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『ペトリコール』第四話
■4
「梨恵さん梨恵さん」
店のフロアの掃除をしていると舞が血相を変えてやってきた。
「どうしたの?」
「梨恵さん……あの人、知ってはる人ですか?」
舞は声を潜め、待合のソファを小さく指差す。
「なんかずっと梨恵さんをだせって言うてて。なんかガラ悪そうやし、知り合いちゃうかったら警察呼ぼうかってなってるんですけど」
そう言った舞に釣られて目をやると、フロントカウンター越しに店長と口論している男の姿が目に入った。
金髪にサングラス、お気に入りのBEAMSのコート――大輔だ。
「あ……ごめん、彼氏だ」
「え? うそ……」
なにか言いたげな舞に構わず、小走りでフロントへ急ぐ。
「は? なんで? 客じゃなきゃ梨恵と会うなって……待て待て待て、それはおかしーでしょ」
「申し訳ございません。決して疑っているわけではありませんが、個人情報でもありますのでご理解ください」
店長は明らかに大輔のことを不審者として扱っている。口ぶりこそ丁寧に接しているが、強張った顔つきがそれを物語っていた。放っておけば通報しかねない。
「すみません! 怪しい人じゃないんです!」
そう言って割り込むと驚いた表情で店長は固まった。それほど意外だったのだろうか。
「ほら、言っただろ。なにが個人情報保護だ、ボケ」
「……申し訳ございませんでした。梨恵ちゃん、営業中だから手短にね」
吐き捨てるような大輔の悪態に店長の顔がさらに引き攣った。申し訳ないという気持ちのせいで居心地が悪い。
「どうしたの大ちゃん。お店にまできて……」
周りの目から逃れるように店の外へでると、大輔を刺烈しないよう言葉を選んだ。突然の訪問は狼狽えもしたが、嬉しくもあった。気持ちが抑えられず、ポケットに突っ込んだ大輔の手を引っ張りだし、握る。
「お前さ、もうこの店やめろよ。接客とかマジ終わってんじゃん。丁寧な言葉使ってたって、性根の汚さが滲みでてるわ」
「ごめん、急にきたから店長も驚いただけだと思う」
「あいつ店長なの? だったらやべーな、すぐ潰れっぞこの店。っと、そんなことよりさ。お前に会いたくてきたんだ」
大輔の言葉に心が痛んだ。だが大輔は優しい笑みを浮かべ、梨恵の頭を撫でた。
我ながら単純だと思いながら、弾む心は抑えられない。つい笑顔になってしまう。
「私も会いたかった!」
「それはそうとさ……実は今日急に弟がきて、大学の授業料使い込んじまったって泣きついてきたわけよ。んなこと言われても俺だって金ないし、だからって実の弟を突っぱねるわけにもいかねーしよ。どうしよっかなーって思って。そこで閃いたんだわ、梨恵なら助けてくれるじゃん! って」
「え……じゃあ、こないだ大ちゃんに10万貸したら今月には利益入るって言ってたでしょ? 私に返すのは後でいいからさ、それ使ってよ」
「は? 使ってよ、ってありゃあ俺の金だろ。本当、あつかましいのなお前。俺は彼氏なんだからせこいこと言うなって。いいじゃん、あるだけでいいからさ。梨恵にも妹いるからわかるだろ? 俺の気持ちもさ」
要は金の無心だ。
貸した10万円は、借りている間は自分のものだと言いたいらしい。それはそれとして、弟を助けるための金が欲しいと言っている。結局、金が欲しくて大輔はここまで会いにきたのだ。確かに『お前に会いたい』という言葉に偽りはなかった。だがそれは梨恵を求めたからでた言葉ではない。
大輔に会えて幸せでいっぱいだった顔も、みるみるうちに暗く曇っていく。
「今はないよ……家に帰らないと、大きなお金なんてない」
「なんだよ~! じゃあさ、取りに行きゃいいじゃん。頼むよ、弟に卒業させてやりたいんだよ」
「でも仕事終わらなきゃ取りに行けないし……」
「あのさ、お前の勝手な都合で俺の弟の人生めちゃくちゃにするのかよ。なんか俺と弟に恨みあんのか? がっかりすんなぁ、マジで」
「貸さないんじゃないって! せめて終わるまで待って、ね? 勝手に帰ったらお店クビになっちゃうし、そうなっちゃうとお金稼げなくなっちゃうし……」
ちっ、と舌打ちが聞こえる。胸が張り裂けそうで息苦しい。
「家で待ってっから」
大輔はそう言い捨てて去って行った。
店に戻るとすぐに舞が駆け寄ってきた。
ガラス越しの通りに大輔の姿がないか気にしながら、身を案じてくれた。
「梨恵さん、今のほんまに彼氏さんなんですか?」
「え、そうだけど」
「そうだけど、ちゃいますって! なんか弱みでも握られてるんですか。あたしでよかったら相談乗りますよ」
「弱みって、なんの話?」
舞の言わんとしていることがわからない。
彼女なりになにか伝えようとしているのはわかるが、遠回しな物言いで余計に混乱した。少しして舞は埒が明かないと思ったのか大きな溜め息を吐いた。
「梨恵さんがええんやったらあたしが言うことやないんですけど……彼氏さん、ちょっと変わった感じの人ですね」
「そうかなぁ、普通だと思うけど」
舞は苦笑いを引き攣らせ、曖昧に会釈をするとその場を去った。
『相手に依存するタイプ』の恋愛をするほうである自覚はあった。誰と付き合ってもそうだ。場合によってはそこに付け込まれることもあるが、それ以上に自分を必要とされていると思うだけで言葉にできない充足感があった。甘えの表現だと思えばたまらなく愛おしくもなる。それは大輔に対しても例外ではない。
決まって真麻や友人は梨恵に恋人ができるたび、口をそろえて「別れろ」と勧める。なぜそんな風にいつも言われるのかわからない。恋人を悪く言われているようで気分が悪かった。
特に真麻は姉妹ということもあってハッキリと言いたいことを言う。それで何度喧嘩になったかわからないし、彼女を遠ざける要因のひとつにもなった。そうして、できるだけ真麻とはかかわらないよう暮らしてきた。
実家をでて、最初に付き合ったのがだらしない男だった。
金、仕事、女――。
すべてに自制が効かない、どうしようもない男。にもかかわらず離れられなかった。ひとり暮らしをはじめて最初の男。その意識がこの男を特別にした。いつのまにか部屋に住み着き、その間はずっと働きもせず寄生虫のように居座り続けた。
それでもよかった。むしろ、ずっと家にいてくれることに安心さえした。どこにもいかないという安心感で、さらに男を甘やかした。そして男が一方的にその環境に飽きると、あまりにもあっけなく捨てられた。別れは悲しく、心に傷を残し、そのたび同じ轍は踏むまいと奮起した。だが決意も虚しく、同じ恋愛を繰り返してきた。
笑われるほどに同じタイプの男とばかり交際し、そのたび友人を失くした。それでよかった。
なのに、毎回長続きしないのも梨恵の恋愛の特徴といえた。必要とされる時間はいつだって短い。
そして大輔もまた同様のタイプだった。起業家のように振る舞っているが、それは嘘だ。それらしい理由をつけて金が欲しいだけ。それでも一緒に暮らしてくれないことが不満だった。これまでの男と違うのはそこだけ。
真麻が先に結婚したことは正直、堪えた。真麻は、姉と違いひとりの相手と長く、深く交際した。真麻の交際最短記録でさえも1年。梨恵は1年で3人付き合ったことがある。
それなのに真麻は交際3人目の男と結婚した。花菜という子供にも恵まれた。順風満帆……だった。
真麻への大きなコンプレックスがあった。
堅実でしっかり者の妹。恋愛依存で安定しない姉。
真麻は福祉系の学校に通い介護福祉士の資格を取得し、就職した。
堅実に人生を歩み、自分が持っていない――求めていたものをすべて、真麻は手に入れた。
気付けば真麻との格差は、埋めきられないほど深く開いていた。
東日本大震災で真麻が花菜とふたりきりになってしまうまで。
ガチャガチャガチャ、と乱暴にドアノブを回す音に花菜は飛び上がった。落ち着く間もなく今度はドンドンドン、と無遠慮なノックが響く。
学校から帰ってひとり、にゃにゃちゃんと絵を描いていたところにやってきた招かざる客だ。
『おい、開けろ! いるんだろガキ、開けろ!』
ガチャガチャとうるさく何度もドアを引っ張る。鍵がかかっているので開くはずがないのに、大輔は学習しない。
足音を殺しながらドアのそばまでやってくると、じっと様子を窺った。
『なあ、大輔お兄ちゃんだぞ。梨恵に言われてきたんだ、開けろよ』
「梨恵ちゃんが……?」
大輔の口から梨恵の名前がでたので、つい鍵を開けてしまった。
烈しく開いたドアの外に不機嫌そうな大輔の姿があった。口元を歪ませ、憎々しげに睨みつけたかと思うと、胸に衝撃が走って転んでしまった。大輔に突き飛ばされたのだ。
「いたっ!」
「てめぇよ、開けろって言っただろ! ガキのくせに勿体ぶんな! その気になりゃお前なんかボコれんだぞ」
「ごめんなさい」
床に強打した尻が痛い。うつむき、じんじんとする患部を擦っているのを横切り、大輔は自分の家のように冷蔵庫を開けた。だが庫内を見て溜め息を吐いたかと思うとなにかを取り出し、すぐに閉めた。
「あ……」
大輔の手にはカッププリンが握られている。あれは今日のおやつのぶんだ。
小さな花菜の声など聞こえていないのか、大輔はドロアーからスプーンを取りだし、蓋を剥がして食べはじめた。
「マジでなんもないなこの家。辛気臭ぇからあんまきたくねえんだわ。だからわざわざ店まで行ってやったってのに……人の気も知らなねぇであのバカ女」
目の前でなくなっていくプリンを、黙って見つめた。
空になったカップを見届け、うつむいて部屋に戻り絵の続きを描きはじめる。
今日のおやつがなくなってしまった。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」
「……ん?」
何気なく口ずさんだ歌に、ふと大輔が反応した。
「テーテテテータタタ、テーレテーレテー、テーテテテータタタ、ターラターラター」
「おい、なんだよ。その歌。なんでお前がそんな曲知ってんだ」
「テーテテテータタタ、パーラパッパッパー、ジャンガジャッカジャカジャカジャジャジャジャーン」
「聞いてんのかよチビ。お前それ『軍艦マーチ』だぞ、知ってんのか」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいってお前……」
そう言ったきり大輔は黙った。この歌が『軍艦マーチ』という名前だということを、花菜ははじめて知った。やはり大人は物知りなのだとすこし、感心した。
「別に怒ってねえし。……それ、学校で習ってんのか」
大輔の声音がわずかに震える。そのわずかな震えから、彼の抱く違和感が伝わってくる。
そんな大輔の小さな動揺も意に介さず、花菜は絵を描いた。
だが大輔は「どこで覚えた」、「なんで知ってる」としつこいので「たえちゃんが教えてくれた」と教えてやった。
「たえちゃん? ……なんだ友達かよ。そいつの親、相当パチンコ狂いだな」
大輔の動揺はそこで止んだ。心なしか安堵したようにも見える。
気を取り直したのか膝を叩き、大輔は椅子から立ち上がった。
そして部屋の引き出しや物置、小物入れなどを物色しはじめた。手あたり次第に目につくもの場所を調べ、家探しをしている。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」
そんな大輔の行動にも構わず、軍艦マーチを口ずさんだ。絵を描くことに集中して、それどころではなかったのだ。
「あったあった」
大輔の手には封筒が握られていた。鼻の下をのばして中身を確かめると、満足そうにうなずいた。
「10万か。まあ、上出来だな」
「テーテテテータタタ、テーレテーレテー、テーテテテータタタ、ターラターラター」
「はは、ご機嫌だなお前、さっきからなんの絵描いてんだよ」
封筒の金にご満悦の大輔が、にやにやしながら近づいてくる。絵を覗き込んだ大輔だったが、瞬時に息を呑む。
「……なんだこれ」
「たえちゃん。さっき会ったから」
「たえちゃん……? お前に軍艦マーチを教えたやつか。は、かわいそうにな。そいつん家、よっぽど終わってんな」
大輔は聞いてもいないのに軍艦マーチといえばパチンコの代名詞だったと話した。昔通い詰めていた店に朝一番に行くとよくかかっていた、と。
「わかるだろ? 今時軍艦マーチなんて流すパチンコ屋ってのはかなり渋いってことだ。おい、聞いてんのかチビ」
聞いているのか、といいながらあきらかにからかっていた。ただのひまつぶしなのがよくわかる。
「うげっ」
だが大輔はこちらを覗き込んだかと思うと苦い声を漏らし、顔を歪めた。
青い頭の短い手足を持った、だるまのような体にひとつ目の怪物――それがスケッチブックに描いた絵だった。
さらに言うと、黒い先端の手足。耳の辺りで青から黒に色の変わった髪。顔は笑っている。
「これ、帽子なの」
言葉を失っている大輔に青い頭を指差して、花菜は『帽子』だと教えた。
「帽子って……下手くそすぎんだろ」
大輔は苦い顔つきのまま悪態を吐いた。動揺しているのか、語彙が幼稚だ。
「化物かよ」
「違うよ。たえちゃんだよ」
「……あっそ。まあせいぜいお絵かき頑張れ。梨恵によろしくな」
そう言って大輔が部屋をでようとした時だった。
コン、コン、
ドアをノックされた。
無言でドアを開けると、帽子を被った老人が菓子の缶を持って立っていた。蓋に『集金用』と書かれた紙がガムテープで貼り付けられてある。
「修繕積立金で千円」
「悪いな。あいにく家主は留守だ」
「千円もらわんと」
「うるせぇな。俺に言うなクソジジイ。夜にもっかいこいよ」
「かなんな、おたくから千円もらわんと船造る鉄足らんようなる」
「は? なにわけわんねえこと言ってやがんだ。ボケてんじゃねえ」
老人に睨みを利かし、大輔は舌打ちをして部屋を後にした。
梨恵の家をでて大輔はひとり、駅への道を歩いていた。
やけに頭に残る、梨恵の家を訪ねてきた老人。執拗に千円徴収しようとする様が印象的だった。そして老人はその金を〝船を造る鉄〟だと言った。
「船ってなんだ船ってよ……」
タバコに火を点け、違和感を覚えるそれと、胸にバッジを思い返す。あれは――
「勲章……だよな。なんの勲章だよありゃあ」
老人の胸にあったバッジは勲章だった。いくつも付けていたので厭でも印象に残っていた。今時見たことのない、大仰な勲章。おそらく本物ではなくファッションのつもりでつけているのだろう。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」
自分でも無意識に口ずさんでいた。『船』、『勲章』のことを考えていたせいだろうか、花菜が歌っていた『軍艦マーチ』を思いだしていたらしい。
「あーあ、あいつのせいで俺まで釣られちまったじゃねえかよ」
軍艦マーチを口ずさんでいると通りがかりの老婦とすれ違った。
「あ~あ……」
傘を持った老女が嘆息するような声を上げる。自分に向けられたものかと思わず振り返る。
だが捉えたのはサンダルをぺたぺたと鳴らして歩く老婦の後ろ姿だけだった。
「気持ち悪ィ町だな。もう二度と来るか」
そう吐き捨てながら、あちこちから感じる視線に震えが走った。
「ただいま! 大ちゃんごめんね、遅くなっちゃった」
梨恵が家に帰ったのは大輔が去ってからしばらくしたころだった。
急いで大輔の好物を買い込み、帰ってきたが三和土に靴がない。そんなはずはないと、奥の部屋に向けて「大ちゃん」と呼びかけた。
奥から小さな足音がパタパタと鳴らし、落書きノートを持った花菜がやってきた。
「りえちゃん、私、たえちゃんの絵を描いたよ」
「ねえ花菜ちゃん、大輔お兄ちゃんきた?」
「うん、きたけど帰ったよ。それよりね、上手に描けたから見てほしいの」
落書きノートに描いた絵を見せようとする花菜にかまわず奥へ駆けこんだ。
「大ちゃんの好きなお店で鯛焼き買ってきたんだ! 一緒に食べようよ」
キッチンにも居間にも、ベランダにも大輔の姿はなかった。
大輔がいない現実を受け入れたくなくて呆然と立ち尽くした。キッチンのテーブルにぽつんと置かれたプリンのカップだけが所在無さげに佇んでいる。
「あのね、りえちゃん、たえちゃんはね……」
ハッと我に返り、現金を保管していた引き出しを開けた。封筒に今月の生活費を入れていたはずだ。
「……ない! ないよ! 大ちゃんなんで……」
その場にへたり込み、悲しさと情けなさに泣いた。
花菜は諦めたのか、スケッチブックを抱いて部屋に戻っていった。その直後、コン、コン、と誰かが訪ねてきた。
出る気にもなれずただうずくまって泣いていると、ドアの向こうからしゃがれた老人の声がした。
『渡辺さん、積立金千円や』
大輔はその夜、京橋の繁華街の隅にいた。国道一号線沿いのラーメン屋や焼き鳥屋、パチンコ店などがひしめく通り。
そのすぐ裏側の脂と煙と生ごみの臭いが飽和した路地。この一角にあるガールズバーに大輔の姿はあった。
派手な電飾の看板とはギャップのある狭い店内。二つしかないボックス席はサラリーマン風の客で埋まっていた。
忌々しげに横目で見やりながら、ZIMAの瓶を傾ける。
不機嫌さがよほど顔にでていたのか、カウンターの店員まあちが困り顔で話しかけてきた。
「そんな顔せんといてぇや。しゃーないやん? 大すんおひとり様やし」
大すん、とは大輔のこの店での愛称だ。
「だからってカウンターかよ。金がある時に来てみりゃ……マジで萎えるわ」
「うちは客に女の子つけるような店ちゃうで。ボックスで女の子はべらせたいんやったらキャバに行ったらええやん」
「うっせ。キャバ嬢の見え透いたサービストークなんていくら話したって面白くねえ」
「あかんでそない悪う言うたら。あっちはあっちで需要があるんやし。まあでもサービスはせんけど、普通に喋れるんがガールズバーのええところやから」
派手なピンク髪のまあちのシャツの胸元から谷間が覗いている。サングラス越しに見つめ、生唾を飲んだ。
「今日、アフター行こうぜ」
「だから、そういうお店じゃないのが売りやって言うてるやんか」
そう答えつつもまあちはまんざらでもない様子だった。それを見逃すほど大輔は間抜けではない。このまま押してやろうと前のめりで畳みかける。
「なあ、なに食いたい? 好きなもん食いに行こうぜ。金もあるしなんでもおごっちゃる」
「マジで! めっちゃ太っ腹やん、えーどうしよっかな……焼肉とかご無沙汰やし」
「今日、何時までだよ」
まあちはキョロキョロと周りを見回し、「1時まで」と小声で告げた。
腕時計は23時45分を指している。
「じゃああと一時間粘ればOKってことでいいよな」
サングラスをずらして女にまなざしを送ると、まあちは笑顔でうなずくと、客に呼ばれオーダーを聞きに行った。
空になったグラスを眺めながら、もう一杯飲もうかと考えていた時、ふと何かが横切ったのがグラス越しに見えた。
従業員かと思ったが、すぐにまたなにかが横切った。
一瞬だが、確かに同じ方向に横切るのが見えた。つい横切ったものを目で追いかけ、意図せずボックス席のほうに顔を向けてしまった。
店内を見回すがまあちは客と話している最中だし、カウンターには他の客はいない。他の女の子はボックスの客にとられている。カウンターには大輔しかいなかった。
――じゃあなにが横切ったんだ?
蛍光色のネオン管とブラックライトで照らされただけの暗い店内だ。目の錯覚かもしれない。
酔ってはいなかったが、酒のせいにすることにした。こんなことは別に珍しいことではない。
そう思った時だった。右頬に烈しい違和感を覚えた。反射的にべちん、と叩くようにして頬をかばった。違和感とは視線だ。誰かに見られているという生温いものではなく、〝敵意を持って睨みつけられている〟ような、強烈なものだ。
視線を頬で受けるなどという経験ははじめてだった。だがそんなわけがない。きっとそばを羽虫でも飛んでいて、その不快感がそれを生んでいるのだ。そうでなければ、視線を肌で感じるなどということはあり得ない。
それも至近距離で睨まれている気がするなんて、バカバカしい。
ボックス席に向いている顔の右側――。
そこはさっきまでまあちと話していたカウンターだった。
まあちも客も他の従業員も……誰もこちらを気にしていない。だが頬が熱でじんじんとする。そこに、誰かがいる。そう、カウンターの中に何かの気配がするのだ。
――酔ってんのか俺は……
自分で自分に呆れながら、努めて平静に顔を戻す。
そこにはなにもない――はずだった。
カウンターの中には誰もいない。だが人ではないなにかがグラス棚とおしぼりウォーマーの隙間で蠢いていた。
ただでさえ薄暗い店内。暗くてそれがなにかまではわからなかった。しかし、それが、置物ではないということだけは確かだった。
「なんだ……?」
しばらく凝視していると、それが頭のようなものに見えてきた。それこそあり得ないと思ったが目を逸らすことができない。
やがてそれが頭などではなく最初からそこにいた動物……猫かなにかだと思い込むことにした。そうでなければあんな隙間に入り込めるなんてことは考えられない。
「あー、飲み物ないやーん。次なにしはんのー?」
となりで接客していたまあちが空のグラスに気付き、声をかけてきた。
金縛りから解けたようにハッと顔を上げ、慌てて「あっ、じゃあまあちにまかせるわ」と答える。
「ほんまに? じゃあ張り切るわ」
明るく笑顔を振りまきながら、まあちが目の前を横切った。
「あれ?」
「ん、どうしたん」
「いや……なんでも」
まあちが横切った後、頭のようなものは忽然と姿を消していた。おもわずサングラスを外して確認してみる。
「大すん、夜にサングラスかけんのダサイで。やっぱ外したほうが男前なんちゃう?」
「ファッションがわかんねぇのかよ。夜サングラスすんなとかババアか」
軽いノリで返し、なんとか落ち着きを取り戻そうと努める。自分でもなぜあんなものに心を乱されているのか説明がつかなかった。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」
そして説明のつかないことがもうひとつ。
まったく意図もせず、無意識に、軍艦マーチを口ずさんでしまっている。
自分でも動揺しているのがわかる。いくら落ち着くために歌を口ずさんのだとしても、よりのもよってなぜこの曲なのか。
花菜のせいだ。あの時、花菜が歌ったせいで頭から離れないのだ。
「なんなん今の鼻歌? なんか変やったで」
「えっ……? あ、ああ、軍艦マーチ……パチンコ屋とかで昔かかって……」
「ギャンブルしないもーん」
お替わりのグラスをコースターに置き、まあちは再びボックスへと戻った。
妙に気分が落ちてゆく。せっかくのチャンスなのにこの後、まあちとどこかへ行こうという気が失せかけていた。
説明のつかない気持ちに戸惑い、トイレに行こうと席を立つ。必要な設備をギュッと凝縮したような店のトイレは狭い。ボックスの客たちを避けて、ドアを開けるとトイレに入る。
ドアを閉めると店に流れている大音量のKPOPが遮断され、急に静まり返る。やがて遅れるように籠った音がぼんやりと聴こえてきた。カラオケを部屋の外から漏れ聞いているような音だ。
唐突に自分だけが店外へ弾かれたような気になった。
通い詰めている店の慣れたトイレなのに、まったく知らない場所に立たされたような強い不安感。
早く用を足してでようと思った。
チャックを下ろし、ものをだす。込み上げる尿意が尿道に集まっていくのを感じていると、BGMの一部がやけにはっきりと聞こえてきた。
『……ん、た……ゃん』
歌の一節かと思ったが、その割に人の話し言葉のようにも聞こえる。
気には留めず、じょぼじょぼと便器の中に溜まった水に飛沫を散らしながら尿が落ちるのを、無心で見つめていた。するとまた、やはりBGMがはっきりと聞こえてきた。
『た……ん、たぁ~……ちゃん』
今度こそはっきりと確信した。それは歌ではなく人の声だ。
「あ、入ってます入ってます!」
思わず用を足している最中ながら叫んだ。その声が、トイレに入ろうとした人だと思ったからだ。
『た~えちゃん、た~えちゃん』
きゅっ、と玉袋が縮み、尿が止まる。
息を止め、耳を澄ませる。聞き間違い、もしくは空耳。
『た~えちゃん、た~えちゃん』
鼓動が高鳴り、呼吸が荒くなる。脂汗が噴きだす中、ものをつまんだまま固まった。
『た~えちゃん、た~えちゃん……』
たえちゃんとは誰だ。たえちゃんは俺じゃない。
混乱しながらも頭の隅で冷静を保っている自分がいた。そして冷静な自分はこうも理解している。
この声がトイレの中からしていることに。
『た~えちゃん、た~えちゃん……』
さらに言えば自分の頭よりも低い場所。子供が見上げながら菓子をねだるような低さから声がする。
その直後、首筋に生暖かい液体を浴びせられるような感覚があった。
「ひっ!」
驚いて思わず首に手を当てる。
――べとり。
やや粘度のある生暖かい感触。
猛烈に厭な予感がしている。これがただの予感であると確かめるためには、手の平を見るだけでよかった。
なにも付いていない。なにも、付いているはずが――
真っ赤な血が手の平をべっとり染めていた。
「うわあ!」
拒絶感に顔を背け、固く目を瞑った。
すこしして開けると手の平から血は消えていた。
「な、なんだよ。そんなにベロベロかよ、俺」
ぷぅっ、と大きな溜め息を吐く。動悸は治まらない。落ち着け俺、落ち着け。気のせいに決まっている。
『たーえちゃん、たーえちゃん』
この声はそう聞こえるだけだ。歌の一部なのだ。
そう念じながらものをしまうのに下を見た。直後、鼻腔の奥に火薬の臭いが衝き刺さる。
バババババババババ!
「うわああっ!」
たくさんの人間の手が壁中を叩くような騒音……いや、もはや轟音といってよかった。
――壁を叩く? そんなバカな、そうじゃなくこれはもっとこう……
ヘリコプターが真近くで飛んでいるような、プロペラが風を切るような音。
幻聴と言い聞かすのはもはや無理だ。首には生暖かい感触がよみがえってくる。
そして火薬の臭い。
トイレと火薬はあまりにも脈絡がない。
こんな店(ルビ/ところ)、さっさとでていこう。まあちのことなどもうどうでもいい。冷や汗でシャツが張り付くのを感じ、その不快感が密室の恐怖に重なる。
ズボンのジッパーを上げようとするが金具が引っかかって上まであがらない。苛立ち、ジッパーに目を落とした時だった。
店内のBGMも、客の騒ぎ声も全てが消え、自らの荒い呼吸だけがハッキリと聞こえた。
便器の中になにかがいる――。
鼻が曲がるほど烈(はげ)しい火薬の臭い。それはいつしか肉が焦げたような悪臭に姿を変えた。
そして耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
首に浴びせかけられ続けられる熱い感覚。
――ここから逃げろ。このまま目をつぶって外に飛びだせば……。
『むだ』
吐息がかかるほど密着した距離での声。息は焼けるように熱い。
便器の中から青い頭でひとつ目の黒い生き物が大輔を見上げている。
それは花菜が描いていた、だるまのような得体の知れない生き物そのものだった。
下腹部をぐりんっ、とえぐるように強く握られた。それはズボンからはみだしていた自分自身(ルビ/もの)だとわかった。
「うっ!」
『た~えちゃん、た~えちゃん、た~えちゃん……』
ぐりぐりと強い力でものをねじられる。このままではねじ切られる。
必死に抗うが異形の力には虚しいだけだった。強烈な痛みに白目を剥き、涙が流れ、泡を噴きながら、自分が失神しないのが不思議だった。
「あ、ぎ……ぎ、あがぁがあが……!」
ぺたぺたと無数の黒い足跡が判を押したように周りを囲む。
熱いのか痛いのか怖いのか。
もはや自分がどの感覚に支配されているのかもわからないまま、自分のものがぶちぶちと繊維を裂き、胴体から別れを告げる。
口から泡にまみれたよだれが垂れ、青い頭の生き物の顔にかかった。
それはただこちらを注意深く見つめ、『たえちゃん、たえちゃん』と何度も呼びかけていた。
そして大輔の鼻から一筋の血がつたい落ちると、ぼそりとそれは呟いた。
『たえちゃんじゃない』
大輔の断末魔が無遠慮に下水へ流されていく。
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