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『ペトリコール』第二話
■2
知らない土地、知らない学校、初めての新学期。教室を埋める知らない顔の担任と、名前も知らない児童たち。花菜はその中心にいた。
「なあなあお前って、どっからきたん?」
「大阪? 大阪のどこからきたん? なんでうちの小学校なん」
次から次に投げかけられる質問の嵐。何度経験しても慣れるものではないと思った。だからこそなにも答えず、ただじっとして嵐が去るのを待つ。それがこの状況をやりすごす唯一のやりかたなのだ。
「ほら、みんなすーわーりーなーさーいー! 先生の言うこと聞かれへんのやったら、今からテストしよかー?」
「ああーそれ先生知ってるで! パワハラって言うんやで!」
「先生パワハラやー!」
「もう、どっからそんな言葉覚えてきたん! ええからはよ座り!」
右も左も「~~やで」「~~なん?」という語尾の話し方ばかりが飛び交っている。テレビなどで聞き慣れたそれと、生で聞くそれとはまるで違って聞こえた。
ひと言でもなにか喋れば一斉に攻撃されるような気さえする。そう思うと余計に口を開く気になれない。なにを言われようとも口を噤んでいようと決めた。
「先生ぇ、渡辺さんってぇ、どこからきたんですかぁ?」
目をぐるぐると回転させながら質問する児童、カタカタと壊れたおもちゃのように奇怪な動きでもって教師に質問する。
「渡辺さんは神奈川県からきました」
担任の教師が答えると坊主頭の児童は、アハアハと笑いながらぶらぶらと肘からしたを回転させながら机をたたいた。
「神奈川ってどこー?」
「東京のとなり」
「ええ、じゃあ東京弁なん? なあ、ちょっと喋ってぇや!」
「ディズニーランド行ったことある?」
止まない質問攻撃はまるで外国人扱いだ。
児童達は甲高い、悲鳴のようにも聞こえる声で花菜の周りに集まってきていた。
それに、教師の「神奈川県からきました」という紹介で、さらに口を開く気を失せていた。
「なんやねん、全然喋らへんやん。おもんないな」
黙り続けていると教室の児童達の興味は次第に引いていった。ガラガラと車を押すような音と共にようやく求めていた平穏が訪れた。
その日の下校の時間にもなると、すっかり誰も話しかけてこなくなった。
これが最も居心地がいいことを知っている。今までの学校では、友達を作ってもろくなことがなかった。だからひとりが、ちょうどいい。
「花菜ちゃん、ちょっといい?」
新学期最初の登校日ということもあり、学校は昼までの予定だった。
下校の準備をしているところを担任の森谷綾子(ルビ/もりやあやこ)に呼ばれた。
「初めての学校やし、すぐに友達作るんは難しいかもしやんけど、先生も手伝うから。だから安心して学校きてな。それと……」
早く終わって欲しいと思いながら相槌を打っていると、森谷は「変に思うかもわからんけど」と前置きをしてから奇妙なことを話し始めた。
「この学校では、四年生まで『トイレにひとりでは行ったらあかん』ことになってるんよ」
「どうして?」
「うーん……なんて言うたらええんかなぁ。五年生になれば別にええねんけど、四年生までの子は必ず友達と一緒に行くようにって約束になってるんよ。先生もこの学校きてからそんな経ってないから、あんまりよくわかってへんねんけど、怖いのがでるんやて」
怖いのがでる――
えらく曖昧な言い方が不思議だったが、ひとまず言うことを聞いておこうとうなずいた。
「花菜ちゃんは、まだ友達がおらんと思うからトイレに行くときは必ず先生に言うてね。先生がおらん時は、周りにおる先生か誰か、クラスの人についてきてもらって。わかった?」
森谷の話が終わり、ランドセルを背負って教室をでると廊下には誰もいなかった。もうみんな帰ってしまったのか、やけに早い人はけにすこしの間立ちすくむ。
さみだれ住宅の通路にも似た、じめじめと薄暗い廊下を歩くたび、上靴の底がねずみを踏み潰したような、悲鳴めいた音を鳴らした。
ふと窓の外を見ると、グラウンドに数人の児童が遊んでいる。学童保育の子供達がボール遊びや、追いかけっこをしているようだ。遊んでいる児童たちの元気なかけごえが聞こえる。
『ひゅーどどどどど!』
『ぎょくさいしてまいります!』
『主砲、三時の方角ー!』
なんの遊びをしているのだろうか。なんだか難しい言葉を言い合っているように聞こえる。不思議に思いつつ、窓から目を戻した。
「……?」
違和感を覚え、足を止めた。そして再びグランドを見る。
外から視線を感じる。
じっと目を凝らして視線の正体を探してみるが、見つけることはできなかった。そもそも気のせいかもしれない。
首を傾げ、歩き始める。すると今度は、ぼちゃん、という水滴の落ちる音が聞こえた。
驚いて振り返るが目の前には廊下が続いているだけだ。
なぜそんな音が聞こえたのか。改めて周りを見回した時、合点がいった。
すぐそばに児童用のトイレがある。きっとそのどこかから、音がしたのだ。
――トイレにひとりでは行ったらあかん。
ふと、森谷が言っていたことが気になった。
――トイレにひとりで行っちゃいけないってなんでだろう。オバケがでるのかな。
行ってはいけないとは言われれば、つい気になってしまう。それにオバケは見たことがない。オバケなら見てみたい。
友達と行くようにと言われてもそもそも自分はひとりぼっちだ。どうせなら、早いうちになぜひとりで行ってはいけないのか、確かめておいたほうがいい。
心の中で、「行ってはいけない」と「行って確かめてみるべきだ」という気持ちがせめぎ合っていた。
誰かがやってこないか確認する。誰もこなさそうだとわかると、じめりとした暗いトイレへと足を進めた。
――ぼちゃん
また水滴の落ちる音。
まるで「おいでおいで」と花菜を誘っているようだ。
手洗い場にさしかかった時、また視線を感じる。咄嗟に横を振り向くと、それと目が合った。鏡に映った自分の顔だった。
「こんにちは」
鏡の自分に挨拶を交わした。一瞬、鏡の自分が笑ったような気がしたが、目の錯覚だと思うことにした。落ち着いて改めて見つめてみると、鏡に映るのはなんの変哲もない、自分の顔だった。
――ぼちゃん
「ひゃっ」
まただ。
掃除用の蛇口が緩いのだろうか。一定の間隔を置いて、水音がしている。
しかし冷静に考えれば考えるほど、あれはそういう類の音ではないような気がする。水滴のような軽い音ではなく、溜池になにか重いものが落ちるような、どぼんっ、とも近い音だ。
校舎は古い。これまで行った学校の中でも、群を抜いて古い学校だ。
古いだけでは説明のつかない、じめりとした不気味さもある。
トイレは暗い。蛍光灯はあるが、理屈ではない仄暗さを感じる。外側から中心に向かって闇が収束してゆくような、渦を巻いた暗さだ。
トイレ内にはよっつ、個室が並んでいた。
一番手前には掃除用具とシンク。近づいて見てみたがシンクに水は溜まっていない。それどころか蛇口から漏れる水一滴すらなかった。手洗い場も同様に張った水はない。
だとしたら、目の前に並ぶ4つの個室のどれかから音がしている……ということになる。
個室はすべて扉が閉まっていた。
――一番奥の個室を除いて。
個室の扉はどれも、鍵がかかっている訳ではないようだ。そんなことよりも気になったのは扉の貼り紙だ。
《トイレに入る時は、誰かと一緒に入りましょう。ひとりで個室に入ってはいけません》
森谷の言っていた通りの注意書きだった。
となりも、そのとなりの個室も同じ貼り紙があった。そして、唯一開放した奥の個室へと差し掛かる。
「あれ……」
思わず花菜は声を漏らした。
トイレに足を踏み入れた時、奥の個室だけ扉が開いていたはずだった。
なのにいざ目の前にやってくると、扉は閉まっている。
――ぼちゃん
水滴の落ちる音。いちいち飛び上がりそうになる。あの音は手洗い場でも掃除用シンクでもない。念のため、一歩戻って確かめてみたがやはりその通りだった。
軽く押すだけで容易く扉は開く……。それならいっそのことひとつずつ個室を調べてみよう、と思った。
後戻りのできないことをしているような実感があった。だが、ここまでくると確かめずにはいられない。
扉を留める金具。そこに生じたわずかな隙間。
その隙間から感じる気配……いや、視線。
直感的にこの中に人がいると思ったのだ。
扉に手をかけ、ほんのすこし力を入れる。かちゃり、と小さな音を立てて扉はゆっくりと開いてゆく。白い陶器の便器が輪郭を表し、その上には影のような――
「なにやってんの!」
突然の怒鳴り声に肩が強張る。
廊下から森谷がトイレにひとりでいる花菜を見つけたらしい。
「ちょっとあんた、今さっき先生言うたやんな? 今やで、今! やのになんでひとりで入んの!」
「ごめんなさい」
「もう、誰かとトイレ行くん恥ずかしい年ごろやいうんは先生もわかるけど。そんでも言うたことはちゃんと守りや」
森谷はしゃがみこんで目を見ながら優しく諭した。
「トイレ行きたかったん? じゃあ先生、ここおってあげるからはよしい」
「ううん。いいの。先生、ごめんなさい」
そう言ってトイレをでる際、花菜は自分が開けた個室の中を見た。
だがそこにはなんの変哲もない、和式便器があるだけだった。あれだけ感じていた視線も、不思議な感覚もすべて嘘のようになくなっていた。
心なしか、トイレ全体に漂っていた瘴気のような仄暗さもまた消えていたように思う。
森谷と並び廊下を行く際、気になって後ろを振り返った。気味悪さは消えたが、なにかの気配だけは細い糸の儚さでそこにあった。
――あの水の音……なんだったのかな。
梨恵はスマホの画面を眺めながら頭を悩ませていた。
職場(ルビ/バイト先)である美容院のスタッフルームでひとり小さな唸り声をあげる。
《花菜は元気にやってる?》
真麻からのメッセージ、それが悩みの原因だった。日々撮りためているスマホの写真の中からどれを送信するか迷う。どれも笑っておらず、送れば逆に心配させてしまいそうだったからだ。
見事なほどどの写真も笑っていない。一体どれを選べば真麻は安心するだろう。
「なにしてるんですか、先輩」
唸っている後ろから声をかけられ、振り返ると同僚の辻尾舞(ルビ/つじおまい)が覗き込んでいる。
悩んでいる姿がよほどおかしかったのか、舞ははにかんだままだった。
「ああ……ほら、今私妹の子供の面倒見てるって言ったじゃない? それで妹に元気だよって画像送ろうと思ってるんだけどいい写真がなくて……」
「へー、そうなんですか。ちょっとあたしにも見せてもらっていいですか」
そう言って舞は梨恵のスマホに顔を近づける。
「ほんまですねー。どれもえらい不愛想っていうか……。いやいや、それ以前に先輩の撮り方が下手なだけちゃいます?」
「舞ちゃん、『先輩』はやめてってば。撮り方……そうなんだけど、笑ってくれなくて」
「そりゃそうですよ、全然『子供を可愛く撮ろう』って意思が伝わってこぉへんっていうか……。先ぱ――あ、梨恵さんのこの子に対する『愛』がないんちゃいますか?」
あはは、と笑いながら舞はそう指摘した。
内心、ムッとしたが、正直図星でもあった。
「……あれ、なんだろこれ」
ふと画像フォルダの写真に目が留まった。見覚えのない画像が一枚紛れ込んでいる。
「わあ~、これ花火やないですかぁ! え、どこの花火ですか? 淀川? PL?」
それは真っ暗な夜空に散る枝垂桜のような花火だった。
出店の光なのか、画像の下部はぼんやりとオレンジ色の光が陽炎のようにゆらゆらと光っている。
「いや、どこだったかな……」
「あ、そっか。元々梨恵さんって関東の人ですもんね、あたしが知らんくて当たり前か」
梨恵は宙を浮くような軽い言い方で「そうだね」と返しながら、それがいつどこで撮ったのか記憶を遡る。だが思いあたるものはない。
ここ数年、花火に行った記憶はない。
五年前に大阪にやってきて、大輔と付き合ったのは一年前。大輔とはろくに外でデートもしていない。まして花火など行くはずもない。
――じゃあ、東京に住んでいるころ? 覚えてないけど……それ以前に今とスマホ違うし、こんなに最近の履歴に残ってるはずないよね。
「それより、梨恵さん。妹さんの子供って小学生ですよね、何年生ですか? 実はあたし子供めっちゃ好きで、保育士目指してるんですよ!」
「え、うそ。初めて聞いたよ」
「誰にも言うてないですもん~。あの、もしよかったあたしに大役任せてくださいよ! あたしが笑顔にして、妹さんに送るベストショット提供しますよ」
「大役って、大げさだなぁ」
笑いながらも内心、驚いていた。美容院でバイトしている舞からはそんな夢があるとはとても想像できなかったからだ。
確かに子供が得意なわけではない自分と比べれば、保育士を目指しているという舞は心強い。おまけに子供好きとくればなおのことだ。
「ほんとに? そうしてもらえるなら助かるけど……でも、園児じゃないよ? 三年生だし、保育士さんの仕事とはちょっと違くない?」
「仕事で行くんじゃないですから! 仕事やったらむしろそっちの方が好きなように遊べなくないですか? あたし、普通に仲良くなりたいんですよね」
屈託なく笑う舞の表情に、子供が好きというのは嘘ではないと思った。
どのように接すればわからないでただただ写真を撮りためている自分とは大違いだ。急に舞が眩しく見えた。
「そっか。じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「やった! う~楽しみになってきたぁ!」
屈託なく喜んでみせる舞に釣られ、思わず笑みがこぼれた。
「ただいまー」
返事はない。一緒に暮らしてから、一度たりとも「おかえり」と返ってきたことはない。すでに慣れっこになっていて今更なにも感じないが、はじめてやってきた舞は違った。
梨恵の前を横切ると、ずかずかと上がり込み、花菜のそばにしゃがんだ。ぬいぐるみと遊んでいる花菜は見向きもしない。
「こんばんは! 花菜ちゃん!」
「……こんばんは」
花菜は目を丸くして、答えた。舞のやたらと明るくて大きな声に面食らったのだろう。それは花菜が初めて見せる顔だった。
「わあ、えらいね。でもなんで梨恵さんには『おかえりなさい』って言わないの」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃない! 怒ってるんじゃないの、ちゃんと挨拶しないと友達できないよ?」
舞の強めの言葉に、花菜はまたぬいぐるみと遊び始めてしまった。
「そっか。その子が花菜ちゃんの一番の友達なのね。じゃあさ、お姉ちゃんにもその子を紹介して。一緒にあそぼ?」
再び花菜は目を丸くして舞を見つめた。二度もその顔を拝めるとは思わなかった。
「こんにちは」
舞は花菜の前に座ると、間に挟まれている猫のぬいぐるみに向かって話しかけた。
「あたしはまいちゃん、っていうのよ。よろしくね。花菜ちゃん、猫ちゃんを紹介して?」
「……にゃにゃちゃん」
「にゃにゃちゃん、かわいい名前やね。よろしくねぇ」
素直に感心した。
花菜に配慮して標準語で喋っている。それが舞なりの花菜に対する礼儀であり、同時に距離を縮めるやり方でもあるのだ。会ってまだ間もないのに、花菜が心を開きかけているのがいい証拠だ。
子供が好きというだけのことはあるな。
いつしかふたりはにゃにゃちゃんを挟んで遊びだした。
「舞ちゃん、ごはん、簡単でいい?」
「ああ、おかまいなく。昨日家で作ったやつ食べへんとあかんし」
「あれ、舞ちゃんってひとり暮らし?」
「そうなんです。毎日コンビニのごはんになるんが嫌で自炊してるんですけど、ちょっと作り過ぎてしもて」
そう言って照れ笑いする舞の手を花菜が握った。
「えー、一緒にごはん食べないのー?」
「うん。ごめんなぁ、今日は花菜ちゃんとにゃにゃちゃんのふたりとお友達になりにきただけやから。次きたら絶対食べよ、約束な」
「次もきてくれるの?」
「当たり前やーん!」
それを聞いて花菜は嬉しそうに笑った。すかさずその顔をスマホのカメラに収めると、画角の外からふたりを見つめた。
舞がきてすこしの時間しか経っていない。なのにすっかり打ち解けてしまった。
それに比べて自分は一体どれだけの時間を過ごしたのか。ふたりで暮らして一週間も経とうとしているのに、笑顔ひとつ作ってやれない。舞がうまくやるほど心が劣等感に染められていくを感じる。
「だから今日は、いい子にして、梨恵さんが作ってくれるおいしいごはん食べや」
花菜が心を開いたのを見抜いたのか、いつのまにか舞はもともとの関西弁に戻っていた。
「ごはん? りえちゃんはいつも買ってくるもんね」
「ええっ!」
舞は大げさに驚くと、キッチンの梨恵を見た。
「あ……私料理苦手だから、不味いもの食べさせるよりかいいかなって……」
「あきませんよ梨恵さん! こんな育ちざかりの子供に店屋物(ルビ/てんやもん)ばっか食べさせたら。惣菜で済ませるにせよ、せめてお米炊いたりサラダ作ったりくらいできるでしょ? そんくらいしたらんと花菜ちゃん、具合悪しますよ!」
「そうだね……ごめん」
謝ってみせるが、実は特別料理が下手なわけではない。他人に食べさせるのが苦手なのだ。
これまで付き合った男達は手料理より外食を好んだ。そのくせ会計はいつもこちら持ちだ。それでも何度か手料理を振舞ったことがあるが、決まって反応は悪い。味の文句ならばまだ改善のしようもあるが、外で食べないことの不満が態度にでている場合が多かった。我ながら男の趣味の悪さに辟易する。
そういうわけで、たとえ子供であっても人に料理をだすのが厭なのだ。
「じゃあ、今度舞ちゃんがハンバーグ作ってあげよっか」
「えーほんとに! 食べたーい!」
舞は人懐っこい笑みで大きくうなずくと、指切りげんまんを歌った。
「指きったー!」
そんなふたりを見ながら、花菜と自分の距離は縮まらないのではないかと思ってしまった。
「え、なにそれ?」
舞は素っ頓狂な声をだし、花菜に訊き返した。
なんのことかと思い、ふたりの話に耳を傾ける。
「トイレにひとりで入ったらあかん? そんなん聞いた事ないで」
初めて聞く話だ。花菜の話によると、どうやら花菜が担任から注意を受けたという話らしい。そんなことがあるのかと訝しむ。実際、大阪育ちの舞でさえ初めて聞くという反応だ。
「それって、トイレの花子さんとか学園七不思議的なやつ?」
「ううん、違うよ」
あの日の出来事が脳裏によみがえった。
《使用禁止》の貼り紙と、コンビニ店員の意味深な言葉。
忘れかけていたが、花菜の話と符合している。
「花菜ちゃん、その話……もうちょっと聞かせて?」
思わず花菜に訊いた。
「先生もよくわからないって言ってた。でも、四年生まではトイレにひとりで入っちゃだめって言われた」
「四年生まではって……なんなんそれ。聞いた事ないわぁ、っちゅうかそんなん無理くない? だって急におしっこしたくなっても、目の前にトイレある時でも誰か呼ばなあかんってことやんな?」
「でもさ、この辺ってちょっと変なんだよね」
にわかには信じがたいといった様子の舞に、公園やコンビニでトイレが使えなかったことを話した。
だが、ひと通り聞き終えても舞は首を傾げるばかりだった。
花菜の手前、信じないわけにはいかないという複雑な思いが表情にでている。
「あたし、実家が和泉なんですけど、地元ではそんなんないですよ」
「そうだよね。私がおかしいのかな、とも思ったんだけど、そんなことないよね」
この町で見聞きしたことが、もしかして普通なのかと不安になっていた。だが舞の反応からそうではないとわかり、すこし安心する。
「それにさ……。ここの人達って年寄りばかりで若い人が何故か全然いないんだよ。雨も降ってないのにみんな傘持ち歩いているし、なにかわからない鉄の筒があちこちに転がっているし。気持ち悪くって」
つい本音を漏らしてしまう。これまで誰にも相談できなかったことだった。大輔は話を聞こうともせず、自分の話を一方的にまくし立てるだけで相談相手にならない。
だからつい舞に愚痴っぽくなってしまう。
舞もその内容にすこし気味が悪いと言った。
「そういえばなんだかこの辺って妙にじめじめした感じしますよね。なんか湿度高いっちゅうか……」
そう言って窓の外を見た。釣られて窓に目をやる。
ぼちゃん
どこからか聞こえた水の音に誰も気に留めはしなかった。生活の中ではありふれた音だったからだ。
だが花菜だけは、キョロキョロと音の在り処を気にしていた。
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