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『ペトリコール』第六話

■6

 窓際の席から灰色の空を見上げ、花菜はこの町にきてから快晴だったことなど一度もないような気がしていた。
 周りの児童たちの遊びもなんだか奇妙だった。おかっぱ頭の女子は毬つきやままごと。坊主頭の男子は走り回っている。何人かは普通だが、多くの児童はなぜか坊主やおかっぱ頭だった。服装もやけに地味な印象だ。
 なんだか教科書に載っているような昔にタイムスリップしてきたような錯覚に陥るが、地域独特の個性だと思うことにした。
 ここから見る空はいつも暗い。
 晴れている日もそれなりにはあった気もするが、心がフィルターをかけているかのように、青空を見えなくしているのかもしれない。
 思えば〝あの日〟もそうだった。粘土を伸ばして貼り付けたような色の空の下、濁った海が町と物と人を覆い尽くした。
 身近にあった海が、なにもかも根こそぎ奪ったのだ。
「なあ、渡辺ぇ。お前って、放射能なん」
 振り向くとクラスメートの男子がにやにやしながら突っ立っていた。やはり目はぐるぐると回っている。
 その後ろにも全く同じ顔のクラスメートが数人立っていた。
「放射能じゃない」
 いまさら揶揄われることには驚かない。
 花菜は慣れていた。どれだけ隠そうとしたところで必ずバレと。
「うわぁー! みんな逃げろぉー、ひばくするー!」
 東京だろうと大阪だろうとどこも同じだ。雲の子を散らすように児童たちが離れてゆく。
「お母さんが言っててん! 原発が爆発して、そこに住んでる人らがみんな毒を浴びてんて! そんでな、野菜とか肉とかも全部毒入ってるのに、平気でそれ食べるらしいで!」
「渡辺に触ったら毒感染(うつ)る!」
 教室中に男女入り乱れた悲鳴が上がった。
 また引っ越しかなぁ、と思った。どこに行っても居場所がないことだけがやけにはっきりとわかった。もうあの頃には死んだって戻れないのだ。
 空は灰色のままだ。あの日から、心も曇ったまま。
 頭めがけて丸めたプリントを投げつけられる。男子たちが緑色の顔で笑いながら、次に投げるプリントを丸めている。
「放射能マン! おい、放射能マンこっち向けや!」
 机の周りが投げつけられたゴミで散らかっていく。彼らが笑うたび、自分の中から笑いが喪くなっていく。このまま、一生笑えない体になるのだろうか。
「ちょっとあんたら、なにしてんの!」
 血相を変えて森谷が教室に駆け込んできた。よってたかって花菜を笑う児童達を怒鳴りつけた。
 だが児童たちはすこしも悪びれる様子もなく、「だってこいつ放射能マンやし、毒で死ぬんいややもん!」と抗議した。
「ほ、放射能? あんたら、自分がなに言うてんのかわかってんの!」
「だってほんまやん! そいつずっと黙ってるし」
「いいわけしな! とにかくやめなさい、人として絶対にしたらあかんことしてんやで! 渡辺さんに紙投げた人、名乗りでなさい!」
 森谷の剣幕に、ぎゃーぎゃー喚いていた男子達は静まり返った。そして、誰も名乗りでない。
「あんたらな、自分がしたことに責任持たれへんねやったら最初からしな! 誰かを傷つけるっていうことはあかんことやねんで。先生はそんな卑怯者は許さへん。ほら、名乗りでえや!」
 烈しい非難は、さらに彼らを黙らせた。
 涙目で真剣に叱り飛ばす森谷は生徒たちが見守る中、そばまでにやってきてしゃがみ込んだ。そして空を眺めたままの花菜に語りかけてきた。
「ごめんな、渡辺さん。嫌な思いしたやろ? でもみんなもよくわかってなくて、ついつい間違ってやってしまったことやねん。後できっとみんなも自分がどんだけ酷いことしたんかわかると思う。だから今日は許してあげてくれへんかな? 先生からのお願い」
 森谷の顔を見る気になれなかった。その顔に見え透いた同情が貼り付いているのがわかっていたからだ。
「ごめんなさい」
 ただ一言、それだけを言った。
「ごめんなさいって……どういう意味? あなたは謝らんでええんやで。謝らなあかんのはこの子らのほうやから。渡辺さんが『福島からきた』ってことにみんな怖がってるだけやねん。ほんまはそんなことないって、先生がみんなにわかってもらえるようにするから」
 その言葉に思わず森谷の顔を見た。
「なんで?」
「えっ……」
 予想外の反応だったのか、森谷は驚いて言葉を詰まらせた。
「なんで福島が怖いの? 放射能って言われたけど、福島が怖いなんて言われてない! 先生がそう思ったんでしょ。でも花菜が生まれたのは福島だし、花菜の家は福島にあるもん! なのになんで福島が怖いの」
「そ、そうじゃないねん渡辺さん……先生が言いたかったのはね」
「花菜のパパだって、まだ福島にいるよ! 福島は日本じゃないの?」
 子供よりも大人のほうが差別をしているのだと知っていた。どこの学校のクラスメートより、どこの町の子供たちより、大人のほうがよっぽど卑劣だ。
 真麻がおかしくなってしまったのも、酒に溺れてしまったのも、自分がひとりきりになってしまったのも、全部他の大人のせいだと花菜は知っている。
 大人が、言葉の力と見えない暴力で母を追い詰めた。そして母は花菜から逃げ、自分自身を責めて心を病んでしまったのだ。
 ――私がもっと強かったら。我慢強かったら、ひとりきりにならなかったのかもしれない。
 梨恵との暮らしも、舞と遊ぶのも、そんなものはなんでもない。真麻がいないというだけで花菜はひとりきりだった。それでもいつか真麻との生活が戻ってくるまで、耐えるつもりだったのだ。大人しく、ただ大人しくして。
 だが森谷の言葉は容易く自制の鎖を断ち切った。花菜もまた、限界だったのだ。
「ちょっと落ち着いて……あっ」
 肩に載せようとした手を振り払い、教室を飛びだした。
「渡辺さん!」
 すぐに森谷が追いかける。
 教室に残された児童達はただその様子を見つめていた。

 森谷は、花菜を追いかけてすぐに廊下にでた。かろうじて小さな背中が角に消えるところを捉える。
「ちょっと、あかんよ! 渡辺さん!」
 森谷は思わず大声で呼んだ。花菜は立ち止るわけもなく、そのまま角の向こうへと姿を消した。あの角の向こうには三年生用のトイレがある。
――厭な予感がする。
「ひとりで入ったらあかんって言うたのに……!」
 眉間を歪ませ、つぶやく。なぜ言ったことを守れないのか、森谷は無性に腹が立った。
 トイレに逃げ込んだところで袋小路だ。だが『花菜がひとりでトイレに行ってしまったこと』があとでわかれば教頭あたりから小言を言われそうだ。
「ややこしいことになりそうやなぁ……」
 花菜を追いながら、この後のことを想像して思わず愚痴る。
 この町の出身ではない森谷は、この町の妙な習慣については詳しく知らない。ただ、赴任した際に『児童達にトイレにはひとりで行くな』と固く念押しされている。妙な習慣だとは思ったがやがて深く考えることはやめた。地域には地域のルールがあるものだ。
 それに、わざわざひとりでトイレに行く児童などいなかった。
 理由はあえて知ろうとしなかった。触らぬ神に祟りなし、だ。
 つまり、森谷が怖いのは、花菜をひとりでトイレに行かせてしまったこと自体ではない。それによって自分の立場が危うくなることだ。
 そうならないためには、花菜を説得して穏便に片づけるしかない。
 バタン
 奥から個室が閉まる音がした。
 直後、トイレに着いた。音がした通り、花菜の姿はなく個室のどれかにいる。直感的に一番奥の個室だと思った。
 後ろを振り返り、人がいないか確認する。幸い、誰にも気づかれていない。
「渡辺さん、そこにいるんよね? 返事してくれへんかな」
 トイレ内に森谷の声だけが虚しく響いた。花菜の返事はない。
 返事の代わりに、ずりゅっと濡れたものが床を引きずるような音が聞こえた。奥にいるのは間違いないようだ。
『ひとりで入らないこと』という注意書きが貼られた扉を横切り、一直線に奥の部屋へと進んだ。すべての個室トイレには、それが貼られている。
 扉は、施錠を示す赤色になっている。やはりこの中に花菜はいる。森谷は花菜の名を呼びかけ、できるだけ落ち着いた声を心がけて語りかけた。
「先生も悪いこと言うてしもたよね。ごめんね、本当に悪かったと思ってる。もう一度、ちゃんと渡辺さんと話したいの。やからでてきてくれへんかな?」
 ぼちゃん、じゅちゅ
 返事のつもりだろうか。中からやけに水の音がする。それがなんなのか分からないまま、話を続けた。
「わかった。じゃあ、でてこやんでもええから、そのまま聞いてくれへん? 先生もこの学校きてそんな経ってへんねん。だから、渡辺さんのうまく打ち解けられへんで悩んでる気持ちはわかるよ。先生も、慣れるまで大変やったし、今でも失敗も多い。さっき渡辺さんに言ってしもたことも失敗やね……。でもな、渡辺さんとクラスのみんなが仲良くなってほしいねん。そのためにできることやったら、先生なんでもするし」
 ドアの向こうの花菜に向かって、できるだけの誠意と優しさ、それに懺悔を込めて訴えた。
 あとは辛抱強く反応を待つ。
「……先生」
 花菜からの返事があった。
「渡辺さん、でてきてくれる気になった?」
 気持ちが伝わったと思い、自然と声も弾む。
「あのね、これ知ってる?」
「えっ?」
 噛み合わない会話に思わず素っ頓狂な声がでる。花菜は構わずに突然、歌いはじめた。
「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ♪」
「ちょ、ちょっとちょっとどないしたん?」
「テーテテテータタタ、テーレテーレテー、テーテテテータタタ、ターラターラター」
「渡辺さんの好きな歌なん? 歌もええけど先生、ちゃんと渡辺さんと話したいな」
「テーテテテータタタ、パーラパッパッパー、ジャンガジャッカジャカジャカジャジャジャジャーン」
「渡辺さ――」

 ドンッ!

「きゃあっ!」
 内側からドアを強く叩かれ、思わず悲鳴を上げてしまった。
 しまった、と思い慌てて明るい声音で語りかける。
「めっちゃびっくりしたやんかぁ。渡辺さん、結構おもろいことすんねんな。でも、すこしは元気なった?」
 ――ずずず……、ぼちゃん。
 また正体のわからない水の音がした。今度はなにかを啜っているような音もする。
 こんな音がすることとは一体なんなのか考えてみるが、想像がつかない。まさか便器の水を啜ったりはしていないだろう。
 しかし、ほかに説明がつきそうな光景が浮かばない。
 ――ずっ、ずっ、ごぽぽ……
 森谷の考えを肯定するかのように多彩な水の音がつづく。今度のものもまた想像しづらい、異様な音だ。
「なあ……渡辺さん……。中でなにしてるん」
「うん、うん……」
 ようやく花菜はこちらの呼びかけに反応した。……が、どうも噛み合っていない気がする。なにより「うん、うん」という相槌では質問の答えになっていない。
「そっか。そうなんだね。わかった。たえちゃん、熱いんだね。かわいそう」
「たえちゃん? なんのこと?……誰かおんの? そこに」
 中で誰かと話している? バカな、そんなことは考えられない。それに中からは花菜の声しかしないのだ。
「わかった、渡辺さん。先生のこと怖がらせようとしてるんやろー! 仕返しやな? 参ったわぁ、ほんま芸達者やね。驚いた」
 ははは、と笑い飛ばしてしまえば、雰囲気ででてきてくれないかと思ったがそうはいかなかった。扉が開く気配はない。
 脳裏に『ひとりでトイレに入ってはいけない』というルールが浮かぶ。
 この異様とも思える状況は、もしかして禁を冒したからだろうか……そんなことがよぎった。ならばこの個室の中でなにが起こっているというのか。
 中には花菜しかいない……はずだ。
「たえちゃん、しっかりね。こんなのすぐに終わるからね。終わったらお父さん帰ってくるからぁ」
 ――ざぱっ、じゅぽ、じゅるんっ。
「渡辺さん、ええ加減にして!」
 たまらず怒鳴り声をあげていた。もう穏便に済まそうだとか、そんな余裕はなかった。すぐに花菜とトイレをでたかった。
 意地悪をしているのならばそれでいい。いや、むしろそのほうがよほどよかった。
 だが正面の扉にある注意書きが、そうではないことを告げているようだった。
《トイレに入る時は、誰かと一緒に入りましょう。ひとりで入らないこと》
 ――渡辺さんはこの中にほんまにおるん……?
 ゾッとして咄嗟に左右を確認した。
 ここには森谷しかいない。
 ここにひとりきりだということが今、森谷を烈しい不安に陥れていた。
 もしも、中に誰もいなかったら――
 そんなことはあり得ない。確かに中から花菜の声はしている。水の音も。だが仮に、花菜がいないとすれば……このトイレには今、森谷しかいない。
 途端に背筋が凍り、動けなくなった。
 この場から逃げだしたい衝動に駆られる。本当に花菜はいるのか、いないのか。それよりもすぐにここから飛びだしたほうがいいのではないか。
 緊張と焦りで正常な判断ができない。とにかくなにかはしなければ。ここでなにも喋らず、じっとしていることがもっとも危険なことのように思えた。
 だめだ、逃げよう! ……そう思ったその時――
 がちゃっ
 目の前で鍵が赤から青に変わり、扉が開いた。
「先生。迷惑かけてごめんなさい」
 すっかり落ち着き払った様子の花菜がいた。さっきまで興奮していたのが嘘のように笑っている。
 一瞬、放心したがすぐに花菜の手を掴み、急ぎ足でトイレから飛びでた。
 冷水を浴びせかけられたような寒気で震えながら走る森谷のそばで、朗らかに花菜は歌っていた。
「まーもるもせーめるもくーろがねのー……」

#創作大賞2024
#ホラー小説部門

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