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『ペトリコール』第十二話

■12

 ――プォーー!
 獣の咆哮のようなサイレンの音で飛び起き、すぐに三和土まで駆けると玄関を開けて空を見た。
 漆黒の空に甲高いサイレンの音が突き刺さり、近所の住民がぞろぞろと外にでて空を見上げている。空襲警報だった。
「多枝ちゃん、起き! 多枝ちゃん、空襲警報が鳴っとる! 防空壕に逃げるよ!」
「んん……」
 幼い多枝を揺り起こし、眼を擦っている間に防空頭巾を被せた。
 そしてすぐに自分もモンペを穿き、防空頭巾を被る。
「お母ちゃん、しっこ」
「ええっ、後にしなさい」
「我慢できへん」
 もう……と溜め息を吐きながら、多枝を厠に行かせた。
 空襲警報が鳴っても実際、爆撃に至ることはあまりない。頻繁に鳴る空襲警報もまた、次第に緊張感を奪っていった。こんな夜中に空爆なんて、と高を括っていた。
 空襲警報が鳴ったからといって必ず爆撃されるわけではない。寝静まっていた深夜はさらに恐怖を麻痺させた。
 多枝を待っている間、彼女の中にもうひとつの感覚があった。
 それは別の意識として、彼女の視界を共有している。それとは梨恵の意識だった。
 ――なに……これ? もしかして、あおむしの記憶の中?
 自分の意思であおむしの身体を動かすことはできない。あくまでただ彼女の思考や視界を通して一方的に記憶を追体験させられている。
「多枝、はようし!」
「待ってぇなー」
 あおむしの喋り言葉は、自分が知る関西弁のイントネーションとは違った。対して多枝は流暢な関西弁だ。
 ――寺井さんの話だと、あおむしは福島の出身かもしれないって話だっけ……
 ホープおおさかで真麻からの電話を切ったあと、寺井が電話で聞いてくれた。確かに、数人地方から嫁いできていた女性がいて、その中には福島からきていた女性もいた、と。
「まだ逃げてへんのかいな! なにしとんの!」
 血相を変えてあおむしの玄関から声を上げる男。戦時下に珍しく40代の若い男だったが、言葉遣いが変だ。
「すみません、娘が厠に……」
「そんなんしとる場合やないやろ! はよ壕に逃げやな!」
 男の迫力に委縮して上手く喋れない内に、多枝が厠からでてきた。
 男はそんな多枝をおぶり、あおむしに付いてこいと走りだした。
 外にでるとB29の編隊がプロペラの轟音をあげ、真夜中の空を飛んでいる。
 いつもよりも音が烈しいため、あおむしは今夜の空襲はいつもと違う気がした。
「お母ちゃん、花火や!」
「ええっ、花火?」
 男におぶられながら多枝の指す夜空を見上げると、流れ星のような一筋の光が一筋の尾を作った。
 ひゅうう、と打ち上げ花火さながらの音とバァッという弾ける音。
 それと同時に花咲く火の玉は、枝垂桜のように地面に伸びた。
「花火……ちゃう! あれは焼夷弾や! はよ走りぃ!」
「は、はい!」
 一発目の火花が呼び水のように次々と夜空を明るくし、空一面、火の雨が降った。
 ――バキバキ、ドゴッ、バァン、ギィン。
 様々な種類の烈しい騒音。それらは全て焼夷弾が落下した際に立てた凄まじい音だった。瞬く間に家々に火が上がり、それらが合わさり巨大な火柱をあげる。
 あれだけ暗かった夜の闇が、真っ赤な炎の道となった。
 その光景はまさにこの世の地獄そのものだ。
「尼塚井(ルビ/あまつかい)さん!」
「ええから走れ!」
「けど、歩ちゃんが!」
「あいつは大丈夫や、女房がついとる! 人の心配しとる場合やないで、ハナちゃん!」
 梨恵は息を呑んだ。
 あおむしは男に今、『歩ちゃん』と言った。そして、男はあおむしのことを『ハナちゃん』と呼んだ。
 実体がないにもかかわらず、意識の中の梨恵は猛烈な寒気と吐き気に襲われた。
 ――どういうこと……歩? 花菜?
 サイレンとB29のプロペラ、爆弾の落ちてくる音。
 それらが空と地上関係なく喚き散らし、逃げ惑う人々の悲鳴がさらに烈しく、悲痛に変化してゆく。
「あんたぁ!」
 断末魔のように木霊す、女性の悲痛な叫び。その声に男は反応した。
「節子! お前どないしてん、歩は!」
 女言葉のような喋り方をしていた男は、その女性に対しては違和感のない言葉遣いをした。使い分けているのだろうか。
「それが……はぐれてしもうて……うち、もうどないしたらええか」
「わかった。俺が捜すから、お前はハナちゃんと多枝ちゃんと一緒に逃げとけ!」
 節子と呼ばれた男の妻が制止しようと声をだすが、行った道に家屋が倒壊して声は届かない。
「どないしよう……! あの人がおらんなったら、うち……。歩がおらんなったら……うちは……」
「節子さん、ええから逃げよう!」
 狼狽える節子の手を引き、多枝を背負ったままハナは走りだした。
「んごぼっ」
 温かい血が大量にハナの首にかかった。
 驚いて振り返ると節子が口から血を流しがくがくと足を震わせている。足元には血に濡れた焼夷弾の鉄筒が転がっている。
 投下された焼夷弾が節子の脳天を直撃し、鉄筒が顎を突き抜けたのだ。切なげに訴えかける瞳は血に染まり、赤い涙を流しながら前のめりに倒れた。つないだ手から力が抜けていく。
「節子さん! しっかりして、節子さん!」
 頭ではもう無理だとわかっていても受け入れることはできなかった。肩を揺さぶると穴があいた脳天から血が染みだしてくる。それでもたった今まで生きていた節子が死んだという事実が認められなかった。
「きゃあっ!」
 そうしているとまた夥しい数の焼夷弾が落ちてきた。ハナは仕方なく節子を置いて逃げることにした。後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、背中で多枝を揺り上げ、逃げる。
「多枝、しっかりしいな。こんなのすぐに終わる。終わったらお父さん帰ってくるから」
 ハナは背中の多枝に声をかけながら、必死に走った。
 辺り一面火の海となった町、建物は崩れ見慣れた景色もなにがなんだか全くわからなくなっている。
 とにかく水場だ。水場を探せば一旦は焼かれる恐怖からは逃れられる。その一心でハナは走りながら水場を探した。
「どっかに防火用水池が……」
 熱風巻き起こる中を走り回りながら、顔が焼ける熱を感じる。目も開けていられないほど熱い。
「多枝、頭巾をしっかり目深に被りぃ! 目ぇ焼けてしまうよ!」
 どこを向いても、どこに行っても、火、火、火。
 近くに川があるがそれもどっちかわからない。逃げ惑う住民達も同じく、行き先を彷徨って右往左往するしかなかった。
 途中、すれ違った小さな女の子が、ハナたちを見て「あっ」と小さく声を上げた。なにかと思ったが構っていられず、駆けずりまわりながら川がどこかを探す。
「熱っつ!」
 逃げ場を失いつつあったハナの足に烈しい熱を感じた。
「ああっ、モンペに火ぃ移ってしまった!」
 足に移った火。熱と共に激痛が襲う。
 自分のことよりも多枝だ。ぼやぼやしていると多枝にまで燃え移ってしまう。
「多枝、お母ちゃんの足に火ぃ付いちゃった! 消すから下りてちょうだい」
 そう言って背中におぶった多枝を慎重に下ろした。
「ごめんね多枝、ちょっと自分の足で走って!」
 地面に下ろした多枝はごてん、と仰向けに倒れた。さながら糸の切れた人形のように。
「……多枝?」
 振り返り、多枝の様子を見た。
「ひぃやあああっっ!」
 ハナは狂ったような悲鳴を上げた。
 怪鳥の鳴き声のような、悲痛で凄まじい叫び。足の火のことなど忘れて多枝に縋りついた。
「多枝ぇええええ!」
 多枝の首から上がない。
 落下した焼夷弾が直撃したらしく、頭が千切れ飛んだ首元はよだれかけのような血のシミを作っていた。震える手で自分の首に触れた。さっき、血を浴びた首だ。
 節子の頭に焼夷弾が落ちた時、血はここまで噴きだしていなかった。これは節子の血ではなく、多枝のものだったのだ。
 手のひらを濡らす血がてらてらと炎の光を反射させている。
「あぁああ! ああぁあ! 多枝、多枝……どこぉお!」
 ハナは多枝の頭を捜した。燃え移った火が使えないほどに足を焼いていた。気づけば腰まで火は迫っている。ハナは這いつくばり、夢中で多枝の頭を捜した。
「たえちゃん……私のたーえちゃ……ん」
 それでも執拗に降り注ぐ焼夷弾は、徹底的に町を破壊しつくしてゆく。足が焼け落ちたハナは、腕の力で進むが腕も重大な火傷を負っていた。それでもハナは、火傷の傷みなど、焼夷弾の無慈悲な暴力にも屈せず、鬼気迫る精神力で多枝の頭を捜した。
 ぶつん、
 さながらテレビの電源を引き抜いたように、意識は唐突な闇に攫われた。
 すぐに意識は戻ったが、まとまりのないデタラメな思考や記憶で錯綜している。
「たえちゃーん……あそぼ……一緒にかるたしよぉおお?」
 ついにハナはおかしくなってしまった。
 今がどういう状況なのかも全く理解できなくなった。ただ本能的に娘を捜す。
 やがて近くで炸裂した焼夷弾の爆風に吹き飛ばされた。

 ぼちゃん

 と水しぶきをあげ小さな防火水槽に突っ込んだ。
「ごぼごぼぼ……」
 水中から揺らぐ火の海を見上げ、手足を失ったハナは自力でそこからでることもできず、狂ったまま濁った水の中で息絶えた。
 梨恵の意識もそのままに。

 意識を取り戻し再び視界が開けた。そこは変わらなず、業火の町だった。
 火柱と黒煙をもうもうと上げ、焼けた家々から目と鼻を突きさす臭い。そんな有り様なのに鳴り止まない轟音と火の雨がさらに町を地獄にする。
 ひとつだけ違うことは、今度はちゃんと自分の体であるということだ。今はあおむし(ルビ/ハナ)ではなく、梨恵自身。ついに炎の町に放り込まれてしまった。
「この中から、たえちゃんを捜せばいいのね」
 そうわかってはいても内心は複雑だった。垣間見たあおむし……ハナの記憶。煤に汚れた頬は涙で濡れている。残酷で悲しい記憶だった。
 ――プォーー!
 けたたましく鳴るサイレンと爆音、火が木を焼く音と叫び声。耳を塞いでいないと鼓膜を突き破って心臓に直接刺さりそうだ。
 ここ間違いなく、〝あの続き〟なのだ。
「きっとこれが……この町の真の姿。本当はずっと時間が止まっているんだ」
 真っ赤な炎地獄の中、深く息を吸い込む。
「げほっ! げほっ」
 喉を焼く熱気と苦痛を伴う黒煙を吸い込み、烈しく咳き込んだ。涙目になりながら、それでも息を吸って、そしてゆっくりと吐く。
「花菜……待ってて」
 あおむしが花菜をなかなか連れ去らなかった理由がわかったような気がした。あおむしと花菜は、偶然にも同じ名前だったのだ。いや……もしかすると呼ばれていたのかもしれない。偶然などではなく境遇の似た花菜を呼んだのだ。
 理由は違えど、ふたりとも福島からひとり大阪にやってきた。孤独の中で身を縮める花菜の姿に、あおむしは同調したのかもしれない。
 ホープおおさかで知ったが、第一次大阪大空襲は三月一三日。震災があった三月一一日。同じ時期にふたりは被災している。時を超えてふたりは同調(ルビ/シンクロ)した。
 ――それなら花菜は無事なはず。自分と同じ名前、同じ境遇、そして娘の多枝と同じ歳……そんな花菜を殺すわけがない。きっと無事にこの町のどこかにいる。
 考えるが早いか、すぐさま走りだした。
 まず多枝の頭を見つけよう。それをハナに返し、彼女を満足させたら花菜と一緒にここから逃げだすのだ。
 だが脳裏に心配な人間がもうひとりよぎる――アンジーだ。
 ハナの記憶の中にでてきた『尼塚井』という男。尼塚井は『歩』という子供を捜していた。
 アンジーの息子の名前も『歩』――
「アンジーさん……」
 今、目の届く範囲にアンジーはいない。一緒にここにきたはずのアンジーは一体どこに行ってしまったのだろうかか。尼塚井と関係があるのだろうか……。
 頭を振り今はそれ以上考えないよう努めた。それよりも今は大事なことがある。時間を無駄にするわけにはいかない。
「花菜ぁー! 花菜ぁーー!」
 花菜の名を叫びながら、多枝の頭を捜す。火と煙が体力を奪い、それでも焼夷弾が容赦なく降り注ぐ。
「一緒に帰ろう! 花菜、私と帰ろう!」
 町を取り巻く轟音、爆音にかき消されそうになりながらも駆け回る。
 死屍累々の町はまさに地獄絵図だ。あちこちに無残な死体が転がる。子供も女も老人も関係なく、人形のように手足が無かったり、あるいは真っ黒にまるまって黒焦げになっている。建物の下敷きになり蒸し焼きになって死んでいる者も多かった。
 すこしでも立ち止まると気が狂いそうだった。走りながら多枝の首と花菜を捜した。そのたびに目に入る死体、死体、死体。
 集中しろ、と自分に言い聞かせながら走った。
 バンッ!
 破裂音とともにそばでなにかが弾け飛んだ。
「ぎゃあっ」
 上がった悲鳴に驚いて振り返った。それまで逃げていた住民が立ち止まったかと思うと、腰から上がずるりとずれ、下半身を残して胴体が落ちた。
 焼けたトタン板が防火水槽の中でジューン、と音を立て水に浸かっている。火事の熱で屋根が弾け飛んだのだ。その軌道上に運悪く住民がいた。
 見ている前で下半身が遅れて地面に倒れる。出来の悪いB級ホラー映画を見ているようだ。気分は最悪だ。
「爆弾が降ってくるだけでも危ないのに……」
 改めて自分が置かれている状況がどれだけ過酷なのかを感じた。
 本当に日本各地……いや、世界でこんな地獄があった。なによりも恐ろしいのは、それからまだ百年も経っていないという事実。
「戦争、戦争なんか兵隊だけでやればいいじゃん! なんでなにも悪くない人たちまでこんな……!」
 これが幻なのか、本当のことなのか、梨恵には判断できなかった。
 ただわかっているのは老人も子供も無差別に、無慈悲に殺されたという事実。とめどなく涙が溢れ、止まらなかった。
 犬も猫も馬も死んでいる。どうしようもなく命の脆さを突きつけてくる。
 噴きでる汗を拭うと、拭った腕が黒くなった。煤で全身のあちこちが黒く汚れている。
「お父ちゃああん! お父ちゃーーん!」
 今にも焼き崩れ落ちそうな家屋のそばで、泣きじゃくっている少年がいた。
「あぶない!」
 メキョメキョ、と柱が軋む音。なりふり構わず少年に飛びついた。
 直後、家屋が倒壊し、たった今少年が立っていた場所は炎のがれきに潰された。
 危機一髪、難を逃れた少年の無事を確かめる。
「大丈夫? 怪我は?」
「お父ちゃん……お母ちゃああん……」
 両親とはぐれてしまったのか、少年は泣き止まない。自分ががれきに潰されかけたこともわかっていないようだ。会話にもならない。頬に怪我をしていて出血している。
 どの建物も今にも崩れそうだ。焼夷弾の雨も止まない。
「近くに防空壕はないの」
 少年は親とはぐれた心細さから正気を取り戻せないでいるようだった。会話は不可能そうだ。とはいえ防空壕がどこにあるかなど知らない。少年をここに置いていけるわけもない。
「しょうがない……。ほら、背中に乗って」
 少年を背負い、ひとまず安全なところを探した。
 しかし、どこも同じ景色にしか見えない。がむしゃらに駆け回るが自分がどこをどう走っているのかもわからなかった。
「あっち、あっち行って!」
 顔の横から小さな手が伸びた。少年がうしろから指を差している。
「僕、わかるで。あっち行って、あっち!」
「あっちに行けばいいのね!」
 少年を信じて、指差すほうへ走った。
 背中に燃え盛る火の熱とは違う温もりを感じた。思えば花菜を抱いたり、おぶったりしてやったことがなかったな、と今さら気づいた。花菜と向き合わず、逃げてきた自分の薄情さにも。
 ――私があの子の支えになってあげなくちゃならなかったのに
 部屋でひとりぬいぐるみと遊んでいた花菜と、犬に噛まれて泣きじゃくっていた真麻の姿がが重なる。無事に帰ることができたら、今度はちゃんと向き合いたい。
 真麻と、花菜に――
 川が遠目に見えてきた。少年はこれのことを言っていたようだ。
「着いた! 着いたよ!」
 これだけ徹底的に破壊されつくした町だったが、隣町へかかる橋は無事だった。
 橋の下なら安全なはずと川のほとりに近づいた時、さらなる地獄が目の前に広がった。
「そんな……」
 多くの人たちが火を逃れて川へ行きついていた。だがをのほとんどが息絶えていたのだ。
「うぅ~……熱い……熱い……」
「お母ちゃん! お兄ちゃん! どこなーーん!」
「水……水……」
 無事な人間も半数以上が火傷を負っていた。もはやどれが死体でどれが生存者かわからない。そんな中でも橋の下は、爆撃を逃れたい人間ですし詰め状態だった。
「すみません、この子も入れてください!」
「なんやお前ぇ! そないけったいな格好しよってからに! アメ公かわりゃあ!」
「私のことはいいんです! この子見たらわかるでしょ、この子は両親とはぐれてしまったんです!」
 男は訝しんだが、少年だけを抱きとめた。
「ありがとうございます!」
「じゃかましいわ、はよ行けボケナス! 消えろ!」
 言葉遣いがどれだけ汚かろうとも男は少年を受け取った。それだけで充分だ。
 長居はしていられない、目的を果たさなければ。
「お姉ちゃん!」
 ふいに少年の呼ぶ声がして振り返った。
「さっき、お姉ちゃんみたいな服着た女の子見たで」
「私みたいな服……まさか! どこで見たの!」
 少年はきた道を指した。
「僕がおったところの近く」
 お姉ちゃんみたいな服……つまり、現代の服ということだ。ならばそれは限りなく花菜の可能性が高い。どれだけ小さな手がかりだったとしても今は信じるしか選択肢はない。
 戻ってくると景色はまた変わっていた。もはやすべての家屋が倒壊している。倒壊した家屋のかわりにたつ火柱が手招きしているようだった。
 どこが道で、どこが道でないかすらもひと目でハッキリしない。
 空を見上げても真っ黒な煙。そこに空はない。
「花菜ぁー! 花菜ぁー!」
 勘を頼りに少年が立っていた周囲を捜す。
「いない……いない! なんでよ!」
 焦りばかりが精神を追い詰める。このままだと自分の命も危ない。

「梨恵ちゃん」

 驚いて振り返った。
「きゃあ!」
 振り返ったそこには炎に包まれた男が立っていたのだ。
 全身を焼かれ、真っ黒に燃えさかる男はもはや炭に近い。
「ごめんな」
「な、なに……?」
 今にも死にそうなこの男に心当たりはなかったが、その声には聞き覚えがある。それに彼は梨恵の名を知っていた。
「まさか……アンジー……さん?」
「それよりもな花菜ちゃんや」
「それよりもって……そんなの、待ってて火を消す水持ってくるから!」
「もうええって」
「よくないよ! そうだ、この先に川があるから一緒にいけば……」
「わかるやろ、あたしはもうあかん。この時代に生まれたら、しゃあないんや」
「なにを言って――」
「花菜ちゃんを助けられるんは梨恵ちゃんだけや」
 喋っているそばから、ぼとりと腕が焦げ落ちた。
「ア、アンジーさ……」
「花菜ちゃんはあそこの神さんのとこにおる。はよ行ったりぃ、あの子はなぁ、こんなところにおったらあかんわ……おったら……」
 アンジーの膝から下が燃え落ち、膝をついた。炭になってしまうのは時間の問題だった。
「でも、アンジーさん! 歩くんを助けるって言ったじゃないですか!」
「あほ、なにを言うてんねん……歩ならさっき……梨恵ちゃんが……たす……てく……や……」
 言い終えることなく、アンジーは炭になってバラバラに崩れ落ちた。
「アンジーさん!」
「おおきに……ごめんなぁ……」
 泣きながらアンジーの名を絶叫する。炭となったアンジーはもう答えることはなかった。
 最後に礼を言うことも、触れることも叶わず、アンジーとの理不尽で残酷な別れに哭いた。
 容赦なく次々に家が崩れる。空爆は止んでいた。
 アンジーが最後の力を振り絞って伝えた場所に走る。
 汗と涙と煤が混じり、目が痛い。片目を交互につぶり、髪の先を焦がしながらひたすら走る。もはや満身創痍だった。
 がれきか屍かわからないものに何度もつまずき、転び、起き上がる。走る。
 やがて小さな社が目に入った。
 なにもかも焼き尽くされ、炎に貪り食われている中で、その小さな社だけは火の手が迫らず綺麗に残っていた。
 すぐそばの防火水槽のおかげかもしれなかった。
「すごい……」
 涼しい顔で佇む社に神懸り的なものを感じた。
 アンジーの話通りならばこのそばに花菜がいるはずだ。
「花菜! 花菜どこ!」
 探してみると社の陰に小さな人影があった。
「花菜!」
「……りえちゃん?」
 アンジーの言った通り、花菜はそこにいた。なにかを抱きながら、不安げな表情を浮かべて。
「ごめんね、花菜……。私、花菜にもっと向き合わなきゃいけなかった。大輔や舞ちゃんに頼りすぎて、私自身が花菜を避けていたんだ。こんなじゃ、保護者失格よね……ごめん、ごめんね」
「なんで謝ってるの? りえちゃん悪くないよ。花菜はりえちゃん大好きだもん」
「花菜……」
 その言葉に救われた。たとえそれが、花菜の優しい嘘だったとしても、そんなことはどうでもいい。
 ただ今は、強く抱きしめる。これが最も正しく、最も正直な気持ち。花菜が無事だという嬉しい気持ちだ。
「りえちゃん?」
「ごめんね、花菜。怖かったよね、ずっと……ずっと寂しかったよね」
 愛されることに怯えて自分からしか愛さない臆病者。それらをすべて肯定し、花菜と自分を重ね、抱きしめた。強く、強く。
「ううん、花菜は寂しくないよ」
 花菜は感情の動きがない喋り方で答えた。
 かまいたちが風に紛れて背を傷つけるような、痛みに似た強烈な悪寒。
 この状況下で、相反する感覚。なぜ今、悪寒が走ったのか。
「だってね、私には多枝がいるもの」
「多枝……」
 ハッと顔を上げる。
 ぐにゃりと歪む花菜の顔。それは大輔の写真のときと同じだった。顔の中心に渦を巻くように、人間離れした顔。
「ああ……」
 気づいた時にはもう遅かった。花菜の形をしたそれは、自分自身が抱いている。逃げるのももう遅い。
 そして、ハナが胸に抱いているものが目に入った。
 顔面の中心に焼夷弾の筒がずっぽりと突き刺さった、小さな子供の頭だった。
 その様相は恐ろしく、中心に向かって顔のパーツが寄り、もはやどこになにがあったのかすら、想像を膨らませなければわからない。ただ間違いなくわかっているのは、その頭が花菜のものではないということ。つまりこの頭は――
「ありがとう梨恵ちゃん。多枝ちゃん見つけたから、もうこれ返してあげる」
 社の横の防火水槽から焦げた腕がいくつも飛びだし、肩や頭、腕を掴まれた。そして、凄まじい力で水槽の中に引きずり込まれてしまった。
「ごぼ……ごぽぽ……!」
 真っ黒い水。あの時のプールの水と同じだった。全身が浸かってすぐに局部に鈍痛が走る。暗くてなにが起こっているのか見えなかったが、なにか黒くて大きな塊が股を割って、膣から無理やり中に入ろうとしている。
 股を引き裂かれる激痛と呼吸のできない苦しさで目玉が飛びだした。
 めりめり、と異物が入ってくる。
 べりべり、と肉が裂ける。
 この世の毒をすべて注入されているような苦痛で意識が遠のいていく。私はこんな死に方をするのだろうか。
 そう思った矢先、耳元で誰かの声がした。

「バイバイ、りえちゃん」

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