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『ペトリコール』第八話

■8

 傘にぶつかる雨粒のせいで、梨恵は気が滅入っていた。
 雨を感じるだけで吐き気がする。
 地面から上がってくる雨と土のにおいが帰りたい気持ちに拍車をかけ、滲んだ町にひとりだけぽつんと取り残されたような心境になった。
 大輔がいなくなってから、梨恵の生活は日々荒んでいった。花菜の面倒ですら危うくなっている。
 毎日が悪夢のようだった。できれば外にでたくない。だが家にずっといても神経がすり減るだけだ。そんな状態なのに、畳みかけるようにして頼れる人間が周りから消えてゆく。
 もはや軽いノイローゼだ。ここ最近、体調がよかった日など一日もない。
 花菜の通う小学校の校門前で立ちすくみ、校舎を見上げた。気力を振り絞って、なんとかここまでやってきた。それが花菜の小学校だなんて、自分でもよくわからない。
「足元の悪い中、すみません。どうぞおかけになってください」
 教室に入り、言われるがまま二つの机を対面にした席に座った。
「はじめまして。渡辺花菜ちゃんの担任で藤本といいます。急に呼びだしまして申し訳ないです」
 目尻に細い皺を刻んだ、五〇代くらいの女教師だ。
「藤本……先生……?」
「ええ。びっくりしはったでしょう? 学年の途中で担任が変わるなんて、あんまりあることやないですし」
 花菜のクラスの担任は森谷という若い教師だったはずだ。
 だが目の前にいる藤本という教師のことは知らない。担任が変わったということすら初耳だ。
「あの……突然の不幸って、森谷先生はどうしたんですか」
「私らもねぇ、ちゃんとは聞かされてないんですけど、なんだか大怪我をしたらしくて。入院してはるらしいんですわ。花菜ちゃんが持って帰っているプリントに書いてありましたでしょう?」
 藤本の問いに「ああ、まあ」と曖昧な返事をした。花菜が学校から持って帰ってくるプリント類はここのところ、ほとんど目を通していない。
「森谷先生の代わりに私が担任をすることも書いてたんですけどねぇ」
「すみません……」
 藤本と目が合わせられなかった。お前は親失格だと非難されているような気がしたからだ。
 ――でも私は花菜の母親じゃないし
 藤本から目を逸らしながら、一方で森谷の怪我が気になった。
 実は舞も怪我で美容院を辞めてしまったのだ。しかも梨恵にはなんの報告もなかった。大輔の時と同じく、それ以降は音信不通だった。こちらからの連絡にもまったく応じてくれない。
 入院していると聞いたが、どこの病院かもわからず見舞いにも行けない。
「それで……ですねぇ。今日ご足労頂いた件なんですけど、花菜ちゃんのことでして」
 藤本は特に非難するようなことはなかった。目を細め、笑っているのか悲しんでいるのか判然としない顔だった。
「花菜が、なにかしたんですか?」
「いえ、特別なにかした、というわけではないんです。どない言うたらええか……、花菜ちゃんが前に住んでいたその……ね」
「ああ、福島の」
 藤本が言いづらそうにしている正体がわかった。
「私どもは、被災地についての配慮もしてますし、あまり軽率にその話をしやんようにしているんですが。児童のひとりがどこからか花菜ちゃんが福島からきたいうことを知りましてねぇ……」
「児童のひとりがどこからか、って。そんなことあり得るんですか? 私は学校側に話さないでほしいと伝えているはずです。花菜が自分で口外したんですか」
「いえねぇ、それがそのぉ……わからないというか、あのねぇ……」
 藤本は歯切れが悪くなる。その態度を見て、学校側の誰かが漏らしたのだと察した。
「あの、わかってますか。花菜がこの学校にくるまで、どれだけ苦しんできたのか。あの子の極端過ぎるほど人と関わろうとしない態度に、なにも思わないんですか? 藤本先生が漏らしたんじゃないと思いますけど、学校側の責任ってこういう時、どうなるんですか」
「お、落ち着いてください。まだ学校の誰かから漏れたいう確証はないんでねぇ……」
「責任逃れするんですか。花菜にまた転校しろ、と?」
「そこまでは言うてませんやん」
 怒りを抑えきれなかった。花菜や真麻の苦難にどうやって接していいのかは、まだわかっていない。
 だが花菜も真麻、被災したすべての人たちが好きで避難しているわけではない。
 それなのにまるで病原菌や毒ガスのように扱い、爪弾きにしている者たちが許せなかった。
「証拠がないから学校のせいじゃないって……それじゃあ、花菜はどうなるの? 花菜をこれ以上どうしたいのよ! あんた先生なんでしょ!」
 机に手を強く叩きつけ、窓ガラスが震えるかと思えるほど大声で叫んだ。
 大輔や舞のこと、ギクシャクする花菜とのこと。それらのストレスが、余裕を奪っていた。
「落ち着いて、落ち着いてください! 私はそない大きな話をしたいわけやないんです! ただ……花菜ちゃんにはお母さんが必要ちゃうんかな、って思うてまして」
「花菜がそう言ったんですか」
「そういうわけやないんですが……クラスの子らが花菜ちゃんをからかうんです。私や他の教員も気ぃ付けてるんですけど、どないしても目が届かんところもあって。それに最近……花菜ちゃん、ひとりごとも増えてるし、妙な行動もあるんです」
「妙な行動?」
 眉をハの字にして、泣き笑いのよう表情で藤本は答えた。
「ええ、ご存じのとおり、ここでは『子供をひとりで水場に立たせたらあかん』いうルールがあるんです。当然、我が校でも徹底しておるんですけどねぇ」
「それは知ってますけど……」
「どうも花菜ちゃん、こっそり行ってるみたいなんです。それも休み時間のたび」
「トイレに……ひとりで、ということですか」
 藤本はうなずく。泣き笑いがさらに滑稽に歪む。
 そういえば大輔と音信不通になったあたりから、花菜のトイレに付いて行っていないことに気づいた。忘れていたわけではないが、傷心の梨恵には〝そんなことのために〟気力はなかった。
 それに普通、トイレはひとりで行くものだ。
 ――何度もひとりでトイレに……
 ふと自分が部屋の隅で膝を抱えていた時、花菜はなにをしていただろうか思い返した。花菜はいつも、視界の外で遊んでいた。考えてみれば、わざとそうしていたのかもしれない。それでも気にならなかったのは、花菜がにゃにゃちゃんと喋っている声が聞こえてきていたからだ。声がしているうちは花菜に異変はない。
 だが同時に思いだしたこともある。隅にうずくまっている間、花菜の姿はなかったがにゃにゃちゃんはいつも視界にあった。タンスの上におとなしく座っていたので、そこにあるという意識すらしていなかったのだ。
 越してきてからずっと、花菜は『にゃにゃちゃん』を肌身離さず抱いていた。毎日毎日、飽きもせず話しかけては遊び相手にしていた。
 にゃにゃちゃんは誠一に買ってもらったぬいぐるみだった。あれ以外に花菜が大事にしているものはない。
 じゃあ、あの時……花菜はなにと話していたのか?
「とにかく、西川さん。花菜ちゃんのお母さんと相談してみてくださいませんやろか。子供が孤独を感じている時には、やはり女親が必要やと思うんです。西川さんが頑張っておられるんは重々承知の上です。せやけど親にしか埋められへんものもあるんやないかと思うんです」
 藤本はこちらを見ているようで、目が合わないよう絶妙な角度で話した。
 まるで精巧に造られた人型ロボットのような無機質さだ。
 手前に置いた泥水のペットボトルにもいちいち気になってしまう。
「私もこの町で教師してるんは長いんですが、ここらの人、特にご年配の方はみんなアレをえろう怖がってはります。悪いことは言いませんので、『子供をひとりで水場に行かせない』。これだけは守ったってください」

 藤本に言われて東校舎にあるという学童保育の教室へ向かった。
 一向に止まない雨は、不気味に校内を暗くしていた。
 教室をでる間際に藤本が言い放った言葉が頭をよぎる。
「それと今日みたいなきつい雨降ってる時は、絶対に外にでださんで下さいねぇ。保護者の方々にも『雨の日は子供を迎えにくるように』と通達してあるんです。西川さん、お忙しいみたいやからご存じやないんとちゃいますか」
 普段からプリントや連絡系統の書類に目を通していないことを見抜ぬかれていた。だが藤本のそれは手放しに従えるような簡単なことではない。
「雨の日は迎えに……って、そんなん無理ですよ。仕事もしてますし、たまに迎えにくることはできても毎回はできませんよ」
「そんな人いはりませんので、よろしくお願いします」
 有無を言わせない迫力で、藤本は意見を突っぱねた。そんな横暴があるだろうか、条件を徹底できない家庭もはるはずだ。
「暗くなる前にきてくらはったら大丈夫ですので」
「そういうことじゃなくて仕事もあるし」
 藤本は泣き笑いの顔で「そこをなんとか」と言うのみだった。
 そんなバカな、と思う。
 幸い、梨恵の仕事は夕方には終わる。やろうと思えば雨の日に迎えにこられないこともない。だがただでさえ雨ばかり降っているこの町ではかなりの労力だ。
「あの、ここの人たちがそこまでして怖がっているものって一体なんなんですか。もう教えてくださいよ、私もこの町の住人なんですよ」
 迎えにくる、こないは別としていい加減決着をつけなければならない問題だった。従う理由を知らないまま、言う通りになどできるはずがない。
「その質問したん初めてやないでしょう? みなさんこない答えたんちゃいますか? 『それは言われへん』って」
「言えない言えないってそればっかり! そんなじゃとてもこの町になんて住め――」
「引っ越さはったら?」
「……え?」
 不毛だとわかっていながらも言いたいことを言ってやらなければ気が済まなかった。それだけの気概で喋ろうとした梨恵の言葉を、藤本のひとことが簡単に摘み取った。
「引っ越しって、そんなこと簡単にできるわけないじゃない!」
「それはわかってます。承知の上であえて申し上げてるんです。ほらここってねぇ、なんというか土地的にあんまりええことないっちゅうか、あんまり言うたらあかんのですけど」
「言っている意味がわかりません!」
「引っ越さはるんが懸命やと思います」
 眉ひとつ崩さずに、藤本はそう言い切った。
 どんな理由があれど学校側が児童の家庭に対し、引っ越しを勧めることなどあり得るのか。暴れそうになりそうになるのを必死で耐えた。
「そんなこと……」
「ああ、そうや西川さん、今日学校にきはるまで人と会わはりました?」
 唐突に話題を変える藤本の質問に、一瞬、間が空いた。なにを言っているのか理解するのに時間がかかった。
 そしてようやく思い返すと、そういえば誰とも会っていない。
「会ってないでしょう? 雨の日はねぇ、みなさんあんまり外にでないんです。まぁ、大人がひとりで外にでても特になにも起こらないんですけどねぇ。それでもみなさん怖がってようでんのです。学童保育の教室に花菜ちゃん預かってもろてますんで、迎えに行ってあげてください」
「雨の日は外にでないけど子供は迎えにこいって……言っていることがもう無茶苦茶」
 これ以上ついていけない、と思った。さっさと引き揚げて花菜と帰ったほうがよさそうだ。
 ――雨の日は外にでるな、だって。
 無意識に急ぎ足になる。学童保育の教室につくまでが以上に長い気がした。
「あの……、渡辺花菜の保護者なんですけど」
 教室に入るとすぐ三和土と下駄箱があり、一段高い床には畳が敷いてあった。その上で児童たちが所狭しと遊んでいる。
 児童に囲まれた指導員が振り返り、「あ、はーい」と明るく返した。
「ええっと、雨の日お迎えですよねー? 花菜ちゃーん、お迎えやでー。花菜ちゃーん。……あれ? 違う教室ですかね。すみませーん、申し訳ないんですけど、この二階にある第二学童教室ってところに行ってみてもらえません?」
「わかりました、二階ですね」
 これだけの児童をひとりで面倒を見るのは大変そうだ……と思いながら、教室からでて階段を上った。

 ――ぼちゃん。ずっ、ずっ。

 雨の降りしきる音に混じって、それだけが浮いて聞こえた。大きな水の塊が池に落ちたような、ずっしりと思い水の音だ。雨どいの水が落ちるのとは違う種類の音だった。
 二階まで上がった時、さらにもう一度、ぼちゃん。
 今度はさっきよりももっとはっきり、耳のそばでしたのかのようだった。
 それがしたのは右耳側だ。恐る恐る右側を向いてみる……が、誰もいない廊下が続いているだけだ。
 不思議に思いつつ、今度は反対側を見た。
 壁の上部から突きだす『第二学童教室』のプレートと、窓から漏れる光が暗い廊下に差している。花菜はそこにいるはずだ。
 教室に近づくと騒がしい子供の声が中から漏れ聞こえてきた。
 子供が中で暴れているのか時折、どんっ、と壁になにかがぶつかる音が響く。それにびくつきながら扉の前まできた。
 扉の取っ手に手をかけようとした時――
『ここにはいないよ』
 不意に聞こえた子供の声。すぐ近くで聞こえて周りを見回した。扉のすりガラス状の小窓に人影が見えた。
 窓の近くに立っているらしいが、やけにぼんやりとした輪郭をしている。もっとくっきりしているはずなのに、と首を傾げた。
『あっち』
 人影は窓越しに今きた道を指差す。不思議に思いつつその方角を見る。薄暗い廊下の向こうに非常口の扉が小さく見える。
「……あそこに花菜がいるの?」
 人影はうなずく。奇妙だったが会話もできているし、その人影が変なものではないと思った。中の児童だろう。
 あっち側になにがあるのだろうと進んでいくと、階段を横切ってすぐにトイレが現れた。
 東校舎と本校舎は当然だが作りが違う。突然現れたトイレについ驚いてしまった。
 廊下の薄暗さとは一線を画す、じめりとした闇がそこにはあった。
 闇というには頼りない暗さだったが、湿気や臭気が総合的に闇に近づけている。そんな場所だった。
 本当にこんなところに花菜がいるだろうか。
 信じられないが、藤本の話もある。息を呑むとゆっくりと足を踏み入れた。
 コンクリートの床、排水口からはヘドロのような臭いが漂い、トイレ全体にアンモニア臭が立ち込めている。
 すべての個室に《トイレに入る時は、誰かと一緒に入りましょう。ひとりで個室に入ってはいけません》と貼り紙がしてあった。
 厭な予感がする。
 ぼちゃん、ぼちゃん
 呼び水のような水音。あの音はここからしていたのだろうか。そう思った瞬間、烈しい胸騒ぎを覚え、たちまち居心地の悪さが膨らんだ。
 そばになにかがいる。
 藤本の言っていた『アレ』。
 もしかすると、それがそばにきているのではないか。背筋を濡れた筆で撫でられているような悪寒が走った。
「たえちゃんは勝ったらなにが食べたい?」
 その時、一番奥の個室から花菜の声がした。
「花菜!」
「たえちゃんも福島に帰ろうね。花菜は福島が大好きだから、早く帰りたいんだ。うん。家族三人で福島のおうちで暮らそうね」
「花菜、りえちゃんだよ!」
 奥の個室に向けて花菜の名を呼ぶが、まるで耳に入っていない。構わずに中の誰かと話している。
「花菜! 花菜、開けて!」
 トイレのドアを叩き、ドアを揺さぶるが開かない。中の花菜は開けてくれそうにない。
「花菜ぁ!」
 よじ登って上から入ろうとドアに飛びつく。
「いっ!」
 ドアの縁がびしょびしょに濡れていて気持ち悪い。嫌悪感で顔を歪んだ。
「いやあっ!」
 ダメ押しに冷たい手のようなものが指に触れ、思わず縁から手を離した。
 今のは……花菜の手だろうか。
 そう思いながら天井と個室との隙間を見上げた。子供の花菜があんな高い場所に手が届くとは思えない。
 ――でも中の便器の上に立ったとしたら届くかも。
 届いたとしても、ならば異常な冷たさの手はどう説明できるだろうか。だが高さをクリアすることに比べれば冷たさは些細な問題に思えた。
 強引にでも不可能でないのならば、無理に恐怖をごまかせる。すくなくともこの中に花菜がいることだけは確かなのだ。
「花菜! お願い、でてきて!」
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテー 守るも攻めるも黒鉄のー 浮かべる城ぞ頼みなるー 浮かべるその城日の本のー皇国の四方を守るべしー真鉄のその艦日の本にー仇なす国を攻めよかし」
 腰が抜けそうになった。はきはきと歌うその歌に、全身に戦慄が走る。
「花菜……花菜ぁ! 気付いて! 私だよ……梨恵だよ!」
 声が枯れるほどに叫び、壊れるほどドアを叩いた。
 このまま放っておくと花菜が『アレ』に連れ去られてしまうのではないか。胸をしめつける危機感がさらに呼ぶ声を強くさせる。
「きっと呉の港にお父さん、もう帰ってるよ。嬉しいね!」
「花菜あー!」
「…………りえちゃん?」
 喉が千切れるほど叫んだその時、花菜は梨恵の存在に気付いた。これほど叫び続けていたことなどまるで聞こえていないかのような、無邪気な返事だった。
「そうだよ、りえちゃんだよ!」
「迎えにきてくれたんだね」
「うん、だから開けて!」
 こちらの声に、鍵を開ける音で花菜は答えた。キ……とかすかに軋む音を鳴らし、静かに個室のドアが開く。

 ――ずちゅっ、ぐちゅ、ずっ。

 あっ……!
 気がつくと花菜を抱いてトイレから飛びだしていた。
 ドアが開いたのと同時にしたあの音。そして一瞬だけ見えた個室……洋式便座があった。
 個室の暗がりの中心、蓋が開いた便器から、ぼんやり浮かぶシルエット。びちょびちょに濡れた青い頭の真っ黒い顔? ――が、頭を半分だしてこちらを覗き見ていた。
「りえちゃん、なんでそんなに怒ってるの」
「怒ってない! とにかく早くここからでるの!」
 まだ現実に戻ってこれない精神状態を無理矢理抑え込んだ。すこしでも気を抜くとあの頭が正気を奪い去ってしまいそうだ。花菜を抱いた手の、指先から肩に向けて急激に冷えていく感じがした。花菜の体温が辛うじて梨恵を繋ぎとめていた。

 校舎の外にでると雨は止む様子もなく、ふたりを待ち構えていた。
 抱いていた花菜をいったん下ろし、靴を履かせると今度はおんぶをして自分の傘を開き、花菜に持たせた。花菜のぶんの傘はあるが、ふたりとも傘をさせば手をつなげない。
 花菜に触れていないと不安だ。気付かないうちにどこかへ行ってしまいかねないと思った。
 本当は花菜にトイレで誰と話していたのか詳しく聞きたい。だが、今はとても最後まで聞ける自信がなかった。
 ――『水場にいくな』って、もしかしてアレが潜んでいるからってこと?
 気分が悪くなった。あんなべちゃべちゃとした質感の、得体の知れないものが下水を蠢いてはひとりでいる子供を探して徘徊している絵が想像できた。
 この町から一刻も早くでていきたい。そんな衝動でいっぱいだった。
 もしかすると、大輔も舞も森谷も……みんな『アレ』に関わった?
 余計なことを今は考えないよう頭を振った。雨の中、家路を急ぐ。本音を言えば、あの部屋に帰るのも怖い。
 花菜だけはなにがあっても守ってやらなくてはダメだ。
 決まり切っているはずなのに花菜の顔を見ることができない。トイレで『アレ』と話をしていたかもしれないこの子が、すでに花菜ではない気がして恐ろしかった。
 もしも振り返って、背負っているのが便器から覗いていたアレだったら――。
 イメージに冒されていた。恐怖に支配されかけていた。
「りえちゃん」
 耳元で呼ぶ声に叫びだしそうになった。だがその声はよく知っている姪の声で、同時に安心もする。
「なに?」
「なんでお店、全部閉まってるの」
 水溜まりを踏み、靴が泥に汚れる。花菜の言葉に立ち止まると、町の景色に唖然とした。
 すぐ目の前にあるのは以前、立ち寄ったコンビニだった。トイレを借りようとしたが貸してもらえなかったあの店だ。
 念のため見上げると看板には『24H営業』としっかり書いてある。
 それなのに貼り紙の一枚もなく、店は閉まっていた。
 廃業したのか? 閉じられた玄関ガラスから中を覗き込んだ。棚に商品が並んでいる。と、なれば廃業したとは思えない。だが店内の電気は消えていて暗い。
「どこ行くの? りえちゃん」
「いいから、ちょっときて」
 この町には知っているだけでコンビニは三店ある。一軒は近くにあったはずだ。記憶を頼りに歩く。
「……閉まってる」
 顔が青ざめる。いよいよこの町に対する畏怖が際立ってきた。
『雨の日は風呂の調子が悪くなる』とは聞いていたが、風呂以外のことは知らない。まさか雨の日はコンビニや商店なども軒並み休んでいたのだろうか。
 事実はわからないが、普段からどうだったのかまで思いだせない。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」
「その歌やめて!」
 飛沫(ルビ/しぶき)を上げ水たまりを蹴る。花菜の重さと傘のせいで辛いが、全速力で駆けた。部屋がいくら怖かろうが、外より百倍マシだと思った。

 ぬるかったり冷たかったりするシャワーは余計に体を冷たくした。それでも雨に濡れるよりもずっといい。しかし、花菜はどこか上機嫌でシャワーも平気なようだった。
 シャワーからでると花菜はすぐさま部屋に転がり込んだ。
 手鍋をコンロの火にかける。せめて温かいものを飲もうと思った。しばし無心で煮立つまで湯をみつめた。とにかく疲れた。ホッとしたい。
 マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れた時、ふと留守番電話のランプが点滅しているのが目に入った。
 中になにが録音されているのか――厭な予感がした。
 恐る恐る突きだした指先で、再生のボタンに触れた。考えすぎだ。必要以上にナーバスになっているだけだ、と自分に言い聞かせそのまま指を押し込んだ。
『一件のメッセージがあります』
 ピー
『…………鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲に忠良なる爾臣民に告く 朕は――』
 ピー
 最後まで聞かず録音を消去する。そして、梨恵はすぐ真麻に電話した。
『えっ! 引っ越したいって! なんでよお姉ちゃん!』

『そんなの無理だよ。だいたいどこに引っ越すつもりなの? 花菜の学校の手続きだってしなきゃだし、なにがあったのか知らないけどお姉ちゃん、もうちょっとだけ頑張ってよ』

『無茶言わないでってば! それじゃお姉ちゃんに頼んだ意味なんてないじゃない! いじめのことは……言ったらあれだけど、初めてのことじゃないし、もし花菜が学校に行くのを嫌がるんだったら行かさなくていいよ』


#創作大賞2024
#ホラー小説部門

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