭にきて最後まで聞かず店を飛びだした。

 男の言っていることは意味不明だ。そんなことがあるわけがない。

 この町のことは知らないが、五年も前から大阪に住んでいるのだ。町ぐるみでトイレを貸さない地域なんて聞いたことがない。

 花菜は内股になりながら青い顔をしている。早く見つけないと本当に漏らしてしまいそうだ。

「あった! 公衆トイレ!」

 ふたりの前に、小さな公園が表れた。

 高いフェンスに囲まれた不思議な公園だったが、そこには小さいながら公衆トイレも設置してある。

「ちょっと綺麗じゃないかもしれないけど、あそこでもいい?」

 唇を噛み締め、尿意に耐えながら花菜はうなずいた。

《使用禁止》

「マジ……?」

 トイレは男性用の小便器が二つと、小さな個室が二つ備えてあった。

 その個室二つともに貼り紙がしてあったのだ。

 ――他所行ったかて無駄でっせ。どこもそんなもん貸してくりゃしまへんで

 脳裏にコンビニ店員の言葉がよみがえる。

「本当にどこもトイレ貸してないの? どんな町なのよ!」

 理解不能の状況に思わず声を荒らげた後ろで、しゃくりあげる声がした。

 ハッと振り返ると、花菜が胸の前で拳を握りながら泣いている。

 足元に水溜まりを作り、震えている。錆びた鉄の筒が水を吸うように転がっていた。




 翌日、集合ポストの前で別の住人と会った。手には傘を持っている。

「こんにちは」

 住人は無言で小さく会釈しただけだった。

 五〇歳くらいの男性で、やはり梨恵に対し素っ気ない。愛想のなさが癇に障るが無視されないだけマシだと言い聞かせる。しかし、その態度から露骨に避けられているとしか思えない。

「やだな、ここ。なんでよりにもよってこんなところを選んだのよ」

 男がいなくなるのを待って、本音を漏らす。不満は募る一方だった。

 部屋に帰ったら帰ったらで塞ぎ込んだままの花菜がいる。

 引っ越してきたばかりだというのに気分は落ちる一方だ。町中に微かに漂う火薬のような臭いにもうんざりだった。

 とにかく学校が始まるまでまだ数日ある。それまでになんとか花菜と打ち解けなければ、今後の生活がやりにくくて仕方がない。悶々と考えながら郵便受けを開いた。

 郵便受けには、ブランド品の買取や不動産の案内チラシ、電話番号だけ書かれた融資相談と風俗案内のポケットティッシュが入っていた。

 溜め息を吐きながらポケットティッシュからチラシを抜き、まとめて階段の途中にあるダストボックスに捨てた。

 このまま花菜の待つ部屋に帰るのも億劫だな。

 階段の途中で立ち止まり、踊り場の手すりにもたれかかった。

「……?」

 向かいの棟のベランダ越しに梨恵をじっと見つめている住人がいる。

 目が合った途端、住人は洗濯物を取り込んでいる素振りをして部屋へ消えた。

 他のベランダに目を移すと、他の住人ともちらほら目が合う。

 あちこちに開いて干してある傘が異様だ。ほとんどの世帯で干していたからだ。

 監視されているようで気味が悪くなり、梨恵は急ぎ足で部屋に戻った。


《もうすぐ着く~》

 スマホに届いたメッセージに思わず笑みが浮かぶ。《待ってる》とメッセージ付きのスタンプを送った。

 部屋のテーブルにはスーパーで買った唐揚げやピザ、寿司やパスタなどが所狭しと並んでいた。その脇で花菜はぬいぐるみと遊んでいる。

「花菜ちゃん、もうすぐ大輔お兄ちゃんくるからね」

「うん」

 花菜は猫のぬいぐるみから目を離さずに返事をした。まるで無関心だ。

 冷蔵庫を開けて、缶ビールが冷えていることを確かめる。自分でも浮足立っているのがわかる。憂鬱な暮らしの中で唯一、今日を楽しみにしていたのだ。

 上機嫌をからかうように、コンコン、とドアをノックする音がする。

「はあい」

 できるだけ明るくかわいい声で玄関へ向かった。

「うぃーす」

 ドアを開けると、グレーのコートを着た金髪の男がいた。梨恵の恋人の林大輔(ルビ/はやしだいすけ)だ。「待ってたぁ」と大輔に抱きつく。

「ごめんなー、遅くなって。あ、これ」

 大輔は持っていたビニール袋を見せびらかした。

「引っ越し祝い~。おめでとう梨恵~」

「わあっ、ケーキじゃん! ありがとう大輔」

 コンビニで買ったらしいカップチーズケーキが入っていた。

「うれしい! 大輔お兄ちゃんがケーキ買ってきてくれたよ!」

 報告する振りをして、花菜からこちらが死角なことを確かめる。見えていないのを認めると大輔にキスをした。

 ちゅっちゅっ、と潤った音を鳴らし、貪るようにして唇に吸い付いた。

「なんだよ、我慢できなかったのかよ? 俺がいない間よろしくやってたんじゃねーの?」

 キスが終わると大輔は呆れたように笑い、唇を拭う。

「違うもん。ずっと会いたかったんだもん」

 甘えて縋りつくのをやんわりと引き離し、大輔はケーキの入った袋を押し付けてきた。

 そしてずかずかと奥の部屋に入っていくと、ひとりで遊んでいる花菜に話しかけた。

「こんにちは」

「今は夜だから『こんばんは』、だよ」

「どっちでもいいだろ。こんにちはって挨拶されたらこんにちはって返すんだよ。学校で習わなかったのか」

 思い通りの挨拶を返さなかった花菜に、大輔はわかり易く顔を歪める。自分の思い通りにならないと、すぐに顔や態度に出てしまうタイプの男だった。

「大輔、やめてよ子供なんだし! 花菜ちゃんもほら、ちゃんとご挨拶しなきゃだめでしょ」

 今にも花菜を打ちそうな大輔の手を慌てて掴み、花菜にも言い聞かす。

「ごめんなさい」

 花菜はこちらを見ることもせず、すぐに謝った。

 まるで場を収めるには謝るに限る、とでも言いたげだった。

「ったくよぉ、ガキはガキらしくしろよな。それとさ梨恵」

 忌々しげに愚痴ると大輔は煙草に火を点ける。そしてテーブルに用意した取り皿に灰を落とした。

「あっ、それは……」

「悪いけど、また10万くらい貸してほしいんだわ」

「え、でも先週5万円渡したよね」

「そうなんだけどさ、うちの投資してる会社が赤字で。今月耐えたら大口の案件転がり込むんだよね。それにはどうしても今月乗り切らなきゃなんなくてさー。来月には金が入るし、絶対返せる。ここでチャンスをみすみす逃すのもバカじゃん?」

「でもたった10万円でどうにかなるようなことなの?」

「そうなんだよ。たった10万。たった10万だぜ? ほら、こっちの奴らって金に超シビアじゃん? だからいくら俺がプレゼンしても全然融資しないわけ。ひとりでやってるからさ、頼れるのは梨恵しかいないんだよ……」

「でも……私もまだバイトの給料でてないし」

「はあ? ……あ、そう。わかったわかった。だったら、闇金いくわ。俺が焦げつきでカード作れねぇって知ってて言ってんだよな。はっきり言ってさ、闇金なんかで金借りたらもう完全終了だぜ。俺に死ねって言うんだな。そんなに死んでほしいなら――」

 大輔がそこまで言ったところで、「わかった!」と烈しく首を振った。

「私が用意する。クレカでキャッシングしてくるから、明日渡すね」

 理不尽な要求だとわかっていながら満面の笑みで答える。ここで突き放せば、大輔は自分の下から離れて行くような気がして怖かった。

「助かったぁ……マジで天使だな梨恵。金に汚ぇ関西人たちに囲まれて苦しんでた時、お前に出会えて運命だって思ったんだよ」

「ううん、そんなことないよ。私には大輔のほうが――」

「でもさ、明日じゃ遅いんだよね。今から用意してくんない、金」

「え……」

 大輔の態度に思わず言葉が詰まった。

「ほら、このケーキ買ってきたコンビニさ、こっからそんな離れてないし、ATM走れるだろ。頼むわ」

「で、でも、パーティーが……」

 横目で花菜を見る。

 花菜は相変わらずぬいぐるみと遊んでいる。こちらにはまるで関心を示さない。

「わかった。じゃあ、ちょっと待っててね。帰ったらパーティーだね!」

「おう、盛大にやろうぜ! その前にお・か・ね、お・か・ね!」

 エプロンを脱ぎ、バッグを取ると梨恵は部屋を急いで部屋を飛びだした。



「……ふぅ」

 二本目の煙草に火を点け、大輔はひとりで遊んでいる花菜を見た。

 花菜は猫のぬいぐるみ相手にままごとを没頭している。

「可愛げのないガキが。もうちょっと懐けよ」

「にゃにゃちゃん、どこ行きたい? 『にゃにゃちゃんはね、はなちゃんとにゃにゃちゃんとままちゃんだけの国ー』 えー、困ったなぁ。きっとそこは遠いねー」

 ひとり二役をこなしながら、花菜はぬいぐるみの手足をパタパタさせている。大輔の悪口も聞いていない様子だった。

 小皿に煙草をもみ消し、テーブルの唐揚げを手でつまんで口に放り込む。冷めた肉汁が脂臭く、口に入れたことを悔やんだ。

「なんだこれ。パーティーの料理が全部スーパーの総菜かよ。貧乏くせぇ」

 そう愚痴りながら冷蔵庫を開け、ビールを取った。舌の上に残った唐揚げの後味を洗いたい。

「……?」

 冷蔵庫の扉を閉めた時、妙な違和感を覚えた。

 咄嗟に閉めたばかりの冷蔵庫を開けると、中を凝視した。冷蔵庫の中で一瞬、何かと目が合ったような気がしたのだ。

 しかし庫内には食糧以外、妙なものはなにもない。

「そりゃそうか」

 ひとりつぶやくと、冷蔵庫を閉めた。

 そもそも冷蔵庫の中で目が合うなどあり得ない。バカバカしさに我ながら思わず笑った。

 ――ぼちゃん

 すぐ近くでなにかの水音がはっきりと聞こえた。

 花菜のいたずらかと見てみるが、相変わらずぶつぶつ言いながら遊んでいるだけだ。

 テーブルの上も特に変わりはない。

 すこしの間、冷蔵庫の前で観察していると、ふとその正体に気付いた。

 台所のシンクに目をやると、閉まりが悪いのか蛇口から水が滴り、洗い桶の水面を叩いていたのだ。

「梨恵のやつ、しっかり閉めろよ。そんなだからあいつは……」

 愚痴りながら栓を閉めた。漏れは治まった。

 ――シャアー……

 だが、水滴の音は止まなかった。違う。正確には、音の種類が変わったと言ったほうが正しい。なにかが勢いよく噴きだしたような、そんな音だ。

「うそだろ」

 まさか、そんなはずはない。そうは思いつつ、音の方向がシンクでないことは明らかだった。ではどこか? ……それは、バスルームから聞こえている。

 おそるおそる覗き込んでみると、誰もいないバスルームで勢いよくシャワーがでていた。

 水の粒がタイルの床を烈しく叩き、だくだくと排水溝に吸い込まれてゆく。呆然と見つめながら花菜に問いかけた。

「おい、お前さ、シャワーだしたかよ」

「ごめんなさい」

 間髪入れず謝る花菜。反射的に大輔の背筋に寒気が走る。

 どのように受け取ればいいのか迷った。シャワーをだしたから謝ったのか、とりあえず謝っておけば済むと思ったからなのか、その判別がつかない。

「ごめんなさいじゃわかんねぇだろ。大体、お前ずっとそこにいたよな?」

「ごめんなさい」

「おい、おちょくってんじゃねえぞガキ! ちゃんと答え――」

 話が通じない花菜に腹が立った。

「ただいまぁー。ごめんね、パーティーしようね」

 花菜に詰め寄ろうとした時だった。駆け込むようにして息を切らす梨恵が帰ってきた。

「どうしたの?」

 梨恵は微かに異変を感じ取り訊ねる。それに答える気になれず、梨恵から手に持った封筒をひったくった。

「ま、いいや。サンキュな、梨恵」

「いいよ。お金くらい……。そんなに多く渡せないけど、私にできることなら」

 封筒をポケットにしまい込みテーブルにつこうとすると、梨恵が手を引いた。

「ご褒美ちょうだい」

 唇を突き出し、キスをねだる。どうしようもない女だな、と大輔は自分の心の声に笑った。

 梨恵を引き寄せると、唇を重ね、舌をねじ込ませた。

「ちょ、ちょっとそこまでは……」

 求めているのはこの程度じゃないはずだ、下半身に手を這わせると梨恵は身をよじって拒んだ。だが本心でないことくらいわかる。この女はそういう女なのだ。

「お前から誘ったんだろ」

「ち、ちがっ! 花菜がいるのに!」

「だったら部屋でやろうぜ。おい、ガキンチョ! 適当に飯食って寝とけ」

 強引に梨恵を部屋に押し込み、畳んだままの布団に押し倒す。抵抗してはいるが弱い。子供がいようが本能には逆らえないのだ。下着の中に手を入れるとびくんと反応し、大人しくなった。あとはされるがままだ。

 部屋の隙間から覗く花菜は、梨恵が必死で押し殺す喘ぎ声を聞きながら、椅子に座らせたぬいぐるみと並び、テーブルにつくと手を合わせた。

「いただきます」

 行為の最中ずっと、花菜はひとりで冷めた総菜を食べていた。


#創作大賞2024
#ホラー小説部門



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