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『ペトリコール』第七話

■7

 京阪枚方公園駅で降りると、舞の鼻先にパンの焼けたいい匂いが漂ってきた。
「お腹減ったね、花菜ちゃん」
 手を繋いだ花菜はうんうん、とうなずき、照れ臭そうに笑った。
 梅雨明けの発表を待って、舞は花菜とふたりで遊びにやってきたのだ。
 駅そばのパン屋の香りの誘惑を振り切って、さらにくらわんか餅の和菓子屋を早足で横切ると派手な入場ゲートが目の前に飛び込んできた。
「西日本で一番歴史のある遊園地、ひらかたパークやで」
「わあー」
 得意げに紹介すると花菜は声を上げて喜んだ。
「歴史があるって、古いっていうこと?」
「そうやで。でも、中の施設とか乗り物とか全然古くないしそんな感じせんかもせんね」
 ゲート横の窓口でチケットを購入し、いよいよ中へと入ると大きな火山『マジカルラグーン』が出迎えた。
「すごいね舞ちゃん!」
「せやろ~? 今日はいっぱいいっぱい遊んでええねんで!」
「いいの? ええ~どうしよう、どうしよう!」
 これまで一番の笑顔を咲かせ、花菜は園内を駆けた。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ♪」
「花菜ちゃん。なんなんその歌」
 花菜が口ずさむメロディ。お気に入りなのか、一緒にいるとよく耳にする。好きなアニメの音楽だと思ってなにげなく訊ねた。
「軍艦マーチ。たえちゃんがいつも歌ってるから覚えちゃった」
「軍艦マーチって……それ、学校のお友達?」
「うん、たえちゃんのお父さんは海軍の兵隊さんなんだって」
「海軍の兵隊? ああ、海上自衛隊とか?」
 子供からすれば自衛隊も兵隊も同じか。そう思いつつも、花菜の『兵隊さん』という呼び方には違和感を覚えた。
 花菜の口からでた不釣り合いな軍艦マーチという歌。耳にして思いだしたが、確か戦時中に流行った軍歌のはず。たえちゃんの父親が海上自衛隊員だとして、軍艦マーチなど今の時代歌うものなのか。周りに自衛隊員の知り合いはいないので事実の確かめようはない。
 それにそこまでの興味がこの件にあるかといえば、ないという他になかった。
「守るも攻めるも黒鉄の
 浮かべる城ぞ頼みなる
 浮かべるその城日の本の
 皇国の四方を守るべし
 真鉄のその艦日の本に
 仇なす国を攻めよかし」
 絶句し、背筋が凍り付く。
 快晴の空、肌を刺すような日差しなのに今にも震えだしそうになった。
 花菜が軍艦マーチの歌詞を実になめらかに歌い上げたのだ。日ごろから慣れていないとここまでスッと歌詞がでない。そう思わせるほど自然に、雄弁に花菜は歌った。
 実際、花菜が歌ったそれが正しい歌詞なのかはわからない。だが子供がいい加減に作詞したものとは到底思えなかった。
「す、すごいやん! どこで覚えたん」
 驚きと戦慄で声が上ずる。案ずるな、聞いてみればどうということのない理由があるはずだ。
 動揺を隠し、花菜に訊いた。
「たえちゃんのお父さんは、呉の港に帰ってこなかったんだよ。帰ってくるのをずっと待ってたのに。花菜のお父さんと一緒だね、お父さん、お仕事行ったまま帰ってこなかった。でもね、お葬式はしたんだ。死んじゃったんだよ」
「え……」
 花菜の生い立ちについてはもう知っていたが、ペラペラと本人の口から語られるのは複雑な心境だった。
 不可解なのはそれだけではない。『たえちゃん』だ。
 ――呉の港? 呉って……広島の呉なんかな。
「花菜ちゃん、たえちゃんってどんな子なん」
 違和感と好奇心が打ち解け合ったような気持ちだった。『たえちゃん』とは何者だろう。
「たえちゃんはね、青い帽子を被ってる花菜と同じくらいの身長の子。お風呂とか、トイレとかにひとりで隠れてるとね、探しにくるんだ」
「ひとりでトイレって……ちょ、怖い怖い! やめてや、舞ちゃんのこと怖がらそうとしてるやろ!」
「たえちゃんは怖くないもん。寂しそうだし。手とか足も真っ黒で汚れてるから洗いたいのかな」
 背筋が粟立つ。冗談ではない話だ。この手の怪談話は大の苦手なのだ。それでなくとも花菜の話から、厭でもあの町の妙な習慣が頭をよぎる。
 ――〝トイレや風呂場など水場に子供をひとりにしてはいけない〟
 頭の裏側にへばりつくようにして離れない。
「わかったわかった! それより花菜ちゃん、あれ乗ろうや」
 無理やり話題を変えるため、率先して園内案内板へ駆けた。
 遊びのスイッチが入ったのか先ほどまでの奇妙な発言が嘘のように、無邪気にはしゃぎまわった。
 木製コースターにタコの乗り物、トロッコのお化け屋敷や森の探検――。次々と色々なアトラクションで遊んだ。
 昼は園内のレストランでオムライスを食べ、並んでいる時はしりとりをして遊んだ。キッチンカーのクレープでひと休みし、ひとしきり遊んだころには空は薄橙色になっていた。
「もうすぐ閉園やって。遊んだねー」
 場内のアナウンスが一日の終わりを告げている。
 帰ろうか、と促すとほんのすこし花菜は遊び足りなさそうな顔を浮かべた。だが森の探検で獲得したトレーディングカードを見つめると、満足そうにうなずいた。
 帰りの電車で花菜はすぐに寝てしまった。あれだけ遊んだのだ、よほど疲れたのだろう。無邪気な寝顔がかわいらしい。
 こうやって見ていると自分も早く子供が欲しいと思う。
「まぁ、彼氏おらんけど」
 汗で張り付いた前髪を直してやりながら、思わず笑む。
『今帰りの電車です。花菜ちゃん、遊び疲れてるんで、今日ははよ寝かしてくださいね』
 メッセージと一緒に寝顔の写真を梨恵へ送信する。だが『既読』にはならなかった。
「まだ落ち込んでんかなぁ。せやけど、あんなんと別れられたらラッキーやて思うやろ。ようわからんわ」
 車窓に流れる景色に溜め息を吐いた。大輔と音信不通らしく、梨恵は捨てられたと思い込み塞ぎ込んでいる。辛うじて店にはでてきているが、心ここにあらずで店長によく怒られている。もともとマイペースなところがある梨恵だが、ここまであからさまに落ち込まれるとこちらとしても心配になってくる。
 そもそも今日のひらパーだって、梨恵も一緒にくるはずだった。なのに「体調が悪いから」という理由で前日に断ったのだ。花菜が楽しんでいたのでよしとはするものの、この調子ではさらに花菜と距離が離れてしまう。
 花菜はかわいいが、自分が預かるわけにはいかない。
「そういえば――……」
 子供と同じテンションで一日遊び倒して忘れていたが、朝、花菜が変なことを言っていたことを思いだした。
 トイレや風呂に現れるたえちゃんという友達――
 無意識に想像しようとしていたところで向かいの車窓の自分と目が合った。おもわず声を上げそうになるが耐えた。窓ガラスに自分が映るくらい、いつのまにか暗くなっていた。
「あかんあかん、怖いこと考えたら寝られんようになる……」
 邪気を振り払うようにして頭を振った。たえちゃんの件が吹き飛ぶのと同時に、もうひとつ妙なことを口ずさんだいたことを思いだした。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ……」
 頭によぎったのと同じくして、あのメロディを口ずさんだ。完全に無意識だったため、自分でも驚き、一節でやめた。
「なんやったっけこれ……軍艦マーチやったっけ」
 せっかくたえちゃんのことを忘れかけていたのにまた、気味が悪くなる。そういえばこれもたえちゃんが歌っていたと花菜が言っていた。
「あ~あ……」
「ひゃっ」
 声に驚いて目をやると、眠っていたはずの目を見開いて花菜が見つめている。
 その声音は実に同情的で、ババ抜きでジョーカーを引いた相手に向ける顔つきを思わせる。
「は、花菜ちゃん。びっくりしたぁ、なんや起きてたんや」
「舞ちゃん、かわいそう」
「えっ、かわいそう? どういう意味なんそれ」
 突拍子もない同情に、笑いながら訊いた。
「なんでもない。ごめんなさい」
 舞の疑問を置き去りにして、花菜は再び眠った。

「ただいまー」
 ドアを開けると真っ暗な部屋に驚いた。外はもう夜だ。
「梨恵さん? いてはるんですか」
 暗闇の奥から「いるよー」と無理に明るい口調を作った梨恵の声が返ってきた。その声を聞いてひとまず安心した。
 花菜が廊下の照明を点け、キッチンへ駆けると部屋を明るくした。
 白んだ光に目を細め、部屋の隅で丸くうずくまっている梨恵ははかなげに笑う。彼女のいる部屋は暗いままだ。
「おかえり、楽しかった?」
 そう言ってはいるが顔に生気がない。
「めちゃめちゃ楽しかったやんね、花菜ちゃん」
「うん、いっぱい乗り物乗った」
「そっか、良かったね」
「っちゅうか、梨恵さん、部屋こんな暗ぁしてなにしてますのん。こんなんしてたら気分まで暗ぁなってまいますよ」
 梨恵がいる部屋の電灯の紐を引く。二度、パッパッと点滅し、三度目に明るくなった。
「へっ……」
 明るくなった部屋。紐をつまんだまま舞は小さく声を漏らした。
 点滅の間に一瞬、タンスと棚の間の隙間に人影のようなものが見えた気がしたのだ。
「いたでしょ、たえちゃん」
「ひゃっ!」
 すぐそば花菜がこちらを見上げていた。
「驚かすんやめてぇや」
 たえちゃん、には触れず、おどけてみせた。
 だが花菜のいうように、たった一瞬だったが確かに人のようにも見えた。
 気のせい。そうとしかいいようがない。目の錯覚で人のように見えることなど、ままあることだ。
「舞ちゃんのところにきたんだよ」
 無表情な花菜の顔。無感動で淡々とした口調。まるで別人だった。咄嗟に元の顔を思い返そうとするが浮かばない。これが本当に花菜なのか、わからなくなっていた。
「花菜ちゃん、さっきからなに言うてんの? わざと怖がらそうとしてるんやったら、ええ加減舞ちゃんも怒るで!」
 言ったあとでハッと我に返り、すかさず「ごめん、花菜ちゃん!」と謝った。その顔は自分の知っている花菜の顔に戻っていた。やはりさっきのは別人だったのか。
「アホみたい……そんなわけないし……。ちょっとあたしも疲れたんかな。あの、私も今日は帰ります!」
「……そっか。じゃあ、またね。今日はありがとう」
「あ、帰ったらまたひらパーで撮った写真とかスマホに送りますんで、花菜ちゃんのママさんに送ったってください。お疲れさまでした!」
 語気に覇気がないまま、梨恵が「うん……」と手を振る。花菜の顔を見るのが怖くて、振り返りもせず、逃げるように部屋を後にした。

 梨恵宅をでた舞は言葉にできない不安をまとっていた。
 部屋で見たあの人影。
 花菜のような花菜でない別人。
 正体のわからない余韻の靄にまとわりつかれたまま、ニュー有宮駅を目指した。一秒でも早く、この町からでたい。気持ちはその一心だった。
 それでも町中に漂う火薬臭、いたるところに転がる錆びた鉄筒――。なにもかも不快だ。一体ここはなんだ。この町がすべてをおかしくしているような気がする。
 こんな時に限って、駅までが遠い。遠い気がする。
「ああ、そこの姉ちゃん」
 駅までの道を急ぐ中、見知らぬ声に呼び止められた。
「私ですか……?」
 公園のフェンスにもたれかかり座っているハンチング帽の老人。胸には服装とバランスの悪い、勲章のようなバッジがずらりとついてある。となりにはその妻だろうか、ヒョウ柄のトレーナーを着た老女が佇んでいた。雨も降っていないのに、ふたりは傘を持っている。
「あんたや、あんた」
 ハンチング帽の老人は暗闇に溶け込むような無表情でじっとこちらを見つめた。
 となりの妻は様子を窺うようにじっと凝視している。
「なんですか。私、急いで……」
「姉ちゃん。あおむしが憑いとるで」
 血が抜かれたかのような悪寒が走った。
「あおむし……って」
 あおむし、が『青虫』を意味していないのだとすれば、初めて聞く言葉だ。もっとも、虫のほうであってくれたほうが今はありがたい気がした。
 舞は連想してしまっていた。『あおむし』というものの正体を。理由も根拠もない、ただの感覚……。頭に浮かんだのは、梨恵の部屋で見た黒いなにかだ。
「姉ちゃん、かわいそうやな。もう子供産まれへんで」
「なっ……! いきなりなに言うん!」
「姉ちゃん、ここの人間ちゃうやろ。あほやなぁ、こないなとこわざわざきよって。もう遅いけど教えとったるわ。ここら一帯は危ないっちゅうねん」
「危ないって、なんの話やねん!」
 荒くなる声に余裕のなさがでていた。自覚していながらも自制できない。見えないなにかに追い込まれているような気がした。
「あほやな。わざわざ寄り付くなっちゅうこっちゃ。土地にはそれぞれ因縁っちゅうもんがあるんや。それにしても、いくらひとりで水場行かせたから言うて、ほんまにあおむしに会うやなんてな。ツイてないのう」
「ほんまやで。よその県からきたんならまだしも、大阪の人間にあおむしがでるやなんて、ほんま運悪い」
「あんなもん、そうそう会うもんちゃうからな」
 妻のいうことにうなずきながら、持っていたカップ酒のプルタブに指をかけた。ぽこっ、という音を立てたかと思うと、一滴たりともこぼすまいと言わんばかりに上澄みを啜る。
 カップ酒の中は泥水のように濁っている。そういう酒なのだろうか。
「あんなもん? あおむし? よう知らんけど、それなんなん?」
「知らんでええねん。せやけど心配しな、別に死ぬわけやあらへんさかいにな。ただ、もう子供は諦めえ。どうしても子供欲しいんやったら」
「あんた、それ以上言うたら落ちてくるで!」
「ああ、せやったせやった。すまなんだな、わしらこれ以上はよう喋らんわ。ほな、安生に」
「ちょっと待って!」
と追いすがるが、老夫婦はそれから一切目を合わせてくれなかった。
「もっと話聞かせてや! なあ、おっちゃん、お願いやから!」
「かわいそうになあ」
 まるで霧を掴もうとするように、なぜか夫婦に手が届かなかった。あざ笑うかのようにして、悠々と目の前から消えてゆく。やがて完全に見失ってしまった。
 灯りのない暗い路地に溶け込むように闇の中へ消えたのだ。
「ちょ……待っ……」
 諦めず伸ばした手の爪先になにかが絡まった。反射的に握るとぐしゃり、と音がして、手の中にごつごつとした感触があった。それはなにかの紙切れだった。なにもないところから突然宙に現れ、手の中に納まったような不思議な感覚だ。
 老夫婦を追うのをやめ、立ち止まるとゆっくりと手を開いた。
「……なに、これ」
 真っ赤な紙だ。広げて皺を伸ばしてみた。
『告豫襲空 日三十 U.S.A』
「こく……ぞう? しゅうくう……あかん、読まれへん」
 漢字がわからず首を傾げた。電話番号もなく、なんの商品の案内なのかもわからない。手のひらほどのサイズのチラシは妙に古ぼけていて気味が悪かった。
 再び顔を上げるが、老夫婦の姿は蚊ほども見えない。
猛烈な不安感で今にも叫びそうだった。ここは異常だ。梨恵や花菜には悪いがもう二度ときたくない。意味不明のチラシを再び丸めて捨てると駅へ走った。

【大和南線・人身事故のため、運行見合わせ】

 ニュー有宮駅の電光掲示板の表示を見上げ、立ち尽くした。
 駅の改札前は帰宅難民たちでごった返し、口々に帰れないことへの不平不満を言っている。
『姉ちゃん、かわいそうやな。もう子供産まれへんで』
 老夫婦の言葉が胸に迫る。帰れないと思った瞬間、突然呼び覚ましたかのように恐怖が全身に廻った。すこしでも気を緩めると叫びだしてしまいそうだ。
 電車がだめならば……!
「すみません、すみません、通してください!」
 必死で叫び人の波に逆らいながら、なんとか外にでて手を上げる。運よくタクシーが一台通りがかり、ドアが開くのと同時に飛び乗る。
「加美まで行ってください」
「はいはい、住之江の護国神社ですね」
「ちょっと! なに言うてんの、全然ちゃうし!」
 そう言って改めて「加美!」と叫んだ。
「あら? えろうすんません。お客さん、護国神社言いませんでした?」
 運転手は釈然としない様子でメーターを入れた。
 聴き間違えるはずがないふたつの行き先だが、今、冷静に考える気にはなれなかった。座席にもたれかかると、早く自宅マンションに着くよう願い、目を閉じた。
 ふと肌に張り付いたシャツに不快感を覚え、水を被ったような汗を掻いていたことに気づく。人ごみのせいか、あの町のせいか、わからなかった。
「ほんま……なんなん、あおむしって……」
「ちょうお客さん! ペットは困りますわ!」
 運転手の慌てた声に驚いて跳ね起きた。
「えっ? なんのこと!」
「なんのことって、そこにほら、黒毛の犬みたいな……」
 運転手はこちらを振り返って後部座席を見回す。
「あれ? おらんなぁ」
 しかしなにもないことを確かめ、腑に落ちない様子で頭を掻いた。
「さっきからなんなん? なにごとなん!」
「えろうすんませんお客さん、私の見間違いやったみたいですわ。お騒がせしました」
 謝る運転手にリアクションできず、再び座席に背を預ける。これ以上追及してもろくなことにならない気がした。
「またニュー有宮で人身ですかぁ。なんであそこはあんなに多いんでしょうねぇ。奈良方面の人なんかは、あれが止まるとすごく困るのに。まぁ、でも土地柄なんでしょうかねぇ」
 気まずい空気を変えようとしているのか、聞いてもないのに運転手がペラペラと喋りはじめた。会話をする気にもなれず、適当な相槌を打つ。
「しかしまあ、止まったら止まったらで、私らがその分儲かる訳でして、風が吹けば桶屋が儲かるゆうやつですわ。……それはそうと、お客さん大丈夫ですか?」
 おしゃべりの尻に、運転手はこちらに気を遣った。
「大丈夫です」
 そう答えるが、運転手は「ええっと……」と奥歯にものが詰まったようにもごもごと言いにくそうにしている。
「なんやねん、ハッキリ言うてよ!」
 苛立ちが頂点に達し、言葉を選ぶ余裕が吹き飛んだ。
 乱暴な口ぶりにもかかわらず、運転手は気まずそうに黙ったまま、バックミラー越しにこちらを窺っている。
 よく見るとこちらの顔色を窺っているのではなさそうだった。
 注意深くミラー越し、運転手の視線の先を追っていくとどうやら舞の腕を見ているようだ。
「ッ……!」
 声にならない悲鳴。右手首に真っ黒な痣があった。
 それも、誰かに捕まれたような痣。見ると手首だけでなく腕のあちこちにある。それは左手も同じだ。
「い、一体どこで……」
 気づかずにこんなものがつけられたとするならば、先ほどの人込みの中だろうか。だが痣を見るに複数の人間から掴まれたらしい。
 驚きと恐怖で息をしていなかったらしく、込み上げた苦しさに烈しく咳き込んだ。運転手が心配そうに見ている。気にはなるが厄介ごとにかかわることに躊躇しているのがわかる。彼にとって自分は厄介な客のようだ。
 黒い痣に触れた。触れた痣はあっけなく取れた。それではじめて痣ではなく、すすのようなものだとわかった。
 ――煤……火薬の匂い……
「あの……お客さん?」
「……急いでください! 急いで家まで!」
 尖りきった大声で叫んだ。得体の知れないものに対する恐怖と不安が、精神(ルビ/こころ)をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
 早くこの穢れた煤を落としたい。頭の中はそれでいっぱいだった。
 シャツの胸元から立ち昇ってくる汗の臭いと、かすかな火薬の臭い。これは煤から漂う臭いに違いない。
 手でこすって取ってしまいたいが触れることすら汚らわしかった。ただ憎々しげに腕の黒い煤を睨むつけるしかできない。
 その時、突然黒い手形の中からぎょろりと血走った瞳が現れ、目が合った。
「やあっ!」
 思わずバチン、手で弾く。ジンジンと叩いた患部の痺れを感じ、固く目をつぶり自分の肩を強く抱いた。
 運転手がなにか話しかけてくるがなにも耳に入ってこない。ただ早く着くことだけを念じていた。

 人生ではじめて釣りを受け取らず降車した。転がるようにしてマンションに飛び込み、エレベーターのボタンを何度も押す。
 階数表示を見上げ焦りが募った。エレベーターは四階で止まっている。
「なんか遅ない……? なんなんよ、もう!」
 一〇階建てのひワンルームマンション。住民のほとんどはひとり暮らしだ。
 これだけ待たなければならないほど、エレベーターがフル稼働しているなどそうそうないことだった。
 とはいっても、今の精神状態だからそう感じているだけなのかもしれない。
「あれ……六階?」
 二階まで下りてきていたはずのエレベーターが再び上昇し、今度は六階で止まっていた。もしやボタンを押し忘れていたのでは、と焦ったがそんなことはなかった。
 じれったい気持ちで表示を見守っているとまた二階で止まり、その後十階まで昇っていった。
 猛烈に厭な予感がして、エレベーターを諦めて階段を駆け上がった。部屋は三階だ。こっちのほうが早い。
 ごろん
 階段の途中、なにか筒のようなものを蹴ってしまい重々しい金属の転がるような音がした。確かめる余裕などなく駆け上ってゆく。
 三階にやってきたのと同じく、ちょうどエレベーターが開いた。いまさら遅い、と心の中で愚痴り、背を向けて部屋へと急ぐ。
 そして部屋に入るなり鍵を閉め、部屋中の電気を点けた。テレビの電源を入れ、音をできるだけ大きくした。静かにしているより騒々しいほうが安心するからだ。
 すぐさま乱雑に服を脱ぎ捨て、そのままバスルームに飛び込んだ。冷たいままシャワーを頭から浴び、湯になるのを待たず両腕を擦った。
 何度もボディーソープをプッシュし、繰り返し洗う。何度やっても煤が取れた気になれず、気づけば腕が真っ赤になっていた。
 ようやく落ち着きを取り戻し、シャワーノズルを切り替え、湯の溜まりきっていないバスタブに座り込んだ。
 腰ほどの湯に浸かり、膝を抱えたまま温度調節のパネルを無意識に眺めた。
 湯で体が火照り、血流がよくなっていくほど、恐怖が薄れていくような気がする。
 このまま肩まで湯が溜まるのを待つより、蓋をしたほうが汗を掻ける。汗と一緒に厭な思いを流してしまおうと考えた。
 そう思いたち壁に立てかけていたバスタブの蓋を取ると自分の首がでるだけの隙間を残し、蓋を閉めた。手製のスチームサウナだ。
 説明のつかないこと、おかしなこと、色々あったが、考えないように努めた。
 目を閉じて楽しいことを思い浮かべる。そう、今日のひらかたパークでのことを思いだそう。ジェットコースター、着ぐるみのキャラ、甘いクレープ――
 そして星の綺麗な夜空、オレンジ色の町、逃げ惑う人々、機銃掃射の轟音。
 ひゅーっ、と花火が打ち上がる、直後に爆発音。
 次の瞬間、夜空に枝垂れ桜のような火の雨が降った。
 遠くからサイレンが聞こえる。あちこちから悲鳴と家が焼ける臭いが――
「えっ!」
 目を見開くとバスルームだった。
「い、いまのって……なに?」
 目を閉じて浮かんできた光景の説明がつかない。途中からすげ変わったそれは、どれも身に覚えのないものだった。
「あかん、目つぶったらまた変なん見てまう……あかん……」
 花菜のおかしな言動も、あの老夫婦も、手首についた黒いすす、目を閉じて浮かんだ光景……。
「どうしよう……どうしよう……どうしたらええんやろ。誰に話したら……」
 再び混乱する。これまでは外からの事象だった。だが今のは頭の中に勝手に割り込んできた映像だ。
 言ってみれば得体の知れないなにかが体の中に入ってきたのと同じだ。一体どこから?
 浸かっている湯にあの煤が溶け込み、体内に侵入したのかもしれない。
 すっかり温まったはずの体が急速に冷えていく。悪寒と戦慄で胸の内側から凍り付いていくような感覚だった。
「あかん、ここからでな!」
 バスタブの蓋に手をかけたその時だった。

『た~え~ちゃん……た~え~ちゃん……』

「ひっ!」
 心臓を直に握られたような悪寒に身を強張らせた。
 今のは一体……
 もはや言い逃れができないほどハッキリと聴こえた声。言うまでもなく部屋には自分以外の人間などいようはずがない。
 なんらかの生活音がたまたま人の声に聞こえただけ――などというのは通用しない。あれは完全に人の声だった。
『たえちゃー……ん……今日はねぇ、お米があるよ。呉のお父さんもねぇ……帰ってくるって……』
「ああああーっ! ああー、ああー!」
 全力で声を張り上げ、謎の声を凌駕しようとした。自分の声で掻き消してしまえと思った。
 その声の恐ろしさは常軌を逸していた。
 ガラガラにしわがれた、もはや子供なのか大人なのか。男なのか女なのかすら判別不能な汚い声。まるで喉を焼かれたような聞き取り辛い声。
 それだけでも聞きづらいというのに、さらにその声は奇妙だった。
 まるで、水中で喋っているような、ごぼごぼと水泡が溢れだすような感じにも聞こえるのだ。そんなおぞましいものを聞き続けていては、脳みそがおかしくなりそうだ。
『お芋ばっかりでごめんね……そうだ、着物切れ端でお馬のお人形作ったんだよ……これがあれば辛いことだって……ガマン……できるように……きっと……』
「ああー、ああーああー! あー……えっ?」
 声をだしつづけていたが、唐突に我に返った。その声がどこからしているのかわかってしまったのだ。
 同時にハッとなった。もしも自分が考えている通りだったらと思うだけで、気がおかしくなりそうだ。だが心から安堵するためには確かめなくては。
 そこではないと確かめなくては。
 ガタガタと震える手で、内側から蓋の縁を持つ。
 目を剥きながら、ゆっくりとバスタブの蓋をずらした。
 バスタブの中には何もいなかった。
 それを目で認めた瞬間、荷が下りたように全身の力が抜ける。
 ――そうやんな。こんなところにおるわけがないわ。
 気を引き締めるため、バスタブの湯を手で掬い、顔をすすごうと近づけた。
「わぁっ!」
 手の平に掬った湯は灰色に濁っていた。
 まるで泥水のように、汚らしい色。湯質もどろりとした感触だった。
 たまらず飛びだそうとしたが、強い力に肩を押さえつけられた。
「ひぃいい!」
 パニックになり、とにかく逃れようと突っ張るがびくともしない。それでも力んだ拍子、ふと天井に目が入った。
 天井や壁一面に黒い手形、足形がびっしりとついていた。それは紛れもなくさっき、腕についた手形の黒い煤と同じだった。
「いやぁあ!」
 目をつぶり、頭を抱えこんだ。
『……たえちゃんの顔……、じゃない』
 驚くほど至近距離での声に、思わず目を開けた。
 バスタブの中で青い頭の煤だらけの黒い顔がこちらを見上げていた。
「きゃああっ!」
 ばたんばたん、と蓋が跳ねる。中でそれが暴れている。
「うっ! あっ、あっ!」
 性器にそれが入ってこようとしている。膣から体内に侵入するつもりなのだ。
 股の間に両手を押し込むように、全力で侵入を拒む。
 だがそれは常識では考えれないような怪力で徐々に性器へと近づいてくる。
「や、やめ……やめてぇえ……」
 そして、バスルームに肉が裂けるような、小さな音がした。直後、悲鳴は絶叫へと変わった。
「ぎゃああああ!」
 さらに裂く音。今度のはまるで厚手の布を力任せに引き裂いたような音だった。
 意識が飛びそうになる。むしろなぜ失神していないのか不思議だった。激痛というには生易しい、生きるのを諦めたくなるような痛み。このまま股から縦にふたつに引き裂かれると思った。いっそのこと殺してほしいと願う。
 股を裂きながら遺物はずんずんと中へと入ってくる。
「あっ! あァ!」
 この世のものとは思えない、残虐な痛み。ぶちぶちぶち、と繊維を引き千切る嫌悪感にまみれた音。断末魔。
『こっちもたえちゃんじゃない』
 その言葉を最後にして、青い頭のそれは消えた。
 そして残ったのはワイン風呂のような――

 ――『姉ちゃん、かわいそうやな。もう子供産まれへんで』


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